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第17話『湧き止まぬ泉』

 風が止まった朝だった。


 リアナは尾根の上に立ち、鞄から地図を広げた。少し乾いた風が、紙の端をかすかに持ち上げては静かに引いた。雲はなく、遠くの稜線まで見通せる。陽差しは強いが、まだ汗ばむほどではない。


「今日は少し、谷の方へ降りてみようか」


 エルミナが、背負い紐を締め直しながら言った。リアナは頷く。道の先がなだらかに折れており、その下に続く地形が緩くくぼんでいるのが見える。草の揺れが止まり、水の匂いが混じる。


「風の流れ、変わってきた。ホシもさっきからそっちばかり見てる」


 言葉の先を追うように、ホシが耳を立て、すっと茂みの方へ足を進めた。ふたつに分かれた尾が、柔らかく揺れている。


 リアナとエルミナは、ホシの後を追って谷へと足を向けた。


 斜面はやや急だったが、土は乾きすぎていない。草の根が足場を支え、小石は少なかった。所々に岩が突き出しているが、それらをうまく避けて進むと、ふいに音が近づいてくる。


 さらさらという水音だった。細い糸のように続いてくる、柔らかく、澄んだ音。


 ホシが立ち止まり、尾をぴんと伸ばして振り返る。その先には、岩と岩の隙間から湧き出す水があった。


「泉……?」


 エルミナがそっとしゃがみ込み、手を伸ばす。掌に触れた水は冷たく、透明だった。苔の上を静かにすべり、小さな水面をつくっている。


 周囲は岩で囲まれており、風が届かない。木陰ではないのに、空気はわずかに冷たい。


「……ここだけ、空気が違うね」


 リアナも膝をついて、地図を取り出した。泉の位置、岩の形、流れの方向。すべてを記号と線で描き、視線を上げる。


「地形からして、谷の水が地下にしみて、ここで湧いてるのかも。表には川がないけど、ずっと湧いてるってことは……」


「“湧き止まぬ泉”か」


 ふと、エルミナが岩に立てかけられた木の柱を見つけた。風化していたが、表面にかろうじて刻まれた文字が読める。


「……ほんとに、そう書いてある。誰かが名付けたのか、記録として残したのか」


 リアナはその言葉を、地図の余白に丁寧に書き加えた。


『湧き止まぬ泉――常に湧き、風を遮る谷間にあり』


 そのとき、ホシがふいに鳴いた。短く、小さな声。尾を揺らしながら、泉の少し先の茂みに鼻を向ける。


「ホシ?」


 リアナが声をかけると、ホシはしゃがみ込むようにして前足を草の間に突っ込んだ。その先にあったのは――


「ネズミナ……!」


 エルミナが目を見開いた。赤みを帯びた葉が、湿った地面に広がっていた。茎は太く、葉の縁は肉厚でみずみずしい。


「この大きさ……前に見つけたときよりも、ずっと育ってる。葉も傷んでない」


「風が通らないし、岩の陰だから日差しも強すぎない。育つ条件がそろってたんだね」


 エルミナは小瓶を取り出し、いくつかの株を丁寧に採取する。根を傷つけないように、葉の途中から切り取り、包んで保存する。


「旅の最初に使ったのは、もっと小さかったよね」


「うん。あれでも効いたけど……このくらいしっかり育った方が、濃く煎じられると思う」


 リアナはその様子を見ながら、泉と薬草の位置関係を記録していく。線と印が紙の上で交差し、空白が静かに埋まっていく。


 日が傾きはじめていた。リアナは地図を畳み、エルミナと顔を見合わせる。


「今日はここで野営にしようか」


「うん。水もあるし、風も遮られてる。草も乾いてる」


 ふたりは泉の近くに荷を下ろし、倒木のそばに焚き火を組んだ。枝は乾いていて、火はすぐにともった。ホシは火の傍に座り、尾を丸く巻きながら湯気の立つ鍋を見上げている。


 エルミナは鍋に泉の水を汲み、ネズミナの葉をちぎって加える。香りがやわらかく立ちのぼり、火の温かさと重なって空気が落ち着いていく。


 だが――火をつけてからしばらく経っても、湯が沸かない。


「……少し、時間かかってる?」


 リアナが、鍋のふちを手で触れそうになって止める。


「沸きそうだけど、泡がまだ出てこない」


 エルミナが鍋を見つめながら、小さく首をかしげた。


「水そのものに何か……鉱物とか、混じってるのかも。加熱しづらくなるって聞いたことある」


「でも、ちゃんと飲めるし、香りも悪くない」


 ふたりは深く追求しなかった。ただ、少しだけ湧き水に含まれる何かを、意識しながら火のそばに座った。


 夜が来た。


 星が昇り、空が群青に染まる。泉はその光を静かに映し、水面は鏡のように揺れていない。ホシがふと立ち上がり、泉の前に座る。風はなかった。


 それでも、水面がわずかに揺れた。


 波ではない。触れたわけでもない。ただ、確かに一瞬、ゆらぎが走った。


 リアナはそれを見つめ、ゆっくりと地図を開いた。


『湧き止まぬ泉――水面、夜にゆらぎあり。風なし。由来不明』


 記すだけ記し、答えは求めなかった。


 ホシが「キャウ」と短く鳴き、火のそばに戻ってくる。


 翌朝、露が残っていた。泉のそばの草は湿っており、夜の間に冷えなかったことを示していた。


「……水の熱、逃げにくいのかも」


 エルミナがそう言いながら、昨日採ったネズミナを取り出して並べる。


「少し乾いてきた。でも、香りは強いまま。これは保存にも向くね」


「地図の薬草欄に書き加えておく。湿地系じゃない保存向きって、まだ少なかったから」


 リアナは木炭を削り、地図の薬草記録欄に小さな印を書き足す。横には日付、採取場所、状態、用途。


  ネズミナ(生育良)

  谷影・風遮断・水近く

   ※滋養・煎用向き。現地乾燥可


 紙面に書かれた言葉が、また一つの地図を形作っていく。


 ふと、ホシが立ち上がった。尾を立てて、谷の出口の方へ向かう。


 リアナとエルミナも荷をまとめ、火を完全に消して、再び歩き出す。


「次は、もう少し西かな。昨日の星の角度からして」


「途中で乾いた土地に出るかも。ネズミナみたいに乾かしても使える草、また見つかるといいけど」


 谷を抜けると、風がまた吹き始めた。ホシが一歩先を歩きながら、尾をふわりと揺らす。


 湧き止まぬ泉は、音もなく背後に残っていた。けれど、記録帳には確かにその名前が残っている。


 地図は、ただの線と点でできているわけではない。


 その奥にある水音や風の感触、薬草の香りと、一匹の小さな足音。そうしたものが重なり合って、旅の記録はひとつずつ積み上がっていく。


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