第16話『保存と見落とし』
霧の谷を抜けた朝、二人と一匹は北西へ向かう尾根の道をたどった。
空は澄み渡り、低い雲がいくつか浮かんでいる。遠くの稜線まで見渡せる丘に出ると、リアナは立ち止まり、地図を広げた。風は穏やかで、草の海がなだらかに波打っている。
「今日は保存に向いてそうな草を探したい」
エルミナはうなずき、小瓶の残量を確かめる。
「湿地草ばかりだったからね。火にかけても崩れにくいものがあれば嬉しい」
ホシが先に立ち、鼻を動かしながら草むらの間を進む。二股に分かれた尾が、きょろきょろと揺れていた。
リアナは地図を見下ろす。
「塔からの距離を見積もれば、位置は合ってる。見通しもいい」
「斜面が南に向いてるから、乾いてるかも」
会話の間にも、ホシが耳を動かし、急に茂みの向こうへすっと歩き出した。リアナとエルミナも後を追う。
小さな岩陰があった。陽が届かず、風も入らない。岩が自然の屋根を作り、そこだけがぽっかりと影になっている。
ホシが鼻を突っ込んで動かない。エルミナが覗き込む。
「……これ、サカハ草」
葉は厚く、縁が軽く巻いていた。表面は銀灰色で、指先にさらりとした感触を残す。
リアナもしゃがんだ。
「前に言ってた、香りが残るやつ?」
「そう。乾燥しても匂いが抜けにくい。保存には向いてるけど……普通はもっと標高のある場所に生える草」
エルミナが顔を上げ、斜面の上を見た。
崩れた岩が風を遮っている。この場所だけ、風が流れず日差しも弱い。だからこの草が生えたのだろう。
「地形のせいか。偶然、だけど意味のある偶然だね」
彼女は数株だけを慎重に採取した。葉に傷がないものを選び、小瓶に納める。
「ホシが見つけなかったら、きっと通り過ぎてた」
リアナが笑うと、ホシは「キャウ」と鳴き、尾を揺らした。
採取が終わると、リアナは地図に斜面の形と草の位置を記した。影の落ち方、岩の角度、草の群生範囲。それぞれに理由がある。
「これだけ保存向きの草なのに、広まってないのはどうしてだろう」
「香りが強すぎて、他の薬草と合わせづらいからだと思う。用途が限られる」
「万能じゃない、か」
リアナは小さく頷き、地図の欄外に短く書き添えた。
※香強し。組合せに注意。
しばらく歩いたあと、斜面の岩の隙間に白い花が咲いているのが見えた。茎は細いが、風にもしなやかに揺れている。
「カサネユリ。軽い消毒効果があるよ」
エルミナは根を崩さないように慎重に摘み取る。残った花には、そっと手で影を作って土をかぶせた。
ホシはその間も周囲を歩き回っていた。鼻をひくつかせ、ときおり立ち止まって耳を動かす。
リアナはその様子を見ながら、少し目を細めた。
「ホシって、ああ見えて全部見てるんだよね。匂いも、音も」
「それを言葉にしないから、私たちが見落としてたことに気づかされる。今日の草だって、そうだった」
日が傾き始めるころ、二人と一匹は斜面の上にある広い岩棚にたどり着いた。倒れかけた木が風を遮っていて、野営にはちょうどよかった。
ホシが先に丸くなって眠る場所を選んだ。
「今日はここで泊まろう」
リアナは荷を下ろし、エルミナは火を起こしながら草の整理を始める。
「このサカハ草、干しておけば明日の朝には少し使えるかも」
「煎じる前に、香りの変化だけでも確かめたいね」
「この地図、保存向け薬草の記録だけで一枚にできそう」
「薬草の地図。いいかも」
リアナは地図に今日の採取地点を赤い印でつけた。その横に、草の名前と状態を簡潔に記す。
地図の空白は少しずつ埋まっていく。けれど、すべてを描ききるつもりはなかった。描くことで気づくことがある。その一方で、描けないことで気づく何かもある。
空には星が昇りはじめていた。リアナは四分儀を取り出し、静かに角度を測る。ホシは隣でじっと星を見上げていた。
測り終えた数字を、記録帳の今日の欄に記す。余白に、短い一行を添えた。
※地図は続く。空もまた、その一部。
「ホシ、今日もありがとう」
小さな声に、焚き火のそばで眠っていたホシの尾が一度だけ揺れた。




