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第15話『境界と霧の目印』

 また霧だった。


 朝、くぼ地を出たリアナたちは、白く厚い帳に視界を覆われた。足元こそ見えるが、三歩先は曖昧で、空も地面も境を失っていた。風はなく、霧はぬるく漂っている。


「まただね……最近はよく出る」


 エルミナが、濡れた地面を払いながら言った。声すら、霧の中で輪郭がぼやけるようだった。


 ホシはリアナのすぐそばを離れず、低く鼻を鳴らしながら、しきりにあたりの匂いをかいでいる。耳がぴくぴくと揺れ、霧の奥をじっと見据えるしぐさに、緊張がにじんでいた。


 リアナは空を仰いだ。星も太陽も見えない。四分儀を取り出して一度構えてみるが、何も測れないと知ると、そっと仕舞った。


「角度は取れない。でも……昨日の地形と進行方向、歩いた感覚から、だいたいの方角はわかるはず」


 焦りの代わりに、慎重な判断が声ににじむ。地図を描く者として、諦めるにはまだ早い。彼女は足元の傾き、湿り方、風の有無に意識を研ぎ澄ませる。


 イーリスはすでに前を歩き出していた。群青と白の衣が霧に溶け込みそうで、けれど不思議と見失わない。その背に、リアナとエルミナ、そしてホシが続く。


 音も風も、すべてが静まり返った世界。無音の中を、靴音とホシの足音だけが刻まれていく。やがて、ホシが鼻を鳴らして立ち止まった。前足で地面を掘るようにかき、草を踏みしめる。


「リアナ、見て。これ……杭かな?」


 エルミナがホシの鼻先に目を凝らして指をさした。地面から突き出た鉄の棒。錆びているが、誰かの手で打ち込まれた痕跡があり、根元は石で固められていた。


 リアナはしゃがみ込み、杭の表面についた土を丁寧に払い落とした。


「古いけど、位置はずれてない。測量杭だと思う」


「道しるべじゃないの?」


「ううん。これは道を示すものじゃなくて、何かを測るために打ち込んだ基準点。位置そのものに意味がある杭」


 リアナは立ち上がり、周囲を見回す。


「でも……これなら現在地の手がかりにできる」


 少し進んだ先に、第二の杭が現れた。さらに数十歩で、第三の杭。三つを結ぶと、明らかに一直線だとわかる。


「この配置……やっぱり何かを測ってた線だね」


 リアナがつぶやいたそのとき、霧の向こうに淡い影が浮かび上がった。


 それは塔だった。崩れかけた石の建物で、基部だけが辛うじて原形を保っていた。倒れかけた石段が、上へと続いている。


 霧の奥に浮かぶその姿を見て、イーリスがぽつりとつぶやく。


「境界の塔……霧に紛れやすいこの土地で、旅人の基準として建てられた。伝承に残っている塔のひとつ」


 リアナは小さく息を呑み、前へと歩を進める。


「登ってみる」


 彼女はそう言って前に出ると、ホシもすっとその後に続いた。湿った苔に足を滑らせぬよう、リアナは慎重に一段ずつ登っていく。


 上段に出たとき、霧の密度がわずかに薄くなった。遠くの稜線がかすかに見え、空の明暗が方角を示している。


「北西……やっぱり。合ってた」


 リアナはノートを広げ、塔を基点に仮測定線を引く。四分儀が使えなくても、測る目は彼女の中にある。


 塔の下では、エルミナが何かを拾っていた。掌にのせたのは、灰緑色の小さな実。


「シルの実、だと思う。強い香りがある。霧の中で、目印代わりに植えられてたって書かれてた」


 リアナも香りを確かめる。


「確かに印象的。でも、匂いだけじゃ道しるべにはならない。慣れやすいし、強弱くらいしか感じられないし」


「うん。場所の特徴づけに使うのが現実的だね」


 エルミナは陶器の小瓶を取り出し、いくつかの実を入れる。蓋は完全には閉じず、軽くかぶせただけ。


「密閉すると乾きにくいから、歩いてる間は少し空気に触れさせておくといい。風通しがあれば、二、三日で香りがしっかり立ってくる」


 リアナは頷き、記録に書き加えた。


 “塔、北西斜面。周辺にシルの木あり。香気強。測量杭三本確認。基準点とする”


 塔の根元で昼食をとったあと、ホシは火のそばで丸くなり、エルミナの差し出した干し肉をぺろりと平らげていた。


 その静かな時間のなか、イーリスがそっと立ち上がった。


「私は、ここで別れる」


 その言葉は淡々としていた。けれど、拒む隙はなかった。


「巫女として、巡るべき祠がある。月の伝承を継ぐ者として、自分の道を歩かないといけない」


 彼女は霧の向こう、南南西の方角を見据える。


「進路は南南西。祠までは、三日ほどの道のりになると思う」


 エルミナがそっと小瓶を手渡した。


「シルの実、生のままだけど入れてある。途中で蓋を少し開けて乾かせば、道中の印くらいにはなるかも」


「ありがとう」


 イーリスは小さく微笑み、それを丁寧に荷の中へと収めた。


 そのとき、ホシはふと身を起こし、霧の先をじっと見つめた。追うことはしなかったが、動かぬ瞳でイーリスの背を見送っている。


 彼女は振り返ることなく、塔の陰を回って霧の中へと歩き出す。やがてその姿は、白に吸い込まれるように消えていった。


 リアナはノートを開き、塔の記録の下に一行を書き加えた。


 “イーリス、塔にて離脱。目的:祠巡礼。進路南南西。記憶と共に進む”


 霧は依然として晴れない。だが、塔と杭の配置、観察した地形と勘が、リアナに方向を指し示していた。


 人はすべてを記せない。けれど、記すべきものを選ぶ目を持てば、迷わずに歩いていける。


 地図を閉じたリアナは、深く息を吸ってまた歩き出した。ホシがその隣を並んで歩く。霧の中でも、確かな足音がそこにあった。


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