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第14話『記憶と風の通り道』

 森を抜けたその先、世界は一変していた。

 風の丘――そう呼びたくなるような起伏の続く草地には、低木と岩がまばらに転がり、どこまでも空が近かった。空気は澄んでいたが、乾いている。吹き渡る風が、木の葉の擦れる音すら運ばずにただ、地形に沿って地を這うように通り抜けていく。


「ここ、風が通る場所なんだね」


 エルミナが風に髪を煽られながらつぶやく。いつものように薬草を探しているようでいて、足取りは慎重だ。岩に躓かないよう、地面を確かめながら進んでいる。


 リアナは四分儀を取り出し、立ち止まった。背中に差す太陽の光を感じながら、風の流れに注意を向ける。

 草が同じ方向に揺れていた。けれど、それは風が一瞬そう吹いているだけで、明日には変わっているかもしれない。そう気づいた瞬間、彼女はふと自分の思考を正した。


(これは、記録には向かない。けれど――)


 風の向きや草の傾きは、地図には残せない。だが、それらは目に見えない何かの痕跡を教えてくれることがある。地形の傾き、風が集まる谷、音がこだまする岩の配置。そうしたものなら、きっと記すに値する。


 リアナの足元で、ホシが低く鳴いた。風のにおいを確かめるように鼻をひくつかせ、草の間をすり抜けるように歩く。

 二股の尾が、草をわずかに押し分けながら揺れた。


 やがて丘をひとつ越えた先で、石の塊がいくつも立ち並ぶ場所に出た。高さはまちまちで、大きなものは人の背丈ほどもある。風がその隙間を通るたび、低いうなりのような音が鳴る。


「石が……鳴いてる?」


 リアナが足を止める。音は風の通り抜けに反応しているようだった。まるで笛を吹いたかのような、その音色は、単なる偶然には思えなかった。


「配置、計算されてるかもしれないね」


 エルミナがうつむいて、ひとつの石を指差す。


「土に埋もれてる根本、丸く削れてる。風が通りやすい形をしてるかも」


 リアナは唇を引き結び、石碑群の配置を確認しはじめた。風が抜ける方向、石の並び、その間隔。それらが示すのは、自然にできたものではないという仮説だった。


 ホシは小さな石の間を縫うように歩き、立ち止まってはしばらく風の音を聞いている。

 その耳が、微かな震えに反応しているかのように。


 そしてその中央に、ひときわ大きな石碑があった。苔むしてはいるが、表面に刻まれた線がまだ読み取れる程度に残っていた。リアナがそっと手でなぞると、そこに声が重なる。


「それは、風を祀る歌だと思う」


 振り返ると、イーリスがゆっくりと歩いてきていた。風を受けて揺れる黒髪の奥にある瞳は、静かに紫を湛えている。


「この言葉、古い巫の文に似てる。全部は読めないけれど――」


 そう言って、イーリスは石碑に手を添え、瞼を閉じる。


 リアナとエルミナ、そしてホシは、彼女の口から紡がれる旋律をただ聞いていた。

 言葉は意味を成していたはずだが、耳に届いたのはそれ以上に、風と響きが重なった、祈りのような音だった。


 その後、三人と一匹は風の向きに逆らわず、自然と導かれるように丘を下っていった。石碑の並びが示した線を辿るように歩を進めると、道らしき痕跡がいくつも現れる。わずかに踏み慣らされた地面。人の手が加わったと思われる小石の並び。かつてこの地にも人々の往来があったのだと、地形そのものが語っていた。


「……リアナ、これ」


 エルミナが小声で呼びかける。彼女が手にしていたのは、丸い葉を何枚も重ねたような不思議な植物だった。


「ククノハ。たぶん間違いない」


 そう言って、葉の表面を指先でこする。


「乾燥地帯に生える薬草で、煮出して油と混ぜれば保湿の軟膏になるの。風で肌が荒れるのを防げるから、昔からこういう場所で使われてきたって聞いたよ」


「ちょうど必要だね」


 リアナが頷いた。頬に当たる風は冷たく、気がつけば唇も少し乾いていた。


 ホシはその葉の匂いをかぐと、くしゃみのように「キャウ」と鳴いた。薬草の香りが強すぎたのか、あるいは何か別の気配を感じ取ったのかもしれない。


 夕暮れが近づき、風がやや強まる中、三人と一匹は谷あいのくぼ地に辿り着いた。周囲に風を遮るものがあり、地面も安定している。ここを今夜の宿営地とすることに決めた。


 焚き火の火を囲んで、エルミナは手際よく鍋に湯を沸かし、持ってきた乾燥根や葉を順に加えていく。その隣では、リアナが今日歩いた道の記録をまとめていた。


「風の音って、記録する意味あるかな」


 リアナがぽつりとつぶやく。


「一瞬で変わってしまうものを、記しても、地図にはならないのに」


「書けるかもしれない」


 イーリスが静かに言った。


「音は、歌になる。歌は、記録になる。記録は、道を照らすものになる」


 その言葉に、リアナは顔を上げる。けれど、少し首を振った。


「……たぶん、それは“地図”とは違う。誰かの記憶には残せても、地図に記すべきなのは、もっと動かないものじゃないと」


 地図は、変わらないものを記す道具だ。風の流れも、誰かの感情も、すぐに形を変える。だからこそ、そうしたものは別の形で残せばいい。旅の中で感じたものは、日記や歌、そして――語り継がれる記憶として。


 夜、風は少し弱まり、星がちらちらと瞬き始めた。リアナは焚き火の傍でノートを閉じると、そっと顔を上げる。風が吹いた。音はしなかった。でも、何かがそこにあった。


 ホシは焚き火のそばで丸くなり、ふたつの尾をそっと重ねて眠っている。

 それは地図には書けない。けれど、歩いた者の胸にはきっと残る。


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