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第13話『野営と糸付き四分儀』

 森を抜けた丘の上で、リアナたちは野営の支度を整えていた。


 夕暮れ時の空は澄み、雲ひとつない夜を予感させた。草原にぽつんと浮かぶ大岩のそばに荷を下ろし、風がよく通る平らな地面を選ぶ。ここなら星もよく見えるし、焚き火の煙もよく抜ける。


 エルミナは、集めてきた枯れ枝を焚き火に組み、火打石で着火した。ほどなくしてパチパチと音を立てる火が立ち上がり、その上に簡易鍋をかける。


「ユラギソウを煮出すね。今日の夜は静かすぎて、逆に気が張るくらいだから」


 リアナは頷き、自分の鞄から糸付き四分儀を取り出した。木製の円弧に刻まれた目盛を指でなぞりながら、彼女は空を見上げる。


 すでに幾つかの星が浮かび始めていた。空は青から藍へと移り変わり、世界の輪郭が少しずつ夜へと沈んでいく。


 リアナは四分儀の糸を垂らし、星の角度を測る。星図と照らし合わせながら、手元の地図に丁寧に記録していく。


「……北西、二十三度。方向、合ってる」


 小声でつぶやくように言いながら、リアナは木炭で地図の端に記号を描いた。


「本当に、ずれないのね。あの人が言ってた通り」


 ふと、イーリスの姿が脳裏に浮かぶ。星の位置を見て、彼女が指し示した北の空。あの瞬間、確かにふたりは同じものを見ていた。


「“静けさは、星の声を聴くためにある”。……そんなこと、言ってたっけ」


 焚き火のそばで鍋を見守っていたエルミナが、湯気越しにリアナを見た。


「……言ってたわね。静かすぎる夜は落ち着かないって、わたしは思ったけど、でも……」


 彼女は一度言葉を切り、草むらで丸くなっているホシに視線を落とした。


「今夜は、そうでもないかも。音がないのに、なにかがちゃんと満ちてる気がする」


 ユラギソウの香りが、蒸気となって夜気に溶けていく。青紫の葉の柔らかい匂いは、ほんの少し苦く、だけど胸の奥をなだめるような甘さがある。


 リアナは空を見上げたまま、言った。


「地図って、目に見えるものを記録するものだと思ってた。でも、今日のことを思い出すと、それだけじゃない気がしてくる」


「星の位置? それとも、イーリスの言葉?」


「どっちも。星は測って記録できる。でも……同じ星を誰かと一緒に見たこととか、そのときの空気の静けさは、地図には書けないよね」


 エルミナは木の器にユラギソウの煮出しを注ぎながら頷いた。


「記録に残るものと、残らないもの。どちらが大事ってわけじゃないけど……どっちも“旅の中身”だと思う」


 リアナは受け取った器を両手で包み込み、湯気の匂いを吸い込んだ。


「うん。でも、だからこそ、書けるものはちゃんと書き残したい。書けないものは――できるだけ、忘れないように」


 その言葉に、エルミナが微笑んだ。


「それでいいと思う。リアナの地図には、ちゃんと風や匂いも詰まってる。……わたしにはわかる」


 リアナは少し照れたように笑い、鍋のそばに並んで腰を下ろした。星はさらに増えていた。夜空はすっかり藍に染まり、地図の線と点が今夜もまた、新しくひとつ、増えていく。


 鍋の湯がぐらりと揺れ、小さな泡がふつふつと立ち始める。ユラギソウの葉がゆっくりと開き、柔らかい甘苦い香りが一層濃くなった。


 リアナはその香りを胸いっぱいに吸い込むと、視線を夜空へと戻した。視線の先には、さっきまでただの点に過ぎなかった星たちが、今はまるで言葉を持つかのように瞬いている。


「ねえ、エルミナ」


 湯気越しに声をかけると、エルミナは「ん?」と答えて横を向く。


「もし、この旅が終わったあとに、私の作った地図が誰かの手に渡ったら、そこに“なにか”残ると思う?」


「“なにか”って?」


「その人が、ただの場所を通るだけじゃなくて……私たちが見たものを少しでも感じられるような、“空気”みたいなもの」


 エルミナは少し考える素振りを見せてから、器を両手で包んだまま答えた。


「残ると思うよ。だって、リアナの線には迷いもあれば、喜びもある。そういうのって、不思議と伝わるのよ。言葉じゃなくても」


「そうかな……。でも、私、ちゃんと残せてるのかな。書くのって、見えてるものを閉じ込めることみたいで……ときどき、消しちゃってるような気にもなるんだ」


 リアナの言葉に、エルミナは穏やかに笑った。


「閉じ込めるんじゃなくて、染みこませるの。紙の上にだけじゃなくて、描いてる人の中にも。それがあるから、また次に続けられるんだと思う」


 リアナは木炭を置き、星図の上に手を置いた。少し湿った紙の感触が、地面の冷たさと重なって胸に響く。


 星を見上げて線を引くようになったのは、まだ測り方もよく分からなかった頃のことだった。ただ見よう見まねで角度を測り、空の形を追いかけていた。けれど、星の位置が揺らがないことに気づいたとき、そこに確かな意味があると感じた。それは今も、変わっていない。


 ホシがふと立ち上がり、草むらへと歩き出した。何かを追いかけるのではなく、ただ空気の匂いを確かめるように鼻先をひくつかせている。


 リアナは立ち上がり、その後ろ姿を見守った。焚き火の光に照らされて、ホシの毛並みが柔らかく光る。


 「終わりって、あるのかな……この旅に」


 ぽつりと漏れたリアナの言葉に、エルミナがそっと器を置いて答えた。


 「終わりはある。でも、きっと“区切り”ってだけよ。旅が終わっても、記録は残るし、誰かがそれを見てまた歩くかもしれない」


 「……うん。そうだね」


 リアナは再び地図を広げ、木炭を手に取った。風の向きを表す記号、小さな祠の印、星の名。紙の上に並ぶそれらは、すべて自分たちの“いま”の証だった。


 その記録は、やがて“誰か”の道しるべになるかもしれない。けれど、それだけじゃない。


 自分自身の、迷わないための印でもある。


 四分儀をしまい、道具袋を閉じる。火はまだ残っているが、眠りの支度に入る時間だ。


 けれど、夜空は眠らない。


 リアナは最後にもう一度だけ、空を見上げた。星が、そこにある。それだけで、今夜は意味のある夜だった。


 風が、草を撫でてゆく。


 静けさの中で、旅はまた、続いていた。


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