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第12話『音呼びの森と星の声』

 風が止んだ。


 森を抜ける音が、ふと途切れた。リアナはその変化に気づいて足を止める。周囲を包んでいた木々のざわめきが静まり返り、まるで時間そのものが凍ったかのようだった。


「……音、しないね」


 エルミナの声も自然と小さくなった。鳥のさえずりも、虫の羽音も消えている。風が吹いている気配はあるのに、葉は揺れず、空気が耳に触れる感触さえ失われていた。


 その中心に、ひとりの少女が立っていた。群青と白を基調とした装束、背中まで伸びた黒髪、自然素材でつくられた装飾。イーリス――月と精霊の伝承を知る、巫女見習い。


 彼女は風に逆らうでもなく、流されるでもなく、そこに在った。


 リアナは無意識に数歩踏み出し、エルミナと視線を交わす。ホシがぴたりと止まり、鼻先をわずかにひくつかせながらも警戒の気配は見せていなかった。


「ここが、“音呼びの森”……?」


 エルミナの呟きに、イーリスが小さく頷いた。


「この森は、音を記憶する。風や水の流れ、獣の声、人の祈り――すべてを深く沈めて、時が満ちるとまた呼び起こすの」


 その声すらも、空気に溶けるように穏やかだった。森に入り込んだというより、森そのものが彼女の周囲を形づくっているような感覚。


 リアナは、ふと空を見上げた。日が傾き始め、木の葉の間から淡い光が差し込んでいる。まだ宵の星は姿を見せていないが、空の色には確かに夜の気配がにじんでいた。


「イーリス、星の位置から方角を取れるって言ってたよね?」


 自然と声に出ていた。リアナは鞄から、糸付きの四分儀を取り出す。小さな木製の道具。度数目盛が刻まれ、中央から伸びる糸で角度を読み取る。


 イーリスはその動きを見て、ゆっくりと北の空を指し示した。


「今なら、あの星が基準になる。……あなたも、そこを見ていると思った」


 リアナはその言葉にわずかに息を呑んだ。指された星は、まだうっすらとしか輝いていない。しかし彼女が思い描いていた位置と、確かに一致していた。


「……同じ場所を見てたんだ」


 四分儀の糸を垂らし、角度を測る。リアナは星図と照らし合わせ、地図の端に印を加える。点が一つ増えただけの作業なのに、なぜか胸が熱くなった。


「正確だ……ぴったり合ってる。こんなにきれいに出たの、久しぶり」


「星は、揺らがないから。心が静まれば、その姿もはっきり見える」


 イーリスの言葉が、リアナの中に静かに染みていく。その感覚は、言葉を超えて、星とつながる線を一本引いてくれるようだった。


 一方でエルミナは、森の地面にしゃがみ込み、周囲の植物を観察していた。薬草の一部がこの森特有の気候のもとで育ち、独特の香気をもっていることに気づいたらしい。


「この辺り、湿気が一定で、光の入り方も特殊……この苔、調合に使えるかも」


 そう言って小さな木のナイフで少しだけ採取し、包みに包んだ。


 リアナは、記録用の地図に“星の基準点”と“薬草発見地”を同時に記しながら、自分たちの旅が今、確かに前に進んでいることを感じていた。


 イーリスは胸元の革袋から、白い小花を取り出した。


「この花は、夜に音を吸い込む。翌朝、開いたときに音が漏れると言われてる」


「そんな伝承があるんだ……」


 リアナは驚いたように言いながら、花を覗き込む。開花前の花弁の内側に、微かに光が溜まっているように見えた。


 やがて空がさらに暗くなり、宵の星がはっきりと現れ始めた。


 リアナはまた四分儀を手に取ったが、今度は測るのではなく、ただ道具の感触を確かめるように指で撫でた。


「わたし、もっと知りたい。星と地図のこと。見えないものが、こんなに確かだって思わなかったから……」


 その声に、イーリスは静かに頷いた。


「きっと、これからも見つけられる。目で、心で、記録で。あなたの旅の軌跡は、線ではなく、重なりでできていく」


 リアナはその言葉を、星図の余白にそっと書き記した。誰に見せるわけでもない、ただ自分だけの備忘録として。


 やがてイーリスは、森の奥へ一歩足を踏み出した。


「イーリス……!」


 リアナが思わず呼び止める。イーリスは振り返り、微笑んだ。


「静けさは、星の声を聴くためにある。……忘れないで」


 その姿は、ゆっくりと木々の影に溶けていった。風も、音も、まだ完全には戻ってこない。


 エルミナが、リアナの肩に手を置いた。


「行こう。夜になる前に、あの丘を越えたい」


 リアナは頷き、四分儀を布に包んだ。星の角度は地図に記した。でも、あのときの空気やイーリスの言葉は、記録には残らない。きっと、形にはできないまま、心の奥に残り続ける――そんな気がした。


 森を抜けると、風がふたたび吹き抜けた。葉が揺れ、鳥がさえずりを取り戻す。ホシが一声、軽く鳴いた。


 二人と一匹は、音呼びの森を後にした。


 その夜、丘の上で野営の準備を整えたリアナは、空を見上げた。


 あのとき、イーリスと見た星と同じ星が、今はもっとはっきりと輝いている。


 自分の目で見つけ、自分の手で測り、自分の意思で記録した星。今夜はそれが、確かに“自分のもの”になった気がした。


 風が、草の海を渡っていく。


 静けさの中で、星はまた、語りかけていた。


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