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第10話『霧と石碑』

 霧が、足元の草を呑み込んでいた。

 朝だというのに光は弱く、空も地面も白く溶け合って見える。リアナとエルミナは、互いの姿を確かめ合うように距離を保ちながら、高原の踏み跡を辿っていた。


「……想像より濃いね。ここまでとは思わなかった」


 エルミナが、胸元に地図帳を抱きしめながらつぶやく。息を吸い込むたび、湿気が喉を重く通り抜け、皮膚の上に霧の冷たさがじわりと染みこんでくるようだった。


 音も、なかった。風がなく、葉擦れも鳥の声も聞こえない。まるで世界の音ごと閉じ込められたかのような静寂。リアナはそんな中、背負った革袋から小さなノートを取り出した。


「霧で遠くは見えないけど……見えるものは描ける。今日も記録に残すよ」


 地図帳とは別に用意した観察記録用のノートだ。視界が限られる分、足元に集中する。踏み跡の太さ、地面の硬さ、草の色や湿り気――ひとつずつ、確かな情報を拾い集めていく。


「音も通らないし、時間が止まったみたい。足音だけが、すごく響いてる」


「でも、止まらなければ進める。ね、エルミナ」


 リアナは微笑み、小さくうなずいた。自分たちは“地図を描くため”に旅をしている。見えないからといって、立ち止まるわけにはいかない。


 ふたりはしばらく無言で歩いた。しっとりとした空気が衣服にまとわりつき、露が髪先に溜まっていく。ふと、リアナの足が止まった。


「……ここ、地面の感触が変わった」


 彼女が膝をついて草をかき分けると、そこには苔むした灰色の石が、静かに顔を覗かせていた。半ば地面に埋もれたその石は、角が丸まり、まるで長い眠りについていたかのようだった。


「石? でも、形が……自然の岩にしては、不思議」


「うん、ちょっと不自然な並びかも。こっちにもある」


 エルミナが指さした霧の向こうには、同じような大きさと形状の石が等間隔で立っていた。それらは、草の中に並ぶようにして、一定方向を向いている。


「……石碑、かもしれない」


 リアナは手袋を外し、慎重に表面の苔をぬぐった。濡れた指先に触れるのは、風雨に削られた滑らかな質感。その奥に、かすかに刻まれた線が浮かび上がる。


「文字……?」


 エルミナも別の石に近づき、黙って表面をなぞる。古くてほとんど読めないが、ひとつだけ、比較的くっきりした文字があった。


「……“ルミンソウ”?」


「薬草の名前かな……でも、私は知らない」


 リアナが三つ目の石に目を向けたとき、思わず息をのんだ。そこには明瞭な筆致で、はっきりと刻まれた言葉があった。


 ――“月光花 咲くは 妖精の泉 夜のひかりに導かれし場所”――


「……月光花……妖精の泉……」


 指先が自然とその文字に触れていた。温度はないのに、胸の奥があたたかくなる感覚があった。


「おばあちゃんがね、話してくれたの。“霧の夜にだけ咲く不思議な花があって、それは妖精の泉に咲くんだよ”って。私、それを聞くのがすごく好きだったの」


 リアナは鞄の中から旅の初日に用意したノートを取り出した。祖母の昔話をメモした、いちばん最初のページ。そこに書いた「妖精の泉」の文字と、この石碑に刻まれたものが、今、つながった。


「誰かが、本当にここにそれを書き残してくれた。夢じゃなかった」


 顔を上げると、他の石碑もすべて同じ方向――北西を向いているのがわかる。


「エルミナ。地形の図、まだ下書きだけど……この先に、谷とかくぼみ、あった?」


「ちょっと待って。……うん、ある。浅い谷がひとつ。この方向、ほぼ一致してる」


「霧が晴れたら、明日行ってみよう。妖精の泉は、きっとその先にある」


 リアナはしゃがみこみ、石碑の言葉をノートに丁寧に書き写した。


 “妖精の泉、月光花に出会える場所”


「ここからが始まりだよ。わたしたちの地図の、“空白じゃない空白”」


 エルミナも地図帳に石碑の位置と文字を記録していた。そしてふと、言葉をつぶやく。


「この石も、花の名前も……知らなかったけど、誰かの想いが込められてた。そういう場所こそ、残す意味があるんだと思う」


 リアナはうなずきながら、再び石碑を見つめた。


「うん。そしてその記録が、次の誰かの道になる。だから、残す意味がある」


 霧がゆっくりと流れていく。石碑たちは、その白い海の中に静かに浮かび続けていた。


 ふたりは石碑のそばに野営の準備を始めた。リアナは小さな焚き火を囲う石を集め、エルミナは植物の根を避けて寝床を整えた。ホシは静かに足元に座り、何かを見守るように前を見ていた。


 陽はもう、霧の上へと昇っているはずだった。だがその姿は見えない。


 だからこそ、描かねばならない。

 たとえ光が届かなくても、そこに“ある”ということを地図に残すために。

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