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第9話『霧の森と花の獣』

 尾根を越えた先の森には、朝から薄い霧がかかっていた。空は晴れているはずなのに、木々の隙間から降り注ぐ光はぼんやりと滲み、地面は濡れて黒ずんでいた。


 リアナは立ち止まり、地図を広げて木々の並びを見比べる。霧が濃くなるにつれ、方向感覚が揺らぎ始めている。


「……このあたり、まっすぐ行けば谷に出るはず」


 水脈と斜面の傾き、樹木の向きを読み取りながら、リアナが判断する。


 そのとき、ホシが前方に鼻を向けたまま、ぴたりと足を止めた。背の毛をわずかに立て、低く唸る。


「なにかいるの?」


 エルミナが声を落とし、辺りを見回した。岩の根元、湿った影に白い花がいくつか咲いているのが目に入る。近づいてみると、地面を這うような草に、銀色の筋が葉を走っていた。


「……この葉。クモノミ草だ」


 しゃがみ込んだエルミナが、葉の裏を指でなぞる。糸を引くような粘液が絡みつき、かすかに鼻を突く匂いが漂った。


「この粘液、獣や虫が嫌うの。刺激臭があるから、使えば追い払えるかもしれない」


 エルミナは慎重にクモノミ草の葉を一枚ちぎり、小瓶の口元に粘液をゆっくりと移す。銀の糸のようにねばついた液が、粘りながら滴り落ちた。


「とりあえず、ひと瓶分だけ……」


 エルミナは粘液の入った小瓶の蓋を閉じ、そっと腰の袋にしまった。リアナも地図に現在地の特徴を記してから顔を上げる。


「地形的に、湿地が北に続いてる。南東に抜ければ霧も薄くなるはず」


「じゃあ、先に進もう」


 三人と一匹は歩き出す。柔らかな地面を慎重に踏みしめながら、濃くなってきた霧の中へと足を進めた。


 しばらくして、森の奥で何かが動いた気配がした。倒木の陰、わずかに開けた空間の向こう。


 灰茶色の影が、霧の奥からゆっくりと姿を現す。短い牙に、丸まった背――シシモドキだった。


 ホシが一歩前に出て、鋭く吠えた。シシモドキは足を止め、牙を見せて唸り返す。岩肌をかくように前脚が動いた。


「来る!」


 リアナがエルミナの腕を取り、岩陰に身を引く。ホシが吠え立て、シシモドキの注意を引きつける。


「……使う!」


 エルミナがさっと小瓶を取り出し、震える手でその中身を獣の足元へ撒いた。


 銀色の糸が霧の中に舞い、濃い匂いが漂う。


 シシモドキが鼻をひくつかせ、顔をしかめるように頭を振った。片足を引き、牙を引っ込め、しばらく逡巡したのち、霧の奥へと静かに姿を消した。


 静寂が戻る。


 ホシが鳴き、エルミナの足元に戻ってきた。


「……効いた、のかな」


 リアナが小さく呟いた。エルミナはゆっくり息を吐きながら、うなずいた。


「たぶん。でも、ずっとは保たない。風で飛ぶし、雨にも弱いから」


 エルミナは小瓶の蓋を閉じる。少しだけ、手の震えが残っていた。


「ここ、霧が溜まりやすい地形だ。湿地が低くなってる。南東に向かえば、風の通りが良くなるはず」


 リアナが地図と地形を照らし合わせながら言う。


「じゃあ、急ごう。あの獣、戻ってこないとは限らないし」


 三人と一匹は、なるべく音を立てないように森の中を進んだ。ぬかるんだ地面に足を取られながら、それでも着実に前へ。


 やがて霧が薄れ、木々の隙間から差す光が濃くなる。どこか遠くで風の音が聞こえた。


 出口は近い。


 視界が開けた瞬間、リアナは肩の力を抜いた。ホシがぴょんと一足跳ねて前に出る。エルミナはその場に立ち止まり、深く息を吐いた。


「……思ったより、冷静だったね」


 リアナが声をかけると、エルミナは少しだけ頬を赤らめた。


「ううん、震えてた。でも、草の名前がわかったから、判断できた」


 彼女は記録帳を取り出し、クモノミ草の特徴と使い方を静かに書き記す。筆跡は慎重で、丁寧だった。


「この草は、扱いを間違えれば害にもなる。だからこそ、正しく知る必要があるの」


「任せたよ。薬草のことはエルミナの担当だもんね」


 リアナが笑いかけると、ホシが短く鳴いた。


 霧の森を抜けた風が、頬を撫でた。新しい光の中で、三人と一匹の旅はまた少しだけ前に進んだ。


 一つひとつの歩みが、記録として残っていく。

 地図には形を、記録帳には知識を。

 そして三人の心には、旅の理由と実感が、静かに積み重なっていった。


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