海陵王と納合椿年
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻八十三 列伝二十一の納合椿年伝を見てみましょう。
前回の紇石烈良弼伝で、紇石烈良弼を推挙した賢人として出て来た納合椿年ですが、その伝は比較的短いので以下に全文訳しましょう。
納合椿年、もとの名は烏野。女直字の学校が西京に置かれると、納合椿年は諸部の児童と共に入学し、最も理解が速いと言われた。
しばらくして諸学生が選ばれて都に送られると、上京教授の耶魯がこれらを教えた。納合椿年は選考を通って尚書省令史に任じられ、累進して殿中侍御史となり、監察御史に改められた。
海陵王が宰相になると、推薦されて右司員外郎となり、新制の選定を行った。
海陵王が即位すると、諌議大夫になった。
納合椿年は酒による失態があり、海陵王に酒を戒められると、生涯再び飲むことは無かった。秘書監・修起居注に改められ、世襲の猛安を授かり、翰林学士兼御史中丞となった。
貞元の初め(1153)に、上京の諸猛安を中都や山東路などに再配置し、その功労により玉帯と閑厩馬を賜った。山陵を奉遷して、戻ると都点検となり、椿年との名を賜って、参知政事となった。
海陵王が納合椿年に「卿のような実務に長けた人材は得難い。他に卿ほどの者がいるだろうか。」と言うと、納合椿年は大理丞の石烈婁室を推挙した。海陵王は紇石烈婁室を右司員外郎にした。それから十日も経たないうちに、海陵王は納合椿年に言った。
「私が試しに婁室を用いると、果たして卿の言う通りであった。賢人は賢人を知るというのはまさにこのことである。」
紇石烈婁室は後に良弼との名を賜り、宰相の才があって、世宗の時代に左丞相に至り、賢相と呼ばれた。
正隆二年(1157)に納合椿年に薨去すると、海陵王は自ら葬儀に臨席して哭し、特進・譚国公に追封し、忠弁と諡して、弔意として銀二千両・彩百端・絹千匹・銭千万を贈った。長子の参謀合を定遠大将軍として猛安を継がせ、次子の合答を忠武校尉とした。帰葬すると更に銭百万を賜り、往復の費用を支給した。