01_閑話_願い
始まりは、偶にある一時的な目眩だった。
……ただの目眩だと思ったのだ。
仕事に追われ、今月も残業限度ギリギリ。
追加の残業申請なんてとっくに出してる。
これで、突発的に面倒な照会応答なんて来た日には、次月への繰り越しをゴニョゴニョしなくちゃいけなくなる。
……課長が嫌な顔するんだよなぁ。
はぁ、いつまでこんな生活が続くのかな。
いや、今はそんな事を考えてる暇は無い。
『ザンギョウダイガデルダケマシ』
便利な呪文だ、多少は現実逃避させてくれる。
んっ、ちょっと夜食でも買ってくるか。
よっと。
──ん?
グワンッ!!
あ、ヤバ……!
俺は立ち上がろうとしていた体を、慌てて戻して座り直した。
視界にノイズが溢れてほとんど何も見えなくなる。
立ち眩み、か?
俺は肘付き、顔を覆うようにして、症状が収まるのを待った。
たま〜にこんな事もある、いつもの事。
どうせ周りは俺の事なんか気にしちゃいない。
閉ざした視界の中、自分の息遣いだけが暫く響いていた。
スゥ~、ハァ〜、スゥ~、ハァ〜……。
……長いな。
少しして視線を上げようとしたのだが、まだ治っていない。
俺もガタが来ちゃったかな?
そんなになっても、まだ俺はそれが深刻なものとは思えずにいた。
いや、そう思いたくなかったのかも知れない。
……よし。
俺は立ち上がり、コンビニへ向かうためフロアの出口へ歩き出した。
やっぱり、ただの立ち眩みだったか。
んっ?
……へぇ、本当に床が起き上がって来る事なん──
**********
次に目を覚ました時、俺は病室に居た。
……そっか、本当にもうダメなんだ、俺。
最初の感想はそれだった。
お医者様が言うには、軽度の脳卒中だったそうだ。
そう言えば、左手が少し痺れ続けている様な感覚がある。
それも後遺症なのだそうだ。
だが、ちゃんと慣らせば元のように、痺れを無くせるかもしれないらしい。
リハビリと言うやつか。
そうだな、このままだとタイピングが不便だし……。
って、結局仕事の事しか頭に無いんか、俺!
……無いんだなぁ、これが。
こんなになっても、見舞いに来てくれる友達も女も居ない。
それは仕方ない、俺は逃げたのだ。
逃げる事を選んだのだ。
女に騙され、利用され、果ては母親という存在が、父親とは別の男を作って家を出て行ってしまった。
それで俺は折れてしまった。
これ以上、信じる事から逃げてしまった。
これ以上、傷付く事から逃げてしまった。
「将来、後悔するかも知れない。」
そんな事を心の片隅で思いながら、気付かない振りをしたのだ。
……案の定、それを悔いることになった、それだけの事だ。
すべては俺の自業自得だ。
********
そうこうして、一旦、退院は出来たものの、俺の身体はもう何かが欠けてしまっていた。
断続的な頭痛はずっと残ったし、加えて常に身体のどこかしらが熱くて痛い。
でも、それについてはお医者様にも原因は分からないと言われ、退院する頃には俺も口にしなくなっていた。
それを口にしたら、もう二度と元の生活には戻れない、そんな気がした。
俺に残っているものなど、やりたくもない仕事だけだったから。
退院後一年以上は、騙し々々ながら仕事を続ける事は出来た。
会社も流石に過労で倒れた人間に、無茶振りをする事は無かった。
あれだけ煩かった課長も、俺に対しては腫れ物に触るような態度になった。
そんなある日の帰り道。
ふと夜空を見上げると、綺麗な月が出ているのが見えた。
俺は、それをぼんやり眺めながら、思ってしまった。
あと何回、こんな月を見られるだろう……。
仕事を再開して、症状が軽い日もあった、酷いひもあった。
そして、酷い日が来る間隔が短くなって来ていると感じていた。
きっと遠くない未来、俺はまた倒れる。
そして今度は、もうこの生活に戻れる日は訪れない。
……でもまぁ、惜しくも無いか。
歳もとってしまった、今さら誰かと結ばれる事を夢想する気も、期待する気も起きない。
倒れる前から、俺にはもう、会社と家を往復するくらいしか、やるべき事など無くなっていた。
選んできたのは俺だ。
誰を恨む事も出来ない。
……だから、人を憎んで逆恨みで誰彼を騙してやろう、なんて気は起きなかった。
そこだけは、自分で自分を褒めてもバチは当たらないと思っている。
……死にたい。
月に向かって、つい口からその言葉を発してしまった。
周りに誰も居ない事は確認してる、誰かに聞かれる事は無い。
多分、本当ならもっと別の言葉を、月に向かってではなく、甘えられる、心を許せる人に向けるべきなのだろう。
でも、俺にはそんな人は居ない。
虚しい人間だ、俺は。
そのすぐ後、案外早くその日はやって来た。
俺のその後の行動範囲は、病院だけになってしまった。
……きっと、お月様が俺の願いを聞き届けてくれたのだろう。
**********
今度は、俺の全身の痛みと熱に病名が付いた。
「膠原病」だと。
聞き慣れない病名だ。
ま、病名なんてどうでも良い。
自分の体だ、何となく察している。
もう、これが治る事は無いと。
前回もそうだったが、母親と妹は見舞いに来てくれる。
迷惑を掛けてしまって申し訳ない。
……死んだ父親に言われたのにな、二人の事を頼むと。
それなのに、俺の方が助けてもらう事しかもう出来ないのが心苦しい。
生前、父親は母親の事を許していた。
一方、俺はいつまでも心にわだかまりを抱えていた。
多分、そう言う所が父親と俺との差だったのだろう。
結果、父親は家庭を持つことが出来て、俺には叶わなかった。
**********
病院で過ごす日々が過ぎ、いよいよ俺の行動範囲は狭まった。
病院内から病室内へと。
だけどそれすら、今の俺には広すぎた。
そんなになっても、存外、俺の生命力は強かった。
いや、ここは医療の進歩を称えるべきだな。
お陰で俺はまだ生きている。
窓の外では足早に季節が過ぎてゆく、まるで俺だけ取り残されているようだ。
春が来て──
夏になり──
秋が訪れ──
冬に移り変わってゆく──
正直、もうお医者様の言う事もあまり理解出来ていない。
今、癌と言われたかな?
俺の父方の家系は皆、癌で亡くなっている。
俺にもその順番が回ってきた訳か……。
**********
ふと、部屋に音が鳴り響いた
んっ、朝か……
目覚ましを早く止めて、会社に行く準備をしないと
……あれ?体が動かない
手も、足も、起き上がる事も、目を開く事も
あぁ……
そうか……
きっと、肺も心臓ももう動いていないのだろう
今の俺が行くべきなのは会社じゃない
俺が逝くべきは──
結局、俺は、俺という人生は何の意味も無かったな
誰かの助けとなる事も、守る事も無かった
何かを成し遂げる事も無かった
無為な、みじめな人生だった
せめて、たった一人で良い
俺の人生が誰かの為になれたなら、役に立てたのなら──
そんな事が、何処かであったと思えたなら──
俺という存在が、せめて、無為では無かったと──
………
**********
「……ロー、クロー……、大丈夫か?」
えっ?!
俺……、いやボクは……
夢……か……
「大丈夫か、クロー?」
「なんだかうなされてるみたいで、寝ながら泣いていたので心配ました。」
ヴェロニカさんとセレナさんがベッドから半身を起こし、ボクを覗き込んでいる。
「心配掛けてすみません、大丈夫です。……それはそうと。」
「ん?」
「……なんでベッドが三つくっ付いてるんですか?」
「「……あっ!」」
おかしい、寝るまでは確かに離れていたはずなのに、今はちょっと手を伸ばせば身体に触れられるほど、二人が近付いている。
「い、いやだって、もうワタシらは付き合っているだぞ?このくらいは……。」
「そうですよ。クロー君、緊張していたせいか、すぐに寝ちゃったんで、起こして聞くのも可哀想と思って……。」
ヴェロニカさんとセレナさんが言い訳をする。
「それなら寝る前に言ってもらえれば、ボクだって拒みませんよ。起きてコレの方が驚くじゃないですか。……リックも起きてるんでしょ?二人が変な事しようとしてたら、止めて良いんだからね?」
「……。」
だめだ、寝た振りしてる。
なんでリックは二人が怖いんだろう?
初対面であんな事したボクには、もう普通に接してるのに。
「まぁ良いですけど。……夢を見たんです。」
「夢、ですか?」
「と言うか、過去の記憶ですね、前世の。知識とかとは一切関係の無い、前世の死ぬ間際の感情とかそんなのです。これまでは漠然としか思い出せなかったのに、今回は鮮明だったので、当てられてしまいました。」
「へぇ、仕事で体を壊してそのまま、と言うくだりか?」
「えぇ、どうしようもなく惨めで泣けてしまいました。」
ボクは心配する二人に、努めて明るく言葉を返す。
正直、まだちょっと余韻が残っているが、それは隠した。
「ま、大丈夫ですよ。あんまり意味もない事でしたし、明日には忘れてやりますよ。……それより、もう寝ましょう?明日に響きますから。」
「そう、だな……。」
「クロー君がそう言うのなら……。」
二人はまだ心配そうだったが、ひとまず問題無いと判断したらしく、自分のベッドに横になった。
何故、今更こんな記憶を見たのだろう?
一つは、ボクが告白を経て二人と付き合う事になり、過去の記憶が悪影響を及ぼす心配が無くなった、というのがありそうだ。
何せ、オジサンは女は好きなくせに、女性不信だったみたいだから。
そんなオジサンの記憶がボクに影響するのは避けたかったのかな。
あとは、「お前は俺のようにはなるな」と言うメッセージ、警告かな?
ヒトの気持ちに寄り添えず、一人になってしまえば、前世の最後の二の舞いになるぞ、って事かもね。
大丈夫、二人の事は何があっても手放さない。
悲しませたりなんかしない、決して!
まぁ、だから……。
オジサンの人生は無駄なんかじゃ無かったんじゃないかな?
少なくともボクは、オジサンの記憶で助けられた訳だし。
……一時的に、半ば乗っ取られたような状態になってはいたけど、悪影響が有るかもと分かったら、すんなりと表層に出るのを止めてくれた。
今のボクは、オジサンに感謝してるよ……
──アリガトウ




