番外編
王女であるにも関わらず魔力がない、とみなされたことから使用人同然の生活を強いられていたヴァルネット王国第2王女、テレーゼ。
そんな彼女はぬいぐるみに扮してヴァルネットへやってきていた隣国、フランネル王国の王太子、フェルナンドに見初められる。そして表向きはフランネル王国侵攻を企てたことに対するお詫びーー言わば人質として、しかし実際は王子が溺愛する婚約者としてフランネル王国で暮らし始めた。
フランネルでの彼女の新生活はなかなかに忙しい。フランネルの歴史に経済、さらに港を持つ国ゆえに必須教養とされる外国語など、覚えることは多岐に渡る。
しかし新しいことを覚えることはテレーゼにとって楽しいことだったし、段々余裕が出てくるにつれて、自由時間も増えてくる。最近はその自由時間をテレーゼは専ら手芸に当てていた。
ある日の夕方。夕食までぽっかり時間が空いたテレーゼは、フェルナンドが愛らしくも落ち着く雰囲気に整えてくれた私室で針と糸を手に取っていた。
裁縫を好むテレーゼのためにフェルナンドが用意してくれた道具は、王族らしく繊細な飾りがなされつつも手にしっくりと馴染む。そんあ裁縫道具を手に、テレーゼは随分と小さい布を縫い合わせていた。
「入っても良いですか? テレーゼ?」
「フェル様? ええ、どうぞ」
テレーゼが布と向かい合うこと小一時間。突然扉がノックされる。
彼女は慌てて針と糸を道具入れに戻し、足早に扉へ向かう。そして自ら扉を開けると、そこには眩い微笑みを称えたフェルナンドが立っていた。
「どうされたのですかフェル様?」
「いや、特に用がある、という訳ではないのですがね。偶然時間を取ることが出来て……テレーゼも部屋にいる、というから来てみたんです。こういう時間は貴重でしょう?」
「ええ、その通りですわね。会えて嬉しいですわ。どうぞこちらへ」
共に忙しい王子とテレーゼは婚約者といえど自由に会える訳でもない。突然の逢瀬に驚きこそすれ、喜びを隠せないテレーゼは王子の手を引いて、部屋に置かれたフカフカのソファへ導いた。
「勉強はどうですか? 随分捗っていると聞いていますが……あまり根を詰めてはいけませんよ」
「ありがとうございます、フェル様。教師の皆様のおかげで楽しく学べてますわ。フェル様こそお忙しいのでしょう? それにまた外国へ向かわれるとか……お身体が心配ですわ」
「ありがとう、テレーゼ。でも慣れた仕事だから大丈夫ですよ。今度の子供は随分落ち着いた子だ、って話ですしね」
ぬいぐるみに変身する、というなんとも可愛らしい秘伝の魔法を受け継ぐフランネル王家。彼らはその魔法を使って諜報めいた活動を繰り広げていた。
ぬいぐるみ相手であればだれも警戒しないし、子どもの前では口が軽くなる大人も多い。時には夢枕に立って、相手を誘導することもある。
王子がヴァルネット王国へやってきたのも、もとはフランネル侵攻の噂を聞きつけての王命だった。
そんな王子は一週間程後から、また外国へ諜報へ出かける。慣れたこと、とは言え、危険も伴う仕事に表情を険しくするテレーゼに王子はふんわりと微笑んだ。
「ほら、そんな顔をしないで下さい。たしかに一月程会えないのは寂しいですが、その後は結婚式です。それに陛下にお願いしまして、出かける前に海沿いの離宮で二人で過ごす時間を1日頂いてきました。海は初めてでしょう?」
「海! それは……はい、楽しみです」
「良かった。僕もテレーゼと二人で過ごせるのが楽しみです。ーーただその前に……僕のテレーゼを憂いさせているのは何でしょうか?」
「憂い? ですか」
突然の王子の言葉にテレーゼはギクリ、と固まった。
「最近特によく裁縫をしているでしょう? 趣味を持つことは良いことですが、以前針と糸を持てば嫌なことを忘れられる、と話していましたよね? あなたが今忘れたいことは何でしょう?」
もしその理由がこの国にあるなら、私は今すぐそれを排除しましょう、となんとも物騒な言葉を続ける王子にテレーゼは慌てて首を振った。
「いえ! フランネルの皆様はとても良くしてくださっています。ただ、その……フェル様に隠し事は出来ませんね。先日、北の修道院から手紙が届きまして、お母様やルイーゼ達が到着したと……」
「ええ、その報告なら私も受けています。彼女たちの心配をしているのですか? あんなに虐められていたのに……」
思ってもいなかった、という風に王子が目を丸くした。
「心配、といいますか……そうですね、随分環境が変わりますから。特にイレーネはまだほんの子供ですし」
そんな話をするテレーゼに王子は1つ息をついてから彼女に向き合った。
「本当にテレーゼは優しいですね。……これはまだ内緒の話なのですが……ヴァルネット王国の旧王族の内、イレーネ姫についてはほとぼりが冷めたところでどこかの貴族の養女とする方針でいます。まだ成人しておらず、政治にもほとんど関わってなかったですしね」
「そうなのですか!?」
「えぇ……まあ、ぬいぐるみに至近距離から魔法を打ち込むような性格は直して欲しいところですが……」
「……フェル様、もしかして根に持ってらっしゃいます?」
その言葉に王子は無言で頷いた。
「まあ……とにかくそういう訳なので、テレーゼが心配することは何もありませんよ」
「良かったですわ」
部屋に一瞬流れた微妙な空気を振り払うような王子の言葉にテレーゼも安堵の表情を浮かべる。それから思い出したように、脇へ置いていた裁縫道具の中からエメラルドグリーンの小さなシルクを取り出した。
「そうだ! 実はフェル様に見てほしいものがありましてーーこれです。裁縫に夢中だったのは気鬱ばっかりが原因じゃないんですよ」
「これは……クラヴァットですね? それもぬいぐるみの。小さいのにとっても繊細で綺麗ですね。それにこの色……あなたの瞳の色です」
「でしょう? またフェル様がぬいぐるみになってお仕事をする、とお聞きして……その……離れていてもこれを見て私のことを思い出してくだされば……と」
「テレーゼのことを忘れることなんてありませんよ。でもとても嬉しい。一度つけてみて下さいますか?」
そう言うと王子はおもむろにクラヴァット緩めて外してしまう。白い首元を直視することになり、テレーゼが視線をアワアワとさせる。
相変わらずの様子に苦笑いしつつ、王子は「ボボン」と音を立ててぬいぐるみへと変身した。
「はい。フェル様。少しじっとしていてくださいね」
そう言ってテレーゼは王子を膝の上に抱き上げて短い首元にクラヴァットを締める。茶色い毛並みに品の良い緑色とチューリップの意匠の刺繍が可愛らしさを添えて、テレーゼは満足げに微笑みながら手鏡を掲げて見せた。
「出来ました。ほら、とっても素敵ですよ」
「ええ、本当に素晴らしい……。大切にします。そうだ! 私からもプレゼントが」
「えっ、あんなにもらっているのにですか?」
嫁入り道具を用意できなかったテレーゼに変わり、王子はこの国で必要なものを何から何まで用意してくれている。
落ち着いた雰囲気のこの私室に始まり、ドレス、宝飾品、 勉強に必要な本から小物まで。それにくわえてプレゼントなんて……と申し訳なさげなテレーゼに王子がニッコリと微笑む。
「あれは必需品です。ほら、綺麗でしょう?」
そう言うと、王子はピョンとテレーゼの膝からテーブルへと飛び移り、懐から小さな箱を取り出す。どういう仕組みかそれが手のひらサイズまで変化すると、王子はパカッとその箱を明けてみせた。
「まあ、素敵な指輪! これはアクアマリン? ですよね……ということはもしかして」
「ええ、私もテレーゼと同じことを考えていました。傍にいれない時も、これを私の代わりと思って身につけて下さい。ーー左手を貸してくださいますか」
「えぇ……」
差し出された手を、丸い手でとった王子が指輪をはめるとテレーゼは感嘆のため息をもらした。
「とっても素敵ですわ……にしても私達、似た者同士ですね」
「ええ、そうかも知れません」
そう言うと王子はまたピョンと飛んで、テレーゼの方へやってくる。ふわふわの身体をキャッチしたテレーゼはそのまま王子をギュッと抱き込んだ。
「このお仕事が終わればいよいよ結婚式ですね」
「ええ! とっても楽しみですわ」
テレーゼは王子の毛並みを確かめるように撫でつつ微笑む。そのまま二人は夕食までのんびりとした時間を過ごしたのだった。