頭おかしいのは風邪のせい
別に誰でもいいと思っているわけじゃない.
弱肉強食の世界で,わざわざ強い奴と波風立てて生きていこうなんて甘い考えだ.
狡猾に,冷静に,獲物を定めて.
勝てるフィールドで,勝てるタイミングで,確実に相手を蝕み蜜を吸う.
人生なんて弱者にやさしくないのだから,弱者はそもそも優しくあってはならない.
甘えた強者の喉笛を隙を狙って引きちぎるのも悪くはないが,それもリスクを考えたら止めるが吉.
そうやって生きてきた.そうやって乗り越えてきた.
そして,今年も夏がやってきた.夏風と共に颯爽と.俺らの時間が動き始める.走り始める.
それは,入道雲が高々と映え広がる,雨上がりの夏の空だった.
ただ,今は正直別に走りたいわけじゃないのに,走らされているというか,
立ち向かってもないのに強者に襲われているため逃げている.
「なんか,かっこつけてるようだけど,結局弱いものいじめしてるじゃん.ださくね?」
そういってさっきから,俺の心の独白を盗み聞きしてはぐさぐさ刺してくる.
人間の癖に.女のくせに.頭がおかしいったらありゃしない.
風に乗って,やってきた風邪のウイルスに話しかけてくるような
ウイルスを追いかけてわざわざ戦おうとするような
いかれ具合は最高峰の最深層の意味不明.
そんな奴に,来たばかりの街で逃走劇を繰り広げている.
「免疫弱った子狙って飛び込んで,免疫強そうな子からはすぐに逃げ出して
それでも男の子?恥ずかしくないの?」
俺にゃ性別なんてねぇよ
「逃げてないでかかってきなよ.たまには強者と正面から殴り合いなさいよ」
誰だって,勝てるものならそうしている.
弱者は,敗者は,どこの世界でも自身の弱さに苛まれる.
弱さを認めて,自己を理解して,高望みせず,閉じた世界で満足するのが一番の最適解なのだ.
大海を知らずとも,空の青ささえ知っておけばよいらしいし,正直青さすら知らずともよいと思う.
「別に常に立ち向かえって言ってるわけじゃなくてさ.たまにはでいいんだって.
変化ないのもつまらないじゃん?楽な道を選ぶべきだし,人生9割それで正直いいと思う.」
「でもね」
「たまに,退屈に日常に,代わり映えしない毎日に,絶対飽きてくる時が来る.だからたまにの1割で
いいから,挑戦してみようよ.そしてさ」
「頭の血管ブチ切れる殺し合いでも始めようよ」
傍から見ると,大声で独り言をいいながら,街を駆けている少女.
見慣れたものなのか,一瞥をくれるだけで周りの人は日常にすぐに戻っていく.
ただ,その一瞥は,否定的なものでも,軽蔑的なものでもない.肯定的な視線だった.
(また,あのねーちゃん何かやってるよ)
(いつも元気で晴れ晴れとしてるねぇ.何やってるのかわからないけど)
(害のない一人狂人サーカスがまた今日も荒れてんなぁ)
(大声で独り言いいながら走るおねえちゃんかっこいい!真似しよ!)(やめとけ・・・)
この馬鹿になら
この変人になら
負けたところで,心に痛みは感じない.自尊心すら痛まない.そんな予感がふとよぎった.
たまには,いいのかもしれない.世界を変えることはできないけれど,
自分という世界なら変えられる.
辛ければ井の中にすぐに帰られる.
舐められっぱなしも気分よくないですし.
いっちょ高熱でも出させてみるか.
「やるきになったか?じゃあこいよ.私の中に思いっきり飛び込んで来い」
俺が戦えることを見せてやりますか?
少しだけ,楽しいと思ってしまった.後悔はしていないけれど.
逃げてきた道をターンして,まっすぐ彼女にとびかかる.
それは,入道雲が高々と映え広がる,雨上がりの夏の空だった.
「お母さん,ねーちゃんが起きてこないね」
「静かにしておやり.一回も引いたことのない普通の風邪を珍しくひいたみたいよ」
「うそだぁ」
「トラックにひかれても,流行りのウイルスを全身に浴びてもぴんぴんとしてる子なのにねぇ」
「ねー」