フェリクス殿下の哀切
フェリクス殿下視点です。
何か大事なものを失った気がする。
とても尊いものを見つけて、腕の中に閉じ込めたのに、その痕跡すら全て跡形もなく消えてしまったように。
レイラにお見舞いの品とお土産を渡した後に、何か彼女に言いたいことがあるような気がしたのだ。
「……? なんなんだ? 私は何かを忘れている?」
胸の中にぽっかりと穴が空いたような心地とはよく言ったものだ。
ぽっかりと穴が空いた部分には、確かに虚無感というものが存在していた。
そこにはないのに、そこにある。
そこにあるはずなのに、そこにはない。
言葉で表すことの出来ない哀切がフェリクスを苛む。
何を忘れてしまったのか。それが大切なことだけは覚えているというのに。
王城へと戻る前、一人温室で佇みながら、目を閉じた。
──今、私の心に住んでいるものは、一体何なのか。
目を閉じて、暗闇に視界を閉ざしてみたら、脳裏にレイラの控えめな笑顔が映りこんだ。
そして、目覚めたばかりの彼女の姿が何度も蘇ってくる。
その理由が分からない。何故、理由もなく彼女を思い出してしまうのか。
──私には一目惚れした好きな人が居るというのに、なんということだ……。
レイラにも惹かれているのだろうか?
「……これは酷い……」
理由もないのに焦燥感を覚えてしまって、今すぐにでも彼女に会わなくてはいけないという衝動が襲ってくる理由も、分からない。
数日前からの心の動きに戸惑いを覚えながら、彼女の元へと向かう。
安らぎを求めてではなく、彼女に認識してもらいたいがために訪問している自分が居た。
レイラもここ最近回復したばかりだが、それから様子がどこかおかしい。
放課後の学園内は、人が居ない。
チラホラと学生が居るが、フェリクスの姿を見る度に、皆挨拶をして帰っていく。
確か寮生は門限が近かったのだ。
医務室と書かれた看板のドアをノックしようとしたところで、中から一人の男子生徒が飛び出してきて、「レイラさん、また来るよ!」などと声をかけていた。
鉢合わせてしまってフェリクスの姿を見て、一瞬固まった後に、彼は慌てたように頭を下げる。
「ししし、失礼しましたー!」
「いや、こちらこそ驚かせてしまったようだ」
今の今まで、彼女と話し込んでいたのだろうかと思い当たり、笑えない。
社交用の貼り付けた笑みを浮かべるが、上手く笑えているのか不安になってくる。
──なんだこれ。面白くない。
レイラは、彼をどんな顔して迎えていたのか。
ノックする前にドアの隙間から彼女の表情を窺ってみれば、紅茶を口にしながらリラックスしているようだった。
「……」
コンコンと控えめにノックをする。
「はい、どうぞ」
落ち着いたレイラの声に、何故かフェリクスは緊張しながらドアを開けた。
「こんにち──…は……」
途中までの挨拶は元気だというのに、尻すぼみになっていき、こちらを振り返る彼女はフェリクスの姿を見た瞬間、ほんの一瞬だけ。
誰にも伝わらないくらい小さな変化だったけれど、確かに見た。
レイラがフェリクスに向けた感情の中に、微かな怯えのようなものがあるのを。
──何を怖いと思ったのだろう?
それはフェリクス自身ではなく、もっと違う何かに怯えている気がした。そして、申し訳なさそうに身を竦めるのだ。
「レイラ嬢。こんにちは。もう夕方だけど、貴女はまだ帰らないの?」
「御機嫌よう。フェリクス殿下」
彼女の向ける感情が分からない。ふわりと微笑んだレイラはいつも通りに見えるけれど、数日前とは何かが違う。
この医務室で、フェリクスはレイラの姿を、行動を、仕草を、声や表情をずっと見てきた。
そう。自分が思っていたよりも、レイラを見ていた。
──嫌われてはないけど、一線を引かれている?
フェリクスを見て友好を感じると同時に、何かに怯え、恐怖しているレイラ。それと──。
後悔……だろうか。
レイラの小動物系じみた反応を見ると、本能なのか抱き締めたくなってしまう。
ソファに座っていた彼女の横に腰掛けると、明らかに彼女の肩がビクリと揺れる。
「大丈夫?」
「恐れながら。何が、でしょうか?」
「大丈夫なら良いんだ」
倒れた彼女に何があったのだろうか?
気になることは多くとも、フェリクスは彼女に干渉することが出来ずに居た。
──こんな不誠実な男など、彼女に相応しくない。
だからたわいも無い話をするのだが、それでも自分だけが癒されていくだけ。
──彼女は今日も彼女だ。
一線を引かれても、レイラの優しさは変わらず、常に相手のことを尊重してくれている。
「さっきの男と何を話していたの」
自分が思っていたのと幾分か違った剣呑な声に内心苦笑する。
「まあ、ちょっとした相談です」
内容は決して教えてくれない。レイラは口が硬い。
彼女と普通に話せるのが羨ましくて仕方なくて、彼女が聞き上手だということを皆知らなければ良いのにとも思ってしまうくらいだ。
──もし、そうなら? 私だけが──。
ああ。なんて醜い。
このドロドロとした独占欲を恋慕だと認める訳にはいかない。
あの夜、月の下で見た女神のことが忘れられないのは本当なのだから。
──尚更酷いな。これは。
自己嫌悪で自分自身を焼き殺したくなる。
「殿下?」
「いや、何でもないんだ」
ゆるゆると首を振り、レイラに向かって優しく微笑むと、彼女はそっと目を逸らした。
笑顔に見蕩れて、とか恥じらって、などではないのが残念だと思った。
──ああ。私は浮気性なのではないだろうか?
自分の新たな一面に絶望する。今まで女性になど興味なかったから余計に。
落ち込んでしまったフェリクスを心配したレイラは、こちらをさり気なく見守っていた。
──何かあったのなら話は聞いてくれるのだろうな。
それでも、こんな情けないこと相談することなど出来ないから。
「これは私事なのだが……自分自身が情けなくて仕方なくて自己嫌悪してしまってね……。それに自分の愚かさにも絶望している。……レイラ嬢はそういう場合どうしてる?」
具体的なことは何も言えなかったが、聞いてみた。
「自己嫌悪ですか?」
「うん。……詳しくは言えないけど、こう自分の不誠実さに呆れているというか」
「……ふせいじつさ」
それを口にすると何故か、レイラの方がズーンと暗いオーラを纏い落ち込み始める。
「うう……ふせいじつ……不誠実…ね。私は最低な人間だわ……。最低な私が何かを答えられる訳がないのよ……」
「レイラ嬢? おーい、レイラ嬢?」
何やらまずいことを聞いたらしい。ここまで感情がダダ漏れの彼女を見るのは初めてだった。
──私に愚痴でも言ったらスッキリするのではないかな。
いつも聞いてもらっているから、今度は逆に話を聞いてあげたい。話を聞いてもらえるだけでも気分は変わるのだから。
「私で良かったら話を聞くよ?」
彼女を心配しているのも本当。それと、もう半分は下心。相談をしてもらえるくらいの関係になりたいという自身の穢らしい感情だ。
──優しい彼女に抱くことも許されない感情だ。
何しろ、不誠実なのはフェリクスの方なのだから。
──むしろ私以外に誰が居る? これが王族で、王位継承権第一位の所業か?
自分の見た目の良さも理解していたから、殊更完璧なアルカイックスマイルを披露した。
微笑みを浮かべると、レイラは戸惑ったように視線をさ迷わせた後、顔を隠した。
「私は最低な女なんです。こんな女が殿下の優しさを受け取る資格などありません。私などが貴方様のような……」
これはまた、随分と思考の檻に閉じ込められている。一人で溜め込みすぎだろう。こういう状態に嵌ったら、全てを吐き出してしまうに限るというのに。
そもそも本当に最低な人間は、自分を最低だと言わないだろう。
仕方ない。
「そんなことはないと思う。むしろ私以上に最低な人間なんて居ない。最低な私相手なら、話せることもあるかと思ったのだけど。何しろ私は──」
まるで何かを暴露するような仕草──つまりハッタリなのだが、重大事項を口にしようとした瞬間、レイラは慌てた。
王族のあれこれを聞かされるのだと勘違いしたらしい。
「言います! 言いますから!」
「うん。吐き出してしまえば楽になれるよ。幸いここには私以外は誰も居ない」
──そうしたら私の持てる限りの知力を尽くして慰めよう。
彼女は長い時間をかけた後、躊躇うように口にした。
「……愛の告白を受けました。私は、それをなかったことにしたんです」
「え?」
なんだ、そんなこと?
それは単にレイラ嬢が誰かを振ったと言う話で、その告白した誰かはフラれた。
それだけの話ではないか。
──レイラ嬢に非は一切ないよね? それ。
それより、彼女に告白したのは誰なのか、そちらの方が気になる。
──ほら。心の狭い。浮気性の男がここに。私の方がよっぽどだ。
「レイラ嬢。告白っていうのは、必ずしも応えなくて良いんだよ。自分が好きだからって相手も同じ気持ちかなんて分かる訳ないし。そもそもね、告白するのは、意識してもらう手段でもあるよね?」
「あっ……。ええと。その通りなんですけど、そうじゃないというか。あの、私が怖がったせいというか」
「いきなり男の欲を目にして怯えない淑女は居ないよ。その男がどういう告白をしたかは分からないけど、レイラ嬢を怯えさせるなんてね」
むしろそちらの方が問題だと思うのだが。
「ええっと、違うんです。私がきちんと向き合わなかったから起きた事故というか」
可哀想に、レイラは顔を青ざめさせている。
「告白してレイラ嬢に意識してもらえたなら、大きな収穫だと思うけどな。私だったら、とりあえず想いを伝えたらすぐに同じを気持ちを返してくれなくても構わない。諦めるつもりがないなら、無理強いする必要はないと思うんだけど?」
好きな相手に対して、少しずつ歩み寄って、答えを急かさずにいられる懐の深さを持っていないなら、容赦なくフラれても文句は言えない。
──浮ついた脳内お花畑王子の私が言っても説得力ないけどね。
それはもう非常に。
「レイラ嬢!?」
なのに、それを聞いたレイラの瞳は零れそうなくらいに薄い透明な涙の膜を張っていた。
淑女の嗜みからか、涙を零すことはなかったけれど。
それから、彼女は慌てて顔を背けて、「ごめんなさい」と繰り返すと、無理やりにっこりと笑みを浮かべた。
痛々しくて見ていられない程で、傍についていてあげたいとも思ったけれど、彼女がそれを望まないことは分かっていた。
これ以上聞くことが出来ないまま、フェリクスはその場を後にするしかなかった。
切ない想いを抱えながらその場を後にした。