狼が知る全て
注意
※レイラ兄が少し気持ち悪いです。
※ルナ目線です。
人の体に入り込むのは初めてだった。
使い方が分からないだろうと思っていたのに、レイラの体には、その使い方の記憶が染み付いていた。
闇の魔術でも精神に干渉する魔術は、とにかく消費が大きい。
魔力の大量消費で意識を失い倒れかけたレイラの身体にルナは入り込む。
憑依。契約しているからか、すんなりと出来てしまった。
すんでのところで体勢を立て直し、五分間の記憶を消した衝撃で惚けたフェリクスの傍をすり抜け、店内へと走る。
裏口から入り込み、レイラが持ち歩いていたらしい眼鏡をかけて、ようやく胸を撫で下ろす。
「なるほど……これが人間の体か……」
声も麗しい。自分の意思で発されているので、どうも不思議な感覚だ。
店内へと足を踏み入れ、近くにあった手鏡を手に取った。
「……なるほど」
──どんな表情でも麗しい。
レイラは基本的に表情がクルクル変わる訳ではないのだが、内面から溢れ出る誠実さと自己肯定感の低さが上手いこと混ざり、儚げな美人といった様相を成している。
控えめだが、そこに居ても自然と馴染むレイラの性質は彼女特有のものだが、皆を引っ張り導いていく太陽の女では決してない。
──例えるなら、月か。もしくは、冬の陽だまりか。
穏やかさと暖かさが共存した彼女に、皆、何かを言いたくなってしまうのだろう。
だから医務室を溜まり場にしようとする者もいるのだ。
そんな暖かみのある彼女だが、自分が憑依した瞬間、顔つきに鋭さが増した。
氷のように透き通って美しいが、無慈悲な鋭利さが潜む冷たい美貌の女。
「彼女だからこその、表情か」
僅かに冷笑してみたら、氷の女王のよう。
サラサラとした銀色の髪。紫水晶のような瞳には、何の感情も映らず無機質で。
「レイラ! どこに居たの? 今、店内探し回ったんだよ!」
いきなり抱き着いてきたのは、レイラの実の兄で、ルナは彼を精神病に侵された異常性愛者だと認識している。溺愛どころか、執着しきった男の目だ。これは。
レイラには言ったことなどないが、この兄の見る視線の中に不埒なものを感じる。
長年一緒に過ごしてきたレイラには分からないように巧妙に隠しているが、他人且つ精霊であるルナには分かる。
このタイプの男とは早く離れた方が良いと本気で思うのだが。
──ご主人は無防備すぎる。
目の前のメルヴィンとかいった男の執着は恐ろしい。ルナですら恐怖を覚えるのだから。
──抱き着いてきたのもアレだが、この男はどこを触っている。
腰から背中に向かって撫でる手が若干いやらしい動きをしている。
──奴は無意識だろうが。
彼に対してはあまり良い印象を抱いておらず、レイラの体に憑依していたルナは、無感情な目にほんの少しの不快感を乗せて、チラリと見上げた。
有り体に言ってしまえば、有象無象のゴミ虫でも見るように見つめてしまったのだが。
メルヴィンは、レイラのその表情を見た瞬間、恍惚とした笑みを浮かべて、その場に跪いた。
姫に忠誠を誓った騎士のように。
「ああ……。レイラ。君は僕に対してどんな想いを抱えているのだろう。そんなにもゾクゾクする瞳を向ける理由は何なのだろう。ふふ、君は何をしても美しく、気高い。苛まれてもそれは甘美なる喜びだ……僕の小さな女王様……。僕を虐め、辱めるのは君の役目だ」
何か言っている。己の言語中枢がおかしくなったのだろうか?
とりあえず、レイラの評判を下げることはしたくないので普通に接することにする。
こんな感じだろうか。
「……お兄様。邪魔です。早く帰りましょう。醜聞になる前に一刻も早く」
「うん。僕の女王様……。後でご褒美をくれるかな」
何かニュアンスを間違えたらしい。内心ルナは焦っているが、それはレイラの顔には現れない。
「虫唾が走るようなことを仰らないでください。例のブツは買えたのでしょう? 気持ち悪い笑みを浮かべるのは止めて、さっさと帰りましょう」
ああ。どうしてだろう。何かを言えば言う程、目の前の男の顔が恍惚としていく……。
何かに興奮しているのか、息が荒く見える。
ルナも普通にしたかったのだが、どうも苦手なタイプを相手にすると毒を吐いてしまう。
──そうだ。ご主人はこんなこと言わない。
「お兄様。それ以上、不埒なことを考えるようでしたら、嫌いになりますよ? 無視されたら悲しいでしょう?」
こっちの方が「らしい」のでは?
内心誇らしげにしていたのだか、今の一言で大人しくなったと思ったメルヴィンは、馬車の中で呟いた。
「僕が苦しむ様を遠くから冷たく眺めるレイラ……、僕の言葉を無視していくレイラ……それはそれでイイ」
「……」
──この男、もはやご主人なら何でも良いのではないか?
ルナは匙を投げることにした。
そうして学園の医務室に帰ってからも騒がしかった。
メルヴィンは、変貌してしまったレイラに興奮していたが、同時にいつものレイラを恋しく思いメソメソしていたりと、一喜一憂といった様子で、正直狂っていた。
「メルヴィン。貴方のせいで話が終わらないので黙ってもらえます?」
満面の笑みを浮かべたレイラの叔父であるセオドアは、すぐに向き直りふっと笑う。
「レイラの精霊様でしょうか。何か事情がおありのようですね。レイラの魔力の消費が著しいことと何か関係がありますでしょうか?」
何やらセオドアは、そわそわしている。
「さすが、ご主人……──レイラの叔父上。見事な勘の良さをお持ちのようだ。少し事情があってある者から逃げ出したのだが、その際相手の記憶を五分奪う魔術を使ったら……意識を失った。……体に支障はないが、負担は大きかっただろう」
「精神干渉!! それはそれは! 契約者を通じて、そのような魔法が使えるのですか!? それに先程から気になっていたのですが、憑依!? 契約者との繋がりが深いからこそ出来る芸当なのでしょうね。ああ……興味深い……」
先程からそわそわしていた理由はそれか。
「今から憑依状態は解くつもりだ。レイラはしばらく眠るだろう」
「ありがとうございます。ここまでレイラを連れて来てくださって」
こうしてレイラの体から出ていけば、彼女はそのまま三日間程、眠り続けることになった。
その際、レイラの兄であるメルヴィンが非常に騒がしく邪魔だったのは言うまでもない。
彼は妹狂い。セオドアに追い出され領地へと戻されるまで、彼はおかしかった。とにかく酷いものを見た。
思い出すだけで疲れるので、あまり思い出したくない記憶である。