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フェリクス殿下の実感

 王太子殿下という肩書きで執務を初めてから数年経つが、時間の経過がこれ程までにゆっくりなのは初めてだった。

 この日は、学園を休み、午前の執務にかかりきりだった。


「フェリクス殿下。ちょっと、処理が早すぎて、こちらが追い付けません。先程の案件は、私も確認したいのですが」

 リオ=アラバスタという二十歳前後の男が、困ったように眉根を下げているのを見て、フェリクスは持っていた羽根ペンを机に投げ出した。

「すまない。焦ってしまった」

「ご婚約者様がいらしているそうですね。お気持ちは分かりますが、殿下は我々より処理速度が抜きん出ているのですから」

「気をつける」

 悪い癖だ。フェリクスは人よりも処理速度がずば抜けているせいで、時折ぶっちぎってしまうことがある。

 そして周りの者がついていけなくなる。

 普段は周りとのギャップを埋めるべく努力をしているのだが、こうして何かに気を取られてしまえば、周りを困惑させることが多かった。


 それからリオを始めとした側近たちと執務を進めつつ、この後の予定に胸を踊らせていた。


 自分の部屋にレイラが居る。

 その事実に弛みそうになる頬を引き締めながらも、手元だけは俊敏に動いていく。

 朝見た限りだと、それなりに元気そうだったが、まだ体は辛いのだろうか。

 あのようなことは女性側に負担が大きいと聞く。

 女性側の苦労を、男であるフェリクスは一生理解出来ないだろう。想像することしか出来ない。

 それは重々承知なので、せめて思いつく限りのことをしたかった。

 理解出来ないなりに寄り添って出来るだけ思いやりたいのだとソワソワしていたら、侍女や執事に「過保護です」と苦笑されながらも一蹴された。

 何故だ。


 レイラ本人にも「お気になさらず執務をなさってください」と背中を押されて遠回しに部屋から追い出された。

 レイラは仕事に熱心なので、そういうところには厳しかった。

 有給休暇を一度も取らなかったくらいなのだ。

 学園の有給が非常に取りにくいと関係者が零していたことを思い出したので、ついでに改善案を提出しておこう。

 そうしたらきっとレイラも休みやすくなる。


 一通りの書類を片付け、次に来た時に見やすいようにリストを整える。

「フェリクス殿下。とりあえず午前の執務がとんでもなく瞬時に終わりましたので、この後は休憩なさってはどうですか?残りの後処理は私共が──」

「恩に着る!」

 ガタンっと椅子から飛び上がるフェリクスにリオやその周りの者たちが目を剥いた。

 執務室を出る時には、皆揃って微笑ましそうに見送っていたのが解せない。


 早歩きになりながら自室に向かい、近衛騎士や侍女にレイラのことを聞いておく。

 どうやら自室から出ることはなかったらしい。

 もしかして、そこまで昨日は酷かったのだろうか。

 サッと青ざめるフェリクスに護衛騎士たちは何やら微笑ましそうに眺めていた。

 皆、何も言わないけれど、似たような表情をむけてくるのがよく分からない。


 自分の部屋の前に立ち、息を整える。

 慌てて入ってきたと思われるのは格好悪い。

 喜び勇んで自室の部屋をノックして、声が聞こえるのを待った。

「レイラ?」

 中にレイラが居る気配は分かるのに、返事がなく。

 不思議に思いながら、扉を開けて中に入って、フェリクスは目を瞬かせた。

 そして見つけた。

 自室のソファに腰かけて眠っている月の女神の姿を。

 昼間の月と同じように、彼女は誂えたかのようにこの景色に馴染んでいた。

 フェリクスの部屋という景色に。


 音を立てないようにソファに近付き、膝の上に開いて置いてあった本を見て納得した。

 フェリクスの蔵書から一冊抜き出した本を読んでいるうちに眠くなったのだろう。

 どこか静謐な気配を纏う彼女にフェリクスは息を飲む。

 座って目を閉じている彼女の前に跪いて、そっと顔を覗き込んだ。

 ──綺麗だ。

 窓から入った柔らかい日差しが照らす、手入れの行き届いた絹糸のような銀髪が肩に垂れている。

 美しい銀の長い睫毛はそっと伏せられており、彼女の美しいアメジストの瞳は閉ざされていた。

 顔のパーツがバランスよく配置されたかんばせ。透き通るようなキメの細かい肌は、僅かに薔薇色に染まっている。

 艶々とした彼女の桜色の唇が僅かに開いていて、フェリクスはごくりと喉を鳴らした。

 すやすやと安らかな寝息を立てている無防備な女神。


 ──やはり、綺麗だ。

 一瞬、触れるか躊躇ったけれど、誘惑に抗えなくて、結局彼女の頬に指を滑らせた。

 何の穢れもないように見える女神の彫像のように眠りに落ちているこの少女の純潔を奪ったのは自分だ。


「疲れてるん、だろうな」

 髪を一房取って、そっと口付けるが、彼女は僅かに吐息を漏らすだけ。


 目の前の美しい少女の体を思うまま貪って、彼女を穢した。

 それは一面の雪化粧の中に足跡を残すみたいな背徳感。


 それは刺激的で甘美で、最高な夜の一時だった。

 柔らかな甘い唇も、滑らかな白く透けるように美しい肌も、熱く柔らかな部分も全て、余すことなく味わった。

 言葉では表せられない充足感。

 愛しい女を手に入れたという本能的な喜びは当然のこと。

 これ程までに狂喜しているのは何故か。

 自分のことはよく分かっている。

 フェリクスにとって、受け入れてもらえたことが至上の喜びだったのだ。


 彼女に受け入れてもらえた瞬間、肉体の快楽と同時に、彼女の心の奥底に初めて触れることが出来た。

 普段は堅牢な彼女が、心を預け、身を預けてくれたのだ。

 レイラは無意識だろうが、二人が繋がりあって一つになった瞬間だけ、常日頃から纏っていた薄い警戒心の膜を彼女は取っ払った。

 だからこそ、その瞬間の幸福感を言葉に表すことは堪らなく難しい。

 フェリクスにとって彼女の心に直接触れられるその瞬間は至福で、特別で。

 それは彼女の愛を実感するための神聖な儀式でもあった。


「……」


 あの瞬間だけは確かに安堵することが出来たというのに、離れてしまった今、こんな気持ちを抱えているのは何故だろう。

「レイラ」

 名前を呼んでも、安心しきったように微睡み続ける無防備な彼女を見ていると、むくむくと不安が首をもたげてくる。

 レイラの美しい髪を梳いて、そのサラサラとした触り心地の良い手触りを堪能しながら、思う。

 こんなに綺麗な彼女を好きになるのは自分だけではないと。


 手に入れたはずなのに、今まで以上に不安になるのは何故なのか。

 こうして触れるのは自分だけで、レイラと結婚するのも自分だけで、一番彼女と近い存在も自分なのに。

 彼女の美しさを見る度に不安になる。

 彼女の全てを手に入れたというのに、まさかこの焦燥感が悪化するなど考えてもみなかった。


 手に入れたからこそ、不安になるということか?

「はは、私は随分と……」

 自分の余裕のなさに苦笑しながら、レイラの唇に指先を這わせる。

 この唇を吸うと甘い味がすることは知っていた。

「……」

 レイラの意識のないうちに手を出すのはルール違反だ。

 名残惜しく手を外しつつ、見守っていたら、レイラの睫毛がふるりと震えた。


「あっ……」

「フェリクス殿下……?」

 レイラはそっと目を開けると、ぼんやりとした瞳で跪いているフェリクスを窺っていたが、やがて彼女は、恥ずかしそうに微笑んだ。


 ──可愛い。


 彼女の横に座り、さり気なく肩を引き寄せてみれば、レイラは大人しく肩を抱かれている。

 フェリクスの手を意識しているのが丸分かりだ。

 そわそわとしているのは、フェリクスだけではなかったらしい。


「レイラ、今日は何をしていたの?」

 声をかけるだけで、ピクリと体を震わせる彼女の顔が赤い。

「本を……」

「面白いものはあった? ああ、これは歴史書かな」

 王家からの目線で書かれた手記に近い歴史書。

 図書室の地下にあった保存本。前に借りて返し忘れていた。なんともまあ、お目が高い。

「……視点が違って、面白いです」

 消え入りそうな声で、ポツリポツリと今日していたことをレイラは話し始めた。

 部屋で大人しくしていようと思っていたが、読書に夢中になり午前中はそれに費やしたこと。窓の外から騎士たちの訓練を覗いたこと。

 話の端々から、レイラがこの部屋から出なかったのは、フェリクスを待っていたからだということが分かった。

 すれ違って会えなくなるのは嫌だったらしい。

 胸の内に愛しさが込み上げて来て、気が付けば彼女の唇を奪っていた。

 驚いたように目を見開く彼女に抵抗される前に、顎を掴んで引き寄せる。


 ──ああ。やっぱり甘い。


 レイラの甘い吐息を堪能しながら、唇を無我夢中で合わせた。

 抵抗はされなかった。唇を触れ合わせ、レイラの熱い吐息にクラクラしそうになりながら、長めの口付けに酔いしれた。

 離す寸前に少しだけ彼女の下唇を甘く噛む。


「はぁ……っ、フェリクス殿下……?」

 恍惚として熱に浮かされたレイラは、もう完全に一人の女だった。

 か細い声に、期待するような熱が篭っていて、無意識にか、唇が僅かに閉じたり開いたりしているし、もぞもぞと身をよじる彼女は何も知らない無垢な少女ではなかった。

 フェリクスがそのように変えた。


 髪を撫でながらもう一度唇を奪って、今度は舌と舌を絡める淫らなキスを繰り返す。

 応えてくれるレイラにやっと安心しながら、フェリクスは目を細める。

 求められている。触れても良いと許されている。


 調子に乗って、ソファに押し倒せば、彼女の膝から本が落ちる音。


「えっ……あっ、待って、そんなつもりは……んっ」

 戸惑う彼女の唇を塞いで、可愛らしい抵抗を止めた。


 ──可愛い……。


 昨夜の媚態も、甘えるような声も耳から離れていなかった。

 あの時の幸福感と快楽を思い出す。

 触れたら溶けてしまいそうだった。


 慌てたレイラの手がフェリクスの胸板を押しやろうとしていることに気付いて、フェリクスは自分が彼女に襲いかかろうとしていることにようやく気付いた。

 バッ!と体を離して、距離を取った。

 自らの体を抱き締めるようにして、こちらを見上げるレイラを見て、やらかしたなと思う。


「ごめん。レイラ。暴走した。さすがに昼からこんなことは……」

 夜はこんなことをしたいのだと遠回しに告げているような台詞だったかもしれないと、慌てて口を噤む。

 申し訳なさそうなのが伝わったのか、レイラは顔を俯かせたまま、フェリクスの服の裾をちょんと握って引き止めた。

 可愛い。これは無意識なのだろうか。

 無意識なのだろう。単にフェリクスの体に触れないように引き留めようとした結果なのだろう。

 とにかく、自分の精神鍛錬はまだまだだったらしい。

 もしくは昨日の今日で浮かれているのか。


「有給で明日も休みですから……、その……そういうことは夜に……」


 自分にとってなんとも都合の良い台詞が聞こえてきたのだから。


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