13
ふと目が覚めて、自分が柔らかなベッドの上で掛布に顔を埋めていることに気付いた。
私、何をしていたのだっけ?
酷い夢を見ていた気がする。
記憶を探っていくと、私の最後の記憶は、フェリクス殿下と店で会ったところ……。
「夢では、ないのでしょうね……」
夢だと信じたくてもあの記憶が本物だというのを私はよく知っている。
親しげに呼ばれた名前も、抱き締められた腕の力強さも鮮明に残っているから。
思わず、自らの体を抱き締めたところで、ガチャリとドアが開けられた。
「良かった……。目が覚めたようですね。体は怠くはないですか?」
「はい。叔父様……」
額に手を当てられ、机に置かれていた水差しを取ってコップに注いで手渡してくれた。
「貴女は三日間、意識不明だったのです」
「三日!? ……ええと、私何故倒れたのか、あまり分かっていなくて……。どういうことか状況を教えていただいても?」
フェリクス殿下に正体をバラしてしまったという最悪の記憶を最後に、私は今ここに居る。
今気付いたけれど、詰んだ気がする。
殿下は、本気だった。
一目惚れの相手と知っても態度は変わらないどころか、あのお方は『私で嬉しい』と仰った。
恋焦がれる瞳は嘘には出来なくて、今後のことを思えば暗澹たる気分だった。
「あと、お兄様は?」
シスコンのお兄様がここに居ないことにも驚いた。
あの兄ならば、それこそ私の意識が回復するまで付き添いそうだ。過去の事例もあるので、自惚れとかでは決してなく。
「ああ……。メルヴィンはね、あれは今興奮状態に陥っているんですよ……。昨日まで居たんですが、正直邪魔──こほん、彼も忙しいと思ったので領地に送り返しました」
「叔父様? 何故目を逸らすのですか?」
お兄様が興奮状態? どういうことなのか。
「レイラには記憶はないと思いますから、精霊様に事情を窺ってみてください。まあ、その悪いようにはされていないと思うんですが、その……メルヴィンが……」
何やら憚るように声が小さくなっている叔父様をじっと見つめていたら、チーンとベルが鳴る音が聞こえた。
「おっと。来客対応をして来ますね」
叔父様がそう言って部屋を出ていくのを見送り、ようやく気がついた。
ここは、医務室の奥の研究室。普段、叔父様が篭っている部屋。奥の方にあったベッドに今私は居て、どうやら医務室のベッドの余りを流用しているらしい。
なので奥の方が緊急治療室じみた空間になっているのが、不思議だ。途中までは研究室、途中からは病院とまさに混沌としている。
道具が本職のそれなので尚更。
枕元にある小さな机には綺麗な花が生けられ、お見舞いの箱らしきものが少しだけ積み上がっている。
誰か持って来てくれたのだろう。見覚えのある生徒の名前に目頭がジンとしてしまう。
そっと、ふらつきながらもベッドから下りて、上着を羽織り、眼鏡をかけ、入口へと足を進める。
お客様……。この数日間は、叔父様は来客対応していたのだろうか? それとも、私が来る前みたいに放置していたのだろうか?
ドアの向こうから叔父様の声が聞こえる。
「ご迷惑をおかけ致しました。メルヴィンが男からのお見舞いは全部突き返すとか、失礼すぎることを宣い、あんなにも醜態を晒してしまって申し訳ありません。私でも手が付けられないとは思いもせず──」
兄様。何やってるの。もしかして、ここにある品物が女子限定なのはそういうことなのか。
相手の声は聞こえず、叔父様の返答だけが聞こえた。
「問題はありませんよ。レイラのことを心配してくださって、ありがとうございます。何度も様子を見に来てくださって……。レイラは生徒の皆様方に好かれているようで叔父としても大変、喜ばしく思います」
私はこうして目を覚ましている。誰が心配してくれたのかと、自らが上着を羽織ったとはいえ寝巻きのままだということも忘れて、ドアを少し開けてしまった。
ガチャっと控えめな音を立てつつ、お客様の姿が目に入って私は硬直した。
「え……」
振り返った彼の双眸は意識を失う直前に見た双眸と同じもの。
今、最も顔を合わせたくない人物だった。
「無事!? 先程、目を覚ましたとは聞いたけれど、もう起きても大丈夫なの?」
フェリクス殿下は、隙間から覗かせた私の姿を見てソファから立ち上がる。
近付いてきた殿下の姿に、羽織った上着を思わず手繰り寄せつつ、そっと見上げて様子を窺えば、その瞳に宿る感情は純粋に心配という文字。そこに含みなどは一切なく。
あれ?
「三日前に何があったかは分からないけど、倒れたって聞いて心配したよ、レイラ嬢。体は回復したといっても意識がないと聞いていたから」
んん? なんか普通の対応?
あの時、彼は私をレイラと呼んでいた。
名前を呼ぶ時も、親しげな響きはあるものの、あの時のような熱は感じられない。
それに、三日前のことを殿下は覚えていない?
もしかしてあれは意識を朦朧とさせていた私の夢幻なの?
呆然とする私に、殿下は安心したように微笑んでいる。
「あと、これ。お見舞いのゼリーの詰め合わせ。食べやすいと思うから、是非。こっちは元気になった時にでも食べて」
「あ、ありがとうございます……?」
ゼリーの詰め合わせセットと、この袋は私が行ったお店?
やはりあの時、殿下があの場所に居たのは確実?
「ええっと、これは……」
可愛い紙袋のそれに戸惑っている私に、彼は申し訳なさそうな表情で答えた。
「ああ、こっちは元々持ってくる予定だったもので。ほら、デコレーションケーキ、君の分までいただいてしまったから。何が好きなのか分からなくて無難なものになって申し訳ないけど」
殿下がわざわざお忍びしてまで買いに行ってくれたのは、このためだったの?
私はあまり気にしていなかったけれど、彼は申し訳なく思っていたのだろう。
何だか拍子抜けしつつ、呆然としていた私を彼は心配そうに覗き込んで、私の額に手を当てた。
「……!」
思わぬ接触に動揺した私に、彼は気付くことなかった。
「熱はないけど、少しぼんやりしてるね。私のことは良いから、もう少し休んで」
「は、はい……」
殿下の肩越しに叔父様の方を見つめれば、彼はこくりと頷いた。
バタン、とドアを閉めて、奥へと戻り、ベッドに腰掛ける。
どういうことなの?
三日前。確かに私と殿下はあそこに居た。それなのに、記憶が彼にだけない?
それとも私の記憶が改変されている?
『ご主人。私から全てを説明しよう』
戸惑う私の視界に闇色の狼が突然現れたと思えば、私の前にお座りをした。
「ルナ。私の記憶どこかおかしくて!」
『案ずるな。そなたの記憶はどこもおかしくない。私が弄ったのは王太子の記憶の方だ。あの者の記憶を、私が一部消したのだ』
「え?」
とんでもないことを言ったルナに私は一瞬、硬直し、事態を理解すると青ざめた。
「それは、大罪なのでは!?」
一部と言ってもマズい。彼の消した記憶の中に重要機密など、忘れては困る記憶があったならば、恐ろしいことになる。
フェリクス殿下の頭の中だけに留めている記憶もきっとあるだろう。
それがこの国を揺るがすことだって有り得るのだ。
『安心しろ。ご主人。私が消した記憶は五分だ。直前から五分前までの記憶をまるっと消した。消した記憶を確認してみたが、あの男の失った記憶はプレゼントを選ぶ記憶と、あの決定的な記憶だけだ』
決定的な記憶。顔を少し合わせて声を聞いただけで、私が私だと彼は分かってしまった。
つまり、もう一度素顔で顔を合わせれば似たようなことが起こるという訳で。
その想像に戦きつつも、全てがなかったことになり安堵した自分も確かに居た。
『勝手な判断をしたが、ご主人の精神が耐えられなくなるよりはマシだと強硬手段を取ってしまった。人の記憶の干渉などしてしまったせいで、そなたはこんなことになった。倒れたのは魔力の大量消費のせいだ』
人の記憶の干渉?
それは簡単にされてはいけないものだ。
そして、安易に使ってはいけないもの。
たった五分。たった五分の記憶を消して、私は三日意識を失ったということなのだろう。
こんな魔法があるなんて。
人の精神に作用する魔術を使うにはそれ相応の代償が要る……そのことに安堵した。
簡単に使われて良いはずがないからだ。
精霊が行使したとはいえ、魔力は契約者由来だ。魔力は多めの私だが、それでも今回の衝撃は大きかった。
『勝手なことをして申し訳なかった……。とはいえ、ご主人。ずっと昔から抱えてきたトラウマとそなたはいつか向き合わないといけない。今回のことはただの時間稼ぎに過ぎぬのだから』
「……」
その通りだった。昔の私の記憶が、まだ私を苛んでいることにルナは気付いていた。
私に時間が必要なことも。今の私が耐えられないことも。
『そなたは恐怖しているのだろう? 私がこのような強硬手段が取れたのも、そなたが望んでいたからという理由もあった』
私が望んでいた?
確かにフェリクス殿下と遭遇して、正体を知られてしまった私は、その瞬間の全てをなかったことにしたいと望んだ。
それが殿下の記憶を消すということに繋がった。
「私は人の気持ちを弄んで……最低な女だわ」
真っ直ぐに向けられた思いに向き合うこともしないまま、私は私のために逃げた。
罪悪感が込み上げてきて、涙が零れそうになるが、私に泣く資格などない。
「クッキー缶?」
殿下が私のために選んでくれたあの雑貨屋の品物は、可愛い缶の中に可愛らしいクッキーが所狭しと詰められているものだった。
女子が好みそうな、色とりどりの植物と可愛らしいウサギやリスなどが描かれた缶。
無難なものになってしまったと言っていた彼だったが、女子が多くて入りにくいあの店に自ら入っていって私のためにこんなにも素敵な品を選んでくれた。
高級なものを贈れば、私は遠慮してしまうと配慮したのか、親しみやすい贈り物。
『記憶を消したとしても五分だったからな。少しぼんやりしてしまったとしか思っていないはずだ。実際、あの男は何も気付いてはいない。そこまで気に病む必要はないぞ』
気付いていないからと言って、良かったのだろうか。いや、良くない。
ルナは慰めようとしてくれているけれど、私は彼の告白をなかったことにしたのだ。
『一昨日から何度か見舞いに来ていたが、変質者──そなたの兄が追い返していてな。男の見舞いの品など言語道断。自分が全てを燃やし尽くすと言っていて、私としてはアレの対処をどうにかした方が良いと思うぞ』
お兄様……。殿下に失礼を働いたとか、そういうことはないのだろうか。ものすごく心配だ。
そしてふと気になって問いかけてみた。
「私が意識を失って、どうなったの? ルナ」
その瞬間、ルナの様子がおかしかった。
なんというか、遠い目をしながら天井を仰いだのだ。
『あの場でご主人が倒れる訳にはいかないから、私が一時的にご主人の体に憑依したのだが──』
「憑依!?」
『おかしなことはしていない。すぐに眼鏡をかけた後、それなりの対応をしてあの場を後にして、ここに帰ってきたのだ。その後はご覧の通りだ』
どうやら、この場所に帰ってくるまでに私のフリをしてくれていたらしい。
ルナは器用だし、常識狼?だし、変なことはしていないはずだとは分かっていた。
ただ、一言だけ、ルナは言った。疲れたような声で。
『あの兄は頭がおかしい』
何があったのか分からないが、とりあえずルナの様子を見る限り、緊急性はなさそうだと判断出来た。
ひとまず、私は胸を撫で下ろした。