12
裏道へと逃げた私がいけなかった。
逃げた先は店のすぐ裏の道。
近いけれど、周りに人は居ない少しだけ暗い道。
「待って!」
「……っ!」
フェリクス殿下には追いつかれ、腕を掴まれてしまう。
彼を隠していたらしいお忍び用の姿。ローブがはらりと解けて、金色の髪が揺れている。
「どうして逃げるの?」
「……逃げるつもりは、あっ…」
「その声……レイラ嬢?」
迂闊だった。声を聞かれてしまえば、私の正体なんて簡単に分かってしまう。
いや、それにしてもすぐにバレすぎた。
そんなに私の声は特徴的だっただろうか?
その思いが顔に出たのか、殿下は今度は私の肩を掴んで引き寄せて、耳元で囁く。
「私は貴女の声が好きだから、それくらい簡単に分かるよ」
それはどういう意味なのだろうか。私の声が好き。
何も言えずに居た私は、そのまま固まっていた。足が震えているのが分かる。
今からでも振り解いて逃げてしまえば良い。
それは分かっていたのに。
動けない。私の足は石像のように固まっている。
肩を離されて近付いていた顔は離れた。
あからさまにホッとした私の様子は相手に伝わっていた。
ぎゅうっと逃がすまいと、腕は掴まれたまま。
「ようやく見つけた」
「離してください……」
「逃げ出さずに居るなら?」
「……」
何も言えなくなった。
この状況、最悪すぎるではないか。
レイラとして認識されたまま、あの夜の不審者としても認識された。
「ね、こっち見て」
顎をくいっと上向けられて、殿下と目を合わせてしまった。
どうしてそんな目で見るの?
怒っていると思っていたのに、そんな素振りは一切なくて、そこには一種の必死さすら垣間見えて。
動揺して目を泳がせるも、指先がおとがいを捉えて離さない。
「やっと、目が合ったね。こら、逸らしちゃ駄目だ」
「ごめんなさい……。ごめんなさい。私、その……」
謝って許される問題なのだろうか。人の思いを踏みにじるような真似をした私が。
「何故、謝るの? ……私は、あの夜の女神が貴女だと知って嬉しい」
「……!」
よく分からない。何故、殿下は心から嬉しそうな陽だまりのように暖かな微笑みでこちらを見つめるのだろう?
その熱の籠る瞳は、私の顔すらも赤く染め上げてしまいそうだった。
「どうか、見ないで……」
自分の瞳が潤んでいくのが分かる。
渦巻いているのは羞恥などではなく、恐怖。
目の前の殿下が怖くて仕方ない。
これ以上は未知なる領域だ。
だから怖くて仕方なかった。
「嫌だよ。やっと貴女だと知ることが出来たのに、逸らしたくなんかないし、レイラ嬢は私の気持ちを知っているでしょう? 私は貴女のことが──」
それ以上先は聞きたくない!
なんて勝手なのだろうと知りながら、私は。
「やっ、止めてください!」
力の限り振り払ってすり抜けようとした私の足元は恐怖で縺れ、バランスを崩した。
「きゃあっ!」
「レイラ嬢!?」
はしたなくも転びそうになった私を逞しい腕が攫うように受け止める。
ビクリと震えた体は、目の前の青年に抱き込まれ、思わず顔を上げた。
「あっ……」
「レイラ嬢……」
吐息が混じり合いそうな距離。今にも唇が重なりそうなくらい顔を寄せてしまっていた私たちは、その距離感に二人して呆然として見詰め合っていた。
フェリクス殿下の瞳に徐々に熱が宿っていくのを間近で見てしまう。
この人は、こうやって愛を伝えるのか。
その雄弁な瞳が。甘く柔らかな声音が。その熱い指先が。
とろりと溶けたように甘ったるい目を向けられ、そこには戸惑った私の姿が写り込む。
「どうか、逃げないでここに居て。私の話を聞いて欲しいんだ」
頬に添えられた手は熱くて、目の前の青年が少しでも動けば私の唇に触れることも、簡単だった。
金の絹糸のようなサラサラとした髪が触れるくらい近いせいだ。
だからこんなにも心臓が鳴り止まない。
鼻先が触れ合い、びくりと震えた私は何に怯えたのか。
ぎゅっと目を瞑っていたら、殿下は苦笑しながらスっと離れて、私から少しだけ離れる。
それでも手は届く距離で、ほっとして目を開けていた私に指を伸ばす。
「キスされると思った?」
私の唇をなぞる親指は少し悪戯めいている。
キスの感触など知らないけれど、彼の指先は柔らかくはない。
悪い冗談だ。
何も言わない私に腹を立てることもない心の広い方だけれど、少しタチが悪い。
「勝手にそういうことはしないよ。貴女は怖がっているのに。合意のないキスは暴力と変わらない。合意を得て、触れる許可が出たらするかもしれないけど、今は違うだろう」
私は慌てて胸元を押しやった。
「好きな男性は居る?」
「私は、お兄様が大好きですから……。酷いくらいのブラコンで、厄介な令嬢かと。愛し愛される関係にはならないと思います。貴方様は私には勿体ないくらいのお方です」
「成程。好きな相手は居ないようだ」
「いえ! 私にはお兄様が……んっ」
それ以上の反論を許さないと言わんばかりに、私の唇に人差し指が当てられる。
この状況の恥ずかしさに顔がカッと熱くなる。
「お兄様が大好きだと、この唇は言ったけれど、貴女の瞳には熱がない。貴女にとっての兄は、普通の家族で、親しみを持っては居るけれど焦がれるそれではない。兄の方は知らないけれどね」
全てを見透かすような瞳は、私の一挙手一投足を監視している。見逃さんと言わんばかりに。
「うん。何も問題ないようだね」
その笑顔は晴れやかで、私はただ恐怖した。
紳士的で麗しい瞳なのに、狙いを定めたような獣のような気配に怯んだ。
彼の本気が分かった。分かってしまった。
身を竦ませ、怯える私に気付いた上で、殿下は私を欲しがっている。
今すぐでなくても良いと。いくら時間をかけても逃がさないと言われている気すらする。
私はそれらの全てが怖い。
死にたくないという理由もあるけれど、これはきっと私の前世からの業だ。
前世の私が顔を出す前に、振り切って逃げようとした。そんな愚かなことをしてしまう程、私は混乱状態に陥っている。
「レイラ」
殿下に親しげに呼ばれた直後、後ろから青年の腕の中に閉じ込められた。
ここで抱き締めるなんて、相手を見なくても分かる。
逃げても捕まるなんて知っているのに、私は余計なことをしている。
殿下の胸元に柔らかく抱き込まれて、顔すら見えないが、彼の脈打つ心臓に、私はどきりとした。
「ありがとう。レイラ。すごく嬉しい」
何が嬉しいのだろう? 私は怖くて仕方なくて、ただ逃げようとしているだけなのに。
どこか余裕さえも感じられる声。これからの未来に希望を持った声。
絶対に手に入れてみせるという想い。
純粋に心から喜んでくれているらしかった。
「貴女が貴女であることが嬉しいんだ。私の目を奪い、私の心にも住み着いてくれた貴女だからこそ、嬉しい。何を言っているのか分からないだろうけど、こんなに嬉しいことがあるだろうかって思う。今、想いを返してくれなくても、それでも」
本当に何を言っているのか分からなかった。
私にはどうしようも出来ないのに。
でも、彼は本気でそう言っているらしい。
私が私で嬉しいのだと。
これ以上、何も言うことが出来ないのに。
お願いだから好きだと言わないで欲しかった。
追い詰められた私の耳に、聞きなれた狼の声。
『ご主人の魂は相変わらず興味深い。誰よりも早熟なのに、誰よりも未熟。誰よりも頑強なのに、誰よりも脆い。それ故に……私のような精霊にも分かる。そなたにはまだ時間が必要なようだ』
何を言ってるの?
影の中から姿を現さないルナの声が聞こえてきた。
『受け入れる器がないと壊れてしまいかねん。まだそなたには早いのだろう。私はご主人のために動く忠実なる下僕だ。そなたが望まずとも動くことがある』
真剣な狼の声に、薄ら寒い何かが押し寄せてくる気配。
いや、違う。何かが私の体を巡っている。荒々しい闇の魔力の奔流。
それとは対照的に、抱き締める腕は優しくて、壊れ物を扱うように大切にしてくれている。
それは何かから守るようにも思えるのは錯覚だ。
闇の術式が広がっていく気配。
もしかして、殿下は気付いていない?
でも不思議だ。私は何もしていないのに、この魔力は私のものだ。
精霊が魔法を行使しようとしている? 私の魔力で何かを起こそうと。
不自然に身を固くした私に、殿下は優しく声をかけ続けている。
それは本気の愛の言葉に繋がる何か。
「ごめんね。私は自己中心的な人間だって今気付いてしまった。貴女が逃げようとするのを承知でも、伝えたいなんて思ってる。無理強いするつもりはないけれど、私は諦めたくないんだ」
「……」
真剣な声で訴えられ、その本気が伝わってくる。
今、この瞬間、全部なかったことに出来れば良いのに。
それで何事もなく、いつものようなお茶会をするの。
だけど現実は違って、何も答えない私に決定的な言葉が告げられようとしている。
「私は貴女のことを──」
それ以上は聞きたくないと思った瞬間、私の目の前は真っ暗になった。
それと同時によく知っている気配が入り込んで来る。
それに酷く安堵を覚えた私は意識を手放した。
『ご主人。今は、よく眠れ』
ルナの声には慈愛が満ちていた。