プロローグ
乙女ゲームのシナリオが始まる一日前。
つまりは、入学式前日のことである。
私、レイラ=ヴィヴィアンヌは、完全に気を抜いていた。
学園に入学したら機会がなくなるので、月花草の採取をしていたら、湖にドレスのまま落ちた。
少し草を採取するくらいなら平気でしょうとたかを括っていた私が迂闊だった。
「た、たすけてっ!」
『だから前日くらいは止めておけと言っただろう、ご主人。自業自得だ』
私は助けんぞ、と言わんばかりの態度をしているのは、私と契約している真っ黒い狼の姿をしている精霊のルナ。
名前は可愛らしいが、雄である。
『ご主人は優秀なのに、どこか抜けている。着替えるのが面倒だからと、動きにくいドレスで来るのが間違いだろうに』
「うう……ごもっともです。でもコルセットはしていないもの」
ルナとの精霊契約は絶対なので、命令すれば助けてくれるだろうが、ここまで言われると素直に助けを求められない。
私は湖に生えて浸かっている銀の大木に手をついて、とりあえず水を吸って重くなっているドレスやシュミーズを脱いで、「えいっ」とルナが立っている草むらへと投げる。
びしょ濡れになった服などをルナは丁寧にキャッチした。
狼の牙は鋭いが、彼は加減は得意らしい。
重い服を脱いだので、沈むことはなくなり、ゆっくりと湖の淵へと移動していく。
多少は泳げるので、問題はないけれど。
『淑女が外で脱ぐのは良くないぞ。私に素直に助けを求めれば良いものを』
「それはそれで悔しいもの」
やれやれと言わんばかりに溜息をついたルナは湖の中に居た私に頭を垂れた。
遠慮なくぎゅっと掴まって地上へと引き上げてもらう。
それに今の時間は深夜である。誰も居る訳がない。
月花草は月に一度、深夜にしか咲かない花である。それにとても希少だ。
引き上げてもらって、脱いだ服を拾おうとしたところで、ふとルナ以外の気配を感じた。
何か視線があるような?
いや、まさかと思いつつ、顔を上げると。
「……っ!?」
金髪碧眼の麗しい美貌を持った青年が2メートル先くらいから、こちらを唖然として見つめていたのである。
「貴女は……?」
あまつさえ話しかけられている。
叫び声を上げなかった私を誰か褒めて欲しい。
深夜、僅かな月の光しか射さない暗闇だが、生まれたままの姿で殿方の前に身を晒しているという状況もだが、私は別の意味で戦慄していた。
何故、何故なの? 何故、こんな深夜の、人が通ることのない森の中、湖の傍というこの状況で、メインヒーローの彼が目の前に居るのか!?
乙女ゲームのシナリオではこういうシーンは一切ないため、完全にイレギュラーである。
深夜に悲鳴を上げそうになる寸前、狼姿の精霊であるルナが先に動いた。
私の体をもふもふと黒い毛と尻尾で覆い隠すように寄り添ってくれたのだ。
涙目になりつつも、ルナに縋るように顔を毛に埋めて、かのメインヒーロー──王太子であるフェリクス殿下を見上げる。
目と目が合って、何を言いたいのか分からないまま、幼い頃から叩き込まれてきた貴族の仮面を無意識に被る。
内心は大パニックである。
春先の深夜、濡れたままの私は、寒さで震えた声で彼に告げた。
「駄目よ」
王太子が目を見開いた。
「私を見ては駄目……」
何故、フェリクス殿下はこちらに釘付けになっているのか。
目を逸らすなり、何なりしてくれないだろうか。
「どうか、私のことは忘れて。貴方は何も見ていない」
『妖しさ満点だぞ。ご主人』
ちなみに精霊の声は契約者にしか聞こえないはずだ。
フェリクス殿下は、戸惑いの息を零しながら尋ねてくる。
「貴女は誰なの?」
「……」
何故、話しかけてくるのか。不審者が居たから関わらないでいようとか思わないのだろうか。
どうかお願いだから去って欲しい。
そして、明日のために早くベッドに入って良質な睡眠を貪って、深夜の邂逅なんて忘れて欲しい。
数秒間、時が止まったような不思議な空気。
フェリクス殿下の夜の湖のように澄んだ瞳が月光に照らされ、惑うように揺れた気がした。
「貴女のことをどうか教えてくれる? 貴女の名前を呼びたいと願う哀れな男の願いを叶えるつもりがあるのならば」
照れたように微笑むと同時に、彼の瞳に宿るのは真剣な色味。
少しだけ近付いて来た彼は、ルナの毛皮に埋もれた私と目を合わせるようにしゃがみ、そっと手を差し出した。
自らの格好とこの状況にパニックになりかけるのを必死で隠しながら、誤魔化すように微笑む。
「秘密」
本気でどうしたら良いのだろうか。
恥ずかしさに、もふっと目の前の黒い毛皮に顔を埋めた。
何故、夜中に裸で泳いでいるような不審者にこの国の尊いお方が話しかけている。
そんなことがあって良いの?
いやいや、嘘に決まっているだろう。
『ご主人、このままだと城に連れて行かれるぞ。良いのか』
良くない! 不審者として通報されるのは嫌すぎる!
真っ青になった私を見て嘆息したルナは、フェリクス殿下に向かって唸り声を上げ、私の前に立ち塞がり、完全にこちらの姿を隠してくれた。
「お前の主人を害することはしないよ。心配しないでくれ」
チラリと見えたルナの金の瞳。何かを問いかける瞳に私は頷いた。
「さようなら」
それだけ言った後、月の光に照らされる湖はルナから発する闇色の光に飲まれて。
物語が始まる前に出会ってしまった王太子から、私は転移魔法を使って逃げ出したのである。
そして何も収穫のないまま、自室に戻った私はルナにとんでもないことを聞いたのだった。
『先程の雄だが。どうやらご主人を自らの番と定めたようだ。次に出会う折には発情しているのではないか』
「ちょっと生々しい言い方は止めて!」
つ、つがい!?
番って何!? 雄って何!?
「ちょっと何を言っているのか分からない」
『人間風に言えば、見初めた……あるいは一目惚れ……か? 雄特有の反応が出ていたし、何より──』
「そういう赤裸々なこと言うのは止めて!」
詳しく説明して欲しい訳でもない!
「大丈夫よ。……何も問題ないわ。今の出会いは瑣末なことよ。私は入学するけど、入学しないのだから」
とりあえず、明日から始まるのは学園生活ではあるが、彼とはあまり関わることはないだろう場所で行動するのだ。
明日からの学園生活、私はイレギュラーを謳歌するのだから!