第1章 沙希とみさき 6
次の日小春は看護師たちを集めて、拓海と普通に接するようにと注意した。
「虐待はないわ。私が手術に立ち会ったのよ。全身をくまなく見たのも私」
みんなは不満げな顔で、それを受け入れた。
「いい、噂に流されてはダメよ」
家庭の問題に踏み込まない。
それは沙希のためでもある。
退院して沙希が戻るのは拓海の待つ家なのだ。
沙希への怒りの火種をつくってはいけない。
虐待にあうのは沙希なのだから。
誰もが判っていることだ。
判っているからこそ、歯痒くて仕方ない。
何とかして沙希ちゃんを守る方法はないのか。
巷で起きる児童虐待事件。
その多くがあと一歩児童相談所などが介入すれば助かったケースが報告されている。
しかし報道される事件はほんの一部で、死を伴うような悲惨な状況になってはじめて、行政が責められ、社会問題化してるに過ぎない。
本来は救われるはずの命がこうして見過ごされているのではないか。
そして沙希ちゃんのケースがそうならないとは限らない。
なのに、自分は何もできずにいる。
それがみさきには辛かった。
「俺は一生、脚の悪くなった子供の面倒を見るのは嫌だからな」
拓海は離婚を切り出し、病室を出て行った。
奈菜は拓海が投げつけた離婚届を手にして、泣いていた。
拓海の声は6人部屋にいた全員が耳にし、あっという間に病棟全員が知ることになった。
みんながどう声をかけていいのか、迷っていた。
虐待にあいながら、警察に届け出ないケースは多い。
他人が警察に届けても当事者が被害届を出さないと、警察は介入できないことになっている。
虐待にあった妻が、更なる暴力を恐れて警察を拒否するケースだ。
そして繰り返される暴力で、妻が死んで初めて殺人で逮捕されるという事態に陥るケースがある。
奈菜の場合もそうなのか。
少し違う気がした。
奈菜は拓海を恐れている風ではない。
奈菜は拓海が好きなのだ。
殴られてもなお拓海を愛しているのだろう。
離婚という話になって奈菜はパニック状態に陥ってるのかもしれない。
みさきの勝手な判断だが、なぜかそんな気がした。
奈菜はいつまでも離婚届を見つめて泣いていた。
沙希が「ママ、泣かないで」と笑った。
拓海はそれ以来、病院に現れなくなった。
みさきはこれで良かったのだと思った。
奈菜はショックかもしれない。
しかし拓海による暴力から、奈菜自身だけでなく、沙希も救われるからだ。
これで病室は平静を取り戻すかと思われた。
しかし……。
奈菜は自分を責め、沙希が歩けなくなったことを責め、精神を病んでいった。
みさきは奈菜が時折安定剤を飲むのを目にしていた。
「安定剤……、飲んでるんですね」
みさきがそう聞くと、奈菜は弱弱しく微笑んだ。
「掛かりつけの医者にもらってるんです。でもまたもらいに行かないと」
「うちで出しときますよ」
みさきは少しでも気休めになればと、奈菜に抗うつ剤や睡眠薬を与えた。
けしてうつ病と訴えてたわけではない。
ただ、まだ拓海とのことを引きずっているに違いないと、安定剤を与えていたに過ぎない。
みさきは奈菜が自殺した時、もっと親身に相談に乗っていたらと思った。
奈菜の精神的ケアを負かされていたのに……。
みさきは自分を責めずにいられなかった。
今日はとにかく忙しかった。
病院で自殺者が出るといろんな対応に追われた。
日付が変わって、やっと帰路につくことができた。
忙しさから開放されると、急に自殺の原因についていろんなことを考えてしまう。
みさきには気になってることがいくつもあった。
中でも特別に気になることがあった。
奈菜の自殺の前の日の夜中、沙希が発作を起こした。
緊急手術。
沙希は命を取り留めた。
しかし沙希が突然発作を起こした原因が分からなかった。
その後奈菜は一睡もせず、沙希の側にいた。
それが自殺の引き金になったのだろうか。
自分の無力さ。
すべての原因につながる事故。
自分を責め続けていたのでは……。
みさきは奈菜の自殺で押しつぶされそうだった。
リビングに行くと、いろんな本が無造作に積み上げられていた。
母が本の山の中で眠り込んでいた。
何を調べているのか。本を取り上げて見てみると、毒の本を読んでいた。
みさきはゾッとなった。
まさか……。
みさきの頭の中では、沙希の突然の発作と毒の本が一本に繋がっていた。
母の中の悪魔が暴走したのか!
今なお沙希の発作の原因は分かっていない。
母が点滴に毒を混ぜたのか?
考え出すといろんなことを考えすぎてしまう。
発作を起こす前、小春が沙希の点滴を触っていたことさえ、疑わしく感じてしまう。
小春の中の悪魔が一線を越えたのではないか。
まさかね……。
おかしなことを考える。疲れてる証拠だ。
次の日、小春は沙希の発作の原因を探ろうと、看護婦や介護士などに質問をし、ネットや本で調べものをしていた。
そして沙希の掛かりつけの病院に電話をかけたりしていた。
妥協を許さない仕事ぶりの母親を見て、みさきは敵わないとさえ思った。
母が沙希ちゃんを殺すわけ……?
ありえない。
いくら悪魔が母にのり移っても、人殺しさえ救う母よ。
母に人殺しはできやしない。
毒の本を読んでいたのは沙希ちゃんが毒をもられたと考えたせいなのだろうか?
まさか、拓海が病室に忍び込んで……。
まさかね……。
いくらなんでもあり得ない。
それに誰も拓海を目撃してないし。
たまたま毒の本を読んでただけかもしれない。
そんなことを考えてしまうのは、誰かに責任をなすり付けたかったからかもしれない。
母は冷静だ。
病院で自殺者が出て、病院中が大騒ぎしてても、行動にブレがない。
みさきは改めて小春のすごさに尊敬すらした。
「あれから沙希ちゃんのお父さんって、一度くらい、病院に来てる?」
小春は沙希の担当看護師の結城紗枝に聞いた。
「それが一度も来てないんですよ」
「そう……。困ったわね」
奈菜が自殺したせいで、沙希の身内は拓海だけになった。
沙希の今後のことで拓海に連絡する必要性があった。
拓海が電話をかけてきたのはその日の夕方6時過ぎだった。
電話に出たのはみさきだった。
拓海はオドオドして落ち着かない様子で、自ら電話をかけてきた。
奈菜が自殺したというのが本当かどうかの確認の電話であった。
あまりにもオドオドしてるので、みさきは変な勘ぐりをしてしまった。
なんでも奈菜の死をテレビのニュースで知って電話してきたらしい。
とりようによってはアリバイつくりにも見えなくない。
もし拓海に疑いが掛かるようなことがあった時、いつ、奈菜の死を知ったのかといった質問に対する回答として、電話をかけてきたというのが「いつ」というのが問題になるかもしれないからだ。
しかしそれは裏読みだろう。
拓海が奈菜を自殺に見せかけて殺したということになれば、沙希ちゃんが嘘を言ってることになるからだ。
みさきが話してると、小春がみさきと電話を変わった。
そして拓海と話をしていた。
小春の話しだと、結局拓海は沙希を育てることを放棄したらしい。
「それで沙希ちゃんのお父さんは迎えに来ないって?」
「施設でも何でもあずけてくれだって」
と、拓海の悪口があっという間に広がった。
「なんて親かしら」
「でも良かったかもしれないよ」
「そうよね」
みんなの頭の中には児童虐待があったからだ。
こういった会話が病院中で繰り返された。
看護師のみならず、患者の間でも同じような会話が交わされていた。
「あの親に返すなら、施設に預ける方がいいわよね」
誰もがそう思った。
それは拓海の病院での振舞いを見てきたからだ。
「でも治るどうか五分五分なんでしょ、沙希ちゃんの足」
しかし足が悪いというのはこれからの人生にマイナスになる。
足が悪いと里親になりたがる人もいないだろう。
預ける施設も探しも大変だろう。
本当は身内に預けるのが一番なのだろう。
「リハビリ次第で、治る人もいるらしいけどね」
「神様次第ってことよね」
みんな、沙希の未来を心配していた。
ふと、看護師たちは沙希がいるのに気がついて、話すのをやめた。
沙希は看護師たちに微笑んだ。
「変な噂流さない」
小春は看護師たちを叱責した。
「虐待なんてないのよ」
「でも……」
なんで隠すんだろう。
みんな疑問だった。
病院のメンツ。
「噂を沙希ちゃんが耳にしたら、自分が虐待されてたと思うでしょ」
小春の言葉は言い訳に聞こえる。
「足が治ったら、本当の親の元に返すのが一番いいに決まってるでしょ」
小春は今も沙希を拓海に戻すべきだと考えてるようだった。
誰もがそれに賛同できずにいた。
みんなの声を代弁して、みさきは小春に聞いてみた。
「どうして?」
みさきが聞く。
「だって親なのよ、血のつながった」
小春はそれしか語らない。