第1章 沙希とみさき 5
小春はメスを持つと人が変わるのだ。
その後も何回か、手術を見学したが、いつだって小春は悪魔に変貌している。
「可愛い小悪魔だったでしょ」
いつも周りを凍りつかせるジョークを口にする。
みんなの愛想笑いは、ひきつり笑いにしかなっていない。
ただ、一つ小春を弁護するとすれば、小春の悪口は的を得ている。
わがままな患者たちへの悪口。
けして病室では見せない、患者への悪口が次から次へと降り注ぐ。
「私がメスを持つと人が変わるって言うけど、ハンドルを握ると人が変わることはないわよ。私は安全運転だから」
自己弁護の言葉として正しいの?
「車は人を殺すけど、メスは人を助けるわ」
メスで人を刺すと死ぬのよ。
そう突っ込みたいところだが、そんなこと言ったら、車で轢き殺されそうだ。
あの日命を助けた犯人は、新聞などの記事によると、結局一度も反省の言葉を述べることはなかった。
裁判中も「死の淵から呼び戻されたんだ。釈放したら、もっともっと殺してやるのに。もっと人殺しをしろって声が聞こえる」などの言葉をぶちまけた。
彼は精神鑑定にかけられたが、地裁で死刑判決が出て、上告を拒否、死刑が確定している。
病院にはどうして助けたんだと中傷の電話や手紙、メールなど未だに送られてくる。
小春はあの晩餐以降、一度もそれについて語らない。
殺人犯の手術に関して、小春は自分の良心と葛藤していたのかもしれない。
あの晩餐で酔いつぶれる寸前に、こう言った。
「医者は患者を選べない。患者が何者なんか、考えていてはいい仕事はできないわ」
あなたがいい医者になりたかったら、いつだって全力で立ち向かいなさい。
助けるのはあなたじゃないの。
神様がその人を必要と思っていたら、きっと患者は助かるのよ。
手術中、思ったの。
神様はあの患者はまだこの世に生きて、しなければいけないことがあるんだってね。
本人は生涯気付かないかもしれないけど、それはきっと人を殺した重みを考えることじゃないかって思うの。
そうじゃないと、私が助けた意味がないじゃない。
小春の言葉は今でもよく思い出す。
そして母の言うことは正しいと信じてる。
「最後の晩餐」でキリストはユダにチャンスを与えたのよ。
反省する機会をね。
だから私も奴に反省する機会を与えてやったのよ。
「そして裏切られた……」
その言葉を最後に小春は酔いつぶれてしまった。
奈菜は献身的に沙希の看護を行っていた。
沙希に付きっ切りで、奈菜の深い愛情だけは誰もが認めるところだった。
奈菜は軽症だったので、入院するほどではなかったのだが、毎日沙希に寄り添っていた。
歩けなくなった沙希を見て、沙希の父親拓海は奈菜を責めた。
その様子を何度も看護師たちは目にしていた。
ある時奈菜が怪我をして戻ってきた。
額から血が流れ、顔が腫れていた。
さっきまで一緒にいた拓海は戻ってこなかった。
誰もがドメスティック・バイオレンスを思い浮かべた。
「大丈夫ですか」
心配げに看護師が聞く。
「大丈夫です……」
奈菜は笑顔で血を拭き取った。
日に日に拓海に対する批判が強くなっていった。
看護師の中にも拓海に嫌悪感を露わにするものも少なくなかった。
それを顔に出すまいとしてもやはり出てしまう。
そして、実は沙希の体にも児童虐待ではないかと思う痕跡があるという噂が立った。
手術に立ち会った看護師が沙希の腕に防御痕を見たというのだ。
防御痕は殴られまいと手や腕で防御する時にできる傷である。
「手術中もそれが気になって……」
事故で覆った傷は新しく、それに紛れるように、痣や切り傷、打撲などの痕があったというのだ。
今は奈菜が沙希の看病をし、体を拭くなどの細々としたことも奈菜がしている。
母親の愛情なのか、奈菜は沙希の傷に敏感で、少しでも傷口が見えると、すぐに隠そうとする。
それでも治療や検温などの時などに沙希の肌を確認することができる。
やはりそれは事故の傷とは違って見える。
児童虐待……。
もしかして拓海によって、沙希に対しての暴力が続いていたのでは。
奈菜だけじゃなく、沙希に対する暴力。
それゆえの心中……?
誰もがそういう疑いを抱いた。
みさきは思い切って、沙希の執刀医である小春に聞いてみた。
小春は一瞬、黙り込んだ。
何かをじっと考えているようだった。
そして重い口を開いた。
「確かに古いすり傷や痣があるわ」
母は知っている。やっぱり気がついてる。
みさきは直感した。
「でも防御痕はあるんでしょ。」
思い切って聞いてみた。
「ないわ」
小春は即答した。
「思い込みに流されてはいけないのよ。あれが父親によるものだって証明することはできないわ」
「やっぱり傷があるんじゃない」
みさきは少し頭にきていた。
明らかに母は隠そうとしている。
「疑わしい傷はあるわ。でもそれは転んでできた傷かもしれない」
転んだ傷と違うことはすぐに分かる。
論理的な母がバレるような言い訳しかできないほど、それは確信にしか思えなかった。
「警察に届け出れば調べてくれる……」
みさきは呟いた。
児童虐待を発見した場合、疑いがある場合など、病院は通報する義務がある。
みさきは独断で電話しようと思った。
「絶対にそれはダメよ。これは命令よ」
どうして……。
警察が取り調べれば、自供だってするかもしれないのに。
「思い込みだけで父親を責めてはダメよ」
みさきは納得できなかった。
「父親が殴ったとは限らないんだから」
でも限りなく怪しい。
「父親以外誰が殴るというの」
みさきは声を荒げた。
「それに奈菜さんだって、どう見たって殴られてた」
みさきは二人の不幸を止めたかった。
これ以上二人に傷付いてほしくなかった。
小春は拓海からお金がないので、沙希を退院させろと言われていた。
拓海は沙希の容態を聞くより真っ先に、小春にそう迫った。
「リハビリなんて金の無駄だろ。どうせ歩けないんだから」
「歩けないとは断言できません。リハビリ次第では十分に……」
「そのリハビリ代はどうするんだ」
拓海は定職にはついていない。
日払い労働者らしく、最近は不況で毎日ブラブラしているらしい。
保健証すら持ってないのが現状だ。
病院の判断としては、沙希は支払い能力のない患者ということになる。
「おかあさんは沙希ちゃんを退院させる気なの」
みさきはその話を聞いて、すぐに小春に問い質した。
「そうよ。病院が損するわけにいかないでしょ」
小春は突き放すようにそう言う。
「でも……」
「歩けなくなったんだ。障害者には金が出るんじゃないのか」
拓海が事務員に怒鳴り声を上げていた。
「それは役所で聞いてみてください」
事務員は淡々と答えた。
「ほらみろ、金が出るって言っただろう」
拓海は、奈菜の方を笑顔で見た。
「でもやっぱりリハビリさせないと……」
「バカか、直ったら、障害者じゃなくなるんだぞ」
「でも、私……」
奈菜は弱弱しい声を絞り出した。
遠くで拓海が小春を見つけ、呼びつけた。
「行くわよ。呼んでるから」
そう言って、小春は拓海の方へ歩いていった。
「とにかく、退院させてくれ」
拓海は小春にそう言った。
「どうしてもと言うのなら、仕方ないですね」
「じゃあ、よろしく頼む」
この話の後、拓海と奈菜は一端病棟からいなくなり、奈菜一人戻ってきた。
奈菜は顔から血を流して現れた。
誰もがまた殴られたのだと思った。
そしてどう励ましていいのか分からずにいた。
ただ、小春一人がそれを見て、渋い顔をしていた。
みさきはそんな母の冷たさが怖いとさえ感じていた。
結局病院は沙希を退院させなかった。
というのも奈菜がそれを拒絶したからだ。
詳細は分からないが、お金は奈菜の両親に話をして何とかするということになったようだ。
沙希の退院は延びた。
しかし拓海はそれが気に入らなかった。
病院に来ては喧嘩を繰り返していた。
拓海と奈菜の関係が日々悪くなっていくのは、他人の目にも明らかだった。
それにつれ、看護師を含め、病院関係者は拓海に対する態度が冷たくなっていった。
看護師たちの拓海に対する態度が行き過ぎているとはみさきも思った。
それでもそれを止めようとは思わない。
素直な気持ちになれば当たり前の反応だ。