第1章 沙希とみさき 2
「ねえ、沙希は大丈夫なの」
これで、20回目。
みさきは同じことばかり聞く奈菜のことが面倒くさくなっていた。
うるさいと叫びたかった。
事故を起こしたのはあんたでしょ。
なるようにしかなんないのよ。
「今、いろいろ手を尽くしてますので」
安定剤でも飲ませて静かにさせたかった。
「おとなしく待合室でお待ちください」
突き放すような言い方をしてる。
みさきはそれに気がついていたが、抑えることができなかった。
奈菜はずっと泣いていた。
みさきは人前で泣いたことがない。
そのせいか、ところかまわず涙する人を見ると、その弱さにムカついてしまう。
「先生は私のことを心配してくれないの」
と、看護婦が診察室に現れた。
警察が事故の事情聴取を行うために奈菜を呼びにきたのだ。
みさきはやっと開放された気分だった。
みさきと看護婦は苦笑いをした。
最近もみさきの同級生が結婚式をあげた。
友人の子供を見るたび、可愛いと思う。
子供か……。
子を想う母親ってどんなもんなんだろう。
取り乱す奈菜を見て思う、自分はああはならない。
いや、なれないだろう。
そういう意味じゃ、母親似なのかもしれないと思う。
子供か……、結婚も考えられないのに……。
いっそ、子供をつくったらレールから降りられるかもしれない。
みさきに自問自答させる原因は分かっている。
付き合って8年になる恋人須藤るいのせいだ。
るいとの結婚を思い描かないはずはない。
みさきはそろそろ結婚したいと感じてはいた。
結婚して医者の道を離れたいと思った。
しかし彼氏るいのことを考えると、結婚は遠い気がしていた。
沙希の手術が終わった。
沙希は命を取り留めたものの、脊髄に損傷を負っており、車椅子生活を送らなければならなかった。
その事実を聞いた時、みさきは突き放した言い方をしたことを後悔した。
みさきは心が痛んだ。
「ねえ、中塚さん」
母の小春はみさきのことを苗字で呼ぶ。
「今からこのことを母親に話さなきゃいけないんだけど、あなたも立会いなさい」
みさきは嫌だった。
「何、その顔……、勉強よ」
さっきのこともあって、みさきは逃げ出したかった。
「医者である以上、もっと辛いことを、これから先何度も言わなきゃいけないのよ」
小春はすべて見透かしていた。
「分かってます……」
みさきは覚悟を決めるしかなかった。
狭い部屋に奈菜を招きいれ、机をはさんで、小春とみさきは座った。
みさきは奈菜の目を見ることができなかった。
小春が沙希の病状を話すと、奈菜はさらに泣き崩れた。
マスカラが黒い涙の筋を強調してた。
奈菜と別れ、二人きりになると、小春はきびしい顔をした。
「取り乱す患者は多いわ、でも慣れなさい」
事務的に処理する母親を見て、やっぱり医者を辞めたいと思った。
慣れることなんてできるんだろうか。
目の前に一生車椅子で過ごさなければいけないかもしれない女の子がいて、そんな不幸を自らの口で告げなければいけない状況に。
逆にそれに慣れる無神経さの方が明らかに異常ではないのか。
きっと医者を続けている限り避けて通れないことなのだろう。
でもそんなに私は強くない。
降りかかる悲劇を真顔でやり過ごすなんて、とても無理。
だから医者なんかなりたくなかった。
みさきは常に自身で選ばざるおえない道を茨の路だと感じてる。
小春はポンと背中を叩いた。
「あなたもきっと思う日が来るわ。医者になって良かったってね」
みさきの気持ちを見透かしてるのだろう。
「そう思えた時、初めて受け入れがたい医者の仕事にも耐えられるようになるのよ」
きっと母だって同じ道を歩んできたのかもしれない。
「救えなかった命よりも救えた命の方が勝るわ。あなたがいなければ死んでしまう人だっているかもしれない。あなただけがその人を救うことだってあるんだから」
在り来たりに聴こえる母は助言。
しかしそれは正しい。
それが母親の優しさなのかもしれない。
みさきが感慨にふける間もなく、その場を立ち去ろうとした小春が振り返りニヤリとした。
「そうだ、あの母親とあの女の子の精神ケアを中塚さんに任せるからね」
鬼だ。
鬼かもしれない。
笑顔でそんなこと言えるなんて、やっぱりどうかしている。
優しいと感じた気持ちは錯覚なのだ。
「おかあさん、私、無理かも……」
みさきにしては珍しく弱音を吐いた。
「あなた、確か、大学で勉強してなかったっけ」
みさきは大学で臨床心理学を専攻していた。
小春がそのことを知ってるのに驚いた。
「外科を避けてるのは、私がいるからでしょ」
「違います」
「冗談よ」
みさきは自分で外科は向いてないと感じていた。
血を見ると気分が悪くなる。
みんな、それを乗り越えて一流になるのだろう。
でもそれはある意味いいわけかもしれない。
本心は常に母親と比べられる道を進む気にはなれなかった。
「そうそう、中塚さん……。あの母親の左手見た?」
「えっ?」
「リストカットの痕あったでしょ?」
みさきはまったく気がついてなかった。
それを見透かすように、ため息をついて、
「まあいいわ。とにかくあの二人、中塚さんにまかせたからね」
そう言って、小春はいなくなった。
それを確認して、みさきは「私、あの母親、苦手なのに」と呟いた。