(騎士になった日)1
* * *
騒動から一週間後。
リオはようやく一時的にではあるけれど、アーデルハイトの屋敷へ戻ることを許可された。無論、監視付きではあるし、武具の所持も認められてはいない。実質は仮釈放といった所だ。軍本部は、“女性兵士の起用”という前例のない事態に、上から下までの大騒ぎとなり、結果、リオの取り調べは未だ続いている。これからもリオは、度々軍本部へ赴かねばならならないだろう。
それでもリオは、久しぶりに目にすることが出来た都の優美な街並みに、心が躍った。
「お帰りなさい、リオ!」
軍の護送馬車を降りたリオに、最初に駆け寄ったのはアーデルハイトだった。
両腕を広げた主君は、戸惑い硬直するリオに構うことなく力いっぱい抱きしめてくる。懐かしい薔薇の香りが、リオを包んだ。
「た、ただいま戻りました」
リオの頬を、アーデルハイトのダークブラウンの髪がくすぐる。と、遅れて歩いてきたキースが苦笑した。
「アデル様。リオが困ってますよ」
そう言われてもアーデルハイトはリオを離そうとはしなかった。それどころか、リオの肩に顔を埋めたまま、さらに強くしがみついてくる。
「戻ってくれて、本当に良かった。リオ」
くぐもったアーデルハイトの声に、リオはようやく困惑を解いた。
「……ご心配を、おかけしました」
キースがやれやれと微笑む。
「とりあえずお帰り。リオ」
「お帰りなさい、リオさん」
さらに遅れてきたオーウェンが正面に並んで、リオも向き直った。
「キース、オーウェンさん、この度はご迷惑をおかけいたしました」
畏まったリオに、キースが「もー」と呆れた声をあげる。
「固い固い。いいから早く入んなって」
「皆さんお待ちかねですよ」
オーウェンが穏やかに笑んで「さ、アデル様も」とリオに抱き着いたままの主君に声をかける。それでも離れないアーデルハイトの背を支えながら、リオは首を傾げた。
「あの、皆さんって?」
と、背後からウィルの声が届く。
「皆は皆だって。早く行こうぜ」
馬車から下ろした荷物をかついだウィルが、急かすようにリオを促す。ウィルは、リオが拘束されている間中ずっとそばについていた。アーデルハイトの強い要請があったらしい。リオが不当な扱いを受けないように見張らせてくれと。過剰加護だとリオは最初断ったけれど、アーデルハイトは頑として首をふらなかった。まったくわがままで優しすぎるお姫様だった。
ウィルが「もう限界」と喚く。
「オレめちゃくちゃ腹減ってんだよ。今すぐなにか食べないと死ぬ」
リオは「はいはい」とアーデルハイトを連れたまま歩き出す。
「大げさなんだから」
「どこが」
「ウィルは最近食べ過ぎだって」
「だってすぐ腹が減るんだよ」
言いながら、情けなさそうに自分の腹を撫でる。
「しかも本部の飯、食えたもんじゃなかったし」
「へえ、そうなの?」
振り返ったキースに、リオは「普通だと思うけど」と答えた。だが、まあ確かに、ランズベルク公爵家の食事になれた舌には、物足りなく感じるのかもしれなかった。
邸内に入ると「お帰りなさいませ」と恭しく家令の男が頭を下げた。アーデルハイトが取り戻した、家臣のひとりである。
「どうぞ奥のホールへ」
家令が先だって歩き、リオ達もその背に続いた。
ウィルが自慢気に言う。
「宴の準備してるんだと。リオもいっぱい食べろよ」
「うん。楽しみ」
答えながらもリオは、頭の隅で考えてしまっていた。
ウィルは内心、どう思っているのだろうと。
ウィルはあの後からずっと、まるで何事もなかったかのように接してくる。
キースとオーウェンは「もう終わったことだろ」「それより、これからのことを考えましょう」と笑って流してくれたけれど。
ウィルとはちゃんと話したい、とリオは思っていた。機会はあるだろうか。
と、ホールの扉が近づいてきた途端、リオの鼻孔をくすぐるものがあった。はっと立ち止まる。
煮込むのに何時間もかかる牛肉のシチューに
焼き立てのパン
それからこれは、魚の香草焼き
――北軍時代、リオが作った料理の数々だ。それも、せがまれてカルロに教えてあげたものばかり。離れている間に、彼はこんなにも上達していたのか。
「さあ、どうぞ」
家令の合図に、待機していたふたりの給仕がホールの扉を開く。
視線が、一斉にリオ達に注がれた。
「リオ!」
「お帰り」
拍手と歓声がリオ達をとりまいた。
本当に、皆は皆、だった。
ランズベルク家の広いダンスホールは、その天井高くまで色とりどりの生花やリボンで飾り付けられていた。楽隊が軽快な音を奏で、リオを迎える。
「リオ、大丈夫だった?」
「先輩。ご無事そうで、良かったです」
「リオ様。お怪我は平気ですか」
北軍仲間や後輩や、顔見知りのメイド――皆に詰め寄られ、リオは面々を見渡す。
「ただいま……あ、あの、待っててくれて、ありがとう。それと、本当に、ごめんなさい」
リオはそのまま、深く深く頭を下げた。
温かな眼差しとこの会場を見れば、彼らが怒っていないことなど明白だった。謝罪など求められていないことも。それでもリオはやっぱり謝らずにはいられなかった。この優しい人たちに、頭を下げずにはいられなかった。感謝と敬意が溢れて、止まない。
「もう、顔あげてよ、リオ」
テイルに言われて、リオはそっと身体を起こす。テイルとは背丈も同じくらいだったから、目線はすぐにかちあった。
「お帰り。それと、おめでとう」
柔らかくはにかまれ、リオは思い出していた。北軍に入って最初に知り合ったのは、テイルだったことを。彼にも色々なことを教えてもらった。
「……テイル、あの」
ありがとう、と言おうとして、言葉が詰まる。テイルも、他の皆も、こんな遠くまで来てくれて、リオを待っていてくれた。自分たちも処罰を受ける危険があったにも関わらず。
そう思うと、他の北軍仲間や、リヒルク教官や、将来有望なカルロまで駆けつけてくれたことが、本当に本当に嬉しくて、申し訳がなくて、でもやっぱり嬉しくてたまらなかった。
ありがとう。
言わなくちゃ、とリオは唇を動かす。けれど言葉が続かない。喉の奥がきゅっと締まり、両目が熱く潤っていく。
そんなリオを見かねて、最初に泣き出したのは、ジエンだった。
テイルの背後で、リオを見つめていたジエンが、たまらないと言ったように眉間にしわを寄せ、唇をふにゃりと波うたせ、両目をつぶる。
「リオ、リオ……っほん……と、良かったなあ!オレたち、ほんとに心配してたんだぞ……っ!」
右手の甲を両目に押し付けながら、ジエンが歯を食いしばる。
それでもう、リオも自分を止めることが出来なくなった。
「うん……っ」
両手で顔を覆い、しゃくりをあげる。
「ごめん……っごめんね……っ!! ありが、と……っ」
堰を切ったように溢れだした涙は、止まることなく零れ続けた。
そんなリオに、テイルもとうとう涙をごぼす。
「リオ、泣くなんてずるいよ。僕……がま、んしてたのに」
「うん……っでも……っ止まらないの……っごめん」
リオは叫ぶようにごめんとありがとうを繰り返した。
たぶん今日は、一生で一番素敵な一日に違いなかった。
*
泣きじゃくるリオを、少し離れた場所からジャスティンは見つめていた。
まったく、始終肝を冷やさせてくれる少女だった。
見守るのもこれが最後かと思うと、ほっとしたような、もの悲しいような気分になる。いつの間にか保護者の気分でいたらしい。
「行かなくていいのか」
ワイングラスを両手に持ったディートハルトに小突かれ、ジャスティンは振り返る。
「やあ、ディート」
ジャスティンはワインを受け取ると、その場で小さく乾杯した。ディートハルトもジャスティンに並んで壁に背をもたせかける。
そうして一緒に、人だかりに埋もれるリオを見つめた。
「良かったな。めでたしって奴で」
「……ああ。そうだね」
本当に良かった。
裁判の結果に一番安堵したのは、きっとジャスティンだった。下手をしたら、リオ本人よりもほっとしていたかもしれない。
リオの正体が明るみに出たと知った瞬間からずっと、ジャスティンは生きた心地がしなかった。
すぐにでも処刑を言い渡されてもおかしくはなく、だがそこはランズベルク家の名が効力を発揮し、最悪の事態は免れた。
結果として裁判に持ち込まれ、リオは赦され、ジャスティンも謹慎のみで済んだ。
ほとんど、奇跡に近い。
「強運だよな」
いいなあ、とジャスティンは呟いて、ワインを飲み干す。
さすがは公爵家が用意した代物なだけあって、今まで飲んだどんな酒よりも美味かった。リオには主君選びの運もあるらしい。
「おい、ジャスティン」
と、低い声が隣から飛ぶ。酒に酔ったリヒルクだった。面倒なのがきた、とジャスティンは逃げようとしたが、一足遅かった。腕を掴まれ、顔を寄せられる。
「オレはな、まだお前のこと許してないんだぞ。ずーっとリオのこと黙ってたなんてよ」
「リヒルクさん、もういいじゃないですか」
ディートハルトが止めに入る。ジャスティンはリヒルクから腕を奪い返した。
「そうですよ。殴られたところ、まだ痛いんですから」
ジャスティンの頬の腫れは引いていたものの、裁判が終わったあの日、リヒルクから殴られた衝撃は忘れていない。
リヒルクはがなる。
「うるさい。話してくれたらオレだって協力してやれたのによ。ひとりでカッコつけやがって。馬鹿が」
リヒルクが呟いて、そっぽを向く。
ジャスティンはこそばゆくなって、ごまかすように笑った。
「別に、リヒルク教官を信用してなかったわけじゃないですよ、ただ」
ジャスティンは続ける。
「ここまで長引くとは思わなかったから」
自分一人の胸に留めておくつもりだった。
「理想を言えば、僕は早くリオに軍を去って欲しかったんです。出来るだけ静かに、穏やかにね。普通の道を歩んで欲しかった」
言いながら、努力家と問題児の愛弟子たちに目を向ける。と、顔をあげたリオと、目があった。緊張したように見開かれる。
ジャスティンはそんなリオに、にこりと笑んだ。
良かったね、リオ。
リオの行く末を思うと、手放しに喜ぶことは出来ない。
軍は縦社会で、弱い者を決して許しはしない。
女のリオがこれから軍で生きていくとすれば、それはきっと茨の道だ。
女に負けたと知った兵士たちのすべてが、リオを温かく迎えることはないだろう。
リオだってそれは承知しているはずだった。
それでも、リオにはこれだけの味方がいて、強い主君までいる。
いざとなったら自分だって多少の力にはなれるはずだった。
きっと大丈夫。
北軍兵士であるジャスティンたちは、明日にはここを去らねばならない。
ジャスティンは歩み寄って来るリオを見つめながら、ゆっくりと両手を広げた。
別れの抱擁をするために。
 




