(宿屋)4
ベルは激怒したまま、リオの部屋を出て行った。
残されたリオは呆然と、今しがた耳にした言葉を反芻する。
トマスが、出て行った?
まさか。
トマスは軍に興味なんてない。ジャスティンの機嫌を取るためにあるフリをしていただけだ。
それが、まさか。
ジャスティンの口車に乗せられた、という事なんだろうか。
リオは細い廊下に出る。隣に面したトマスの部屋の扉が、ギイ、と音を立てて開いていた。ベルが開け放したままなのだろう。
中は、もぬけの殻だった。
モーリス宿屋のトマスが、軍人に連れられて出て行った。
その話題は退屈で狭い村にたったの半日に広まっていった。
ベルは恥をかかされたと激昂し、自然、怒りの矛先は残ったリオへと向けられた。
「お前のせいだよ! お前が見張っていなかったから……! トマスに軍に入ろうなんて知恵があるわけない! あの男が言いくるめたんだろうよ! その横でお前はぐうぐう眠っていたってわけだ! 本当に役立たずだね、お前は!」
リオはひたすら頭を下げ、謝罪し、嵐が通り過ぎるのを祈った。
飛んでくる花瓶が当たりませんように。
目つきが気に食わないとぶたれませんように。
水を飲んで空腹を紛らわし、叩かれた頬が痛くても声のひとつもあげずに耐えた。
トマスの分の仕事も、リオが負担するようになった。
しかし、手分けしてもいっぱいだったそれを、リオひとりで終わらせることなど当然出来るはずもなく、それがまたベルの怒りに火をつける事態となった。
──トマスがいなくなって七日目の夜。
「リオ……! リオはどこだい!」
今度はなんだろう。
リオは何度目とも知れぬ呼びつけに答えて、食堂へと向かった。
賑やかな男達の声が聞こえる。仕事を終えた漁師たちだろう。宿屋の食堂は飲み場にちょうどいいらしく、時々そうやって彼らは小さな宴会を開いていた。
おそるおそる、リオはその中に顔を出した。
酔っぱらった大人達は分別もつかないし、それでなくとも大声で怒鳴るから苦手だった。
「お呼びでしょうか、奥様」
と、リオの顔を見るなり、赤ら顔のベルは片手を伸ばしてきた。彼女も酔いが回っているようだった。
「遅いよ、この愚図……!」
強く髪を引っ張られ、そのまま床に張り倒される。その上から、脇腹を強く踏みつぶされた。
「…っ…!」
激痛にリオは眉根を寄せる。痛みに呼吸が止まりそうだ。
それでも呂律の怪しい罵倒は続いている。リオはきつく目をつぶって、「ごめんなさい」と頭を下げる。
早く早く、早く終わって。
ベルは震えながら拳を握りしめていた。
「シーツを全室分洗っておけと言ったのに、半分も出来ていないじゃないか!」
「ごめんなさい……でも、雨が」
「雨が降る前にやっておけばよかっただろう! 馬鹿だね!」
飛んできた酒瓶が顔のすぐそばで割れた。破片が頬をかすめる。
「おいおい、ベル。そこまでしなくとも」
漁師のひとりが、しゃっくりをしながら止めに入る。それをベルがぎろりと睨んだ。
「ほっといとくれ! それともあんたがこの子を世話するってのかい」
ベルの剣幕にたじろぎながらも、村の男は諭すように言った。
「ベルよお、トマスの事で腹が立つのは分かるが、いくらなんでもやりすぎじゃないかい。しまいにゃ死んじまうぞ」
「おやまあお優しい事! 子供も持っていないくせにご立派な説教だ。こんなの躾のうちだよ。子供なんてね、甘やかしたってろくな人間になりゃしないんだ。これくらいでちょうどいいんだよ」
ベルはふんと鼻を鳴らす。独り身のその漁師はむっとして背を向けた。
「わかったわかった。勝手にしろ」
周囲の漁師が「また負けたのか」と手を叩いて笑う。勝ち誇ったようにベルは酒を呷った。そして何事もなかったかのように宴は再開される。
リオは、脇腹をかばいながらゆっくりと身を起こした。
かわいそうだな、と、同情はしても、助けようか、と、リオに手を差し伸べる人間はいない。
村の権力者であるベルと争ってまでリオを助けるメリットなど誰にもないからだ。
人は自分の利益にならない事には消極的なんだろう。
あのジャスティンという軍人だってそうだ。
勧誘(仕事)のためにトマスには積極的に話しかけていたけれど、リオにはついでのように言葉をかけただけだった。
──私も男の子だったら、連れて行ってもらえたのかな
無駄だと、ありもしない仮想を振り払う気力もなかった。
リオの耳に現実世界の悪魔の声がふりかかる。
「まあ、なんのかんの言ってもね、リオを手放す気は私にもないよ」
ふと見上げると、ベルのあのぼってりとした唇が半月型を描いていた。
「後四、五年したらもっと稼がせて貰うからねえ」
「……?」
ベルの言葉の意味が解らない。大人になったら、もっときつい仕事をさせられるのだろうか。これ以上に?
「そりゃいい。リオなら村一番の稼ぎ頭になるかもしれねえなあ」
モーリス氏も、漁師の宴会に混じってげらげらと笑う。
「母親に似て、器量だけは良くてよかったなぁ! ついでに愛嬌もあれば言うことなしなんだが」
「それは父親に似ちまったね」
ベルは咥えていた煙草を吸いこみ、吐き出した。
「まぁ、ベッドの中じゃ愛嬌なんざなくてもいいからね」
「違いねえ」
どっと笑った男達の視線が気持ち悪かった。リオは、緊張に身をこわばらせる。
「奥様、私は」
「なんだい怖気づいたのかい? 大丈夫だよ、慣れりゃあ大したことはないさ」
甲高い声で笑うベルを、こんなに怖いと思ったことはない。
「なんなら今から教えてやろうか」
ベルが後ろに身を引こうとするリオの腕を掴んだ。
酒の臭いが鼻をつき、思わず目を細めてしまう。
それが、いけなかった。
「なんだい、その眼は!」
気が付けば、強く頬をはたかれていた。
頭がぐらぐらして、視界が回る。
「お前といい、お前の母親といい、人を馬鹿にするのもいい加減にしな! 人の男を取りやがって……! この、この……!」
そんなの、私のせいじゃない。
胸倉を掴まれ、何度も何度も頭を揺さぶられる。
私のせいじゃない。
薄れゆく意識の中で、リオは強く思った。
目を開けると食堂で倒れていた。格子の隙間から見えた夜空には星々を従えた月が、ぽっかりと浮かんでいる。
食堂は、宴の名残を残していた。あちらこちらに残飯や酒瓶が転がっている。明日、朝一番の仕事は片付けになりそうだった。
「……痛」
立ち上がろうとすると、脇腹がズキリと痛んだ。
そうだ。ベルに踏まれたんだと思い出して、リオはそこに力をいれないようにしながらそうっと身体を起こした。
雑魚寝をしている漁師たちの中に、モーリス夫妻の姿はない。二階の寝室で眠っているのだろう。
リオは暗がりの中、力なく座り込んだ。
そうして辺りを見回す。
漁師たちのいびきが不快だった。
部屋に戻ろう。
思って、立ち上がりかけた瞬間、一瞬の希望を思い立つ。
今なら。逃げ出せるのではないだろうか?
トマスが出て行った日から、リオの部屋には鍵がつけられるようになった。トマスの二の舞は御免だと。ベルから閉じ込められていたのだ。
でも、今なら。
このまま外へ出られる。
暗い未来から、逃げられる。
ドキドキした。高揚していた。
自由だ。
村の外なんて出たこともない。どうなるかはわからない。
でも、ここにいるよりはずっといいはず。
どうせ誰も助けてくれやしない。だったら自分のことは自分で助けてあげよう。
リオは、勇気を奮い起こして上階へあがる。
階段のきしむ音に、脂汗が出た。ゆっくり、静かに、けれど急いで。
ようやく上がった二階の廊下を渡り、自分の部屋でなく、トマスの部屋に向かう。
ベルの怒りを受けたその部屋の床には、トマスの私物が散らばっていた。リオは、片手を伸ばして適当なズボンとシャツを手に取る。
再び階下に降りると、急いでその服に着替えた。
それから、素早く調理場を漁った。
棚に隠されていた小銭と、干し肉、乾燥させたパンにチーズ。
それらを適当に見繕って、布の袋に詰め込む。
あとは、鋏。
自由になるまで、あと少し。
その日リオは、暗い夜道の中、四年過ごした宿屋を抜け出したのだった。