(宿屋)3
料理をすべて出し終えても、ジャスティンとベルの談笑は続いていた。モーリス氏も加わって、今は政治の話題で盛り上がっている。
「ほんと、参りますよ」
厨房でひとり食器を洗い続けるリオの耳に、ジャスティンの軍人らしからぬ情けない声が届いた。
「軍って縦社会なんですよね。上が決めた事は絶対ですし、意見なんて聞いて貰えやしませんし」
「まあ。でも、隊長さんでいらっしゃるんでしょ?」
「一応ですけどね」
ジャスティンの声は笑いを含んでいて、謙遜しているようにも、自身を蔑んでいるようにも聞こえた。
隊長と言えば、どのくらいの地位なんだろう。
自分たち庶民が思っているよりも、軍の中では大した役職ではないのかもしれなかった。なにせこんな場所に派遣されているくらいなのだから。
そこへ、トマスが二階から降りてきた。
客室の準備が出来たと告げると、ジャスティンは「ありがとう」と笑いかける。そうして、「君もこっちへおいでよ」と手招きした。
「軍に興味があるんだろう? 話そうよ」
ベルが一瞬、嫌な顔をする。軍人という上客の前に、みすぼらしいトマスを出したくはないらしい。それで、トマスは立ち止まった。
「あ、いや、僕は」
「おいでよ。君のことを知りたいんだ」
ジャスティンの誘いを遮ろうと、ベルが割って入った。
「ごめんなさいね、隊長さん。トマスは明日も早くから仕事があるの。もう休ませなくちゃ」
「はは、そんなに話し込みませんよ。僕も明日には帰隊しなきゃいけませんから。ね、トマス君。こんな機会滅多にないし。ベルさんにも聞いて貰おう」
「でも」
「軍に入れるかもしれないんだよ」
え。
トマスが軍に?
リオは手を止め、思わず顔をあげていた。
ここから出ていくのだろうか。
「軍にって……あの、なんのお話しですの?」
ベルの声が一段下がる。
その別人のような声にも、ジャスティンは朗らかな態度を崩すことはなかった。
「ええ。実は今軍部で新しい騎士団を設立しようとしていまして。その為に新しい兵士を募集しているんですよ」
「兵士を?」
「はい」
ベルは乾いた笑いを漏らす。
「まさか、それにトマスをいれようってんじゃありませんよね」
「そのまさかです。トマス君は軍に憧れてるって話してくれましたし、いい子だし。ね、悪い話ではないでしょう」
にっこりと笑うジャスティンは、トマスに目を向ける。ひょろりとした小柄な身体を見て「まあ、鍛えなきゃいけないとは思うけどね」と付け足した。
ベルは馬鹿らしい、と首を振る。
「隊長さんったら。ご冗談がすぎますわ。無理ですわよ。この子、すぐにサボりますし、お喋りですし」
「脅すわけではありませんが、軍は規則の厳しい場所です。破れば勿論罰則が待っています。トマス君が怠惰だというのなら、むしろ矯正にはうってつけですよ」
「で、でも、そんな……危ないところ」
「心配されるお気持ちはわかります。でも安心してください。まずは軍の学校で訓練を積んでもらいますから。どの道そこで素質がなければ振り落とされますし、まあ間違っても今すぐ戦に駆り出されるなんてことはありえませんよ」
そう言って、ジャスティンはトマスに微笑みかける。
確かに近年、少なくともリオが知っている限りは、戦など聞いたこともなかった。
軍の仕事と言えば、国境線の監視や貴族の護衛、あとは治安の維持などが主で、今では実践経験のある者の方が珍しいと、前に来た客が話していた。
だからこそ、不思議だった。
軍の偉い人たちは、どうして今さら新しい騎士団なんてものを作ろうと思ったんだろう。
それから軍の学校というのも初耳だ。
普通、庶民の子供はまともな教育など受けさせて貰えない。村にひとり教師がいればいい方で、現実にはこの村にも教師などなかった。
リオもトマスも仕事の中で自力で字を覚え、算術を身に着けたのだ。
けれど、その軍の学校とやらに行けば、兵隊としてだけでなく、教養や知識も教えてくれるのだろうか。羨ましい。
自分には縁のない話だけれど。
リオは暗い厨房から出ていこうと裏口のドアに手をかけた。まだ鍋洗いが残っているし、ジャスティンが欲しているのは男児だ。リオじゃない。
「どう、トマス君?」
問いかけられたトマスは、その場に突っ立ったまま擦り切れたシャツの裾を掴でいた。なんて答えるのだろうと少し気になって、リオは立ち止まる。
「僕は」
トマスが口を開いた途端、ベルの視線が鋭くなった。しかしすぐに柔らかく細められる。
「トマス、出ていくの?」
淋しそうに言ったベルの本音を、トマスも、リオも察していた。
トマスにも、リオ同様に借金がある。出ていくなんて、許して貰えるわけがなかった。トマスはゆっくりと言った。
「僕は、行けません」
「……そっか」
ジャスティンが肩の力を抜く。
「残念だよ。一緒に働けるかなって思ってたんだけど。まあ、強制じゃないからね」
「ごめんなさい。せっかく誘ってくれたのに」
「いいんだよ、無理しないで」
そう言いながらも、ジャスティンの顔は晴れない。
「あーあ。収穫なしか。またどやされるな」
「ご協力できずに申しわけありません。この村にいる子供と言えば、あとは酒屋のエリックか、うちのリオくらいですけれど、エリックは跡取りですし、リオも女ではねえ」
勝ち誇ったようにベルが笑った。
ジャスティンは顔をあげると、いいえ、と微笑み返す。
「仕方ありませんよ。エリック君にも普通に断られましたし」
覇気のない声色だった。テーブルに両手をついて、重たそうに腰をあげる。
「はあ、もう寝よう……トマス君、部屋に案内してもらえるかな」
「はい」
トマスは背筋を伸ばす。
ジャスティンはがっくりしたまま、二階へと向かった。と、暗い階段の途中で振り返る。
「ベルさんモーリスさん。と、そこのお嬢ちゃんも。ご馳走様でした。おやすみなさい」
ジャスティンに手を振られ、リオは小さく頭を下げた。
自分なんて、いないものと思われていたと、思っていた。
夜明け前、鍋をようやく洗い終えたトマスは、ぽつりと呟いた。
「ねえリオ。軍ってどんなところなのかな」
「さあ」
リオは鍋を乾かすために、裏口の壁に立てかけた。
空は薄紫に染まり始めている。もうすぐ太陽が昇ってしまう。零れたあくびをかみ殺すと、涙が出そうになった。
「やっぱり、厳しいのかな」
そんなの知らない。
リオは、適当に相槌を打つ。
「厳しいんじゃない。あの人も厳しいって言ってたし」
「ベルより?」
「軍にあの人より意地悪な人がいたらね」
「……いるかなあ」
「少なくともあの軍人さんは優しそうだったね」
「ジャスティンさん、朝ごはん食べたらすぐに出ていくんだって」
「忙しいんだね」
トマスは、ぼうっと夜空を見上げていた。
「……トマス?」
声をかけたリオに、トマスははっとした。すぐに「なんでもない」と笑って歩き出す。リオも休もうとその後に続いた。あと少ししか眠れないけれど、その少しだけでも寝ていたかった。
リオは、トマスにお休み、と言って狭い物置のような自室に入る。簡素なベッドに入り込んで目を閉じた。色々と気になることはあったけれど、体力の限界の方が勝っていた。眠りは、すぐにやってきた。
「……ッリオ! リオ! 起きな!」
シーツをはぐられ、リオは蹴とばされるようにしてベッドから落ちた。ベルの金きり声が部屋中に響く。
「トマスは何処だい!」
「トマス……?」
リオは「知りません」と首を振った。
激昂しているベルの耳には届かないのか、部屋中をひっくり返される。といっても部屋には何もないのだが。シーツを投げられ、繋ぎ合わせた布のカーテンも下ろされる。朝日が強く部屋を照らした。眩しい。
ベルは、頭をかき乱した。
「くそ……っあの男……!」
口汚い言葉を吐き出しながら、ベルが地団駄を踏む。
「トマスを連れて行きやがった……!」