(宿屋)1
「君もたいがい運が悪いよな」
やってられないとばかりに、トマスがブラシを放り投げた。
そうやってサボるから怒られるのに。
腹の中に苛立ちを隠したリオは「そうかな」とだけ呟く。昼からずっと働きづめだったのに、夕飯も抜かれていた。トマスと無駄な言い合いをする気力なんてあるはずもない。
ブラシを握った手を上下に大きく動かす。固い銅の鍋をガシガシと何度も擦る。小一時間前、トマスが「ちょっと休憩」と仰向けになってからも、リオが手を休めることはなかった。
小さな村の、宿屋の裏手。
リオとトマスのふたりは、月明かりだけを頼りに焦げ付いた鍋類を洗っていた。
陽が沈む前に取り掛かったというのに、鍋はまだあと三つも残っていた。トマスが真面目に取り組んでくれていたら、今頃残りは一つだったかもしれない。視界の端に映るトマスをちらと見て、リオはそんな考えを振り払った。「かもしれない」なんて考えるだけ無意味だと思った。実際は、今目の前にある現実をどうにかするしかないのだから。
春の夜はまだ寒い。
知らずかじかんできた手が、もう止めてと痛みを訴えてくる。体力は限界だった。けれど止めるわけにはいかない。止めればもっと残酷な痛みが待ち受けているからだ。
──今すぐ必要というわけでもない鍋の山を、宿屋の女主人であるベルは「今夜中」と言って投げつけてきた。
『鏡みたいにピカピカにするんだよ。終わるまで家にはあげないからね』
それは、いつもの癇癪と呼ぶには特に酷いものだった。ここずっと売り上げが芳しくないせいだろう。今夜なんて客のひとりもいないのだ。リオは嵐が通り過ぎるのを待つみたいにして、言いつけられた仕事を黙々とこなした。
寝転がったままのトマスが、星空を見上げる。
「今日は僕一人が怒鳴られてたんだから、顔出さなきゃよかったのに」
「呼ばれたから」
「いないフリをすればよかったじゃないか」
「それで、後でぶたれた方がマシだって言いたいの?」
「一瞬で済むよ」
「こないだぶたれた時の傷も治ってないし、唇だって切れたままなんだけど」
「口の怪我にはハチミツが効くって聞いた、今度くすねようよ。ねえ、リオ」
リオは息をついて、手を止めた。いい加減うるさかった。手伝わないのなら、せめて黙っていてくれないだろうか。
トマスはリオよりも一つ年上のはずなのだが、言動が幼稚で落ち着きがない。でも、愛想はいいから宿客からはよく気に入られている。
反してリオは、子供のくせに可愛げがない、とよく小突かれていた。雇い主のベルはトマスのこともリオのことも“平等に”嫌悪し、こき使うけれど。
「ねえ、それいつ終わるんだよ。僕もう眠いよ」
「……」
トマスを無視して、リオは井戸から汲んだ水を銅鍋にかけた。暗すぎて、どれ程汚れが落ちているかわからない。灯りがあればいいのだが、機嫌の悪いベルが油を消費するランプを貸してくれるとは思えなかった。
だから、仕方なくリオはトマスに声をかけた。
「トマス、マッチ持ってない?」
トマスは起き上がって、ポケットをごそごそとあさった。そうしてズボンの先から自分の人差し指を突き出して見せる。
「ダメだ。穴が空いちゃってる」
「……ああ、そう」
リオは鍋を前に腕を組んだ。ずっとしゃがんでいたせいで背中がぎしりと悲鳴をあげる。一度に大人二十人分ものスープを作ることが出来る鍋類は深くて大きい。それがあと三つも転がっていた。
どうしようと途方に暮れた。
その時だった。
「明かりが欲しいのかい?」
軽やかなその声は、高いところから降ってきた。
とたん、辺りがオレンジ色の光でほわりと照らされる。リオもトマスも、はっとそのランプを持っている男性を見上げた。
「こんばんは」
暗がりの中で愛想よく笑った男は、背を屈めてリオの手元を照らしてくれた。ぼんやりと見えた鍋は、きちんと洗えている。よかった、と安堵するのと同時に、誰だろうと疑問が浮かぶ。
「あの」
リオの質問を察したかのように、男性は口を開いた。
「宿屋があるって聞いてきたんだけど、表が閉まっていてね。今夜は休みかな?」
「い、いえ、開いてます」
「本当。ああ、よかった。僕も馬もヘトヘトだったんだ。馬は近くの木に繋がせてもらってるんだけど」
そう言う割に、男は元気そうだった。声も足取りもしっかりしているし、顔色も悪くは見えない。それに、この村ではあまり見かけない立派な服装も気になった。革の長靴に厚手のロングコート、少しだけ見えた首元なんて堅そうな詰襟だ。村長だってこんな服は持っていない。
男が喋りながら首を傾けると、クセのある金髪の隙間で耳飾りが光った──トマスが、勢いよく立ち上がる。
「お、お客さん、もしかして……軍の人、ですか」
男は片手を腰に当てたまま、微笑みながら肯定した。
「そうだよ。北地で働いてるんだ」
トマスが興奮して息を吸い込む。
トマスの考えが手に取るようにわかって、リオはあきれ返った。軍人と言えば高給取りで有名だ。おおかた上手く取り入って小遣いでも貰おうと企んでいるのだろう。少し裕福な客が来たらいつもそうだった。
「……っやっぱり! いらっしゃいませ。すぐに案内しますね」
「ああ、頼むよ」
「どうぞ、こっちです」
客人に媚びへつらうトマスを冷めた目で見送って、リオは鍋を隅に寄せた。
軍人なんて初めて見た
そんな感動よりも仕事が増えたことが億劫だった。
どうせ今からベルに客人をもてなせと呼び出されるに決まっている。まだ鍋だって洗い終わっていないのに。
と、鍋を運ぼうとしたリオの手元が再び明るく照らされる。
「え」
あっと思う間もなく、両手で持っていた鍋をかっさらわれた。
「手伝うよ」
男はリオがよろめいてしまう重量の鍋を片手で軽々と持ち上げていた。
「仕事を中断させて悪かったね、お嬢さん」
「い、いえ」
「どこに運べばいいの?」
「あ」
お客さんに手伝わせたなんてベルに知られたら殺される。トマスもそう思ったに違いない。青ざめながら、リオも、そうしてトマスも「大丈夫です」と男から鍋を奪い返した。
トマスはひときわ大きな声をあげた。
「お気遣いなく! 慣れてますから」
「そうかい? こんな遅くまで大変だね」
男は、じゃあ明かりだけでも、とランプを地面に置いた。有り難いけれど、やはりベルの反応が怖い。早く返そうと、リオは鍋を裏口から急いで中に入れる。
トマスは客人を表へ誘導した。
「でも、珍しいですね。軍の方がこんな場所にいらっしゃるなんて」
「ああ。ちょっと仕事でね」
「仕事、ですか……?」
男性の返答に、トマスは引っ掛かりを覚えたようだった。
リオも内心で首を傾げる。
ここは小さく辺鄙な漁村だ。街道に面しているわけでもなく、これといって観光する場所もない。軍人がわざわざ立ち寄るような場所には思えなかった。
けれど男は、満足そうに微笑む。
「収穫が全然なくて困ってたんだけど。ちょうどよかった。実はね、君みたいな男の子を探してたんだよ」
「僕、みたいなですか?」
男は、柔らかな笑みを浮かべていた。
「ああ。新しい騎士団を作るつもりなんだ。よかったら入ってみないかい?」




