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先生と僕は…

作者: ルルのまま
掲載日:2018/05/24

仕事が休みの「僕」は忘れ物をとりに仕事場へ行った後、不意にどうしても知らない町に行ってみたい気持ちになった。

いつもとは違う鉄道の違う電車に乗り込んだ「僕」は、途中気になったおかしな名前の駅で下車して…。

そこから始まるお話です。

どうぞよろしくお願いします。

折角の休日、仕事場に忘れ物を取りに行った僕は、帰りの電車に揺られながらふと無性にどこか知らない町に行きたい衝動に駆られた。

普段の乗り継ぐ駅で降りると、僕はそのまま家へ向かう電車にはあえて乗らず、いつもとは違うホームどころか、そもそもの鉄道が違う電車に乗り込んだ。

鉄道会社が違うということは、乗り込む電車の外装は見て知ってはいたが内装もこんなに違うものかと、僕は空いている座席に腰掛けるとすぐさまキョロキョロと辺りを見回した。

こんな気持ちは小学生の頃のバス遠足のようなワクワク感があった。

ある程度電車の中を知ってしまうと、今度は窓から外を眺めたくてボックス席に移動した。

通路を挟んだ反対側のボックス席では、若い夫婦とまだオムツが取れたばかりの様な小さな子が楽しそうにジュースやおやつを食べ始めていた。

(いいなぁ、美味しそうだなぁ。)

そこまで考えると不意に(あ、そっか、電車なんだものなぁ…別に運転する訳じゃないんだもの…あ、じゃあ…はぁ…ビールでも買えばよかったよ。)と心底思った。

急に思い立ったとはいえ、電車の旅だ。

お楽しみで弁当や、酒やそのつまみなど用意してから乗り込んでもという発想がまるでなかった自分の思考の狭さを少し愁いた。

今日は休日じゃないか。

思いつきとはいえ、それぐらいの自分へのご褒美を用意し忘れるとは。

僕は自分の融通の無さというのか、発想の乏しさを少し責めた。

(あ~あ。)

楽しそうな家族をジロジロいつまでも見つめる訳にもいかないので、僕は窓の外に目を移した。

見知らぬ町がしばらく続くと、徐々に建物が少なくなり始め、代わりに田畑が大きな顔をしている。

(田舎…かぁ…。)

僕が見慣れない長閑な景色にうっとりしていたら、いきなり轟音と共に目の前が真っ暗になった。

トンネルに入った模様。

(あっ!)

いつもの電車はトンネルに入ることはない。

だから、僕は入ってみて、やっとその存在を思い出した。

ほんの僅かな時間なのだろうが、慣れないトンネルの中が僕にはなんだかやけに長く感じた。

「…え~…次はぁ~…」

停車する駅が近づく度に聞こえてくる癖の強い声に慣れてきていた僕は、まもなく停車するのに徐々にのろくなった電車の窓から見えた駅の名前に引っ掛かり慌てて降りてみた。

(何?何?…お・お・な・み…9?9ってどうこと?)

それが降りた理由。

電車から降りてゆっくりと真っ白い四角い看板の前に着くと、やはり黒い字で「大波9」と書かれていた。

(え?何?この駅名…珍名?とか?)

僕以外誰も降りなかったホームを首を傾げながら歩いた。

パッと見、女子が好きそうな可愛らしい外観のこじんまりした小さな駅に入ると、角にある売店らしき場所から「あら…。」とかじりかけの大きなせんべいを傍にあった売り物の箱の上に置いて、熊のぬいぐるみの様な体型の中年女性が笑顔でこちらに駆けて来た。

「あら、こんにちは!」

「あ、こ、こんにちは…あの、切符の…。」

「ああ、はいはい…ちょっと待ってね。」

手馴れた様子で足りない切符代の清算をしてくれた女性は、「観光?」と僕に聞いてきた。

観光と言えば、まあ観光の部類に入るのかもしれないと思ったので、僕はとり合えず「ああ…はい。」なんてたった今会ったばかりの人に適当な返事をしてしまった。

「そう…どうぞ、ごゆっくり見てってねぇ。」

女性の笑顔に僕は少しだけ申し訳ない様な気持ちになった。

だから、という訳ではないのだが、電車の家族が美味しそうにしていたこととそろそろお昼になるといった時間だったので、僕は女性に「この近くで何かお昼ご飯を食べられる場所って、教えていただけませんか?」と尋ねた。

女性は引き続きの笑顔で「ああ、駅前に丁度いい喫茶店があるけども…出たらすぐ前だから…。」と出入り口を指差しながら教えてくれた。

僕としては、「そこは何か名物とか食べられるんですか?」と更に続けたかったのだが、もう自分の出番は終わったとばかりに食べかけのせんべいが置いてある元の場所に行きかけていたので呼び止めず、ただ「ありがとうございました。」と頭を下げて駅を出た。


駅前は丸くロータリーになっているものの、お客を待つタクシーなどは1台しか停まっていなかった。

駅舎から僕が出て来たのにも気づかないタクシー運転手は、車内でスポーツ新聞を広げて中の記事を夢中で読んでいた。

(あれ、昨日、なんかそんなに夢中になるようなことあったっけか?野球好きなのかなぁ?あの人。それとも中のエロい記事が好きとか?もしかして意外と占いが気になる人とか?ははははは。)

僕は運転手のことをあれこれ勝手に詮索した。

ポツンと古いタイプの丸い頭のバス停があるだけ。

後は駅舎の傍に自転車が20台ほど停めてあった。

ロータリーになっている真ん中には、大きな花時計。

僕は大きく深呼吸を1つすると、真上の空を見た。

(こんな日に仕事なんかやってられないよなぁ…。)

平日に休みがある自分の仕事を、今は良かったと思えた。

(さっ!)

僕はさっき教えてもらったばかりの駅前の喫茶店に向かった。

古めかしい洋風のそこの外には、長く使っているらしいアーティスティックな電子看板が置いてあった。

…ハイパー喫茶ダイナミック…

(えっ?何?この名前?ハイパーって?何?どういうこと?)

つっこみどころ満載の喫茶店のドアを押し開けると、案の定カランコロンとよく喫茶店にあるドアベルと同じ音色が響いた。

「っらっしゃいあっせぇ~!お一人様ですかぁ?」

コクンと頷くと「お好きなお席にどうぞぉ~!」と、カウンターの中から案内された。

僕は外が見える窓際の席を選んだ。

ワインレッドのビロードで覆われている椅子はとても座り心地が良く、座面を手で撫でるとその動きの通り毛足の方向が変わり色が薄くなった様に見えた。

一見すると大理石風の柄の角が丸い長方形のテーブルの上には、喫茶店の名前が印刷された紙ナプキンや爪楊枝入れ、後は「ソース」や「しょうゆ」と書かれたシールが貼ってある小さな調味料が並んでいる。

店内に流れているのもお店の雰囲気にぴったりの懐かしの歌謡曲。

(へぇ~。)

僕は心地よいレトロ空間に思わず笑みがこぼれた。

「っらっしゃいあっせぇ~…ご注文が決まりましたら、お声をおかけくださいねぇ~。」

薄いグレーのサテンの柄シャツに口ひげのこの店のマスターの口調の、最後の部分がいくらかオネエがかっているのが気になった。

渡されたメニュー表を見ながら、僕はコップの冷たい水をごくごくと飲み干した。

(はぁーっ。)

出された水がやけに美味しいと感じた。

メニューは昔ながらの喫茶店によくあるものばかりだったが、僕はそれでも全然かまわなかった。

電車の中の家族があまりにも美味しそうにおやつやジュースを口に運んでいたのがチラチラと目の端っこから入ってきていたし、何よりそちらから漂ってくる甘いおやつのいい匂いが何故か堪らなく我慢できないほどだった為、普段よりも早い時間だったが僕の腹は減りすぎて、口の中は唾液でいっぱいだったのだ。

正直どれも食べたくて迷った。

手でつまめるサンドイッチ系も、味噌汁や漬物、サラダに小さいアイスクリームがついた定食系も、そして、ミートソースを始めとするパスタ系。

僕は食べたいものが決まるまで、大体5分くらい悩んだ。

結局、選んだのは喫茶店の定番、王道のナポリタン。

「すいませ~ん。ナポリタンとあの、これ…。」

「ああ、ダイナミック生オレンジですね。」

「はい…あの…これって…あの…どういう…。」

もじもじしてなかなか上手く聞けなかった僕は、メニュー表にあった「ダイナミック生オレンジ」を頼んでみたのだった。

「おお!お若いの!それはじゃな…。」

いきなり説明をし始めたのは、僕の斜め後ろの席にいた白髪交じりのおじいさんだった。

「ここのマスターによるダイナミックな生のオレンジジュースのことじゃよ。」

「えっ?」

「いや…だから…ここのマスターによるダイナミックな生のオレンジジュースのことじゃよ…って、お若いの、何故、わしに2度も同じことを言わせたのじゃ?」

「え?あ、あ、すっ…すいません…あの、ちょっとよくわからなかったものだから…。」

「なんと?わからなかったと?では、ほれ…ちょっとこちらに来て見せてもらうといい。」

おじいさんに袖を掴まれた僕は、ポカンとしたままカウンターの傍まで連れて来られた。

「ささ、マスター…この若者にあの技を見せてやってはもらえまいか?」

「ははは…先生…ははは…はい、承知しました…では、これからお作り致しますんで少々お待ちいただけますか?」

口ひげのマスターはサテンの柄シャツの袖をくるくるとまくり上げると、手馴れた様子で大きな冷蔵庫から綺麗な色のオレンジを5個出して見せた。

僕は正直マスターがこれから何を始めるのか、まるで検討もつかずにいた。

「では、始めます。」

マスターから笑顔が消え、真剣な表情に変わった。

そして次の瞬間、水道の水をいっぱいに出したかと思った途端、5つのオレンジを言葉では説明が難しい早い動きでババッと一瞬で洗い終えた。

そうかと思った次にガラスの大きなボウルに目の細かいざるを乗せると、片側を少し切り落とした1つ目のオレンジをその上で片手でぎゅーっと絞った。

その時のまくり上げた袖から出ているマスターの腕の筋肉は血管が浮き上がり、「これぞ漢!」といった感じだった。

2つ目はリレーでバトンを受け取る時のような体勢での絞り。

3つ目は両手で両側から挟みこむ形での絞り。

4つ目は利き手とは逆の手での絞り。

ラストの5つ目はポンと頭上に軽く放り投げたオレンジを目の前でさっと捕ってから、オッケーサインの要領で親指と人差し指だけでの絞りだった。

「えっ!ええっ!うわぁ~!」

これぞまさにダイナミック!

そんな技だった。

軽い気持ちでここまでやってきただけの僕は、こんな場所でこんな凄いだけでは収まらないほどの技を見せてもらえるなんて思っても見なかったので、その驚きで全身の毛穴が全部開ききってしまう様な、そんな鳥肌でいっぱいだった。

目の前のダイナミック生オレンジに気をとられていた僕は、爽やかに香るオレンジの匂いの中にいつの間にか懐かしいケチャップの匂いが上手い具合に混じってきているのに気づかなかった。

「はい!出来上がりました!今、氷を入れますから少々お待ち下さい。」

最初は怪しげに見えたマスターの姿は今、神々しく見えてしまっているのだった。

「ははぁ。」

ぼんやりと席に戻ると、そこには湯気がほかほか立ち上るオレンジ色のナポリタンがあった。

(えっ!いつの間に!)

すかさずたった今ダイナミックな大技でマスターが作ってくれた生オレンジジュースが運ばれてきた。

「ごゆっくりどうぞぉ~。」

「ああ、はい、ありがとうございます。」

テーブルの上のほかほかしたオレンジ色のナポリタンと、コップの外側にびっしり汗をかいているオレンジジュース。

僕はその壮観な眺めにすぐさま手をつけることが出来なかった。

「ほっほうお若いの、ジェルBの技に魅せられたようじゃな。」

声をかけてきたのは「先生」と呼ばれていたあのおじいさん。

「ジェ…ル?」

僕はおじいさんのもごもごした喋りがちゃんと聞き取れていなかった。

「ジェルBのことか?」

「はぁ。」

「ここのマスターじゃよ。髪をジェルでぴったりさせているからジェル、そしてBは苗字の尾藤のBじゃよ。ははは。」

「へぇ~…そうなんですねぇ。」

僕はようやく冷静さを取り戻し、ナポリタンから手をつけていった。

「ところでお若いの…つかぬことを聞くが…何故この町に…住んでおるのか?見かけぬ顔じゃが…。」

「あ、いえ…ここには住んではいません…ただ、何となく普段と違う電車に乗って、やっぱりただ何となくここの駅名が気になって降りてみた次第でして…。」

「そうかそうか…そうであったか…ん~…お若いの…お前さん、何か深い悩みでもあるのかな?」

「あ…はは、そんなのは…ないですよ…。」

「では、不幸があったとか、女性に振られたとかかの?」

「ああ、いえ…そういうのは全然…。」

「人生は…山あり谷あり…それでこそ人生というものじゃないのかね…どうじゃ?そうは思わんかね?」

「はぁ…。」

いきなり人生を語りだしたおじいさんについていくのは正直なところ、邪魔臭いなぁと思った。

だが、適当に相づちを打ちながら話を聞いていると、段々と僕の中にある何かが変化してきた様な気がした。

「…つまりはだ、淡々と単調な毎日を送るのもまたそれはそれでいいのかもしれん…生活が安定しているのだからのう…だがな、時には自分の殻を突き破ってダイナミックなことをしてみるのも大事じゃと、わしは申しておるのだよ…この喫茶店の名前しかり、ジェルBの大技しかりじゃ…君はこれほどまでのダイナミックを目撃したことがあるかね?多分、ないであろう?…では例えばじゃ、例えば…特に悩みなぞないと思っていてもじゃ…ほれ、ここから真っ直ぐいった先にある海岸で走ってみるだけでも…随分と自分の世界が変わるもんじゃよ…。」

「自分の世界が変わる…ですかぁ…。」

「そうじゃ!砂浜に足を取られ、もがき上手くは走れないだろうがの…それでもめげずにただひたすら、目標など持たなくてもいいから走れるだけ走ってみるのじゃ…そうすると、自分の中で、自分にしかわからない何とも形容しがたい気持ちよさというのか、そういう疲労感がまた楽しいのじゃよ…それこそがダイナミックの真髄とも言えるのではないかな…どうじゃ?お若いの。」

「ダイナミックの真髄?ですか…はぁ…。」

「人は時にこのようなダイナミックなことをやってみなければ、年齢と共に徐々に衰えていくだけ…ということかのう。」

おじいさんの言っている話の意味がまだピンときていなかった僕の脳内に、ここの駅名が不意に浮かんだ。

「あ!ここの駅名!そうか!おおなみきゅーって読んじゃったけど…そうか!そうか!大波9!9はキュウじゃなくってクって読んで…あ、あ、そっか、だいなみく…だいなみく…で、ダイナミック!あ~~~っ!」

「ほっほっほ…お若いの…残念じゃったのう…確かにだいなみっくとも読めなくはないじゃろうが…ここはおおなみナイン。」

「えっ?おおなみ…ナイン?」

「そうじゃ…かつてこの大波高校の野球部は部員がたった9名しかいない弱小クラブだったのじゃがな、9人それぞれが皆同じ甲子園と言う大きな目標に向かって日夜海岸の砂浜を走り練習に練習を重ねてきたのじゃがな…。」

「えっ?えっ?それから、どうしたんですか?野球部は?甲子園への夢は?」

「ああ、そうじゃったなぁ…甲子園への切符を手にする為の地区予選の前日、あることが起こってしまって…。」

「えっ?なんですか?なんなんですか?」

僕はおじいさんがやけに話をためるのに、若干苛立ちを覚えた。

「教えてくださいよ!ねぇ…先生!」

僕の言い放った「先生!」という呼び名に、おじいさんとカウンターにいたマスターが驚いていた。

「い、今、なんと?」

「え?あの、先生って…。」

「今日、初めてあったばかりなのに…わしを先生と呼んでくれるのか?」

「あ、えっ?はい…あの…呼んじゃ…あの、駄目…でしたか?」

「あ、いや、そうではないのだがの…。」

おじいさんはしばし待たれよと僕の前に手のひらを見せると、反対側の手で目元を拭っていた。

(泣くほどのことなの?えっ?そうなの?どうしよう?知り合ったばかりの老人を泣かせちゃったよ…。)

僕はどうしようもなく動揺してしまった。

「はは、すまんのうお若いの…マスター以外に先生と呼ばれたのが久しかったものじゃから…つい…嬉しくて…。」

「あの…先生はちなみに何の先生なんでしょうか?」

「わしか?わしはの…ああ、それはそうと話が脱線してしまって悪かった悪かった…そうそう、地区予選の前日、部員ほぼ全員がが夜中に急に猛烈な腹痛で病院に担ぎ込まれてな…。」

「げっ、原因は?何が原因で?」

「それはな…鮨じゃ。」

「えっ?鮨?えっ、えっ…じゃあ、あの生ものだから食中毒ってことですか?」

「あ、やあ、違う違う…そうではないのじゃよ…前日の夜に行われた町内上げての壮行会でな、沢山のご馳走がずらずらっと並んだんじゃよ…。」

「はぁ…。」

「部員達はな、町の人達が自分達の為にこさえてくれたご馳走に感激してな…とりわけダイナミック鮨の大将が握った鮨がまあ美味くてな…美味くて美味くて…。」

「…。」

「そういう訳なんじゃよ。」

「ええ~っ!それで地区予選は?どうなったんですか?」

「行ける訳も無く、相手方の高校に試合はできないと伝え…。」

「…。」

「再試合をしてもらえるでもなく…。」

「そうだったんですかぁ…。」

「そんなことがあってな…こんな悲劇はもう繰り返すまい…次の世代に教訓として残していかなくてはけないとして…元の駅おおなみに野球部の部員の数9を付け足したという訳なのじゃ…。」

「そうなんだぁ…。」

「では、お若いの、勘定はおまかせするとする…わしはこれで…。」

そう言うと「先生」は店を出て行ってしまった。

僕はたった今、先生から窺った話を反芻し、ようやく(なんじゃそれ!)に至るまで気づきはしなかったのだが、店を出る際マスターから「先生の分とご一緒でよろしいですね。」と言われ、ハッとなったのだった。

(やられた!あのじいさん、僕に勘定を。くっそ~!でも、まぁ、しゃあないか…いい話も聞けたことだし…。)

「合計2430円です。」

「えっ?そ、そんなに?あ、あの、すいません…あの、伝票、伝票見せて下さい!」

マスターから渡された伝票には僕が頼んだナポリタン680円、ダイナミック生オレンジ800円の他に、先生が頼んだ玉子サンド600円とホットミルク350円とあった。

(ちくしょー!あのじいさん、玉子サンドまで食ってたとは…。)

僕の心は少し煮えたぎった。

だからという訳ではないのだが、店を出た僕はさっき「先生」が言っていた海岸に向かったのだった。

(それにしてもあのじいさんめ、ちゃっかりしやがって…そんでもって教えてもらった駅名の由来…全然わかんないよ…てっきりお涙頂戴的な話かと思ったら…なんだよ…地区予選前に食いすぎて腹痛って…昔は鮨なぞ滅多に食べられるもんじゃなかったからって言ってたっけか…言われてみればそうなのかな…今みたいに回転寿司とかあちこちにある訳じゃなかっただろうし、父さんと母さんもたかだか回転寿司に行くよってだけで、きちんとした格好したり嬉しそうにそわそわしてるっけか…昔の人にとって寿司って特別なご馳走だったってことか…ってそれもそうだけど…それより、忘れてたけどジュース…ジュース飲んじゃったけど…美味しかったけど…普通に作ったのが良かったなぁ…じゃなかったら、作るとこ見なきゃ良かったか?…あ、いやいや、あんなすごい技もう二度と見られないと思うから…あれは見て良かった気がするけど…でも、できれば飲みたくなかったなぁ…ジェルBだっけ?マスターの手絞りは…きついなぁ…。)

脳内であれこれ考えている間に、僕は「先生」が言っていた砂浜まで辿り着いてしまっていた。

目の前に広がる青い水平線を見つめていると、僕は急に走りたくて堪らない気持ちになった。

肩から斜めに提げていたカバンを砂の上に置き裸足になると、僕は「わ~~~~っ!」と大声を出して海岸に沿って砂浜を走った。

高校時代までサッカーをやっていた僕だけど、砂浜は思っていたよりも手ごわく「先生」が言っていた通り砂にがっちりと足をとられ気持ちだけが先走るような形となった。

こんなにも自分の体が思い通りにならないなんてと、改めて砂浜の凄さみたいなものを認識したのだった。

自分では随分長いこと走ったつもりだったが、それも長くは続けられず気がつくと僕は置いたカバンを枕に砂の上で大の字になっていた。

「は~~~~あ…気持ちいい~~~~っ!」

それが正直な感想。

僕は「先生」が言っていた「ダイナミックも時には大事。」と言う理由が何となくわかったような気がした。

今までの自分だったら砂浜に来ても、きっとただ静かに海を眺めるだけだっただろう。

だけど、こうして子供の様に無邪気に海岸を走ってみると、なんて楽しいんだろう。

頭の中で想像するだけじゃ味わえない、独特の開放感を感じることはなかっただろう。

そう考えると、さっきまであった「チクショー!払わせやがって!」といった「先生」に対する怒りもいつの間にか消え失せ、逆に「いいこと教えてもらったんだから、あれはお礼ってことでいいさ。」なんて思えるようになってきた。

その後僕は空が薄っすら黄色身を帯びてくるまで、何度も砂浜を走ったり、犬の様に両手で穴を掘ったりしてこの場所をめいっぱい楽しんだ。

きちんとほろいきれない砂を服や体のあちこちにいくらかくっつけたまま、僕は元来た道をゆっくりと歩いた。

すると今まで自然に嗅いでいた海の匂いから、今度は勝手によだれが垂れてしまいそうなほど美味しそうな匂いがあちらこちらから漂ってきていた。

(ああ、もう夕食の支度してんだなぁ。)

ふと故郷の母を思い出した。

(きっと今頃母さん、飯作り始めてんだろうなぁ。)

そうして歩いていると、昼に寄った喫茶店の裏側が小さな惣菜店だということに気づいた。

(あ~、そっかぁ…あっちから歩いてたからわからなかったのかぁ…そうかぁ…だから、ナポリタン、早かったのかぁ…。)

僕は行きの電車でのことを思い出すと、誰かに誘導されているかのごとく惣菜店へ向かって行った。

夕方の駅前の惣菜店は様々な年代の主婦達で賑わっていた。

人混みの間から店頭のガラスケースの中の惣菜を必死で見ていた僕に、ようやくお店の人が声をかけてくれたのはお客さんが4~5人になった頃だった。

「はい、らっしゃい!そこの旦那!なんにします?」

多分喫茶店のマスターの奥さんであろうそのご夫人は、優しそうな笑顔の少しふっくらとした中年女性。

頭につけている三角巾や淡い色みのチェック柄のエプロンがよく似合っていた。

「え~と…そうですねぇ…じゃあ…鯵フライ1つとえ~と、そうだなぁ…豚ネギマのタレ2本と鶏塩1本で。」

「はい、ちょっと待っててね…そだ、お客さん、鯵フライ醤油かけるかい?マヨネーズもあるけど?どうします?」

僕は一瞬考えた。

(これから電車で食べるんだから…そうだな…かけてもらうか。)

「あ、じゃあ、どっちも。」

「はい、どっちもね…ああ、そうだ、ジャバーっと?普通?」

「あ…あの、じゃあ…いい感じで。」

「あはは、了解!いい感じでね…じゃあ、こんな感じでいいかい?」

女性は僕にちゃんと見せてくれながら、揚げたての鯵フライに醤油とマヨネーズを絶妙な量だけ満遍なくかけてくれた。

「お箸は?つける?」

「あ、いや…電車でビールと一緒に…あの…。」

「あ~、はいはい…そっか…じゃあ、袋の方がいいかね…これなら片手で持って食べられるわよ。」

「あ、ありがとうございます。」

「いいえぇ、こちらこそ…また寄ってってくださいねぇ。」

笑顔で手を振って別れた。

鯵フライ120円、「やきとりシリーズ」の豚ネギマ80円鶏塩80円。

僕は温かいそれらを手に駅に戻って来た。

途中、喫茶店の中をチラリと覗くと、昼間と違い店内は学生やスーツのサラリーマン風の人などで案外賑わっていた。

(へ~…そっかぁ…ここは夕方からの方が人、入るんだねぇ…それはそうとビールビール。)

僕は先ほど寄った惣菜屋さんの女性に言った言葉が、自分でもなんだか信じられなかった。

(ビールビールなんて…ははは、僕としたことが…なんて大胆な…あれ?大胆ってダイナミックって意味だったっけ?)

駅の売店でキンキンに冷えたビールを1缶だけ買った僕は、空いている電車に乗り込むとビールや鯵フライよりも先にスマホで「ダイナミック」の意味を調べた。

(え~と、ダイナミック、ダイナミックと…動的、力強い、行動的な、力学的、精力的な…かぁ…へ~え…てっきり大胆とか、豪快とかそういうスケールの大きい感じの意味だとふんでたけど、それとはちょっと違うってことかぁ…さて、そんなことよりもビールビール、鯵フライ鯵フライと。)

一口ぐびりと喉を通るビールは格別に美味かった。

そして、まだほんのり温かい鯵フライ。

醤油とマヨネーズをかけてもらって、本当に良かったと思った。

そんな至福のひと時を堪能した僕は、薄暗くなり始めた窓の外に見える駅名の看板に目をやった。

(あ…ホントだ…だいなみくじゃなかった…おおなみないんってちゃんとローマ字で書いてたよ…ははははは。な~んだ…ははははは…あ、じゃあ、マスターのダイナミック生オレンジも力強かったから…ちゃんと合ってるんだぁ…豪快や大胆って意味だったとしても合ってると思うけど…ははははは…それにしても今日は…はぁ~…。)

いつもの町並みが近づいてくる頃には、ビールも買った鯵フライややきとりシリーズもすっかり僕の胃袋に納まっていた。

こんなにいい気分なのは久しぶりの様な気がした。

町の明かりに邪魔された小さな夜空に、よく見ると小さな星がちゃんと瞬いている。

「ただいまぁ~!」

「あ~、おかえり~!ユウちゃん遅かった…えっ?何?ちょっと?どしたの?ねぇ。」

笑顔で出迎えてくれたサエコの顔を見たら、僕は無性に彼女を抱きしめたくて堪らなくなった。

僕はそのままサエコの耳元で囁いた。

「なぁ、サエコちゃん…今すぐ結婚しないか?」

「へっ?ユウちゃん…何言って…。」

「いや、だからさ…サエコさん、僕と今すぐにでも結婚しませんか?って言ってるんだよ!えへへへへへ。」

「えっ?いや…えっ?そんな急に…。」

「なぁ、結婚しよう!ささっ…行こう!行こう!」

戸惑うサエコを強引に家から連れ出すと、僕は彼女の手をしっかりと握り締めたまま役所までの道を一緒に歩いた。

「ねぇ、急にどうしたの?」

「ああ、今日さ…僕さ休みだったから…。」

それから役所に着くまでの約20分、僕は今日のダイナミックな出来事をサエコに話した。

するとサエコの方から「ユウちゃん、今度さ、あたしも行きたい!行ってみたい!一緒に連れてって!」と。

「うん、行こう!一緒に行こう!そんで…。」

僕はまたあの町に行く。

今度はサエコと一緒に。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

これからも頑張って書いていきますので、どうぞ宜しくお願い致します。

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