ビター・バレンタイン
キーンコーンカーンコーン
学校が終わりを告げる音が、午後の授業でだらけ切ったクラスに響き渡った。
二月の半ばにもなると大空が雪雲に覆われる日も少なく、太陽の光が降り注ぎ教室も温かくなる。午前中に限りだが。
教室に備え付けられた暖房は空気を読むことを知らず、午後になれば日光により温まった教室を蒸し風呂へと変貌させる。
「っしゃあ! やっと終わったー!!」
そのある意味拷問とも言える空間から解放される喜びをわからないといえば嘘になるが、だからといって先生が礼を終えるより先に奇声を上げるのはどうかと思う。
それに奇声をあげたのが真後ろに座っている運動部所属の肺活量のある男子だからやたらとうるさい!
「うるさい」
だから私は振り向きざまに包み隠さず素直な感想を述べた。男子の奇行を非難する意味も含めて冷たい視線つきで、だ。
しかし彼は私の視線などどこ吹く風で、肩をすくめると勉強道具を鞄につめ出した。
「いいじゃん、どうせ授業終わったんだし」
「礼をするまでが授業よ」
私はそれが勉強を教えてくれる先生へのマナーだと考えるし、何より当然の常識だとも思っている。
少なくともチャンスさえあれば大声で喋り出す彼とは合い慣れない存在だと認識していた。
クラスの女子たちは彼の物怖じしない態度や風貌、ムードメイカーとしての気質に好感を持つようなのだが、私から見るとただのうるさいクラスメイトでしかない。
「……ついてこないで」
「いや、変える方向同じだし。いいじゃん一緒に帰ろうよ~」
「鬱陶しい」
「ヒドス!」
私が学校を出るとまるでストーカーのように彼がついてきた。
彼はこの時間部活のはずだ。サボタージュなのか忘れているのか、どちらにしろそれを理由に追い返そうと思った私は彼に問いかけた。
「そもそも部活はいいの?」
「あ、気になる?」
「全然」
私の問いにニヤケる彼が鬱陶しくて一言で切り捨てた。
言い残して私は彼を置き去りにしようと歩調を早めるが、彼は苦も無く私に追いつく。いっそのこと駆けだそうかと思ったが、運動部所属の男子相手に賢い判断だと思えない。
仕方なく私は歩調をゆるめた。
「もうすぐテストじゃん? だから部活は休みなの。ってゆーか休みとかいらないよな。勉強しない奴は部活休みでもしないし、する奴は部活あってもちゃんとするし。だったらテスト前休みなんていらねーよな。そうだ生徒会長、学校をよりよくするためにこの制度を廃止にしてくれ!」
「そう」
「それだけ!?」
「だって興味ないもの。ごめんなさい、興味もない話を語らせちゃって。じゃあ私こっちだから、さようなら」
「ああ、じゃあーなー! また明日―!」
私は彼と別れて、商店街の方へと向かった。
わかっている。私の彼に対する態度が必要以上にキツイことなどとうの昔に理解している。
しかし、仕方がないとも思う。
私は彼が苦手だ。騒がしいところとか色々、だから彼には距離を置いて欲しいと思う。そうしてくれればここまでキツイ態度を取ったりはしない。
けれども彼は私がどんなにキツイ態度を取ろうともいつも通り慣れ慣れしく近づいてくる。暖簾に腕押しもいいところだ。
「あーもう! ……?」
私が悶々と歩いていると、ふと、あるものが目についた。
ピンク色のリボン、可愛らしい包装紙、ずらりと並べられた多種多様のチョコレートの材料たち。
「……そうだ、明日ってバレンタインだったっけ」
私は甘い空気に彩られた商店街を歩きながらそんなことを思い出した。
バレンタイン。女の子が男の子にお菓子をプレゼントする日。昔読んだ心理学の本に集団心理がどうとか、書いてあった気がする。雰囲気も何もあったものじゃない。
しかし、こう可愛いものを見せられると作ってみたいという欲求に駆られる。渡す相手がいないが。
「…………」
商店街のピンク色の空気に当てられたのだろうか? 気付けばチョコレートの材料が並べられたキッチンに立っていた。
「……どうしよう」
先に断っておくが私は料理が苦手だ。さすがにお鍋を爆発させるようなコミカルな事態に陥ったことはないが、味付けを失敗して父親を悶絶させたことがある。以来、調理器具に触れたことはない。
「ま、まあ、チョコレートを溶かして型に入れるだけだし……………………たぶん大丈夫」
その時、私は料理というものを甘く見ていた。
…………。
…………。
…………。
注意:『※』は説明書に書かれていません。ちょっとした解説です。
1.まず、使用するチョコレートブロックを湯せんで溶かします。
※湯せんとは大きなボウルなどにお湯を張り、そこに材料を入れた小さなボウルを浮かべて材料を溶かす調理法。チョコレートなど焦げ付きやすい時に使用。
「チョコレートを溶かすだけチョコレートを溶かすだけ……」
私はまるで危ない人のように繰り返し呟きながらチョコレートをお鍋に入れ火にかけた。
「え? なんで? 焦げくさい!? 何か間違えた!? せ、説明書! ……えーと、湯せん? お湯を入れればいいの?」
私は慌ててお湯をお鍋に注いだ。
「熱っはねた!」
お湯を入れたせいで水っぽくなるチョコレート。
「なんだか水っぽい、お湯を入れ過ぎたかな? ……そ、そうだ! 火力を挙げて蒸発させれば……」
直接、火で熱しているためチョコレートのたんぱく質がなべ底に付着、あっという間に焦げ出した。
「あ、あ、あ! なんだか真っ黒い煙が!? 焦げくさい! し、失敗! ストーップ!」
私は黒煙の上がる鍋をガスコンロから降ろし、とにかく冷やそうと水を注ぐ。
ジュワー!!!
「きゃーっ!」
…………。
…………。
…………。
翌日。
「…………」
父親にあげようと包装紙に包まれた昨日の完成作――私の両手には名誉の勲章が痛々しく残っている――を持ったまま、私は固まっていた。
テーブルの上にはラップに包まれた料理と、急な出張が入ったため朝一で出かけたこと、体調管理を気を付けるように、などなどが書かれた置手紙が残されていた。
「パパ……そんなぁ…………」
なんだか、魂が抜けるような脱力感に見舞われた。昨日の頑張りが無意味だった。
もともと、父親にあげようと思ったのは単なる思い付きだった。しかし、意識の変化のためか、誰かにあげることを前提に作ったチョコレートは私が作ったと思えないほどの出来栄えだった。多少不格好ではあるが。
「まあ、私の料理だからきっとひどい味だろうし! むしろよかった! うん!」
無理やり笑う。痛々しいカラ元気だったが、そうでもしないとへたり込んでしまいそうだったから。
「だけど、どうしよう? 捨てるのもったいないし……学校で誰かにあげようかな?」
…………。
…………。
…………。
「はぁ~」
結果論から言って、私は放課後になってもチョコレートを渡せずにいた。
理由は味の保証ができないからだ。
味見をしなかったわけではない。なんども味を確認しながら作って、文明人のお菓子と呼べるレベルに到達したと思ったからこのチョコレートを完成品にしたのだ。
ただ、自信が持てない。なにせ私が作ったからだ。
もしかしたら時間が経って味が変質しているかもしれない、私が作ったから。
もしかしたら成分が変質して有害な何かが発生しているかもしれない、私が作ったから。
なにせ私はお鍋を爆発させる女だ。なにがあってもおかしくない。
だから、渡す相手に悩む。
仲のいい女子にこのウェポンクッキングを渡すわけにいかない。かといって男子に渡すというのも変な噂が出そうでイヤだ。
「はぁ~…………帰ろ」
そもそも、こんな危険な料理を誰かに食べさせようと言うのが間違いだったのだ。
私は肩を落とし、重い足取りで帰路についた。
…………。
…………。
…………。
そわそわしていた。時折机の中に手を差し入れ可愛らしいリボンの付いた包みを確認し、想いにふけり、その後にため息をついていれば誰でもわかるだろう。
彼女はチョコレートを誰かに渡そうとしているのだ。このバレンタインデーに!
今日はその話題で持ちきりだった。
ハッキリ言って彼女はアイドルだった。本人に自覚があるかは別だが。
容姿端麗! 文武両道! 極悪非道……は違うか、とにかく完璧人間と言っていいほどすごいヤツだった。
嫌われている俺は例外だが誰にでも優しい、綺麗で何でもできる。男子なら必ず一度は彼女に恋をする、まさに彼女はアイドルだった。そして高嶺の花だった。
誰もが自分はつり合わないと告白もせず諦める。彼女も恋愛に無関心なようで浮いた話一つない。
ああ、彼女はきっと在学中に恋愛をする気がないのだ。
誰もがそう思っていた、今日この日までは!
「……元気ねぇな」
結論、彼女はチョコレートを渡せなかったようだ。肩を落としてとぼとぼと帰る後ろ姿が物語っていた。
もったいない、彼女ほどの人気があれば受け取らないヤツなんていないだろうに。もしいたらオレがぶん殴る。
まあ、わかっていても臆病になるのが恋愛というものなのか。
とりあえず俺は彼女を慰めようと追いかけた。
「あ! くそ、アイツ抜け駆けしやがった!」
「HAHAHA! この世は常に先手必勝なのら~!」
出遅れたヤツを置き去りに、部活で鍛え上げられたこの足はほんの数秒で目的地まで俺を運んだ。
「かーいちょ! 元気ねーな!」
いつものようにお気楽な感じで話しかける。お悩み相談は俺のキャラじゃないし、俺を嫌っている彼女が相談してくれるとも思えなかった。
だから俺はいつものようにバカをやって彼女の気を紛らわせてやろうと思ったのだ。
が、しかし。
「じー…………」
「え? な、なに?」
彼女の反応は俺の予想を上回るもので、俺の顔を凝視するという不可解な行動に出たのだ。
一見、見つめられているように見えるシュチュエーション。
しかし、いつも彼女を見てきた(後ろの席から)俺ならわかる。これは――
観察されてる!!!?
まさかの状況だった。おまけにぼそぼそ呟いている。
「コイツなら……どうなっても……な噂……たたない……」
「あ、あのぅ?」
「ソウダ、チョットイイカシラ?」
「すんげーカタコト!?」
「エエ、アリガトウ」
「ええ!? ち、ちょっまだ何も言ってない! え? 何この状況!?」
彼女の凶行にたじたじな俺、掴まれた腕は対して力が強くないにもかかわらず振りほどくことができない。
「ま、まさかこれが恐怖の力!」
「中二ってないでいいから来なさい!」
「あ、あの! 先輩! 少しよろしいですか!」
嬉し恥かし……いや、恐怖の誘拐事件現場に後輩の女子が現れた。
僅かに赤く染まった頬、決意を称えた瞳、それだけでこの後輩が何の目的でこの場に乱入したのかがわかる。
「あ、いや、先に会長が――」
「さようなら、頑張ってね」
彼女は別れの挨拶を告げると、何事もなかったかのように去って行った。
ちなみに『頑張ってね』は俺ではなく後輩に、だ。
その後、案の定とも言うべきか、後輩に告白された。断ったけど。
チョコレートも受け取らなかった。好きなヤツ以外から受け取るのは不義理な気がしたからだ。
型物だろうか、俺?
…………。
…………。
…………。
「サイッテー!」
本当に最低だ。私は最低だ!
私は自分のことしか考えてなかった。捨てるのがもったいない、などというくだらない理由でチョコレートを渡そうとしていた。
今日この日に勇気を振り絞り告白する人達のいる中、そんな低俗な理由で人の恋路を邪魔するところだったのだ。
私は自分が情けない。
「最低」
もう一度呟くと、私は通学路から外れて小さな公園に訪れた。私はそこの小さなブランコに腰かけ、鞄の中からチョコレートの包みを取り出した。
ピンクのリボンの付いた赤と茶色のチェックのハート形チョコレートだ。
「パパにあげるチョコがハートって……」
今更ながら恥ずかしくなる。それまでにあった自嘲の念と合わさり余計にごちゃごちゃとした気分になった。
私はしばらくの間、チョコレートを見つめたままブランコを小さくこいで、ぼんやりと想いにふけっていた。
料理であそこまで頑張ったのは久しぶりだった。チョコレートを作り始めたばかりのときは湯せんすらわからず大変な目にあったが、その後、料理の用語をちゃんと調べて作り直したら割とうまくいった。
今思えば、このチョコレートは私の初めて作った料理ということだ。
「昔作ったのは料理じゃなかったし」
ひとを悶絶させるものを料理と言わない。
「…………」
私はリボンを解き、包装紙からチョコレートを取り出した。
ハート形の黒光りするチョコレート、その表面にホワイトチョコで『パパへ Happy Valentine』と書かれている。
「……こんなの渡された方が困るわよ」
きっと、昨日の私はどうかしていたのだ。商店街のあの甘い空気に当てられて、慣れない料理に必死になって。
「…………えい」
私がほんの少し力を入れるとチョコレートは簡単に割れた。
半分に欠けたハート、その片方を口に運ぶ。悶えるようなひどい味はしなかったが、普通のチョコレートより遥かに苦いチョコレートだった。
味見のしすぎで味覚がおかしくなっていたのだ。その状態で美味しいと思える味が、まともな状態で美味しいはずがない。
「結局、失敗かー」
なんだか、目頭が熱くなってきた。独りで頑張って、独りで舞い上がって、独りで落ち込んで、挙句の果てにチョコレートは失敗作。
どうしようもなくダメダメだった。
泣き出しそうになった。
その時――
「かーいちょ! 何やってんの?」
「っ!?」
彼が現れた。
私は咄嗟に涙を引っ込める、なんて芸当ができないから俯いたまま応えた。
「なんでもないわよ。そっちこそ、あの子は――」
――どうしたの? と、問いかけようとして思い留まった。
彼がここにいて、あの後輩が一緒にいないことが何よりの答えだった。
だから、別のことを訊ねた。
「どうして私の後なんかついてくるのよ?」
「いや、お前が呼んだんじゃん!」
「私は呼んでなんか……あ」
否定する直前あの時のことを思い出した。
『ソウダ、チョットイイカシラ?』
まさか、そんな理由で追いかけてきたのだろうか?
しかし、実際はもっと別のところに理由があった。
「嘘だって」
私は俯いていたからその表情は見えなかったが、その声が、普段の彼のものと違い優しさに満ちたものに変わっていた。
「お前さ、今日元気なかったろ?」
それはただの心配だった。ただの気使いだった。
私が自分のことばかり考えていたのに、彼は様子のおかしい私を気にしていた。
いつも冷たい私に、彼は、カレは……。
気付けば、私は彼にすがるように泣いていた。その日あったことを、何を想っていたかを、まるで叫ぶように懺悔した。
そして、謝罪した。謝って、また謝って。
もう、何について謝っているのか、わからなくなるほどに謝った。
ただ、謝ることで胸の中に打ち込まれた楔から解き放たれるような、そんな気がした。
それから彼とチョコレートを食べた。
私が泣きついてしまったお詫びをしたいと伝えたら、彼が私の作ったチョコレートが食べたいと言ったのだ。
私が割ってしまったチョコレート。砕いてしまったハート。彼はそれを嬉しそうに食べた。
「……そんなに美味しかった?」
チョコレートを食べ終えた彼が、あまりに嬉しそうだったから、ついつい訊ねてしまった。
「いや、すげー苦かった。けど…………」
「え?」
声の大きな彼には珍しく、最後の方に何を言ったのか聞き取れなかった。
彼も言い直す気がないようなので、それほど大事なことでもなかったのだろう。
ただ、そこまで喜ばれるとこんなことを言ってみたくなる。
「……また、作ろうか?」
「え?」
「見ての通り私は料理がとっても下手だけど、食べてくれる人がいたら頑張れるし……」
喜んでもらえると、とても嬉しいから。
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
「………………………………よ」
「よ?」
「よろしくお願いしますッ!!!」