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身代わりで嫁いだ姉ですが、旦那様は最初から妹ではないと知っていました

作者: みぎみみ
掲載日:2026/10/29



「お姉様が行けばいいのよ。どうせ誰にも見分けなんてつかないわ」


 妹のリディアは鏡台の前で金の巻き毛にリボンを結びながら、振り向きもせずに言った。


 エミリアは扉のそばに立ったまま、両手でエプロンの裾を握りしめた。


 ロウエル伯爵家の居間は、春の陽射しで明るかった。窓の外では庭の林檎の木が白い花をつけている。母が長椅子に腰かけて扇を揺らしている。父は窓辺で腕を組んで外を見ている。


「北の辺境伯なんて冗談じゃないわ。顔に大きな傷があるんですって。戦で魔獣に裂かれたって。呪われてるって噂もあるのよ。前の婚約者は顔を見ただけで気を失ったって」


 リディアはリボンの形を鏡で確かめてようやく振り返った。青い大きな目がエミリアを上から下まで眺めた。


「お姉様なら、ちょうどいいじゃない。どうせ、この家にいたって、お嫁に行くあてもないんだし」


 エミリアは何も言えなかった。


 二十二歳。妹とは二つ違い。同じ父と母から生まれたのに、エミリアの髪は、くすんだ亜麻色でまっすぐだった。目は灰色がかった緑。背は高くて肩幅が広い。社交界では「ロウエル家の、地味なほうのお嬢さん」と呼ばれていた。


 十五のときに、母が言った。あなたはリディアの引き立て役でいなさい。そのほうがあの子が映えるから。


 それから七年、エミリアは屋敷の奥で、使用人に混じって働いてきた。繕いもの、出入りの商人の勘定、庭の手入れ。夜会には、ほとんど連れていってもらえなかった。


「エミリア」


 父が窓辺から振り返った。


「辺境伯からの申し出は、ロウエル伯爵家の娘を一人、妻にというものだ。名前の指定はない。持参金は要らないと言ってきている。それどころか、うちの借金を肩代わりしてくれるそうだ」


 父の声は低かった。目はエミリアを見ていなかった。


「ただ、向こうは、社交界で評判のリディアが来るものだと思っているだろう。だから、おまえは、リディアとして行け」


「……リディアとして?」


「髪を巻いて、リディアの服を着てリディアの名前で嫁げ。向こうはリディアの顔を知らない。夜会で一度、遠くから見たことがあるくらいだろう。背格好は似ていなくもない」


 似ていない。誰が見ても、似ていない。


 でも、エミリアは言い返さなかった。言い返したことは一度もなかった。


「ばれたら……」


「ばれたら、おまえが勝手に名を騙ったことにする。伯爵家は知らなかったと言う」


 母の扇がぱちりと閉じた。


「エミリア。あなたも、北のお城の奥方になれるのよ。地味なあなたには、もったいないくらいのお話じゃないの」


 エミリアはエプロンの裾を握ったまま、うつむいた。


 窓の外で、林檎の花びらが、風に一枚、散った。




 北への旅は馬車で十日かかった。


 王都を出て三日目に林檎の花が見えなくなり、五日目に雪の残る峠を越えた。七日目からは針葉樹の森が延々と続いた。窓を開けると、冷たい空気と一緒に、樹脂の匂いが流れこんできた。


 エミリアはリディアの水色のドレスを着て、膝の上で手を握りしめていた。髪は、出発の朝に侍女が無理やり巻いてくれたけれど、三日目にはもう、まっすぐに戻ってしまった。


 十日目の夕方、馬車は灰色の石の城に着いた。


 城門の前に、一人の男が立っていた。


 背の高い、黒い外套の男だった。黒い髪を後ろで一つに束ねている。そして、左の額から頬にかけて、三本の古い傷跡が、斜めに走っている。


 エミリアは馬車の窓から、その傷を見た。


 怖くはなかった。


 不思議なくらい、怖くなかった。それよりも、どこかで見たことがある、と思った。どこで見たのか、思い出せなかった。


 馬車の扉が開いた。男が手を差し出した。大きな手。手袋をしていない、日に焼けた、ごつごつした手。


「ようこそ、グラウ城へ」


 低い、静かな声だった。


「アドリアン・グラウだ。長い道のりをご苦労だった」


 エミリアはその手を取って馬車から降りた。


 足が震えた。


 嘘をつかなければならない。この人に。ここで今。


「リ……リディア・ロウエルでございます」


 声がかすれた。


 アドリアン様の黒い目が、エミリアの顔をじっと見下ろした。


 ばれた、と思った。こんな地味な女が、社交界の花と呼ばれるリディアのはずがない。今すぐ、追い返される。


 アドリアン様は何も言わなかった。


 ほんの一瞬、その黒い目の奥で何かが揺れた気がした。それから、アドリアン様は、エミリアの手をそっと自分の腕にかけさせた。


「寒いだろう。中へ」




 城の暮らしはエミリアが思っていたものと、まるで違った。


 呪われた辺境伯の城は、もっと暗くて、冷たくて、恐ろしい場所だと思っていた。


 実際のグラウ城は、石造りの古い城だったけれど、どの部屋にも暖炉が燃えていて、温かかった。使用人たちは口数は少ないけれど親切でエミリアを「奥様」と呼んで何でも手伝ってくれた。


 アドリアン様は毎朝、朝食の席でエミリアの向かいに座った。


「リディア。よく眠れたか」


「はい。ありがとうございます」


「今日は天気がいい。城の裏の湖を見に行かないか」


 リディア、と呼ばれるたびに、エミリアの胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 アドリアン様は優しかった。湖のほとりをエミリアの歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれた。エミリアが寒そうにすると、黙って自分の外套をかけてくれた。城の書庫の鍵を、「好きなだけ読むといい」と渡してくれた。


 そして、毎日、「リディア」と呼んだ。


 城に着いた最初の夜の晩餐で、エミリアは、ほとんど何も食べられなかった。


 長いテーブルに、鹿肉の煮込みと、黒いパンと、根菜のスープが並んでいた。どれも、温かくておいしそうな匂いがした。でも、喉が詰まって何も通らない。嘘をついたまま、この人の向かいで食事をしていることが、苦しくて。


 結局、エミリアが口にしたのは、デザートに出された干し林檎の蜂蜜煮を二切れだけだった。


 故郷の、伯爵家の庭の林檎の味がした。春に白い花が咲いて、秋に赤い実がなる。エミリアが毎年、一人で世話をしてきた木だった。


 アドリアン様は何も言わなかった。


 次の朝、エミリアの部屋の窓辺に、小さな素焼きの鉢が置いてあった。土の中から、細い苗木が一本、伸びている。


「林檎の苗です、奥様」


 世話係の侍女がにこにこしながら言った。


「旦那様が、夜明け前に、南の村まで馬を飛ばして買ってこられました。北の土でも育つ種類だそうですよ。奥様が林檎をお好きなようだから、と」


 エミリアは苗木の細い枝を指先でそっと撫でた。


 干し林檎を二切れ。それしか食べなかったのをあの人は見ていたのだ。


 胸の奥が温かくなった。それから、すぐに、冷たくなった。


 ――リディアは、林檎なんて好きじゃないのに。


 林檎が好きなのはエミリアだ。リディアは林檎の皮をむくのも、木に虫がつくのも嫌がって庭にさえ出なかった。


 この苗木はリディアのためのものではない。わたしのためのもの。なのに、わたしは、リディアの名前でしか、それを受け取れない。


 エミリアは鉢を両手で抱えて窓辺にしゃがみこんだ。


 ひと月目の半ば、エミリアは、城の洗濯場で、兵士たちの破れた外套を見つけた。


 北の城には、辺境を守る兵士たちが五十人ほど詰めている。冬のあいだの見回りで、外套はどれも裾がほつれ、肘が擦り切れている。繕う者がいなくて山積みのまま。


 気がついたら、エミリアは、針と糸を手にしていた。


 伯爵家で、七年間、毎日やってきたことだった。指が勝手に動く。ほつれた裾をかがり、擦り切れた肘に当て布をして、取れかけたボタンを付け直す。


 三日で山の半分が片づいた。


 四日目の午後、洗濯場の入り口に、影が差した。


 顔を上げると、アドリアン様が立っていた。エミリアの膝の上の外套と、横に積まれた繕い終えた外套の山を黙って見ている。


「あ……申し訳ございません。勝手に」


「なぜ、使用人の仕事を」


 低い声だった。怒っているのではなかった。ただ、ひどく静かな声だった。


「慣れていますから。実家ではずっと、こういうことを」


 言ってしまってからエミリアは口を押さえた。


 社交界の花のリディアが、実家で外套を繕っていたはずがない。


 アドリアン様はしばらく黙っていた。


 黒い目がエミリアの指先を見ていた。針の跡だらけの、荒れた指先を。


「……そうか」


 短く言ってアドリアン様は踵を返した。


 次の日、洗濯場に、繕いものをする女が三人、新しく雇われていた。そして、エミリアの部屋に、上等な刺繍糸の箱が届いた。二十四色。添えられた紙には、角ばった字で一行だけ。


 ――繕いものではなく、好きなものを縫ってほしい。


 エミリアはその紙を胸に抱いて、長いあいだ動けなかった。


 ひと月が過ぎるころには、エミリアは、アドリアン様の足音を廊下の向こうから聞き分けられるようになっていた。少しだけ左足を引きずる、ゆっくりした足音。古い傷のせいだと、執事が教えてくれた。


 その足音が近づいてくると、胸がどきどきするようになった。


 そして、そのたびに苦しくなった。


 ――この人が見ているのはわたしじゃない。


 リディアだ。社交界の花の、金の巻き毛の、青い目の妹。この人はリディアを妻に迎えたと思っている。外套をかけてくれるのも、湖に誘ってくれるのも、書庫の鍵をくれたのも、全部、リディアに向けたものだ。


 ある夜、エミリアは、自分の部屋の鏡の前で、まっすぐな亜麻色の髪を指で何度も巻こうとした。


 巻けなかった。指を離すと、するりと元に戻ってしまう。


 鏡の中の灰緑の目から、涙がこぼれた。


 ばれる前に、本当のことを言わなければ。そう思うのに、言えなかった。言ったら、追い出される。伯爵家に戻されて、また屋敷の奥で、誰にも名前を呼ばれずに暮らす。


 それより、怖いのは。


 ――アドリアン様に、嘘つきだと思われること。




 ふた月目の終わりに、エミリアは熱を出した。


 北の冬の名残りの寒さに、体がついていけなかったのだ。三日、寝台から起き上がれなかった。


 熱にうかされて夢を見た。


 七年前の、王都の秋の夢だった。


 大通りで慈善市が開かれている。貴族の令嬢たちが、手作りの刺繍や菓子を売って、そのお金を北の戦で傷ついた兵士たちのために寄付する催し。十五歳のエミリアは、リディアの引き立て役として母に連れられて来ていた。


 リディアの売り台には、人だかりができていた。エミリアの売り台には誰も来なかった。エミリアは売れ残りのハンカチを膝に載せて、ぼんやりと通りを眺めている。


 そのとき、通りの端で誰かが倒れた。


 若い兵士だった。北から戻ったばかりなのか、汚れた軍服を着ていた。顔の左側に、血のにじんだ包帯を巻いている。包帯がほどけかけて、まだ新しい、深い傷がのぞいている。


 通りの人たちは兵士を避けて歩いた。令嬢たちは扇で顔を隠して悲鳴を上げた。


 エミリアは売り台を飛び出した。


 兵士のそばにしゃがみこんでほどけた包帯を外した。傷は三本。獣の爪にでも裂かれたような。血がまだ止まっていなかった。


 膝の上の売れ残りのハンカチを全部使った。傷に当てて、押さえて新しいのを重ねて。


 ――大丈夫です。もうすぐ、お医者様が来ますから。


 兵士は朦朧とした目でエミリアを見上げた。黒い目だった。


 ――君は……誰だ。


 ――通りすがりの者です。しゃべらないで。


 ――名前を……。


 エミリアは答えなかった。答える前に、母が飛んできて、エミリアの腕をつかんで引きはがした。「何をしているの、みっともない! あなたが騒ぎを起こしたら、リディアの評判に傷がつくのよ」


 振り返ると、医者らしい男が、兵士のそばに駆け寄っていくのが見えた。


 エミリアの手は兵士の血で汚れていた。売れ残りのハンカチは、全部、兵士の傷の上に置いてきた。


 そのうちの一枚に、エミリアが自分で刺繍した、小さな頭文字が入っていたことをエミリアはずっと忘れていた。


 ――自分の名前の、最初の一文字を。




 目を覚ますと、寝台の横の椅子に、アドリアン様が座っていた。


 窓の外は夜だった。暖炉の火が部屋を橙色に照らしている。アドリアン様は膝の上で両手を組んでエミリアの顔を見ている。


「……アドリアン様」


「熱は下がったようだ」


 アドリアン様の大きな手が、エミリアの額にそっと触れた。ひんやりとして気持ちがよかった。


「三日、うなされていた。何度も、大丈夫です、と言っていた」


 エミリアは息をのんだ。


 夢。七年前の。三本の傷。黒い目。


 エミリアはアドリアン様の顔を見上げた。暖炉の火に照らされて、左の額から頬にかけての三本の傷跡が、くっきりと浮かんでいた。


 どこかで見たことがある、と思った。城門の前で初めて会ったとき。


 ――まさか。


「……アドリアン様。その、お顔の傷は」


「七年前に、北の森で魔獣にやられた」


 アドリアン様は自分の傷に指先で触れた。


「傷を負ったまま、報告のために王都へ戻った。大通りで倒れた。通りすがりの娘が、手当てをしてくれた」


 エミリアの心臓が、どくん、と大きく鳴った。


 アドリアン様は外套の内側に手を入れた。


 取り出したのは小さく折りたたんだ、古い布だった。もとは白かったのだろう。茶色い染みがいくつも残っている。洗っても落ちなかった、古い血の跡。


 その角に、色の褪せた糸で小さな刺繍があった。


 ――エミリアの名前の、最初の一文字。


 エミリアは口を押さえた。


「その娘は名乗らなかった。母親らしい女に、腕を引かれて連れていかれた。その女がこう言うのが聞こえた。リディアの評判に傷がつく、と」


 アドリアン様は布をエミリアの手のひらに載せた。


「リディアという妹がいる娘。それで、ロウエル伯爵家だと分かった。伯爵家には娘が二人いる。妹がリディア。姉の名前はエミリア」


 布が手のひらの上でかすかに震えた。震えているのはエミリアの手だった。


「私は伯爵家に申し出た。ロウエル家の娘を一人、妻に、と」


「……名前の、指定はなかったと」


「わざと書かなかった」


 アドリアン様の声が少しだけ低くなった。


「エミリアをと名指しすれば、伯爵家は理由を訊く。理由を言えば、慈善市の一件が知れる。君の母上は君が騒ぎを起こしたことを隠したがっていた。君がまた叱られると思った」


 エミリアは何も言えなかった。


「それに、伯爵家は、評判のいい妹のほうを寄こすだろうと思っていた。社交界の花を呪われた辺境伯に。……そうなったら、そうなったで、妹のほうに頼んで、姉に会わせてもらうつもりだった。礼を言うために」


「でも来たのは」


「君だった」


 アドリアン様はエミリアの目をまっすぐに見た。


「城門の前で、馬車の窓から、君が私の傷を見た。怖がらなかった。七年前と同じ目だった」


 エミリアの目から、涙があふれた。


「最初から……知って、いらしたんですか」


「最初から」


「わたしが、リディアだと名乗ったときも」


「知っていた」


「毎日、リディアと呼んでいらしたのに」


「君が、自分から本当の名前を言ってくれるのを待っていた」


 アドリアン様は少しだけ目を伏せた。


「七年前、君は名乗ってくれなかった。だから、今度は、君の口から聞きたかった。……だが、待っているうちに君が熱を出した。うなされながら、何度も、ごめんなさいと言っていた。嘘をついてごめんなさい、と」


 エミリアは寝台の上で布を胸に抱きしめた。


 ふた月。毎日、リディアと呼ばれるたびに、胸が痛んだ。嘘をついている自分が、苦しかった。この人に嫌われるのが、怖かった。


 この人は全部知っていて。それでも外套をかけてくれた。湖に誘ってくれた。書庫の鍵をくれた。


 リディアに、ではなく。


 わたしに。


「……エミリア、です」


 涙で声がぐしゃぐしゃになった。


「わたしは、エミリア・ロウエルです。妹のふりをして嫁いできました。ごめんなさい。ごめんなさい……」


 大きな手がエミリアの頬を包んだ。


 アドリアン様の親指が、涙をぬぐった。不器用な、ためらいがちな指だった。


「エミリア」


 はじめて本当の名前で呼ばれた。


 その声を聞いた瞬間、胸の奥で、七年間ずっと固く結ばれていた何かが、ほどけた。


「やっと、呼べた」




 熱が下がって五日目に、伯爵家から手紙が届いた。


 父の字だった。近いうちに、家族そろって辺境伯殿にご挨拶に伺う。日付は手紙が届いた日から、わずか五日後。


 エミリアは手紙を持つ手が、震えるのを止められなかった。


 何をしに来るのか、分かる気がした。父は用もないのに、娘に会いに来るような人ではない。


「エミリア」


 書庫の窓辺で手紙を握りしめていると、アドリアン様が隣に来た。手紙をのぞきこんで眉を寄せた。


「……妹も来るのか」


「たぶん。いいえ、きっと」


 喉が詰まった。


「アドリアン様。リディアはきれいです。わたしより、ずっと。金の髪で、青い目で、笑うと、誰でも好きになってしまうような子です。もし、あの子が来て自分が本物だと言ったら」


「エミリア」


 アドリアン様がエミリアの手から、そっと手紙を取った。たたんで窓辺に置いた。


「私の隣にいればいい」


「でも」


「何も言わなくていい。私の隣に、立っていればいい」


 アドリアン様はエミリアの、針の跡だらけの指先を自分の手で包んだ。


「七年前、君は、通りの真ん中で、一人で私のそばにしゃがみこんでくれた。誰も近寄らなかったのに。今度は私の番だ」


 エミリアは包まれた手を見下ろした。大きくて、ごつごつしていて、温かい手。


 怖さは消えなかった。消えなかったけれど、その手の温かさの分だけ、少しだけ、小さくなった。


 それから五日後、グラウ城に、一台の馬車が乗りつけた。


 扉に、ロウエル伯爵家の紋章。


 降りてきたのは金の巻き毛の、青い目の娘だった。薄紅色のドレスの裾を持ち上げて、城の玄関の階段を軽やかに上ってくる。


 リディアだった。


 その後ろに、父と母が続いていた。


 玄関ホールで、エミリアは、アドリアン様の隣に立っていた。妹の姿を見た瞬間、足がすくんだ。指先が冷たくなった。


「まあ、お姉様。お元気そうで」


 リディアはにっこりと笑った。


 それから、アドリアン様のほうを向いて、優雅に膝を折った。


「辺境伯様。はじめまして。わたくしが本物のリディア・ロウエルでございます」


 ホールがしんと静まり返った。


「実は、姉が、わたくしの名を騙って、勝手に嫁いでしまいましたの。わたくし、知らなかったんですのよ。本当に、申し訳ございません。姉はすぐに連れて帰りますわ。代わりに、わたくしが、正式な妻として」


 リディアはちらりとアドリアン様の顔を見上げた。左の額から頬にかけての、三本の傷跡。


 ほんの一瞬、リディアの笑みが引きつった。けれど、すぐに、また甘い笑顔に戻った。


 エミリアには分かった。


 王都で噂が広まったのだ。北の辺境伯は呪われてなどいない。魔獣を何十頭も討ち取った英雄で、王家の信頼も厚く、北の鉱山からの富で、王国でも指折りの財産を持っている。そして、ロウエル家の借金を肩代わりしてくれるほど、気前がいい。


 それを知って、リディアは来たのだ。


 父が咳払いをした。


「辺境伯殿。姉娘の不始末は伯爵家としてお詫び申し上げる。どうか、妹娘と、改めて」


「お断りする」


 アドリアン様の声がホールに響いた。


 低く、短く、少しの迷いもない声だった。


 リディアの笑顔が、凍りついた。


「……え?」


「私が求めたのは、ロウエル家の娘を一人、だった。名前は書かなかった。伯爵家が寄こしたのはエミリアだった。私はそれで満足している」


「で、でも、姉は、わたくしの名を騙って」


「知っていた」


 アドリアン様はエミリアの肩に、そっと手を置いた。


「最初から、知っていた。私が妻に迎えたかったのは、最初から、エミリアだ」


 リディアの顔から、血の気が引いていった。


 母が扇を取り落とした。父が口を開けたまま固まった。


「七年前、王都の慈善市で、傷を負った兵士を手当てした娘がいた。伯爵夫人、あなたが、その娘の腕を引いて連れ去った。リディアの評判に傷がつく、と言って」


 母の顔が真っ青になった。


「その兵士が、私だ」


 ホールの空気が凍りついた。


「エミリアが、伯爵家でどう扱われてきたか、この城に来てから少しずつ聞いた。繕いもの、商人の勘定、庭仕事。夜会には連れていかれず、名前も呼ばれず」


 アドリアン様の声が、静かに、冷たくなった。


「伯爵家の借金は、約束どおり肩代わりした。だがそれは、エミリアを妻にもらった礼だ。エミリアを返せというなら、その分はすべて返していただく」


 父の喉がごくりと鳴った。


 返せるはずがない。伯爵家の財産を全部売り払っても足りない額だ。


「……い、いえ。とんでもない。姉娘はどうぞ、末永く」


 父は母の腕をつかんでリディアを促した。リディアは唇を噛んでエミリアをにらんだ。


 その目をエミリアはまっすぐに見返した。


 怖くなかった。


 二十二年間、一度も言い返したことのない妹の目をはじめて正面から見た。


「リディア」


 エミリアは言った。声が震えなかった。


「わたしは、エミリアとしてここにいます。帰りません」


 リディアは何か言いかけて口を閉じた。くるりと背を向けて、薄紅色のドレスの裾を乱暴にひるがえして、玄関の階段を駆け下りていった。


 馬車の扉がばたんと閉まる音がした。




 その夜、エミリアは、城の裏の湖のほとりに立っていた。


 春の終わりの夜だった。湖面に、細い月が映っている。冷たい風に、針葉樹の匂いがまじる。


 足音がした。少しだけ左足を引きずる、ゆっくりした足音。


 アドリアン様が隣に立った。


「寒くないか」


「少しだけ」


 アドリアン様は黙って外套を脱いで、エミリアの肩にかけた。ふた月前と、同じように。


 でも今夜は違った。


 エミリアは外套の襟を指でぎゅっと握った。リディアに、ではない。わたしに、かけてくれた外套だ。


「林檎の苗、新しい葉が出ました」


 エミリアは湖面を見ながら言った。


「今朝、数えたら、七枚。最初は三枚だったのに」


「そうか」


「北の土でも、ちゃんと育つんですね」


「育つ。南の村の者がそう言っていた。根づくまでは少し時間がかかるが、根づいてしまえば、雪にも負けない、と」


 アドリアン様はそこで少しだけ言葉を切った。


「……君もそうだといい」


 エミリアはアドリアン様を見上げた。


 アドリアン様は湖を見ていた。耳の先が夜目にも分かるほど、赤かった。


 エミリアの胸の奥で、何かが、どくん、と大きく鳴った。


 伯爵家ではエミリアは、根づく場所を持たなかった。いつでも、どこにでも動かされる、鉢植えの花だった。リディアの引き立て役。屋敷の奥の、名前のない手。


 この城に来て、はじめて土に根を下ろせる気がした。


「根づきます」


 エミリアは言った。


「もう、根づいてます。たぶん、城門の前で、あなたの手を取ったときから」


 アドリアン様がゆっくりとこちらを向いた。黒い目がまっすぐにエミリアを見下ろしている。


 エミリアは目をそらさなかった。


「アドリアン様」


「何だ」


「七年間、あのハンカチを持っていてくださったんですね」


「……ああ」


「血の跡、ついたままでした」


「洗っても、落ちなかった」


「捨てようとは、思わなかったんですか」


 アドリアン様は湖を見たまま、しばらく黙っていた。


「戦場で、何度か、もう死ぬと思った」


 低い声だった。


「そのたびに、外套の内側の、あの布に触った。名前も知らない娘が、大丈夫です、と言った声を思い出した。……それで、生きて帰ってこられた」


 エミリアの胸がきゅっと締めつけられた。


 十五歳のエミリアが、売れ残りのハンカチで押さえた傷。母に「みっともない」と叱られた、あの日のこと。ずっと、恥ずかしいことだと思っていた。


 その一枚がこの人を七年間、生かしていた。


「アドリアン様」


 エミリアは外套の内側から、あの古いハンカチを取り出した。熱を出した夜に、アドリアン様が手のひらに載せてくれたもの。


「これ、お返しします」


「……君のものだ」


「いいえ。もう、あなたのものです。七年間、持っていてくださったから」


 エミリアはハンカチをアドリアン様の大きな手に載せた。


「その代わりに、新しいのを刺繍します。今度はあなたの名前の最初の一文字で」


 アドリアン様がゆっくりとこちらを向いた。


 月明かりの中で、黒い目が、大きく見開かれていた。三本の傷跡の上を細い月の光が、白く撫でていく。


「……エミリア」


「はい」


「もう一度、呼んでもいいか」


 エミリアは笑った。目の端に、涙がにじんだ。


「何度でも」


 アドリアン様の手がエミリアの頬に触れた。


 湖のほとりで、春の終わりの風が、二人の髪をそっと揺らした。


「エミリア」


 呼ばれるたびに、胸の奥で、名前が一つずつ、温かく灯っていく。


 二十二年分、誰にも呼ばれなかった名前をこの人はこれから毎日、呼んでくれるのだ。




(完)

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