遠摩溶
これはある男の、薄汚れた置き手紙だ。
私は他人の笑顔が信じられなかった。
人の顔を見るのも、気持ち悪かった。
歪な塊が終始私に纏わりついていた。
どれほど整った顔つきの女性でも、どんなに空間を歪ませる名画でも、私の心は満たされなかった。
ある時、八百屋でトマト(彼女)を見かけた。
足が勝手に向かっていた。
赤く、みずみずしいトマト達が並んでいた。
そこだけが景色がにじんで見えた。
目を離せずにはいられなかった。
これほどまでも、何かを見つめたことはなかった。
その中でも特に大きく、つやのあるトマトを一つ買った。
心が弾んだ。
足早に家に帰った。
丁寧に透明な箱をかぶせた。
彼女のエサは、私のまなざしだけで十分だった。
月明りの夜、彼女は青白く暗闇に滲み出していた。
どこからでも見える。一等星だった。
この日の夜は久しぶりに眠れた。
部屋に朝日が差し込んできた。
彼女は朝から曇っていた。
どんなに見つめても、あの輝きは戻らなかった。
私はあきれるように家から出た。
何時間たっただろうか。
頭が彼女でいっぱいだった。
どんなに上司に怒られても、彼女を思えば楽になった。
夕日が私の机を照らすと、わけもわからず走り出した。
やはり彼女は美しかった。
夕日に照らされ、一段とつやが増していた。
手に持つと、体の奥が震えた。
私は彼女にあてられた。
何分たっただろうか。
手を開くと、彼女は静かになっていた。
愛おしかった。
匂いをかぐと、私の内側が騒ぎ出した。
匂いに満たされることで、塊が柔らかくなった。
世界が静まり返った。
無心で、私の意識が周囲に重なった。
男の行方は誰もわからない。




