五百年の記憶と知識を抱え、時を逆行する
伝説によれば、この世界には**「時の河」**が存在すると言われている。
それは世界の時間の流れと循環を支える存在であり、春秋蝉の力を用いれば、その河を遡り、過去へと帰ることができるのだという。
だが、この神話については意見が分かれていた。
多くの者は信じず、また真偽を疑う者も少なくない。
本気で信じる者は、ほとんどいなかった。
なぜなら、春秋蝉を一度使うたびに、命そのものを代価として支払わねばならないからだ。
肉体も修為もすべてを燃やし尽くし、その力を発動させる。
その代償は、あまりにも重い。
しかも耐え難いのは――命を差し出したその先に、どんな結果が待っているのか、誰にも分からないという点だった。
仮に春秋蝉を手に入れたとしても、そう易々と使えるものではない。
もし噂が偽りで、ただの虚構だったらどうする?
方源も、追い詰められていなければ、決して軽々しく使うことはなかっただろう。
しかし今、彼は確信していた。
――真実は、すでに目の前にある。
彼は、本当に転生したのだ。
(惜しいな……)
方源は心の中で、静かに嘆息した。
膨大な歳月を費やし、数十万もの命を奪い、天を怒らせ、人々の怨嗟を背負い、幾多の苦難を越えてようやく完成させた至宝の蛊――春秋蝉。
だが、それは彼と共に転生してはこなかった。
人は万霊の長。
蛊は天地の精華。
蛊には千差万別、奇怪で神秘的な形が無数に存在する。
一度、二度、あるいは数度使えば消滅する蛊もあれば、限界を超えない限り、何度でも使用できる蛊もある。
春秋蝉は、おそらく前者――
一度きりで消え去る類の蛊なのだろう。
(だが、失われたとしても構わない)
(前世で成し遂げたのだ。今世でも、もう一度やればいいだけだ)
惜しむ気持ちを切り捨てた瞬間、方源の胸に、野心と決意が燃え上がった。
転生できたという事実だけで、春秋蝉の喪失など安い代償だ。
それに――
彼は何もかもを失ったわけではない。
彼が携えている最大の財産。
それは、五百年分の記憶と経験だった。
その記憶の中には、今の時代ではまだ誰も手を付けていない秘宝や奇遇が数え切れぬほど眠っている。
歴史の流れ、大事件の発生時期、無数の人物――
隠世の強者、未来の天才、まだ生まれてもいない怪物たち。
さらに、五百年に及ぶ苛烈な修行と、血に塗れた戦闘経験。
これらすべてを握っている今、彼は未来の全体像を掌中に収めていた。
綿密な計画さえ立てれば、誰よりも早く一歩先へ進み、境界を破ることも不可能ではない。
「……さて、どう動くか」
方源は冷静に思考を整理し、窓外の夜雨を見つめながら考え込んだ。
だが、考えれば考えるほど、眉間の皺は深くなる。
五百年という時間は、あまりにも長い。
曖昧になった記憶も多く、秘境や奇遇の場所を思い出すだけでも一苦労だ。
しかも、それらは特定の時期に、遠く離れた場所へ赴かなければならないものが大半だった。
(何よりも重要なのは――修行だ)
(今の俺は、原海すら開いていない。ただの凡人)
「まずは修行を始め、歴史に追いつき、最良の条件で機会を掴む必要がある」
基礎もないまま秘境に足を踏み入れれば、それは宝探しではなく、自殺行為だ。
今の方源にとって、最大の問題は――修行。
前世のように出遅れれば、すべてが手遅れになる。
「最速で修行するには、一族の資源を借りるしかない。今の俺では山を越える力もない。普通の山猪一頭で命を落とす」
「三転蛊師にさえなれれば、自衛の力を得て、この山を出られる」
五百年を生きた魔道修行者の目から見れば、青茅山はあまりにも小さい。
古月村など、檻のようなものだ。
だが――
檻は自由を奪う一方で、確かな安全も与えてくれる。
「しばらくは、この檻に留まるとしよう。三転に到達すれば、ここを出る」
「幸い、明日は開脈の儀だ。すぐに蛊師への道を歩める」
開脈の儀――
その言葉に、封じ込めていた過去の記憶が、静かに蘇った。
「……才能、か」
方源は鼻で笑い、窓の外へと視線を投げた。
その時、部屋の扉が静かに開き、一人の少年が入ってきた。
「兄さん、どうして雨の中で窓辺に立ってるの?」
痩せた体躯で、方源よりわずかに背の低い少年。
顔立ちは酷似している。
方源が振り返ると、一瞬だけ複雑な感情が瞳をよぎった。
「……お前か。俺の双子の弟」
眉を上げ、すぐに冷淡な表情へと戻す。
少年――方正は、俯いたまま自分の足先を見つめていた。それが彼の癖だった。
「兄さんの窓が閉まってなかったから……明日は開脈の儀だし、もう遅いよ。叔父さんと叔母さんが知ったら、きっと心配する」
方正は、兄の冷たさに慣れていた。
幼い頃から、兄はずっとこうだった。
(天才って、きっとこういうものなんだろう)
同じ顔をしていても、自分は蟻のように凡庸だ。
同じ母の胎から生まれたのに、なぜ天はここまで不公平なのか。
兄には眩い才能を与え、自分には何も与えなかった。
周囲はいつも言う。
「方源の弟だ」
叔父や叔母も、常に兄を見習えと言う。
鏡を見るたび、自分の顔が嫌になることすらあった。
積み重なった思いは、重石のように心を押し潰し、
年を追うごとに、方正は俯き、口数も減っていった。
「……心配、か」
叔父と叔母の顔を思い浮かべ、方源は心の中で冷笑した。
彼は、はっきりと覚えている。
この世界での両親は、一族の任務で命を落とした。
三歳の時、彼と弟は――孤児になったのだ。
「養育」という名目のもと、叔父と叔母は両親の遺した遺産をすべて掌握し、方源と弟に対しては冷酷な仕打ちを続けていた。
本来、方源は平凡に生きるつもりだった。
才能を隠し、時を待ち、静かに成長する――それが彼の当初の計画だった。
だが、現実はあまりにも苛酷だった。
生きるために、方源はやむを得ず、一部の才能を露わにする選択をした。
とはいえ、その「才能」とは、ただ成熟した知性と、地球で覚えた数篇の古詩を持っていただけに過ぎない。
それだけで、人々は驚き、注目し、騒ぎ立てた。
外部からの圧力を受け、幼い方源は決断する。
――冷たい仮面を被ろう、と。
感情を押し殺し、無表情を貫くことで、自分を守り、秘密が漏れる可能性を最小限に抑える。
やがてその冷淡さは、彼にとって自然な「癖」となった。
その結果、叔父と叔母は露骨な虐待をやめた。
年月が経ち、兄弟が成長するにつれ、待遇は次第に改善されていった。
だが、それは愛情ではない。
将来への投資に過ぎなかった。
滑稽なことに――
弟の方正は、その事実に最後まで気づかなかった。
叔父と叔母に欺かれただけでなく、彼は心の奥に不満と怨念を積み重ねていった。
今は温厚で誠実そうに見えるその弟も、方源の記憶の中では違う。
開脈の儀で甲等資質と判明した後、一族は総力を挙げて彼を育て上げた。
その瞬間、長年抑え込まれていた嫉妬、憎悪、劣等感が一気に噴き出す。
それ以降、方正は何度も兄を狙い、抑え込み、苦しめた。
一方で――
方源自身の資質は、丙等に過ぎなかった。
運命とは、なんと皮肉なものか。
双子でありながら、
兄は十数年「天才」と称えられ、
弟は見向きもされなかったが、真の天才は弟の方だった。
開脈の儀の結果は、一族を震撼させた。
それを境に、二人の立場は完全に逆転する。
弟は天へ昇る龍となり、
兄は地に墜ちた鳳凰となった。
そこから始まったのは、弟からの妨害、
叔父と叔母の冷たい視線、
族人たちの嘲笑と軽蔑。
――憎かったか?
前世の方源は、確かに憎んでいた。
自らの資質を、
情のない一族を、
そして、あまりにも不公平な運命を。
だが今は違う。
五百年の人生を経た今、過去を振り返っても、心は静まり返っていた。
そこに憎しみは、一片も残っていない。
(怨恨に、何の意味がある?)
視点を変えれば、弟も、叔父と叔母も、
五百年後に自分を討ちに来た敵ですら、理解できる。
弱肉強食。
適者生存。
それこそが、この世界の不変の法則だ。
誰もが己の利益のために動き、機会を掴もうと足掻く。
血と殺戮の中で、理解できぬことなど何がある?
不老不死を求める心を持った瞬間から、
方源はすでに、このすべてを理解していた。
もし誰かが、その道を阻もうとするなら――
誰であろうと、殺す。
この道は、世界を敵に回す道。
孤独と殺戮が定められた、修羅の道。
――それが、五百年の人生が導き出した結論だった。
「復讐が目的じゃない。魔道に、妥協はない」
そう言って、方源は小さく笑い、弟を一瞥した。
「もういい。下がれ」
その視線を受けた瞬間、方正の心臓は跳ね上がった。
まるで氷の刃が心臓を貫いたかのようだった。
秘密をすべて見透かされ、
雪原に裸で立たされているかのような感覚。
「……では、また明日、兄さん」
それ以上何も言えず、方正は静かに扉を閉め、部屋を後にした。




