ケッコンのとき
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
李下に冠を正さず、とはよく聞くことわざのひとつだよねえ。
怪しいこと、疑わしいことはやらない。基本的なこととはいえ、それは互いに共通した常識を持っているからこそ、注意できることだ。
知らないところの知らないルール。仮にそれを破らなかったとしても、破るようなそぶりを見せただけで警戒対象になりかねない。
勉強てのは、こういう不幸な行き違いをなくすためにも重要なのだと思うよ。自分のポテンシャルを引き出す前に、制裁を受けて永遠に芽を摘まれるなんて死にきれないだろう。
最近、友達から聞いた注意ごとがあってね。ちょっと興味深いかもと思って、ネタを持ってきたんだ。よかったら聞いてみないか?
友達の地元だと注意することのひとつに「ケッコン」なるものがあるらしい。
結婚、血痕などがぱっと思いつくだろうけど、友達の地元だと前者の結びつきという面が強いものらしい。
思いもよらない者同士が、結びつかんとしている姿を見たとき、自らもまた普段とは縁の薄いものと結びつく姿勢を見せなくてはならない。それがそのとき、その場限りの大切なルールなのだから、とね。
それは縁の結びであり、またその空気の結び目でもあるらしいのさ。
友達が初めてそれを目にしたのが、ある年の初詣の帰りだったらしい。
家族そろって神社から帰るおり、たまたま境内の駐車場を見やったところ、長い長い木の枝をたわませ、マフラーのようにくるまりながら目をつむっている人がいたのだそうだ。
これが白装束なり、なにか神秘的なよそおいをしていたのであったなら、まだ何かの儀式かとも思われたかもだけど、これが赤いダウンジャケットに青いジーンズとほぼ参拝客のような恰好だったから驚いたさ。
「ケッコンだ」
それを見て両親がつぶやいたのが、友達とケッコンのはじめての出会いだったわけだ。
当時、小学校低学年だった友達は家に帰ってから、ケッコンの無数のパターンを覚えさせられることになる。それは五十音やアルファベッド並みの大事さといわんばかりに、何度も何度も仕込まれたそうだ。
どうも、ケッコンを実際に行っているのを目撃したことがでかいらしい。実践する機会が近々おとずれる恐れがあるからってね。
もし、あそこで気付かなかったのであれば、あれほど徹底した教育を受けるのはもっと後だったんじゃないかとね。
幸い、といってはなんだけど、ケッコンの出番はすぐにやってくることはなく。パターンを叩きこまれてから、数年間はおとなしいままだった。
けれども、とうとう教えられたことを実践しなければならないときが来てしまう。
これもまたついているといっていいのか、学校の帰り道だったらしい。当時は自由な登下校であり、自分一人の帰り道だったらしいんだ。
田んぼ道へ差し掛かった際、ふとわきの田んぼを見下ろすと、一匹のカエルがいたという。
座り込んでいるわけでも、田んぼに張った水を泳いでいくわけでもなく、植えられた苗の一角にくっついていた。
ただ張り付いていたわけでもなく、自分の矮躯を苗の緑部分に括り付けている。あのとき、神社の境内で見たダウンジャケットの人のように。
――まじかよ。ケッコンじゃん。
友達の思考回路は、すぐに叩き込まれたことへ反応する。
「ケッコンてのはな。いわば現代版の大名行列みたいなもんだ。行列の邪魔はしてはならず、主役たち以外は決められた動作でもって平伏しなきゃいけない」
「あのとき、神社で人が枝にくるまってたけど僕たちは平気なの?」
「ああ、行列に対して平伏しなきゃいけない人は、動物たちのサインによって判断がつくからな。対象は必ず、目印の動物たちに視線を集められる。
あのときは、あの人以外に発見することはできんかったからな。我々は平伏を求められる立場じゃなかったということ。だが、いつ来てもいいように、今から徹底的にパターンを教えていくぞ……」
今回のカエルが苗にくるまるパターンは、ちょうどあのときの境内の人と同じようにすればいい。
友達はあたりを見やって、田んぼのあぜ道の交差点に立つ木に目を止める。その中で何本か垂れ下がっているものの中から、太すぎず、細すぎず。
途中で枝が折れないように注意しながら、くるりと自分の身を一回り。そうしてカエルの見ていた方向。自分の歩いていた道路方面を見やった。
「目印の動物の見ていたほうを、よく確かめておけ。そちらに行列が通っていくはずだ。平伏を命じられた以上、お前には見届ける義務がある。無視すれば打ち首されても文句は言えないからな。通り過ぎるのを待て。
行列は対象者にしか見ることはできん。どのようなものか分からんだ、視界の果てに消えるまで見届けろ」
友達のときは、くるまってからほどなく。木の陰から出てくるような形で、道路へ現れ出たものがある。
既存の知識であらわすならば、いったんもめんのごときもの。風もなく、中空に浮く長くて白いふんどしを思わせる身体だった。
友達の目線の高さでもって横切っていき、その間も道路を車や自転車に乗った人が行き来するも、彼らはこの異様な存在にまったく目もくれない。ときおり、友達のほうへ目を向けることはあっても、そのまま凝視せずに通り過ぎるのみだ。
いったんもめんが通る間、友達は自分の身を包むようにした枝が、凍り付いたように冷たくなっているのを強く強く感じていたのだという。