006話「新たな目標」
夜の礼拝を終えたヒルダは、メイドのエリーゼと共に聖堂の奥にある院長室に呼ばれていた。
「ご無沙汰しております。叔母様。この度は大変お疲れ様でした。此度のご采配、誠に——」
「そういう堅苦しい挨拶はいいよ。晩飯もまだだろ? 食事を持ってこさせるから一緒に食べようじゃないか」
トラヴァルト修道院院長のリヒャルディス・ヴェッセルは、どっかり身を投げ出すようにソファへと座った。
「いえ、そんなわけには……」
「いいから、こっち座りな。ほら、エリーゼもおいで」
リヒャルディスはヒルダを手招きし、メイドであるエリーゼもソファに座らせようとする。
「いいえ、私は一介のメイド。そのような無礼な真似は致しかねます」
とエリーゼはモノクルをクイっと上げながら拒否。
「なんだい、相変わらず面倒臭い女だねぇ。いいから来な!」
(相変わらずなのは叔母様の方じゃない?)
身分の差などには執着せず、思うがままにものを言い、あるがままに行動する。
それが元・悪役令嬢リヒャルディスだった。
エリーゼはしぶしぶわたしの横に座った。
今から28年前のことだ。
ネアンデル王国では二代前の国王の婚姻を巡って内紛が勃発していた。
王位に就いたばかりのヨアヒム・ロズモンドが当時の婚約者、ヴェッセル辺境伯の長女リヒャルディスとの婚姻を突如破棄するという事件が発端であった。
類まれなる美貌とサファイアのような瞳を持つリヒャルディスは「蒼玉姫」とまで呼ばれたが、ヨアヒムがその女性らしからぬ苛烈な性格を嫌い、結婚相手に別な貴族令嬢を選んだのが主な原因だと言われている。
その事件がきっかけで国内の貴族間の勢力争いが激化し、表沙汰になっただけでも18名もの死者が出たが、最終的にはリヒャルディスをトラヴァルト修道院に追放することで一応の決着をみた。
ヴェッセル伯爵家も騒動を起こした責任を追及され、一時はお家取り潰しの危機にあったが、それを救ったのはわたしの父であるだったフランツ・フォルマーだ。
当時15歳にして、11歳だったわたしの母で次女であるルイトガルテ・ヴェッセルと婚約してフォルマー家が後ろ盾についたため、それ以上の手出しを行う貴族はいなかった。
「ルイーダ(ルイトガルテ)を通して知ってると思うけど、法王には話をつけた。帰ろうと思えば、アンタはここから明日にもここを出られるよ」
「え?」
言うまでもなく、法王は紛れもなくエルバー教法王庁のトップで、下手をしたら一国の王よりも偉い人だ。
それをこんな事も無げに話すとは。
(あの噂は本当だったのかな。叔母様がその美貌を利用して法王を籠絡してるって話……)
「でも、あの男もそろそろくたばるかもしれないからね。行動するなら早い方がいい」
「……最近ご体調を崩されているとは伺っておりましたが、そこまでとは存じ上げませんでしたわ」
現エルバー教法王は齢90歳を超えているとのことだが、近年になって大病を患って伏しており、公の場にはすっかり姿を見せなくなっていた。
そのため様々な枢機卿が法王の座を狙って、勢力の拡大を目指しているという話はヒルダの耳にも届いていた。
「あのジジイがおっ死ぬ前に、ヒルダも一度顔を見せておいた方がいい。アンタはアタシの若い頃にそっくりだからね。きっと気に入るさ」
(叔母様の話のメインはそれか!?)
言葉遣いこそ荒めだが、姪であるわたしへの思いやりに溢れている。
また、かつてフォルマー家にから受けた恩義を返そうという想いもあるのだろう。
法王がご存命の内にわたしを会わせて親交を深めることで、フォルマー家に手を出しにくくなる状況を作りたいという強い意志を感じている。
でもわたしはあの魑魅魍魎の世界に戻りたくない。
そしてチャレンジしてみたいことがある。
それも、ほんの数時間前にできた新たな目標。
まだ思いつきのレベルでしかないし、公爵令嬢の地位をなげうつほどの価値があることなのかも正直分からない。
でも今の気持ちを打ち明けずにはいられなかった。
「あの……私は、ここを離れたくありません」
「うん? ……なにを言い出すんだい、ヒルダ」
「このトラヴァルト修道院でやりたいことがあるんです」
「お嬢様! お気は確かですか?」
エリーゼがたまらず叔母様との会話に口を挟んだ。
「お父上やルイトガルテ様が、お嬢様をどれだけ心配なされているか……」
「でも、私は!」
「ここに残って一体なにをやるつもりだい? パーティーや学校の勉強くらいしか知らないお姫様が」
リヒャルディスは思いもよらなかったヒルダの発言に目を見張りながらも、冷静に真意を確かめようとしている。
「ビールを作りたいんです!」
「ビール? ああ、エールのことだね」
「はい」
「お待ちください! お嬢様があのビール醸造所でお仕事なさったのは、今日が初めてではありませんか」
「そうなのかい?」
「ええ、そうです」
「なんでビールなんだい? ワインならともかくお貴族様が下賤な者が好むようなビールを口にする機会なんてなかったろうに」
「その通りです! 私もここのビールを一度こっそり飲んでみましたけど、それはもうお粗末なものでしたよ」
「お粗末で悪かったね! いや、エリーゼ。今は口を挟まないでおくれ」
「も、申し訳ございません」
「私は……私はビールの可能性を信じています」
ヒルダは唇を真一文字に引き結び、顔を上げてふたりをまっすぐ見つめた。
「信じていただけないかもしれませんが、ビールについてはここに追放される以前から一生懸命勉強してきました。原料となる麦の選定や麦芽の作り方、焙燥の方法、砕きから発酵、熟成に至るまで……」
「学校でそんな本を読んだのかい? でも、耳学問でビールが作れたらアタシだって苦労はないよ」
(ぐっ、鋭いところを突いてくる)
「ビール作りってのはね。職人の技術の積み重ねと、ちゃあんとした設備があってはじめて――」
そのリヒャルディスの言葉を遮るように、ヒルダは指を3本立てる。
「3ヶ月時間をください。今のより美味しいビールを作ってみせますから!」
「お嬢様、それはさすがに無理がございましょう」
エリーゼが慌ててヒルダを制止しようとする。
「へぇ、ずいぶんと自信があるようだね。 面白いじゃないか!」
リヒャルディスはヒルダの宣言を聞いて、ニマっと口角を上げた。
「それでは……」
ヒルダの顔がパアッと明るく輝く。
「でも3ヶ月は長いね。2ヶ月後にアンタの本気とやらを見せてごらん」
リヒャルディスは指を2本立てて、ヒルダに問うた。
「2ヶ月……ですか。分かりました、それまでに必ず成果をあげてみせます!」
ヒルダは人差し指を額に当て、必死にスケジュールの計算をしてからそう答えた。
「見込みがないなら、大人しくフォルマー家に戻るんだよ。いいね?」
「もちろんです!」
「ああ……そんな大事なことをビール作りなんかで決めてしまわれて。ルイトガルテ様にどう説明すれば……」
エリーゼは頭を抱えていた。
(ごめん、エリーゼ。しばらくわたしのわがままに付き合ってもらうね)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「さて、時間もないことだし、さっさと晩ご飯を食べてしまおう」
リヒャルディス院長はテーブルの上に置いてあったベルを振って、チリチリと鳴らした。
すると院長室のドアから、誰かがお膳を2つ持ってきた。
まず院長とわたしの分をテーブルに置くと、もうひとつエリーゼの分を取りに戻った。
これからビールを作れるという感慨に耽っていたわたしは心ここにあらず状態で、
(あれ? 今の、男の人だった?)
と、一度部屋から出ていく背中を見てようやくその存在に気づいた。
「え、どうしてここに男性がここに……?」
「何をおっしゃっているのですか? お嬢様がロズモンド学園に通われていた時からずっとフォルマー家に仕えている方ではありませんか」
エリーゼが半分呆れたように言う。
(ずっと……?)
「私たちが王都ミッダーリンゲンから脱出する時も、馭者として助けていただいたでしょう」
「そ、そうだったかしら……?」
(あの時はとにかく無事に逃げ出すことで精一杯だったし……)
「今は男性巡礼者用の宿所にお泊りです。院長もお帰りになったことですし、今後はそちらのお仕事もお手伝いいただこうと考えております」
基本的には女性修道院は男子禁制だが、院長を補佐するため例外的に男性の出入りを許す場合があるそうだ。
そして再びその男がエリーゼのお膳を運んできた。
しかしその男の顔を見て、ヒルダは仰天した。
年齢は40代半ばくらいから50代くらいで、髪型はセンター分け、ちょっとトボけたような顔をしている。
そこで一番特徴的なのは、鼻の下に喜劇俳優のようなちょび髭を生やしているところだ。
——ちょび髭のゲッツ!?
『ローズ・キングダム』の中級以上のプレイヤーであれば、ちょび髭のゲッツは誰もが知っているキャラクターだった。
ロズキンのエンディングで、【聖女】ルカを虐げたヒルダを断罪するイベントに参加する攻略キャラクターのひとり、ロズモンド王朝諜報員のゲオルク・バァル。
変装術を得意とし、ヒルダの悪行をスパイするためにたびたびフォルマー家の使用人として潜入調査をしていた。
その際に利用していた名が「ゲッツ」であり、トレードマークがこのちょび髭だったのである。
ふんぎゃあああああああ!!!??