005話「妖精」
「それでは、お掃除を始めさせていただきます!」
まず、空になっていたビールを発酵させるために使う巨大な鉄製の窯を洗浄することになった。
ミアは修道服の袖をまくり、スカートをたくし上げ、腿のところでまとめた。
同じようにわたしも袖やスカートをまくり上げたが、近くにエリーゼがいたら「仮にも公爵令嬢であるお嬢様が、そんなみっともない恰好をするなんて許されません!」と絶叫するかもしれないが、今のわたしはただのヒルダ。
躊躇はない。
ただ、うっかり「封じの腕輪」が外れてしまわないように気をつけねば。
デッキブラシを受け取り、マスクをして準備完了。
まずミアが隣の窯に水をかけ始めたのを見て、真似をする。
そして全体を濡らし終えたところで、猛然とブラシでその胴体を擦り始めた。
ガシュ、ガシュ、ガッシュ
ガシュ、ガシュ、ガッシュ
腰が入った気迫のブラッシングを見せてやろうじゃないの。
その時脳裏に浮かんでいたのは、ビール作りにおいてもっとも重要なのは「清掃」だと教えてくれた上司の言葉だった。
ビール作りの主役は酵母であり、人はその酵母が快適に働けるよう清潔な環境を整えることこそが、安全で美味しいビールを作るための秘訣なのだ、と。
「ヒルダさん、ブラシの使い方がお上手ですね!」
「本当ですか? ありがとうございます!」
ミアは褒めてくれたけど、これは腕と腰への負担がめちゃくちゃキツい……。
現代でビール作りを行う場合、通常ではステンレス製のタンクを使用し、その洗浄には苛性ソーダや過酢酸などの強力な洗剤を使ったり、タンク自体に備え付けられたスチーム洗浄機能を使って蒸気で消毒を行うのが通常。
しかし今は錆びやすい鉄製の窯と液体状の石鹸しかない上に、洗うためのホースどころか水道自体が存在しない、煮沸用の熱湯を一から炊かないといけない、とないない尽くし。
醸造所の中が元々湯気で気温が高かったこともあり、すぐに修道服が汗まみれになってしまった。
うわー、パンツまでぐしょぐしょ。
「あのー、ヒルダさんはウチのビールを飲んだことありますか?」
鉄釜を洗いながら、ミアは突如話を振ってきた。
「ええ、昨日の昼食の時に初めて飲みました」
「それでどうでした? 美味しかったですか?」
「えーと……そうですね。私はあまりビールを飲んだことがなかったのであまり馴染みのない味で驚いたと言いますか……」
ヒルダがそう言い淀みながら答えると、ミアががっくりした顔する。
「でよねぇ。わたしだって自分で作っててイマイチだと思いますもん」
「ミアさん……」
「それでも昔はね、なかなか美味しいビールを作ってたんですよ。でも、ここのリーダーだったシスター・ユッタが一昨年にお亡くなりになられまして。かなりのご高齢でしたから」
(ふむふむ)
「ですけど、それまでその方の経験だけに頼った作り方してたので、どうやったら美味しくなるのかが分からないんです。手引書もほとんど残ってないので……」
彼女らが手引書と呼ぶ冊子を見せてもらったけど、本当に大まかな作業手順をまとめただけのもので、それぞれの工程における温度調整の記述もなく、マニュアルと呼ぶには不十分なものだった。
「下働きの経験しかないわたしたちが、記憶を辿って真似してみてるんですが……。やっぱり限界があると思うんですよねぇ」
更に詳しく話を聞くと、晩年のシスター・ユッタは認知症のような症状を起こしており、意思の疎通自体が難しかったようだ。
「なるほど……そのようなご事情がございましたか」
色々と思い当たる節はあった。
今行っている洗浄方法も、労力の割には消毒効果が薄そうだ。
最終的に出来上がったビールは妙に酸っぱくて雑味が強いが、こうした衛生面の影響が少なからずあったのではないだろうか。
そして今のビール工房のメンバーたちには基本的なノウハウが蓄積されておらず、品質の改善方法も分からないため悩んでいるようだった。
それに設備についても、厨房の充実ぶりと比較するとだいぶ古さが目立っている。
(なにか……わたしができること、ないかな)
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頼まれた全ての3つの鉄窯や木製の槽の洗浄と乾燥、床の清掃を終えると、日は傾き始めていた。
「とりあえず今日の分の掃除は終わりです。お疲れになったでしょ?」
「そうですね……醸造所のお仕事がものすごく大変だということは分かりました」
「あはは。それじゃ後は道具を片付けて上がりましょうか」
「はい!」
とミアとふたりで、用具箱にブラシを仕舞うべくビール工房の奥に向かって歩いていった。
既に一面薄暗くなっている。
すると、ヒルダの横をひとつの光の粒がスゥーと通り過ぎた。
(ん、今のなに? 虫……?)
光の粒は、今度は顔の周りをクルクルと飛び回り始める。
蛍にしては大きすぎる。
ただ鳥にしては羽ばたく音はないし、知る限り発光する鳥なんてこの異世界にも存在しないはずだ。
その謎の生物が、ヒルダの目の前で静止した。
「きゃあっ!」
驚いたヒルダは床に尻もちをついた。
そこにあったのは、蝶のような羽をはためかせながら空中に浮かぶ妖精の姿だった。
大きさ的には人間の手のひらほどで、服は何も着ておらず、透き通るように淡く白い肌。
身体のどこにも男女を表わす特徴は見当たらない。
それが無表情でわたしを見下ろしている。
「どうしたんですかヒルダさん?」
「あ、あの妖精……!」
「え、なんですって?」
と妖精のいる方を指差したが、ミアはキョトンとしている。
すると妖精はヒルダをからかうように宙返りをし、床に無造作に置かれていた麻袋に向かって飛んでいった。
その妖精は麻袋にひょいと飛び込み、隠れた。
「それ、一体なんなのですか?」
「これですか? これは酵母の乾燥ペレットですよ」
ミアは袋の中から、ひょいと妖精を掴んで取り出した。
妖精はパタパタと羽を動かして暴れている。
「酵母……?」
先ほどヒルダ自身で言及した、ビール作りの主役となる存在である「酵母」。
酵母とは、ビールの原料となる麦芽のジュースの糖分をアルコールと炭酸ガスに分解する(発酵させる)微生物のことで、欠かすことができない重要な存在だ。
穂乃花はビール工場で何度も触れていたが、ペレット状に固められたものだった。
こちらの世界の酵母は妖精の姿をしているのか。
なんとファンタジックな。
「その……ヒルダさんのいう妖精ってのはよく分かりませんけど、長年使われているビール工房ですし、見えない菌が色々漂ってると思いますよ」
と、ミアは妖精をポイっと袋に投げ入れて戻した。
——どうやら酵母が妖精の姿に見えるのは、わたしだけっぽい。
妖精は袋の中からピョコンと顔を出し、わたしを見てなにがおかしいのかクスクス笑っている。
しかしその姿はほどなく薄くなり、溶けるように消えていった。
残されたのは麻袋に入れられた、ただのペレット。
今のは一体なんだったんだろうか。
「それでは明日もまたよろしくお願いします!」
と、わたしはメンバーたちに手を振って一足先に醸造所を出た。
全員初めて会話をした人たちばかりだったけど、とても和気藹々と仕事ができたのではないかと思う。
ハードな仕事なせいか、醸造所での作業を希望する人が少ないので、それで特段わたしに優しくしてくれたのかもしれない。
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一度寮の部屋でびしょ濡れになった下着を取り替え、礼拝堂に向かうと、その入り口の近くにエリーゼが立っていた。
「あら、エリーゼ。どうしたのこんなところで」
わたしのメイドだったエリーゼにこっそり声を掛けた。
普段は、他の修道女の目を避けて話をするようにしているからだ。
「ちょうど今、リヒャルディス様がお帰りになられたようです」
「そうですか。それなら礼拝が終わってから、ご挨拶に参ります」
夜の礼拝の後は毎度楽しみにしている晩ご飯の時間だけど、食べられないかな。
厨房からパンとチースだけ拝借してお部屋で食べよう、なんて考えてたら、急にバタバタと修道女たちが走り出し、にわかに騒がしくなってきた。
(え? え? みんなどうしたの?)
礼拝堂の中からも、修道女たちが次々と飛び出してくる。
リンゴーン
リンゴーン
リンゴーン
夜の礼拝の開始を告げる鐘が3度鳴り響いた。
しかし礼拝堂に行くべき修道女たちは、門の下に集まって2列に並んでいる。
「リヒャルディス院長のお帰りです!」
門から中に入ってきたのは、4頭立ての大きな箱馬車。
続いて木箱を積んだ6台の幌馬車がぞろぞろとやってきた。
修道女たちは馬車を挟むように並び、馬車に一礼をする。
「「「院長、お帰りなさいませ!」」」
しかしそれに呼応するように、先頭の馬車の扉がバン!と乱暴に開かれた。
「なーにやってんだい、お前たち!」
美人だが、やや年増の修道女が声を張り上げて怒っている。
「修道女が礼拝をすっぽかすなんてあり得ないよ! とっととお行き!」
語気の荒々しさに怯んだ修道女たちは、蜘蛛の子を散らすようにその場から立ち去り礼拝堂に駆け込んでいくのだった。
あのお方こそ、トラヴァルト修道院の院長リヒャルディス・ヴェッセル。
わたしの叔母でもあり、元祖・悪役令嬢と呼ばれた女性だ。