004話「トラヴァルトビール工房」
丸山穂乃花は帝京農業大学の醸造学科を卒業後、中堅ビール会社の日の出ビールに就職し、製造工場で学んだり、本社の開発研究所に所属し幾つかの新商品を世に出した。
その後本格的なクラフトビール作りに興味を持つようになり、同じグループが新設したクラフトビール製造事業を展開する「サンシャインブルワリー」へ転籍。
そこはより質の高いクラフトビール作りを目指し、地方の小規模なビール醸造所と手を組んで共同出資で醸造所併設レストランを出店する計画を進めていた。
穂乃花はそのプロジェクトメンバーの一員として東京昭川市のビール醸造所と打ち合わせをし、目玉となる新商品の試飲を終えて帰宅する途中であの事故に遭ってしまった。
(ああ、あのビールが、あの店が世に出るところをせめて一目だけでも見たかった……)
という強い想いが、今もなお残っている。
——生まれ変わったら、きっと。
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そしてわたしがトラヴァルト修道院にやって来てから、ちょうど2ヶ月目の深夜。
深夜にシスター・ハンナが寝たところを見計らって部屋を抜け出したわたしは、巡礼者が寝泊まりする宿所に向かい、その内のひとつの扉を叩いた。
「ヒルダ様」
中からひっつめ髪でメイド服姿の女性が顔を出した。
ヒルダの元専属侍女のエリーゼ・ミーゼス。
エリーゼはヒルダの物心が付く前から仕えており、ロズモンド学園から追放されたわたしに付き添ってトラヴァルトまで共にやって来ていた。
貴族の出であるため、通常であれば下層出身者の出が多いメイドの制服を着る必要はないのだが、昔から「こちらの方が機能的だ」という本人の希望で着用を許していた。
「わざわざご足労いただき申し訳ございません、お嬢様。さあ、中へ」
ヒルダは周囲を見渡しこっそりと入室する。
「こちらこそこんな時間にごめんなさい。ハンナ先輩、遅くまで自習してるからなかなか抜け出せなくて」
修道院には基本、修道女しか居住することは許されていないものの、彼女と数人の元使用人だけは例外的に院内に設置された巡礼者用の宿所での寝泊まりが許されていた。
何故そんなことが可能か、身も蓋もない言い方をすれば、フォルマー家の威光のおかげだ。
ヒルダは聖女ルカに危害を加えようとした罪を問われたが、仮にも王室に次ぐ家柄である公爵の長子を獄に繋ぐわけにもいかない。
そこでロズモンド王家とフォルマー家の関係悪化を回避するため、ひとまずヒルダを修道院送りするという形で手打ちをしたわけだ。
「ああ、なんとおいたわしいことでしょう。こんなにお痩せになってしまわれて……」
エリーゼがヒルダの手を優しくさすり、涙を浮かべた。
たしかにここで過ごしたこの2ヶ月間で余計な脂が抜けた気がするが、手はだいぶ荒れ始めている。
それに睡眠時間が足らないので、特に今の時間は猛烈に眠い。
「ううん、大丈夫よ。先輩の方々が私を優しく指導してくださるから。日々覚えることが多くて、とても新鮮に感じるわ」
「そんな、お嬢様……」
「このままここで暮らして……女神と誓約をしてもいいのではないかと考えているの」
「それはなりません!」
泣きそうな顔でエリーゼがヒルダの手を握りしめる。
その瞬間、パキっと音が鳴って、エリーゼの口から差し歯がポロリと落ちた。
それはまだ幼くヤンチャだったヒルダを怪我から守るために負った(本人曰く)名誉の負傷であったが、泣きながらその欠けた歯を見せられて説得されると、罪悪感で主人風を吹かせるのは難しい。
厳密に言うと、ヒルダは女神の洗礼を受けた修道女ではなく、その見習いの女修士でしかない(だからわたしもシスター・ヒルダとは呼ばれず、ただのヒルダだ)。
またフォルマー家から勘当されたわけでもないので、将来的に貴族に復帰することも実は難しくもない。
しかしエルバー教の正式な修道女ともなれば、還俗は非常に難しくなってしまうから、エリーゼは断固反対するだろう。
だからどう言い繕ったところで、フォルマー家は我欲のために修道院を利用している、と謗られても仕方ないとヒルダは思っている。
このことはシスター・ハンナにも明かすことは出来ない。
――元悪役令嬢といえど、わたしにだって恥ずかしいという概念くらいあるのだ。
「ルイトガルテ様からひっきりなしに、お嬢様の近況報告のご要望をいただいております。一度、お嬢様からもお手紙を出されてはいかがですか?」
「……ええ。近い内に」
と歯切れ悪く答えた。
ヒルダが婚約破棄をされた日の夜の内に荷物を最小限にまとめ、翌日には不測の事態に備えて共に王都ミッダーリンゲンを脱出し、フォルマー公領に逃げ込んだのはこのエリーゼの判断だった。
ハズレ天職を引いて荒れていた時でも見離すこともなく、ずっとそばにいてくれた大切な存在だ。
今もなお、母のルイトガルテと密に連絡を取り、ヒルダに害が及ばぬように腐心してくれている。
「それと明日の夕刻頃、リヒャルディス様が無事にこちらへお戻りになられます」
「そう、急な知らせね」
「さきほどルイトガルテ様からいただいた手紙の中にそうございました」
「では叔母様が法王庁を抑え込んでくださったというわけですね」
「はい。これでお嬢様も直にここから解放されることになるでしょう」
解放、か。
リヒャルディスとは、母ルイトガルテの姉であり、ヒルダの叔母にあたる人物。
そしてこのトラヴァルト修道院の院長を務めており、追放された姪を自分のところで受け入れることでフォルマー家へのダメージが最小限になるよう、法王庁に働きかけてくれている。
しかしヒルダは、聖女ルカの暗殺未遂容疑の濡れ衣を着せられたのは、学生同士のトラブルなどではない、貴族社会の醜い争いに巻き込まれたからだと確信している。
一介の貴族令嬢であった時は想像すらしなかったが、穂乃花の記憶を取り戻し、こうしてひとりで考える時間が持てるようになって初めてその結論に至っていた。
(今のわたしはここから解放されたいとも、決してあの魑魅魍魎の世界に戻りたいとも思わない)
それが母への連絡を躊躇する最大の理由だった。
「エリーゼ。もう少し待ってくれるかしら。私の中でまだ心の整理がつかないの」
「……承知しました。いずれにしろ明日リヒャルディス様にご挨拶して、今後について
ご相談しましょう」
「そうね。さて今日はもう遅いし、私もそろそろ寝るわ」
「はい、お嬢様。お休みなさい」
エリーゼの宿所から出たわたしは思わず溜め息をつくが、すぐさま自分の部屋に戻り睡眠を取ることにした。
起床時間まで2時間足らずなので、ちゃんと自分で起きられるか心配だ。
寝過ごしてシスター・ハンナに失望されたくはない。
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トラヴァルト修道院の広大な敷地の西側には、植物園が造成されている。
様々な薬草や香草、観葉植物などが乱雑に植えられて、あまり手入れされているようには見えない。
その中央の枯れたツルバラの蔦が絡まっているトンネルアーチを抜けると、煉瓦造りの倉庫のような建物が森を背景にそびえ立っていた。
大きさ的には小学校の体育館くらいだろうか。
朝食を食べ終えた朝6時からの労働が始まる直前、ヒルダは古色蒼然とした佇まいを醸し出すその建物の玄関前で30分前からスタンバっていた。
(ここであのビールを作っているのか)
先日、ヒルダは食堂で飲んだビールが、トラヴァルトで自家醸造しているという話を聞き、エリーゼに醸造所の掃除させて欲しいとお願いしていたのだった。
さて、5分前になった。
行こう。
「おはようございます!」
勢いよく扉を開けて挨拶する。
最初の気合いが肝心だ、とばかりに。
「本日からお世話になります、新人のヒルダで……」
すると、目の前に異様な光景が広がっていた。
エンヤードットーエンヤードットー
アーコリャコリャ
エンヤードットーエンヤードットー
アレハエートー
ターイーヘーンダー
人の身長ほどもある巨大な木桶が2つ。
片方の桶には修道女ふたりが梯子をかけ、ボートを漕ぐ時に使うような櫂を両手に持ち、調子っぱずれの唄を歌いながら木桶の中をかき混ぜている。
エンヤードットーエンヤードットー
木桶の中からは湯気が上がり、醸造所の内部は温室のように温かく湿気が立ち込めていた。
強烈にエールの原料となる麦汁の匂いが立ち込めてきて、そのあまりに懐かしい芳香にヒルダの頭が痺れるような感覚を覚えた。
アーコリャコリャ
もうひとつの巨大木桶からは、その中から液体を巨大な柄杓を使って繰り返し掬い上げ、浴槽のような箱に流して入れて冷却しているようだ。
タイヘンダタイヘンダー
ナントカシナクチャタイヘンダー
まるで魔術の呪文のように意味不明な歌詞なのに、どことなく懐かしさを感じるのは気のせいだろうか。
少なくともこれまで習った讃美歌とはまるで違う。
「あの〜すみません。本日こちらへ掃除にやって来たヒルダと申します!」
何度呼び掛けてもなかなか気付いてもらえないので、つい大声になる。
エンヤードットーエンヤードットー
「あの! もしもし! もしもし〜聞こえますか!?」
「あれ、どなたですか? ああ、もしかして今日お手伝いに来てくれたっていう新人さんですね!」
ようやくひとりの修道女がヒルダの存在に気付き顔を上げ、梯子を降りてきた。
浅黒い肌をしたその修道女の額には、櫂を必死に動かしていたせいで大粒の汗が浮かんでいた。
「トラヴァルトビール工房へようこそ!」
「はじめまして、シスター・ミア。ヒルダと申します。よろしくお願い致します」
これまで何度か礼拝堂や食堂ですれ違っているかもしれないが、こうして面と向かって話すのは初めてなので、ヒルダは頭を下げて挨拶する。
「あはは、わたしはただのミアです。こちらこそよろしくお願いします!」
と、にこやかに手を差し出してきたので握手。
作業中の他の3人もシスターではなく、ヒルダと同じく女修士だった。
肌の色や名前からすると、みんな東の国の血が混じっているようだ。
皆、シスターがついてないので、修道女ではなく女修士なのだろう。
――もしかして『ローズ・キングダム2』の舞台になった東方の国と関係あるのかもしれないな。
そんなことをふと思うのだった。