027話「帰路」
応接室での歓談は、その後は当たり障りのない話題へと移り、ぎこちないながらも無事に終わった。
ただ、マグナスが妹の話題に触れられた瞬間に見せた、あの態度の変化だけは深く記憶に刻まれている。
翌朝、ヒルダたち一行はついにシュレルバイン城を後にし、トラヴァルトへの帰路についた。
峠道へと向かう街道は朝の冷たい霧がまだ薄く残っており、揺れる幌馬車の中でヒルダはゆっくりと深く息を吐いた。
「……はあ。とっても疲れたわ」
「お疲れなのは当然ですわ。急に滞在が延びて、お見合いの席にまで引っ張り出されたのですもの」
荷台の隣に座るエリーゼが、気の毒そうに言った。
「そんなこと言って……。エリーゼも全部分かっていたのでしょう?」
「まさか、陛下があれほどまでにウルガンとの和睦を望んているとは思いませんでしたわ。でも――結局、婚約の話にまでは進展しなかったのでしょう? 姫様にとっては望ましい結果になったのではないでしょうか」
ヒルダは曖昧に笑う。
「ええ……まあ、そうね。助かったと言えば、助かったのだけれど」
母ルイトガルデが強引に押し込んだ、ウルガン帝国第一皇子との縁談。
あの流れをまともに受けたら、断るのは至難だったはずだ。
しかし、マグナスが「妹」の話題を出された瞬間――空気が一変した。
それまで外交だの次代の協力だのと未来を語っていた彼が、急に口を閉ざし不機嫌になった。
エリーゼは首をかしげる。
「マグナス殿下の妹君のことは私も初めて知りましたが……姫様はどうしてご存じだったのですか?」
「当てずっぽうよ、ただの当てずっぽう。
……それはさておき、殿下がその話題をあれほどまでに秘匿する理由も気になるわ。まるで、触れてはならない禁忌のよう」
今思うと、マグナスの反応は怒りというより焦りに近かったかもしれない。
掴みかかりそうな勢いではあったが、何かを恐れているようにも感じられた。
「ウルガンでは、側妃のご子息であるマグナス殿下よりも、正妃の子である――第二皇子の方を推す声が根強いそうです。
そのせいで、皇宮内の派閥争いが激化しているのだとか」
「なるほどね……」
ではマグナスがあの手作りのスズランの腕輪ブレスレットを大事にしているのは、同じ側妃の母から生まれた妹からの贈り物だからかもしれない。
なまじ病弱なら、なおさら権力争いの材料にされたくないだろう。
ヒルダは胸の奥に小さな不安の棘が刺さった。
(しまったな……私、完全に“プレイヤーの知識”と“この世界の情報”をごっちゃにしている)
この世界の住人の前で、必要な時以外に知識をひけらかすのは避けるべきだ、と今回の件でヒルダは痛感したのだった。
やがて幌馬車はティフェルの森の中央にある峠道の頂上に差し掛かった。
木々の間から淡い陽光が差し込んでくる。
「ここを下れば、あとは一直線でトラヴァルトなのね!」
この帰省に同行してくれていたシスター・ノラが元気良く言った。
山賊に襲われたり、慣れない王城に逗留したりと、彼女にとっても大変な旅だっただろう。
「おおーっ、良かった! ちょうどビールが切れた頃だぁ」
「お待ちなさい! オットーさん、貴方、飲酒運転なんてしてましたの!?」
エリーゼが怒りながら御者席のオットーに手を伸ばし、その頭を鷲掴みにした。
ドタバタを激しいやり取りが始まった。
ヒルダはその騒ぎを横目に見ながら、穴の開いた幌から外を見つめて小さく息を吐いた。
(……とにかくこれでトラヴァルトに帰れる。修道院に戻れば少しは落ち着けるはずだし、好きなビール作りにも専念できる――)
「ふふ。姫様ったら、もう頭の中はビール作りのことばかりのようですわね。マグナス殿下もお可哀想に」
そう思った瞬間、オットーの酔いを強制的に覚ましたエリーゼが戻ってきて、クスクスと笑った。
「えっ、どうして?」
「姫様がお帰りになる時、名残惜しそうになさってましたわよ?」
「……そんなロマンチックな雰囲気なんてあったかな? 政略結婚に失敗して残念がっているだけじゃないかしら」
「ありましたとも! あの熱い眼差し、単なる政略結婚の相手に向けるものではないですね」
エリーゼがいたずらっぽく微笑む。
「も、もうやめてよ……!」
(……あの妹さんの話題さえ出さなければ、もっと押してきたのかしら?)
「なにはともあれ、縁談の話は立ち消えになりました。マグナス殿下も国元が乱れてお忙しい様子でしたから、しばらくは動きはないでしょう」
「ええ……きっとそう、よね」
ヒルダはそう答えつつも……心のどこかにマグナスのあの鋭い眼光が残っていた。
――もしかしたら、今日のことはただの序曲に過ぎなくて、この先もっと厄介な事態になるかもしれない。
そう予感しつつも、ヒルダは馬車の揺れに身を任せつつ、静かに目を閉じた。
そして考えることを休め、緩やかに眠りに落ちるのだった。
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ヒルダたちがトラヴァルト修道院に向かうより一足先に、マグナス一行はウルガン帝国への帰路についていた。
ティフェルの森を抜けた後の、峠道を抜ける冷たい風が、霧を裂いては閉じ、馬の蹄音を山中に響かせている。
マグナスの馬は落ち着かず、時折首を振って嘶き、鎧の金具を鳴らす。
「殿下、心ここに在らずですな」
馬を寄せて声を掛けてきたのは、幼少の頃から帝導卿として仕えてきたバーンク・ケスラー子爵だった。
マグナスより二回り年上の壮年貴族で、剣術と馬術の師として殿下を導いてきた人物である。
まだ若いのに髪には灰色が混じり、眉間には深い皴が刻まれていたが、鍛え上げられた体躯は鎧の上からでも力強さを感じさせた。
先のシュレルバイン城でのフォルマー王夫妻やヒルデガルドとの会見でも、応接室の端に控えながら冷静に様子を見守っていたのだ。
「ああ、すまない。ケスラー」
「申し上げたはずですぞ。あれは見合いなどではない。外交という戦場で心を乱せば命取りになると」
「…… アレは全くもって不覚だった」
マグナスは短く答え、視線を前方の霧に投げた。
(マリー……お前を権力争いの道具にさせはしない。だがヒルデガルドにまで知られてしまっているとは……)
心の中で吐露するその思いは、決して口には出せない。
しかしケスラーは沈黙の中で殿下の鼓動を聞いていた。
「心音」の能力は、ただ相手の鼓動を感じるだけではない。
血流の乱れ、呼吸の揺らぎ――それらが示す心の動きを読み取る。
マグナスの鼓動は、まるで留学前とは別人のようになっていた。
(ロズモンド学園から戻った殿下は確かに変わった。かつての氷のような冷徹さは影を潜めたが、その代わりに血の通った人間らしさが滲み出てるようになった)
ケスラーの脳裏には、朝の城の応接室での光景が蘇る。
フォルマー国王夫妻は、娘ヒルデガルドを気遣う様子を見せていた。
「心音」で読み取った限り、少なくともフォルマー国王にはマグナス利用してやろうという思惑はなく、ただ娘を守ろうとする親の感情がそこにあった。
ヒルデガルド自身も、外交の場でありながら相手を思いやる気配を漂わせていた。
(だが殿下は……あの時、マリー様の話題に触れられた途端、まるで幼子のように心を乱した。あれは怒りではなく、恐れに近いものだった)
ケスラーはそのことについてはあえて口には出さなかった。
霧の向こうには、帝国へ続く街道が薄っすらと姿を現し始めていた。




