008 かさついたうるおった
それは、彼の誕生日の数週間ほど前の話だった。
普段使う机と似た、友人の机の引き出しの一番上の左側のスペースにそれはある。
銀を薄く引き伸ばして造られた何の模様も入っていない無骨な缶を手に取って蓋を開ける。白っぽいもったりとしたクリームは端からすこしずつ削られるように減っていっている。それが、持ち主の几帳面な性格を窺わせるものでどこかルイは嬉しかった。
そのまま何となく良い気分で、蓋の裏に器用に差し込まれた木ベラを取る。これがルイにはなかなかの難問で、使う機会は多いというのに上手く取れた試しがない。和解は暫くできそうにないと、彼自身も諦め始めたところでもある。
そんな人差し指と同じくらいの長さの木ベラが、今日に限って上手く取れた。気分は鰻上りで、ルイは軟膏の丸くなった崖からゆっくりとひと掬いしようとする。皺やよれを生まないように、友人の几帳面さに乗っかるように。
「──ただいまー」
と思ったのに。
そんな矢先、この缶の本来の持ち主が帰ってきたものだから、ルイの機嫌はいきなりのストップ高を止まらせ、その紅顔も端麗も足りない形容の顔に誤魔化すような苦笑いを浮かべるしかないのであった。
***
「……で、何やってるんだ」
「えーと、様子見を」
「何の」
「軟膏の?」
嘘を吐くのが別段得意というわけではないが、何だってこれはひどすぎる。子供だって、今のルイよりも遥かにマシな嘘を吐けるだろう。
「ルイ」
「……グレンのハンドクリームを使おうとしてましたっ」
「素直でよろしい」
グレンが自分の名を呼ぶ声がいつもよりも若干温度が下がっているのを察知して、ルイは大人しく早々に白旗を振った。
彼が怒ると後が怖い。というか厳密には後も怖いが、グレンを敵に回すともれなく彼の妹分ことめんどくさい少女も敵に回ってくる。冗談ではない。
平穏と程遠い未来とはまだまだ縁遠い存在でいたいのが本音だ。
悪戯が失敗した子供のようにしょぼくれ、ぶすくれながらルイは缶の裏に木ベラを戻して蓋をする。そのまま大人しくグレンに缶を差し出せば、グレンはよろしいと頷いて引き出しの定位置へと缶を戻した。呆れたような彼の溜め息がさっくりと心に刺さる。悪いのは他人のものを勝手に使おうとしたルイなのだが。
「全くアーシェといいお前といい……なんで俺のハンドクリームを使おうとするんだ。大体ルイ、お前は自分用のがあるだろう?」
「嫌ですよ。使いたくない」
「どうしてだ。良いもののはずだが」
「強いんですよ……香りが」
同室のよしみで使わせてくれても良いのに、と性懲りも無く思いながらぶすくれる。確かにルイの使っているハンドクリームは良いものだ。彼自身が上級貴族の中の上級貴族である六大貴族の子弟である。質が悪いわけがない。
軟膏とは違いきちんと水分を含んで乳化されたクリームに、精油で華やかな香りの付けられたそれは手の乾燥やひび割れを防止するのを目的としているよりかは一種の装飾品に近い。そして装飾品に近いからか、香りはグレンの使っている軟膏のように無香料ではなく、香りが付いている。ルイ自身が本来なら「きつい」と形容したいほどの香りが。
「別にコロンを付けたいわけじゃないんですよこっちは。日常的に使うんですから」
「諦めろ、貴族用だぞ。というよりゲイル様には言ってみたのか?」
「言いましたよとっくに」
「答えは」
「『諦めてください。慣れるように』って」
精油で付けられた香りが石鹸のものだとか、柑橘だとか、あまり強くない花の香りであればここまでルイも忌避したりしないのだ。だがしかし、貴族の、しかも武人が使う用というのは需要がないためかガスティオンの家お抱えの商人に訊いても見つかった試しがない。かといって自分の身分に釣り合わないものを使えばゲイルに怒られるのだ。それはグレンも立場を同じくしていて先ほどから煩い。
ルイを取り囲む状況は四面楚歌である。
「香りが多少強くたっていいじゃないか。それだけ色んな素材が使われてて効能が保証されてるってことなんだから、な」
「嫌ですよ。寝るときに匂いのせいで頭痛起こしながら気絶なんてごめんです」
「……薬によっては苦味や香りが効果に影響を及ぼすものもあったはずだが」
「あのね健胃薬じゃないんですから」
ルイだって分かっているのだ。グレンがルイの感想に同意しようとしない。つまりそれは、鼻が利くグレンでも不快に思わない香りのクリームであるということだ。
だが実際使うのはルイである。いずれ将来的に従者になるとはいえど、彼の意見に耳を貸す気はなかった。
「本当に……貴族って嫌になりますよ。たまにね」
しがらみが多すぎると黄昏ながらわらう。諦めたように。他人からすればなんでも持っているように見えるこの地位は羨望を向けられるほど良い地位などではない。
自由などない。息苦しくなることなど何度あっただろうか。
「……そんなにか?」
「グレンには分からないでしょうねっ」
「確かにグローブを嵌めてても、弾くときは痛むな」
斜め上の回答が返ってきた。グレンは自分を突っ込みだと思っているようだが、ルイからみればたまに天然の入るボケである。
そうだがそうではない。そう思ったのは喉奥に飲み込んだ。
「ルイ」
「……な」
銀色に輝いた手のひら大の塊が放物線を描いて放られた。缶だった。先ほどルイがようやくヘラと和解を見せた軟膏の銀缶である。
「暫く、な。新しく買うまでだ」
「暫く?」
「保湿用のクリームは必要だろう? 贈り物にしてやる。俺とアーシェからのな」
誕生日だろう、とグレンが狡く笑った。託ければゲイルも咎めないのを知っている顔だった。
「良いんですか?」
「どうせ学校用ならな。……それともどうした、いらな」
「要ります!」
即答する。それでこそお前だよ、と優しく笑うグレンは本当に従者の鑑だと思った。全てを汲んだ上で抜け道を見つけてくれる彼は、本当に頼りになる。信頼して良かったと、あのとき出会えて良かったと幾度となくルイには思わせる。
そうして後日、ルイはうきうきの気分で友人二人からのハンドクリームを使うことになり、グレンの軟膏缶の中身がすぐに枯渇するという現象が激減したのは言うまでもない。
2022年のルイ誕生日SS