004 懺悔と小夜曲
2021年のグレン誕生日小説。時系列的にアーシェとの結婚後〜アーシェのリルア妊娠前。
お題は「生まれてきてよかった」
例えば、と紡いだ声はどこか掠れていた。
「俺が生まれてこなかったら、そう考えたことはある。……何度もある」
懺悔にも似た呟きだった。隣に寄り添うささやかな体温は温いはずなのに、まるで拒否しているように何も感じられない。寄る方ないとはこのことか、どこか熱く冷めた頭の中でグレンはひとりごちる。
「母上は生きていたのかとか、父上は親子三人で暮らせたはずだろうとか、兄上も、あんなに苦しまずに済んだだろうに、って」
そうして行き場のない感情を持て余すたびに、脳裏に浮かぶのは自分に関わって苦しんだ人たちばかりだった。子供たちを遺して逝ってしまった母のこと、子供二人を置いて戦場へ赴かざるを得なかった父、長兄ゆえに実弟と義妹のどちらを手元に残すか天秤に掛けた兄。
その状況へ追い込んだのが自分の責任だと、そこまで考えたことは幸いにも、ない。周囲も配慮してくれたところはあるだろう。そんな悪意から守ってくれていたことも、グレンは知っている。感謝などし尽くせないほどに。
それでも、考えてしまうのだ。
地位も、親もなく、本来なら持っているはずの魔力もなく、ただ己が生きている意味などあるのかと。母の手帳に残された愛情を知ってなお、人並みの幸せを得てなお、兄と和解して父の真意を知ってなお、グレン自身を苦しめる。幾度も苦しめ、今更考えても詮ないことが頭を巡る。
特にこんな、夏の、一等に自分の存在を感じてしまう夜の日は。
「……すまん。何でもない」
「グレン」
忘れてくれ、と続けようとした途端、グレンの横にあった低い体温が身じろいだ。え、と振り向くと白い細い腕が伸びて頬に留まる。
刹那、グレンは思い切り頬を抓られていた。
「いっ、いたっいたたたた」
「貴方、馬鹿なの」
冷ややかな声、夏だというのに春を目前にした冬に戻ったのかと錯覚するような。こちらを見つめる深緑の双眸には普段向けられる愛しさや慈しみなどなく、ただ怒りが滲んでいることだけが分かる。
悪手だった。本能的にグレンは察した、怒らせたと。
「貴方が助けてくれた命は? 存在は? 忘れたとは言わせないけど」
言い聞かせるというより、詰るような声だった。未だ怒気を隠そうとしない声と裏腹に、頬を抓っていた白い細い指が緩む。
そのまま、赤くなっているであろう頬を撫でられた。そんなアーシェの指先の動きは普段よりもやさしい。
「そもそも、私を目の前にしていい度胸じゃない」
「……言っただろう。何でもないと」
「聞いてるこっちは腹が立ったのよ」
もう少し続けてたら張ってた、とこともなげにいう彼女にグレンは辟易する。同時に、深く後悔した。深く恥じ入った。どこまでも独り善がりで稚拙な考えに、未だけりをつけられぬ自身の優柔さに。
「……貴方が生まれなければ『アーシェ』という存在は生まれなかった」
あてのない、呟きだった。グレン自身に向けてではなく、アーシェが自分自身に言い聞かせているようにさえ感じられる。
「だから、私の大切な人をそんなふうに言わないで」
落ち着き払っている、常と変わらぬ平坦な声。だのに、心が揺れる。俺自身のことなんだぞと浮かんだ反論は一瞬で消えて、もしかしなくても彼女の心を傷つけたのだろうかと、気付いたときにはアーシェは赤くなった頬をなぞり終わっていた。
「私はグレンという男が好きよ」
静謐な声が、グレンの心の内にすとりと落ちた。徐々に、何処か欠けてしまったものがじわじわと埋まっていく。
精一杯、笑おうとする。口角が引き攣って、目の奥が熱い。無理に笑えば笑うほど、喉の奥から情けない声が漏れそうな気がする。
「おれ、は……」
震えた声を抑えるようにアーシェの指が伸びて、グレンの唇に置かれた。生まれてきてくれて、よかったと思ってると、薄暗がりで見えた彼女は柔らかく笑う。
同時にグレンの脳裏に浮かんだのはあの日のことだった。重そうな野暮ったい父の外套に包み隠されるように、抱かれていた少女。──一瞬、人形かと見紛った。──深緑色の瞳は吸い込まれそうなほど美しいのに、欠片ほどの感情も感じられずただ此方を窺うように向けられるだけだった。
おいでよ、と一度は跳ね除けられた手を、もう一度差し出す。懲りないと思われてもよかった。諦めたくなど、なかった。
ややあって、今までぴくりとも動かなかった少女がその手を取ったことに、父は驚いて目を見張っていた。
思考の海から戻って、視線を下げる。アーシェの唇がゆるりと弧を描いて、それが愛情に満ちているのが見て分かった。
「そう、貴方は思ってる以上にたくさんの人を救ってる」
力づけるように耳の後ろを撫でられる。頭を撫でられることに慣れていないグレンを思いやった優しい手つきで。
不器用な優しさが染みて、今度こそ本当に泣きそうになる。涙を堪えて、上を向く。震える喉に留まる空気を飲み込んで、何事もないように笑ってみせる。
上手く、笑えただろうか。
「……キス、してもいいか?」
「ほんとに」
漸く出た言葉がそれかと思うほどには自分でも情けないと思う。それでも、彼女は黙殺することも、冷ややかな視線を投げることもせず、呆れたように笑って口付けてくれた。
甘やかな夫婦のそれというよりは、子供をあやすような口付けだった。
お前が妻でよかった、心からの言葉が漏れる。踏み込むでもなく、頭ごなしに否定してくるでもなく、今の距離感を見て自分の築き上げてきた場所を教えてくれる妻が、グレンの目にはとても気丈夫に映った。
「私も貴方が夫で……違う」
紡いだ中途で、アーシェが言葉を止めた。何事かと首を捻るグレンに、アーシェがおどけたように笑う。
滅多に見られない妻の表情に目を逸らすことができない。惚けている自覚は、ある。
「貴方がグレンでよかった」
じんわりと心に温かい何かが広がる。いつのまにかグレンはアーシェへ腕を伸ばしていた。伸ばされた意図を悟って、アーシェが目の前の胸板に抱きつく。抱きしめた、自分よりも冷たい体温が彼女の生きている証なのだと実感して、グレンはゆっくりと息を吐く。
二つの体温が穏やかに絡み合う。
後に残るのは、ただひたすら甘やかで穏やかな空気だけだった。
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