027 やさしいひととき
「かあしゃま、はやく〜!!」
「はいはい」
「ここすわるの。ここよっ」
「わかってるわ」
風呂から上がると毎日のようにあるこれは儀式だ。母娘の、誰にも邪魔されない大切な時間の。
アーシェが枕元の引き出しから櫛を取り出すその間、リルアは子供用の可愛らしく飾られた手鏡に自分の顔を写し出しながら寝台の上で座っている。手には少し大きなそれを両手で持ち、映る自分の顔をにこにこしながら眺めるその様子のなんと愛らしいことか。思いながら、アーシェはリルアの背後に座る。
子供の髪は自分のものよりもずっと繊細だ。自分のような大人の、しかも短い髪となれば多少乱雑にブラッシングして髪が一、二本抜けたところで問題はない。だがリルアの髪は、そうはいかない。この心持ちの違いは何なのだろうと少し考えてしまう。
自分のは雑でも、娘のものはそう扱いたくはない。むしろできるだけ丁寧に、優しく扱ってやりたいとすら思う。
この感情は一体何なのだろう。
「かあしゃまどうしたの?」
「ううん、何でもないわ」
「ほんとう?」
「本当よ」
話している間にも満遍なく毛先を解す。あとは全体に櫛を入れて。引っかかりそうな危ういところはまた別に梳ったり、指先で絡まりを解いてから櫛を入れる。椿油で磨かれた木製の櫛は、風呂上がりで絹糸のようになっている銀の髪をさらに触り心地良くしてくれる。
それを抜きにしてもリルアの髪はふわふわでさらさらしていたのだが。
全く子供の髪というのはどうしてこんなにも触っていたくなるのだろう。自然とアーシェの顔にも笑みが浮かぶ。答えは先ほどの話に返ってくるといえばそれまでだが、自分の髪などとは比べ物にならない。
時間をかけて、大切なたからもののように。娘の髪を梳かして、最後に三本の房に分ければやることはあとはもう一つしかない。
手元をあれよあれよと動かしてゆるりとした一本の三つ編みを作る。父母と寝ているリルアにとって、長い髪は思いもよらない罠になることがあるのだ。グレンもアーシェも寝返りを打った際に見事な銀糸を巻き込んで、リルアを泣かせたことは一度ならず。
それからというもの、リルアは髪を纏めてから寝るようにしている。勿論、リルアの年齢ではまだ三つ編みは難しいということでやるのは母親であるアーシェなのだが。普段は娘の髪を結うのを器用な夫に任せているというのもあり、娘と自分からの交流が持てる時間を彼女は大切に思っていた。
結婚した当初なら考えられない人の変化である。
「ねえ、リル」
「ん〜ん……」
「もう寝ちゃう? それともお父様を待つ?」
「まつ〜」
とうしゃまもいっしょにねるの〜と、駄々を捏ねる姿すら愛おしさが込み上げるのだから仕方がない。髪を結っている側から船を漕いでいた頭が、ぶんぶんと勢いよく横に振られるのを苦笑しながら撫でてやる。
「そんなに元気に動いたら三つ編みが解けちゃうわ……そうね。お母様のお話聞きながら待ちましょう?」
「……ぅむ」
目を擦り眠たげな娘をそっと膝の上に乗せて。軽く抱きしめながら、紡ぐはいつもの寝物語。
朝と夜はどうして愛し合っているのに会えないのか、夕暮れと朝方はそんな二人を何とか会わせるために生まれたとか神話の一節を噛み砕きながら、幼子にも理解が及ぶように。
だが何度聞いたとて、理解ができる内容のはずだと言っても、疲れと眠気には勝てないのがヒトの子というものである。
いつの間にか、腕の中にはぽやぽやとした体温と規則正しい寝息を繰り返す我が子が大人しく収まっていて、アーシェは笑みを深めた。
「──寝ちゃったか?」
「ええ。ついさっき」
「そうか……」
遅かったか、と悲しそうに歯噛みする夫に別の意味で目を細めてしまう。きっと長湯しすぎたと後悔しているのだろう。リルアが髪を結んでほしいとはしゃいでから大して時間など経っていない──せいぜい四半刻程度だというのに。
本当にこの男の子煩悩さはと、呆れているはずなのにそれがまた何よりも幸せに思う己がいる。人というのはこういうところが難儀だ。自分はまだ『人』なのかと引きずり出された疑問を心の中で殺しながら、アーシェはリルアを起こさぬよう努めて寝台に横たえさせた。
「冬だもの、いつもよりもずっと疲れるはずだわ。……魔力症が重いリルならなおさら。私たちも寝ましょう?」
「そうか。ああ、そうだな」
冬は全てへの気力を奪っていく。自覚はきっと彼にもあるのだろう。お互いにふと笑みをこぼして、その疲れ具合に惹かれ合うように唇を重ねる。
温かな口付けだった。情欲はない、ただ愛情だけが確かにある、そんな口付けだった。
「……寝る前に一つだけいいか?」
「ええ。どうしたの?」
「このベッドで一緒に眠るのがお前でよかった」
娘が眠り、夫婦で互いに年甲斐もなくいちゃつきながらこれを言うのだから始末が悪い。発した本人も気付いたのだろう。「少し気障だったか?」と自嘲気味だ。
「そうね。でもいつもじゃない」
「……はは、そうだな。いつものことだ。だけどな、伝えたかったんだ」
大人二人に子供を入れても余裕で眠れるキングサイズのベッドは、夫婦の寝室には少々圧迫感のある大きさを持つ。当時買いたいと言ったグレンを何度引き留めただろう。
あの頃は子供を産む予定もなく、閨で事を済ませればアーシェは毎度自分の部屋へ帰っていた。無用の長物になるものをわざわざ買うことに意味など見出せなかった。
それが今やこれなのだから未来とは分からない。恐ろしいとすら思う。自分の思いにならぬもの、そしてグレンが見通していたように思えることそれら全てが。
己はいつも自らの意のままにならぬ渦中にいた。数年後か数ヶ月後か、それともずっと先か。だがいずれ確実に自分は暗澹たる雲行きに身を潜めることとなる。
それをこの男は知っているのだろうか。いや、知らないだろう。
「毎年この時期になると思うんだ。生まれてきてくれて、俺と出会ってくれて……ありがとう」
ずっと愛してると、側にいてくれと、続く言葉は幸せを噛み締めるようで切ない。聡い男だ。妻の心の全てが分かっているならそんな言葉は出てこない。
だからきっと彼は何も知らないのだ。自分がどこか近しいうちに消えることも。聡く、悲しい男だ。
そんな様子を微塵も見せることなく、ありがとうと抱きしめてきた体温に、その背に腕を回す。耳には娘の寝息が心地よく入り、与える愛を惜しまないと言わんばかりに抱きつく温もりは優しい。
彼らと出会えて良かった、彼に遺せるものを産めてよかった。無責任なのは承知の上だ。
心が満たされていると感じていること、心を満たしてくれる人がいること。今日だけはその幸せをただ甘受していたいとアーシェは目を閉じ、これから降る恐れに素知らぬふりをした。
「私も貴方と、この子と出会えてよかった」
枷などきっと今増えたくらいどうということはない。絆されて生まれた、それでも本心には間違いない言葉を呟く。
温かなひととき、これはしんしんと降る雪も夜更けには雨に変わるだろうと言われるのもおかしくはない温かさだった。
2024年アーシェ誕生日SSだったと思います。
キーワードは「大切な人とあたたまろう」でした。




