002 灯火よ、どうか
2021年リルア誕生日
時系列はグレン26歳、アーシェ24歳。いつもリルア5歳の時代で書いてるからたまには違う年齢で……って書いたらとんでもなく暗くなった。解せぬ。
ヴォルセナに於いて、芽吹の月は未だ冬である。
一週間に一回は雪がちらつき、朝夕は寒すぎて布団から出るのも辛い。夜は風が一層強くなり、水溜りができれば溶けるのは昼のみ。
いくら家から出さないと言えど、赤ん坊を育てるにはまだまだ注意が必要な時期である。
それは、アーシェの娘も例外ではなかった。寒さを鋭敏に感じ取ったのだろうか。火がついたように泣き出したのが、今から約半刻ほど前のことだった。そしてそれをなんとか宥め賺して、静かになったのがつい先程のことである。
「今日も寒いわね」
傍らのベビーベッドで眠り始めた娘に、そっと語りかける。肌蹴た前身頃のボタンを閉じ、蹴り上げられて丸まった毛布を被せる。
ようやく人心地がついた気がして、アーシェはベビーベッドの柵に凭れかかった。カーテンの隙間から見える夜空には、細雪が舞っていた。
アーシェがリルアを産んだのは一年前の今日だった。ルイの巡察の供をしていたグレンが重傷だと聞いてすぐ、陣痛が始まった。
初産だったことやグレンの負傷のショックも重なり、出産には丸一日がかかった。アーシェ自身も、産んだときの記憶はあやふやだ。長い付き合いとなる女医──ベルナデットからは『危険状態ゆえの防衛機制』だと言われた。
恐らく、そうなのだろう。そうでもしなければ、きっと自身は命を落としていた。
アーシェはお世辞にも健康とは言い難い人物だった。元から魔力症を患い、魔法薬の因縁もあって、命の危機に瀕したのは一度や二度ではない。妊娠も難しいと言われたほどだ。
リルアを宿すことができ、その上順調に育ったのは奇跡にも等しかった。
しかし、出産時は綱渡りと形容してもおかしくないほど、危険な状態だった。前述のショックもあり、リルアは予定日よりひと月以上早く産まれ、アーシェ自身は血液を四分の一近く失った。
今生きているのが不思議なくらいだと、産まれて半年ほど経ってからベルナデットに言われたのは記憶に新しい。
追い討ちをかけるように、リルアが魔力症であることが判明した。アーシェもそうだったが、魔力症の子は健康的な子と比べて身体の発達が遅れがちになる。
早産でもあったリルアは周囲の子と比べても目に見えて成長が遅かった。首が据わるのも遅く、補助なしで座れるようになったのも、つい先日のことだった。
魔力症の危険と常に隣り合わせのリルアを、乳母に預けるわけにはいかなかった。下手をすれば死人が出る。赤ん坊の暴発を止める術は、母親であるアーシェしか持っていないのだ。
魔道に精通する乳母がいるならば、多少瑕疵があろうとも雇っただろう。しかし現実は、そう都合良くはいかない。
貴族の育児と、現実の距離はとても遠かった。
(……駄目)
温かな滴が頬を伝う。まだ若いつもりでいたが、自分も年を取ったのだと思う。
ふとしたときに、涙が止まらない。
「──アーシェ!」
「……グレン」
すわ何事かと振り向くと、グレンが駆け寄ってきた。心配と狼狽の狭間で、揺れているのが手を取るように分かった。
心配して、くれるのだ。こんな些細なことも。理解者である夫の存在が何よりも頼もしかった。
「大丈夫か?」
「ええ。目に塵が入っただけよ」
「そうか……」
深くは聞いてこなかった。それがありがたかった。
きっと彼には筒抜けなのだろう、アーシェの不安は。相変わらず甘い人なんだから、と思う。
そんな彼女の鼻腔を甘い香りが掠めた。
「え……お菓、子?」
「ああ。多分あれだな」
雰囲気にそぐわない甘い香りの元を探る。ぼんやりと明るい部屋の中、グレンの視線の先を追っていく。見えたのは、入り口に置いてあるテーブルだった。
「……何かある」
「……クラフティだ」
「クラフティ」
「……今日は誕生日だろう。この子の」
持ってきた木製の盆には皿が二枚。小さなピースに分けられたクラフティに、泡立てられたクリームが添えられている。
果物は苺か桜桃だろう。種の点々がないのを見るに桜桃か。旬には早いが、南方の物や輸入物なら酸っぱさより甘さが優って美味しかった記憶がある。
「久しぶりに作るから手間取った。任せきりになってすまない」
「いいのよ。大変だったでしょう」
「この子の世話に比べれば、大したことないさ」
苦笑気味なグレンが差し出した皿を受け取る。まだ温かい。粉砂糖で粧し込んだクラフティは、それこそ外の景色にも似ていた。
フォークを入れて、一口。
滑らかな甘さのプディングと香ばしいタルト生地が合わさって、つい口許が緩んでしまう。そこに甘酸っぱい桜桃が合わされば、いくらでも食べられる気さえする。
甘いものが別段好きというわけではないアーシェも、このクラフティは美味しいと感じた。さすがはグレンが作ったものである。
「……美味しい」
「そうか。よかった」
しみじみと呟いた言葉はグレンに届いていたようだった。微笑むグレンに恥ずかしくなりながら、少しだけそっぽを向いて口へと運ぶ。
元々の大きさもあり、その後数度口に運べばピースはすぐに消えてしまった。それが胃の小さなアーシェには丁度良かった。
いつの間にか淹れてもらった紅茶を飲む。お茶好きで有名な主に磨かれた腕前に感嘆していると、不意に左の掌に温もりが重なった。
「グレン?」
「……一人にしてすまない」
「気にしないで」
「気にするさ」
大きな掌がアーシェの顔の輪郭をなぞっていく。恩人に似た触れ方に、じんわりと心が満たされていく。
「すぐに作って戻るつもりだったんだ」
「ええ」
「腕が落ちたのはもちろんなんだが……いろいろ考えながらやったら追いつかなくなってな」
「あら」
男爵になったのだ。当主自ら料理をすることは殆どないと言って良い。遠征や巡察に備えて暇なときには料理をするグレンでも、毎日触れてなければやはり腕は落ちる。それは至極、当たり前のことだ。
尤も、腕が落ちたなんて、先ほどクラフティを口にしたときには微塵も感じなかったが。
それ以上に気になったのは言い淀んだグレンの表情だった。言うべきかどうか迷った様子で逡巡している。
「どうしたの」
「……やっぱりお前に隠し事はできないな」
いつもより暗い青の瞳がアーシェを射抜く。その目に宿るのは決心ではなく、もっと後ろ向きな──それこそ不安や、恐怖にも似た──感情だと、感じた。
「いつかこの子と食べたいと思ったんだ、誕生日のケーキを」
声が、揺れる。自分よりも遥かに大柄な体躯が小さく縮こまったように見える。
普段あんなにも頼りになる背中が、小さい。
「この子と、お前と、ケーキを食べたい」
重なった掌を握られる。未だ安定しない未来は残酷だ。来年もあの平穏な時間をもたらしてくれるとは限らない。
リルアが生きているとしても、自分か、若しくはグレンがこの世を去っているかもしれない。
「そうね」
応えるように重ねられた掌を握り返す。未だ揺れる瞳を見つめて、その唇に己のをそっと重ねた。
「私も、そう願ってるわ」
「……そうか」
その眼にいつもと同じ、穏やかな光が戻っていくのが分かる。揶揄うように頭を撫でると、一瞬呆けた後に唇が弧を描くのが分かった。
もう大丈夫だろう。グレンは強い。
自分なぞよりも遥かに。
「そろそろ寝なくちゃ」
「そうだな……ああ、そうだった。お前に言い忘れてたことが」
「私?」
何かあったのだろうか。小首を傾げて言葉を待つ。先刻、浮かべたのに似た表情のグレンに、今度は抱き竦められた。
「今日まで、生きていてくれて、ありがとう」
この一年様々なことがあった。この意外な言葉は、そんな苦労も辛さも瞬く間に吹き飛ばしてしまった。
ショックで陣痛を起こし、予定よりも早く産むことになり、死にかけて。そんな一年前の今日のことを当たり前と思わず、労ってくれることがひたすらに嬉しかった。
本当に自分には過ぎた夫だと思う。誰よりも愛しい、大切な。
「ええ、あなたも」
背中に腕を回して抱き締める。あの日命を懸けたのは彼女だけじゃない。本当は傍にいて守りたかった、支えたかった。
薄暗い中、夫の右頬から顎にかけて付いた傷が浮かび上がるのが分かる。
なぞるようにそっと触れて、ゆっくりと目を閉じる。
この世で一番強くて優しい男と最愛の娘に、幸せと安寧を、どうか。
神々は叶えてくれそうにない願いを、アーシェは心の中でひっそりと祈ったのだった。
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