001 心を、奪う
2020年アーシェ誕生日
時系列としては学生編の本科2年生あたり
なんの気なしに目に留まった。ただそれだけだった。
街の東区、五番通り。
学問通りとして有名なこの通りには貸本屋、文具店、雑貨屋はもちろん、学生たちの小腹を満たせる屋台までもが並ぶ。
そんな喧騒溢れる賑やかな通りも、目抜き通りを抜けて一つ角を曲がれば途端に人は少なくなる。
そこにアーシェの馴染みの店はあった。
貸本屋と雑貨屋が併設されているその店は規模こそ小さいものの、取り扱う書物の種類は雑誌から専門書までと幅広い。加えて、隣の雑貨屋に並ぶのは文具ばかりでないときたなら、ドレッドノートの学生ならば一度は通ったことのあると言っても過言ではない。
並べられた新刊をチェックし、目当ての本を店主の老爺に言って借り、あとは隣の雑貨屋で入り用の文具を揃えるのが彼女の休日の過ごし方だった。
店同士を繋ぐ廊下を抜ける。目当てだった藁半紙を束ねたメモ帳を探していると、不意に部屋の奥まったところに置かれたローテーブルに目が留まった。底の浅い木箱に敷かれたクッションの上には、見事な細工の栞が複数列を成していた。
(……)
近づきながらじっと眺めていると、店主の妻である老婆が人の好さそうな笑みを浮かべてやって来た。曰く、孫夫婦は細工師でこういった小洒落た意匠の雑貨を作るのが一際上手いらしく、時折作ってはこの雑貨屋に品物を卸しているらしい。
いつも見ないのはだからかと思いながら、一つを手に取る。
数ある中で、これが一等にアーシェの目を奪った。
手のひらほどの大きさで長四角の、透かし細工の栞だった。材質は金属。金に近い輝きがあり、深紅色のベルベットの紐が華やかさに磨きをかけていた。先を辿れば、涙型の同色の貴石が灯りに照らされながら静かに揺れている。
「きれい……」
思わず、声に出していた。そして、心の底から欲しいと思ってしまった。元来物欲のさほど強くない彼女を、このときは言い知れぬ衝動が突き動かしていた。
値札を見る。途端、アーシェはしょっぱい顔になって唇を噛んだ。
値段は物相応だった。そこまでは、アーシェにも分かる。手持ちでは心許ない価格だが、貯金を崩せば余裕で買えるだろう。
しかし……と頭を抱える。
冬は何かと入り用だ。後見人がいるとはいえ、頼れる親類がいないアーシェにとって、貯金は何かと残しておきたいものだった。この栞一つで心細くなるような貯金ではないが、この先の進路やら行事のことも考えて余計な出費は控えたいのが本心だった。
思案に暮れる中、ふと『誕生日』という言葉が頭をよぎった。確かに、託けるには丁度いい。が、それでも。
心の天秤は傾かなかった。
たっぷり悩んで、視界から追い出すように顔を背け、踵を返す。
なんとなく店側に悪いと思ったものの勝者である理性は揺らがない。心の奥では欲しいと思う気持ちが燻っていたが、見て見ぬ振りをした。
名残惜しいなんて、久しぶりに感じたと思った。
結局、その日は買わぬまま店を後にした。
それが今月──星屑の月の頭の出来事である。
***
──そうして現在。
腹一杯になっている財布代わりの皮袋をつつきながらアーシェは項垂れていた。
あれから数日。何度も衝動は顔を覗かせた。
その度に脳裏にちらつく栞の姿を心の奥へと押し殺すのだが、そのやりとりも十数回数えたところでとうとう白旗を掲げた。
そうして完全に抗えなかった自分に嫌気が差しながら、向かった先は短期実習の募集が張り出される掲示板だった。
目標が決まれば行動は早い。
掲示板に募集がかけられた短期実習を数件申し込む。先立つものはない。かといって貯金は崩したくない。
ならどうするか。答えなど一つしかなかった。
学業の合間を縫いつつ実習をこなしながら過ごすこと十数日。目標の額までは順調に貯まっていた。
最後の実習依頼を終える頃には、買ってもお釣りが出るほどには軍資金は貯まっていた。
乗り場で辻馬車から降りて、角を曲がる。ここがもう少し治安の悪い場所ならば自分は絶好のカモだったのだろうと、浮かれた気分を自覚しながら、雑貨屋へと足を運ぶ。
腰に結ばれた皮袋の重さが、幸せの重さに感じられるのはきっと気のせいじゃなかった。
馴染みの貸本屋ではなく雑貨屋の扉を潜り、先日栞を見かけたローテーブルへ向かう。
小さく、少なくなった列をざっと眺めて。右から左へ、左から右へ──
(うそ……)
何度も目を動かして、上下の列を舐めるように追いかける。それでも、
ないのだ。どこにもない。
目を奪うほど美しかったあの栞は、既にその列には並んでいなかった。
***
──冷たくなった心。ぬるま湯に浸っているが如き今現在。
アーシェの心はここ数日まるで抜け殻だった。勉強にもいまいち身が入らず、砂を噛むような日々ばかりが続く。
栞が手に入らなかったこともショックだったが、たかが栞が手に入らないことで落ち込む自身も衝撃だった。
人はこんな簡単なことで腑抜けるのか……というのはここ最近の彼女の心中である。
今日という日に誕生日を迎えてなお、アーシェの心はちっとも上向きにはならなかった。
授業終了日の夜だというのに、部屋に引きこもりぼうっとしながら時間を潰す。常なら机にかじりついて何かしら勉強やら読書やらをやっているはずなのに、とても今はそんな気分にはなれなかった。
出っ腹の皮袋を睨みながら再び指先で突く。八つ当たりしても仕方のないことなど、分かっている。しかし、達成感は何処かへと吹き飛び、残ったのは虚しさで──八つ当たりだってしたくもなる。
掌に皮袋を載せる。
今はひたすらその重みが恨めしかった。
(別に)
そう別に。欲しかったが、必要だったわけではない。ただあればよかった、意匠が気に入ったくらいのことで。
値は張るものだったし、買うには高かっただろう。日常的に使うものにしては多少派手だったし。それに稼いだお金は貯金に回せば良いのだ。結局、懐も痛まずに済んで……
そこまで考えて、頭を振る。
どんな言い訳を考えても、自分が惨めになるだけのような気がした。
知らずに溜め息が漏れた。自己嫌悪と疲れが一気に押し寄せる。
もうやめだ、やめ。
誕生日なのだからとどうこう言うつもりはないが、これ以上不貞腐れるのは精神衛生上よろしくない。
気を取り直して、机の上に無造作に置かれたプレゼントに手を伸ばす。
虚しい抜け殻になっていた自分はプレゼントを貰ったときに、ちゃんと友人たちにお礼を言えていただろうか。
頭の中に自分にしてはまともで殊勝な考えが浮かぶ。詫びくらいは入れたほうが良いだろうか。何せここ数日は心配もさせてしまっていただろうし。
掴んだプレゼントの箱は掌より少し大きめのサイズのものだった。赤い包装紙と銀色のリボンで飾られた平箱はそれほど重さを感じさせないものだ。
(……グレンから?)
リボンに差し込まれたカードの宛名は、もはや腐れ縁としか形容しようのない友人のものだった。
──否、祝う文言と、友人ひとりの名前だけだった。
箱を見つめることしばし。裏を見て、表を見て、再びカードを睨む。
ヴォルセナでは友人に誕生日プレゼントを送る場合、複数の友人で一人に贈るのが普通だ。個人から個人へ贈ることはあまりない。
そこまで考えて思い切り包装紙を破く。慰め代わりの少しの切なさとカタルシスが心の奥からじわりと湧き上がった。
品の良いエンボス加工の成された蓋を取って、折り畳まれた滑らかな布を捲る。
──息を飲んだ。
驚嘆が頭を駆け巡る。そんなはず、と思った。でも、いや確かに──
薄くとも上等な箱に入れられ、肌触りの良い布に包まれたそれは──見紛うはずがない。
だって、それは──
「うそ……」
驚きに任せたままに机に箱を置く。視線を時計へと滑らせれば、短針は天辺へと届こうとしていた。向かったのは部屋の扉。縺れるようにノブに手をかけ、弾かれるように部屋を出る。
まだ、まだ、間に合う。今ならきっとまだいてくれてる。
扉を開け放って、廊下へと走り出る。
空気は冷えているのに、心は熱い。はじめての感覚だった。
***
「──グレン!」
談話室の扉が大きな音を立てて開かれる。
すわ何事かと振り向けば、人影が倒れ込むように崩れ落ちたのが見えた。
「……アーシェ!?」
その人影が幼馴染の少女だと理解するや否や、グレンは手元にある明朝の仕込みの食材を放り出した。
転がるように彼女の元に駆け寄って、様子を窺う。
慣れた動作で、手を取って脈を確認する。少し早いのは恐らく、息を切らしているからだろう。魔力症の兆候はなさそうだ。発作ではないことに少しだけ安堵した。
「一体どうした」
「あっ、あのっ、しおり……」
「……ああ。栞がどうした?」
俯いたままの彼女の背を摩りながら相槌を打つ。今日の誕生日プレゼントのことだろうか。
繊細な透かし細工の栞に、深い紅のリボンと同色の貴石のついたもの。アーシェが好きそうだと思って選んだものだ。が、何か……彼女を興奮させるものがあっただろうか。
思い当たる節がないまま考えを巡らせる。
「……アーシェ?」
続くだんまりに今度はグレンが不安になりながらアーシェの顔を覗き込んだ。
同時に、彼女が顔を上げる。
鬱蒼とした森を思わせる瞳が、グレンの目とかち合った。
「…………ありがとう」
柔らかい声、普段より幾分も。
棘のない、心の底からの喜びを表している、素直な声。
頬が、いつもの血色の悪い紫色ではなく薔薇色に染まっている。唇は自然に弧を描き、それが久しぶりに見る彼女の笑顔だと理解するのに時間はかからなかった。
「ほんとうに、嬉しかった」
「あ、ああ」
「大事にする」
「そうしてくれ」
「うん」
ありがとう。もう一度かき消えそうな声で、微笑まれる。
そばにあった体温が動いた途端、顔が段々と火照るのが分かって──今度はグレンが膝から崩れ落ちそうになった。
「……なんだったんだ」
嵐が来襲する如くやってきた幼馴染は、言い終えるとさっさと退散してしまった。尋ね代わりの呟きは聞かれる当てもないまま部屋の空気に霧散してしまう。
グレンに残されたたのは持て余すことになった熱と、行き場のない想いと、追いつかない思考ばかりである。
きっと、これから数日は彼女と顔を合わせるたびにあの柔らかな声と笑顔を思い出すことになるのだろう。怪訝な顔をされて、誤魔化せば不貞腐れる。そんな日常も一緒になって。
もし、想像通りになったら折を見て言ってみようか。
その栞を見たときに、お前の顔が一番に浮かんだんだと。
日付が変わったことを知らせる、時計の音が部屋に響く。
朝食用の仕込みは未だ終わっていない。予定は言うまでもなく遅れている。暫く自分の部屋に帰れそうにないなと思いながら、グレンは流し台に置いた包丁を掴んだ。
なんとなく、今なら仕込みも早く終われそうな予感がした。
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