黒色のすみれは夜に咲く
婚約解消ものを書きたくなったので挑戦してみました。
誤字報告&感想ありがとうございます。
「ヴィオルカ・フォン・ファイルヒェン辺境伯令嬢。貴女との婚約を解消させて欲しい」
目の前に座る婚約者————第1王子フライハイト殿下から告げられた言葉に、私は持っていたカップを落としそうになった。表情こそ目を見開くだけに留め、口に含んだ紅茶も何とか飲み下したものの、動揺は指先に伝わり、カップの中の紅茶を揺らしている。失態を犯さないうちにカップをテーブルの上に戻した。マナーは身体に染み付いているはずなのに、カチリと僅かに音を立ててしまった。
婚約者は目の前に置かれた紅茶には手をつけていない。立ち上る湯気と共に所在なさげに香りを燻らせるばかりだ。絹糸のような艶やか金髪に、滑らかな白い肌の、まるでビスクドールを思わせるような造形の王子は、冷たい光を湛えるアイスブルーの瞳でじっと私を見つめている。
「それは、どういうことですの?」
絞りだした声は僅かに震えていたが、果たしてそれが彼に伝わっただろうか。
「君との婚約を解消し、クラスネ・フォン・シェーンゴルト公爵令嬢と婚約を結ぶこととする」
デピュタント前ではあるものの、シェーンゴルト公爵の名前は聞き覚えがあった。王族との濃い血縁関係があり、広大な領地で小麦を生産し、国内に広く流通させている。また、財務卿を務めており国王陛下からの信頼も厚いという。
そのご令嬢とはお会いしたことがないものの、私の2歳上である殿下と同い年で、デピュタント以降仲睦まじくしているということは風の噂で知っていた。夜会でのエスコートはもちろんのこと、学院でも行動を共にすることが多いのだとか。また、私の前では微笑みすら浮かべないのに、彼女の前では天使の如き笑みを見せるのだとも。
「……陛下はご存じなのですか?」
曲がりなりにも王族との婚約である。お互いの口約束のみで結ばれ切れる縁ではない。
「君の了承が得られれば、すぐにでも私から報告する予定だ」
私が心配することではないということか。ちらりと殿下の背後に控える側近に目をやるが、彼の仏頂面からは何も窺い知ることは出来ない。
「さようでございますか。……して、婚約解消を思い至った経緯はお話しいただけるのでしょうか。私も非があるならば改めとうございます」
感情の籠っていなかった殿下の瞳が揺れた。全く予測していなかったわけでは無かろうに。
「10年前————君との婚約を結んだ時には、我が国と隣国の関係は不安定なものだった」
殿下の言葉に私は頷く。婚約が結ばれたのは、殿下が7歳、私は5歳の時だった。ファイルヒェン辺境伯領は隣国と接しており、長い歴史の中で何度も小競り合いが起き、その度に領主が兵を率いて跳ね返してきた。平和が続いた時には血の交換のために、隣国の高位貴族の令嬢が嫁いできたり、爵位を継ぐことが出来ない男子を婿に出したりしたこともある。
そのため、我が国の身体的特徴である色素の薄い髪や肌とは異なり、黒髪や茶髪、褐色や黄色味を帯びた肌を持つ者が多い。かくゆう私も黒髪である。肌は白く、瞳も薄紫色なのだけれど。
「————この10年の間、隣国とは友好的な関係を築くことが出来ている。しかし、今度は国内情勢が落ち着かない」
主な原因は典型的なお家騒動だった。跡継ぎ問題が勃発した家の領土を狙って内戦が起きた。そして、タイミングの悪いことに流行り病の蔓延や、天候不良による小麦や豆の不作といった問題が次々とあった。
領地を持つ高位貴族達は対応に追われ、王侯貴族の求心力は衰えた。反対に新興貴族達が力をつけてきた。今や政治の中枢にも食い込んでくるほどに。民衆の見えないところで、争いは今も続いている。隣国が沈黙を守っていたから良かったものの、混乱に乗じて攻め込まれていれば、今頃どうなっていたか分からない。
「父上の執務を手伝う中で、今は国内での結束を強めるべきだと思い至った。我が国の王家に隣国の血を入れるのではなく、王家の血を濃くするべきだと。級友であるシェーンゴルト公爵令嬢の聡明さには驚かされてばかりだった。彼女は新たな知見を与えてくれたのだ。婚約を結んだ時より、君を妻に迎えることに異論はなかった。だが、私は彼女と出会ってしまったのだ。彼女と共に国を治めていく未来を夢見てしまった。私にとっては、贅沢品に過ぎない茶器よりも、彼女の知識が欲しい。それに、君の黒髪は我が王家には————」
「殿下、それ以上はお控えください」
無言で後ろに控えていた側近に咎められ、殿下は口を噤んだ。私の髪がどうしたというのだろうか。両親や屋敷の者、領民達には射干玉の黒髪と褒められているのだが。定期的に梳かないと重く見えてしまうのが悩みではあるのだけれど。
「相分かりましたわ、殿下。婚約解消を受け入れましょう」
私はテーブルの上の白磁の呼び鈴を鳴らす。すぐにやって来たメイドに羊皮紙とペンを持ってくるように告げる。
「ですが、この件が公になれば、口さがない者達が妄言を言いふらすでしょう。お二方の素晴らしい未来に影が射すことになるやもしれません。ですから、円満に婚約解消したことを知らしめるために、お願いしたいことが2つあるのです」
丁度メイドが羊皮紙と羽ペン、インク壷をフライハイト殿下の前に置いた。目で合図すると、一礼してすぐに下がった。
「父が戻り次第この件は私からも報告させていただきますが、恙無く事を進めるために殿下から一筆頂きとう存じますわ」
フライハイト殿下は片眉をピクリと動かし、後ろに控える側近の眉間の皺は深くなったようだが、特に何かを言われることは無かった。殿下は無言で羽ペンをインクに浸し、さらさらと紙の上で走らせる。
————クラスネ・フォン・シェーンゴルト公爵令嬢との婚約に伴い、ヴィオルカ・フォン・ファイルヒェン辺境伯令嬢との婚約を解消することを求める。ヴィオルカ・フォン・ファイルヒェン辺境伯令嬢の希望により、望みを2つ叶えることとする。 フライハイト=カイゼル・エオストレ
「ありがとうございます。お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
羽ペンをインク壷に戻した殿下が立ち上がる。見送るために私も腰を上げかけた所で、思い出したように殿下が口を開いた。
「1週間後の王室舞踏会で、クラスネ嬢との婚約発表を行う。君が歌う予定であった讃美歌と、その後のファーストダンスも彼女に替わる。君はただ舞踏会を楽しめば良い」
そう言い残して、殿下は談話室を後にした。一拍反応が遅れたものの、カーテシーをとって見送る。扉が閉まる音を確認してから顔を上げた。去り際に言われた言葉がせわしなく頭の中を駆け巡る。ふつふつと怒りが湧いてきた。はしたないとは思いつつも、殿下が手をつけることが無かった紅茶の入ったカップを掴んで一気に呷り、倒れ込むようにソファに身を預けた。
「私に向かって“ただ舞踏会を楽しめば良い”なんてよく言えたものですこと」
一週間後の王室舞踏会を機に、今年の社交シーズンは幕を開ける。15歳を迎える私は、その舞踏会でデピュタントを迎えるのだ。そして、第一王子の婚約者としてお披露目されるはずだった。
思わず大きな溜息が漏れる。“円満に婚約解消を進める”とは言ったものの、全くダメージが無くなる訳ではない。華々しくデヴュタントを迎えるはずが、好機の視線と嘲笑の的になりにいかなければならない。
それに、社交シーズンの終わりと共に、王立学院に入学するのだ。領地で教師をつけていたため、貴族として必要な知識は既に身に付けているものの、人脈づくりや、より専門的な知識を得るために全ての貴族が15歳から18歳になるまでの4年間通うことになっているのだが、あまりにも幸先が悪すぎて憂鬱になってきた。
昨日王都に着いたばかりで、旅の疲れも残っている所に心労も重なってしまった。思わず大きな溜息が漏れてしまうが、今だけは見逃してほしい。
今日父は陛下に謁見するために出かけており、母は王妃様とのお茶会だ。今、タウンハウスに残っているのは私だけ。そんな中、今朝先ぶれがあり、殿下達を迎えるために慌ただしく時が過ぎた。心を通わせるための楽しい一時ならいざ知らず、残ったのが紙切れ一枚と徒労感では報われない。
呼び鈴を鳴らしてやって来たメイドに執事を呼んでもらう。流石に男性の前に晒して良い恰好ではないため、居住まいを正しておく。10呼吸ほどのしたところで、扉をノックする音がした。
「入って」
執事が丁寧に一礼をしてから入って来る。
「先程、フライハイト殿下より婚約解消の申し入れがあったわ。陛下とお父様はご存じないそうよ。お父様とお母様が戻られ次第、私から報告するのでその旨を伝えておいて頂戴な」
執事は一瞬驚いた表情を浮かべた。内心動揺しているかもしれないが、仕事はきちんとこなしてくれるだろう。私はしばらく部屋で休むことを伝えて、テーブルの上の羊皮紙を持って寝室へと向かった。
◇ ◇ ◇
扉を叩く音が聞こえて、私は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。返事をすると、メイドが入ってきて両親が帰宅したことを伝えられた。失礼のないように手早く身なりを整え、王子が一筆したためた羊皮紙を握りしめて2人が待つ居間へと向かった。
両親は和やかにティータイムを楽しんでいた。硬い表情の私に、何かを察したような母にソファを勧められる。着席するとすぐにメイドが温かい紅茶を淹れてくれた。私の好きなイチゴのジャムとクッキーが添えられている。
「お父様、お母様、お時間を頂きありがとうございます。朝、先ぶれがあったように、殿下がこちらに来られましたの。それで、殿下と私との婚約を解消したいとおっしゃられました」
「————そうか」
お父様は嘆かわしそうに天を仰ぎ、お母様は気遣うような優しい眼差しを向けてくださっている。
「お父様、こちらを————」
ここで私は殿下に書いて頂いた羊皮紙を差し出す。素早く目を通したお父様は、くつくつと忍び笑いを漏らした。
「“贅沢品でしかない茶器よりも、シェーンゴルト公爵令嬢の知識が欲しい”そうですわ」
「第一王子とあろう者が情けない事だ」
お父様は整った顔に冷たい笑みを浮かべている。
「そもそも、“贅沢品の茶器”の作り方を欲しているのはあちらだろうに。娘と共に我が家から技術までも取り上げようとしておいて、盗人猛々しい事この上ないな」
「ええ、本当に」
お父様の言葉にお母様も微笑む。お二人とも美しい顔に笑みを浮かべているものの、眼だけは冷たい怒りを孕んでいた。
「私が了承すれば陛下にご報告されるおつもりのようですわ。そして、来週の王室舞踏会にて、婚約者としてシェーンゴルト公爵令嬢のお披露目を……」
あら?私の意思とは関係なく、涙が止め処なく頬を伝う。フライハイト殿下を恋い慕ってはいなかったのに、なぜなのかしら?
「ヴィー。無理はしなくて良い。今日はゆっくり休みなさい」
お父様が優しく声を掛けてくださるが、私は首を横に振った。
「いいえ。時間がありませんもの。今日中に婚約解消を受け入れる旨の手紙を書いてしまいますわ。そうすれば、近日中に陛下に謁見する機会も得られましょう」
「そうか。すまないな」
羊皮紙はお父様に保管していただくことになった。曲がりなりにも、第一王子の署名がある重要書類だ。紛失などあってはならない。
席を立ち両親に一礼して自室にも戻ろうと踵を返す。メイドが扉を開けようとしたところで、お父様が口を開いた。
「ところで、陛下に何を望むつもりだ?」
私は振り返ってできるだけ優雅な微笑みを浮かべた。
「——————」
扉が閉まり愛しい娘の姿が見えなくなった。静かに紅茶を飲んでいた妻がカップをテーブルに戻した後、にっこりと私に微笑みを向ける。領民達であれば“慈愛に満ちた”と評するであろうが、彼女の本性を知っている身としては、肉食獣に差し出された羊と同じ気持ちになる。
「このままでは終われん。彼らにも報いを受けてもらわねば」
妻は笑みを一層深くした。いつまでも彼女に微笑みを向けてもらいたいものだ。そう思う私は完全に手綱を握られているのかもしれないが。
私の執務室の金庫の中には、万が一の時のために集めた貴族の不正や横領の記録が入っている。その取扱いも間違わない様にしなければ。
「……あの子は聡い子だ。ふさぎ込まなければ良いのだが」
妻が目をすっと細める。——それが貴方の役目でしょう?と言われているような気がした。
今年の社交シーズンは例年にないほど忙しくなりそうだ。
◇ ◇ ◇
自室に戻る前にアプリコットジャムを溶かした紅茶と便箋をメイドに依頼する。窓際に置かれた文机の前に座り、手紙に書く文面を考える。窓からは夕日に染まった薔薇園が見える。母の部屋からの方が綺麗に見えるのだが、私の部屋から見える温室を中心とした風景も落ち着きがあって好きだ。ああ、天気が良いからと、フライハイト殿下を温室にお招きしなくて本当に良かった!そうしていれば、今日から窓の外の景色が色褪せてしまうところだった。
ああでもない、こうでもないと考えていると、メイドがワゴンを持って来た。ふわりと香る紅茶の匂いにほっと一息つく。メイドが手際よく紅茶を淹れ、ドライフルーツの入った皿を並べる。そのまま退がるのかと思いきや、白磁のトレイを差し出してきた。
「お嬢様にお手紙が届いております」
封蝋に刻まれた印を見て思わず顔が綻ぶ。メイドが持って来た数種類の便箋の中から、シンプルな無地のものと、薔薇の香りを染み込ませたものを選んだ。
メイドはテーブルの上の蝋燭に火を灯した後、一礼して退室した。私は引き出しの中からペーパーナイフを取り出して封を開ける。爽やかなレモンのような香りがほのかに立ち上った。
————デピュタントおめでとう。貴女の晴れ姿を楽しみにしているよ。 黒色のすみれの花の精へ愛を込めて
手紙の主の事を思い浮かべると、自然と顔が緩んでしまう。フライハイト殿下とのお茶会の後から沈んでいた気持ちがふわふわとしたものに変わる。浮かれた気持ちのまま返事を書くのはよろしくないため、紅茶を飲んで気持ちを落ち着かせる。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がり、思考がクリアになった。
————ありがとうございます。舞踏会でお会いできることを楽しみにしております。
流石に手紙で婚約解消の事を伝えることはできない。先方に気まずい思いをさせたくはないし。でも、いずれは知られてしまうことなのだけれど。
彼はかつて我が国と諍いが絶えなかった隣国の皇子である。和平を結んで以降、友好をアピールするために、互いの王族を交換留学させる習慣ができた。彼は昨年から2年間の約束で、我が国に学びに来ているのだ。幼い頃にお会いする機会があり、そこから手紙での交流が続いている。
次にフライハイト殿下宛の手紙をしたためる。凝った表現などは入れずに、みじかくまとめることにした。
————婚約解消の件、了承致します。
書き終えた手紙をそれぞれ封筒に入れる。引き出しの中から蝋と印璽を取り出す。蝋燭で溶かした蝋を垂らして印を刻む。2つとも封ができた所で、呼び鈴を鳴らして手紙をメイドに預けた。明日にはそれぞれの元に届くことだろう。
ぼうっと庭の外を眺めながら、ドライフルーツをつまむ。紅茶の入った茶器と菓子用の小皿には淡い色で色とりどりの薔薇の絵が描かれている。今や全ての貴族の家が所持しているであろうこの白磁の器のシリーズは、何を隠そう我がファイルヒェン領で作られているものだ。
少し昔話をしよう。祖父の代にあった隣国との戦争が終結した後、隣国の大使から献上された白い茶器に先代陛下が心を奪われた。隣国との関係はしばらく平和な時が続いていたため、その隙に先代陛下はすべての貴族にお触れを出した。曰く、あの真っ白な茶器を我が国でも作れと。
その当時、水かビールもしくはワインといった冷えた飲み物が主であった。隣国よりもたらされた茶器と共に紅茶の茶葉が伝わり、温かい飲み物も好まれるようになったのだ。しかし、困ったことに紅茶を飲むための良い器がなかった。それまで使っていた持ち手のないガラスの器だと熱くて上品な仕草で持つことが出来ないわけだし。そういうわけで、しばらくは小皿に紅茶を注いで飲んでいたこともあったそうだ。
お触れを受けて祖父も茶器を作ろうとしたが何分知識がなかった。国境を守ることに特化して剣術や戦術を磨いていたのだから仕方がないのだが。困った祖父は領地に戻った際に白い茶器について知っている者を募った。すると、一月ほど経った頃に、旅の錬金術師が訪ねてきたそうだ。その者に言われるがまま、領主の館がある山岳地帯で採れていた用途不明のぬめりと特有な匂いのある鉱石を用いて作った器は、見事なまでに真っ白であった。
形は少々不格好だったそうだが、出来た器を王室に献上した。隣国より献上されたものよりも白く、滑らかなその器は“白磁”と名付けられた。
より美しい茶器を作るために領内で職人を養成し、整った形の器が量産できるようになった頃、製法を授けてくれた錬金術師は忽然と姿を消した。祖父は恩を返すために生涯をかけて彼の者を探したが、ついぞ見つけることはできなかった。
閑話休題、形の整った白磁の器を安定して製造できるようになった後は、絵付けに力を入れ始めた。最初は鮮やかに発色する青色のみで絵を描いていたそうだが、現在では様々な色を用いて絵を描くことが出来ている。
そういうことがあり、ファイルヒェン領といえば国王陛下御用達の白磁という評判が広がり、こぞって貴族達が買い求めに訪れた。地場産業ができたことにより領民達の収入が増え、それに伴い得られた税収で戦争による傷で社会復帰が難しくなった者や未亡人への毎月の給付金、教会や孤児院への寄付を増やすことが出来た。それに加えて領内に学院を建設し、ある一定の年齢の領民達が学ぶ機会を作ることに成功した。職人の養成にも力を入れているため、浮浪者や職が無い者の数を減らすことも出来た。
白磁は貴族の間では流行したものの、一度落とせば割れてしまう繊細なデザインの器は庶民には受けが悪い。収入が増えたことで、手が届かない訳ではないのだが、購入意欲を掻き立てられないのだ。そこで、立ち上げた商会を通じて、国内各地のカフェや小洒落た食堂に茶器や皿を提供し、庶民に身近なものとして認識してもらうことにした。いつかはこの白い器がある生活がしたいと憧れを持ってもらうことで、徐々に富裕層を中心に購入客が増えている。
また、職人からのアイディアで人形も作り始めた。まだまだ改良の余地はあるものの、オーダーメイドの赤ちゃんの人形は誕生祝として人気が出ている。我が家も年の離れた第二王子誕生の際に献上したものだ。
まあ、そのように戦争以外での功績が大きかったのと、我が家が独占している茶器製造の技術を王室が奪うために第一王子との婚約が結ばれたわけなのだけれども。私に兄弟姉妹はおらず、ファイルヒェン家の跡継ぎは遠縁の子息を学院入学に合わせて養子に迎えることになっている。
代替わりのゴタゴタを狙っている貴族は片手では足りない。お爺様からお父様に代替わりの際は、技術を奪おうと貴族のみならず王族までもがちょっかいを出してきたのだが、お父様が尽く往なしたそうだ。強欲な貴族に技術や職人が奪われ、こき使われるよりかは、王族の庇護に入った方がましだが、折角の駆け引きに使える道具を易々と渡す真似はしないだろう。第一、この婚約解消でお父様にその気は全く無くなったことは想像に難くない。フライハイト殿下は馬鹿にしてくれたが、我が家が持っている技術は宝の山なのだ。
◇ ◇ ◇
フライハイト殿下に婚約解消を告げられてから2日経ち、陛下からの命によりお父様と私は宮殿に向かう馬車の中にいる。堅苦しく髪型とドレスを整えられ、慣れない私はひどく肩が凝っていた。出来る事ならドレスを脱ぎ捨てて、乗馬服に着替えて馬で遠乗りに行きたい。弓を持って小動物の狩りに行くのも良い。
領内では慈善活動や市場調査と銘打って、領民達と触れ合う機会を積極的に設けていた。ドレスで着飾るよりも町娘の恰好をすることの方が多かったぐらいだ。また、辺境の地故に危険も多く、剣は持たせて貰えなかったけれども、弓と護身術は身に叩き込まれている。熊であれば私一人でも狩ることが出来ますのよ?
「緊張しているか?」
現実逃避をしていると、お父様に声を掛けられた。お父様は新作ができれば陛下に真っ先に献上する取り決めがあるため、登城する機会も多い。今更陛下とまみえると言ってもどうってことないのだろう。
「そうですわね。……宮殿は初めてですもの」
第一王子と婚約しており、その事実は周知されてはいたものの、私はずっと領地で過ごしていた。淑女としての教養をしっかりと身に着けた上でないと我が国の王族と会うことは許されないからだ。
デピュタントを終えた後に王妃様主催のお茶会に呼ばれる予定はあったのだ。お母様は王妃様の学友であり、王都に滞在する際は頻繁に茶会等に呼ばれている。お母様から聞く王妃様は語学堪能、上品で淑女の鏡のような方とのことで、お話させて頂くのが楽しみで勉強も頑張れたのだけれど。
「初めての登城が婚約解消の後処理だなんて……と言っても仕方ないですわね」
「こちらに責はないのだ。堂々としていれば良い」
そんな話をしていると、いつの間にか城門に着いたようで馬車が止まった。衛兵による確認が済んだところで再び動き出す。そっと外を覗けば、シンメトリーに整えられているという見事な庭園が見えた。
「大丈夫だ」
お父様に視線を戻すと、無表情だけれど優しい目をしたお父様と見つめ合うことになった。
「ヴィーのことは幸せにする」
「お父様……」
出来ればそれは婚約者の方に言われたかったですわという言葉は飲み込んでおく。
馬車を降りると、身なりの良い侍従に案内されて謁見の前に通された。私達の他には書記官、衛兵、侍従が控えている。おしゃべりをするのが躊躇われるほどの緊迫感があった。紅い絨毯の敷かれた階段の最上段には空の玉座があった。高貴な身分の方は最も後に来られるものなのだ。
誰もがしばらく無言で待っていると、陛下が来られるとの先触れがあり、揃って頭を下げた。私もそれに倣ってカーテシーをする。
衣擦れの音と微かな足音が聞こえた。着席されたような気配を感じだが、許可があるまでこのままの姿勢でいなければならない。
「顔をあげよ」
お父様より半拍おいて頭を上げる。姿勢を正した所で、陛下と目が合ったような気がして慌てて逸らした。必要以上に王族の顔を見つめることはマナー違反だ。
「発言を許す」
「陛下に置かれましては、ますますご健勝のことと存じ上げます。では、我が娘を紹介させていただきます」
「ヴィオルカ・フォン・ファイルヒェンと申します。本日はお会いする機会を頂き誠に光栄でございます」
お父様に促されて、挨拶の言葉を述べる。一度声を出せば気持ちが少し落ち着いた。
「よい。昨日第一王子より婚約者交代の申し出があった。余も考え直すように言ったが、あれも誰に似たのか強情だ。そなたの同意も得たとのことだが、再度確認をしたい」
「はい。婚約解消は私も承知しております」
婚約解消について何も思うことが無い訳ではないが、微笑みを崩さない様に意識しながら発言する。
「そうは言うが、あれとそなたとは交流が無きに等しい。そなたと関わりを深めれば魅力に気付き、一時の気の迷いを捨てることもあろう」
殿下と私は、季節の手紙を交わし、それぞれの誕生日には贈り物を送り合っていた。直接会ったのは婚約を結んだ時と、婚約解消の時ぐらいだった。
「いいえ。殿下のお心が決まっておりますのに、臣下たる私がどうして心変わりを求めることができましょうか」
「殿下は我が屋敷にて娘と話し合い、簡易的ではありますが書状にサインをされております」
不毛な問答を続ける陛下と私の間を遮るようにお父様が言葉を挟む。側に控えていた侍従に羊皮紙を渡す。静々と陛下の元に運ばれていき、読み終わるのを待つ。
はあっと陛下の口から大きな溜息が漏れた。
「用意周到なことだな」
褒め言葉と受け取り、優雅に一礼をしてみせる。
「此度のことは第一王子に責があることを認めよう。——して、そなたは何を望む?」
「私の望みは————」
お母様のような優雅な笑みになるように顔面に意識を集中させる。
「一つは次に私が婚約する際は私の心に決めた相手と縁を結ぶことを認めて頂きたいのです。例え相手の身分が低くとも、また他国の者であろうとも。もう一つは我が家が持つ白磁の技術の取り扱いについて、未来永劫我が家の領主に決定権があると認めて頂きとうございます」
陛下の反応が怖かったが、恐れずにしっかりと視線を合わせる。フライハイト殿下と同じアイスブルーの瞳に真っ直ぐ見下ろされる。為政者としての威厳が籠った眼差しに足が震える。
「————是と言わぬ訳にはいかぬか」
諦めを孕んだ口ぶりに一礼を持って返す。
「よい。そなたの望みを受け入れよう。これが如何なる結果を招こうとも、責任は余と愚息が取ることになるであろう。——して、ヴァイゼよ。そなたはシェーンゴルトをどう見る?」
「私から申し上げることは何もありません」
お父様が何も答えずとも、陛下は特に気に留めた様子はなく、護衛を引き連れて退室された。その後、書記官が用意した誓約書にサインをして、私達も王宮を辞した。こうして私の初めての謁見は終わった。
◇ ◇ ◇
社交シーズンの幕開けとなるこの時期は、丁度学院の休暇と重なっているため、私は執務室で父である国王陛下に任された分の書類の決裁をしていた。同じ室内では、側近であるナーエ・フォン・チェントロが書類を処理しやすいようにまとめている。お互いに話すこともなく、ペンを走らせる音と紙がすれる音がやけに大きく響いていた。
扉をノックする音がして、ナーエがすぐに席を立って用件を伺いに行く。いくつか言葉を交わした後、いつも通りの仏頂面をしたナーエが戻ってきた。
「フライハイト殿下、失礼いたします。国王陛下がお呼びだそうです」
「分かった。すぐに向かう」
部屋の外で待機していた侍従と共に国王の執務室に向かう。
それしにしても父上からの呼び出しとは何だろう?王国議会に提出した新たな徴税案の事だろうか。シェーンゴルト公爵と共同で出した食料政策もあったな。それとも……?
あれこれ考えていると、父上の執務室の前に付いた。先導していた侍従が父上に伝えるため一人で扉の奥に消えていった。ナーエと共に重厚な扉の前でしばし待つ。華美な装飾を施された扉を見ていると、嫌でも緊張感が高まってくる。ナーエに悟られない様に、そっと視線を外した。
磨かれた床に反射した靴を見ながら気を落ち着かせていると、侍従が出てきて、私だけ入室するように言った。ナーエは扉の横に控え、私が部屋の中に入ると侍従が扉を閉めた。執務室の中には私と父上しかいない。父上は目の前に置かれた羊皮紙に目を落としていたが、ここからでも分かるほど険しい顔をしていた。少し離れて執務机を挟む形で向かい合う。私は立ったままなので、近くで見下ろすことは出来ない。
「フライハイトです。お呼びにより伺いました」
父上は顔を上げた。
「フライハイトよ。お前が婚約解消を望んでいたヴィオルカ嬢から正式に署名が得られた。後はお前の名を書くだけだ」
そう言って、父上は先程まで目を通していた紙を私に向かって差し出してきた。
「おお!これで私はクラスネと結ばれることができるのですね!」
素晴らしい、今日という日を祝日にしたい気分だ。早速サインを書こうとすると、父上に制された。
「お前が署名するまでは、まだヴィオルカ嬢はお前の婚約者だ。今一度考えよ」
「父上、お言葉ですが私の心はすでに決まっております。クラスネこそ我が伴侶に相応しいと確信しております」
父上は眼に哀れみの色を浮かべた。
「お前は、ヴィオルカ嬢との婚約にどのような意味があったのか分かっているのか」
「隣国と間接的な縁を結び、かつ辺境の守りが強固であることのアピールをするものと認識しております」
父上の表情は変わらない。
「それだけか?」
「……。他の理由がありますか?まさか、たかが白い茶器の技術を求めているだけではありますまい」
父上は目を閉じて大きく一つ息を吐いた。
「お前が”たかが白磁”と言った技術がファイルヒェン領にもたらした恩恵を知らんのか」
「恩恵……随分と荒稼ぎをしているようだとしか……」
正直、ファイルヒェン辺境伯令嬢についてこれといった興味は無かった。領地についても、一般常識として知っている程度だ。
「これは白磁に限った話ではないが……技術は金を生む。それは直接的な利益だけではなく、新たな雇用創出に繋がることで民草の収入が増え、それが領の収益にも繋がる。それを寄進や教育に使うことで民に還元する。……このような良い循環がファイルヒェン領に出来ているのだ」
そんなことも知らなかったのかと言わんばかりの口調だった。
「今はファイルヒェン領だけの話だが、国営事業にすれば利益を得られる民草も増えるだろう。……辺境伯も易々と金の生る木を手放すはずはないがな。そこで、民に混ざって事業を手伝っている嫡女に目を付けた」
「でしたらっ‼シェーンゴルト公爵領も利益を出しているではありませんか⁉」
父は気怠そうに目を細めた。
「ファイルヒェンの産業は小麦だろう?領地には限度があるし、気候にも影響される。白磁にはこれからも伸び代があるが?……ああ、お前がシェーンゴルト公爵と連名で出していた案は無しだ。無駄が多すぎる」
「なっ⁉……何故ですか」
「一々説明せねば分からんのか。お前の提案した政策では、国内で収穫した小麦を全て王家が買い取り分配するのだったな。潤沢な収穫が得られる領であればまだしも、領内で消費するだけの量しか獲れない所からも一旦収穫を取り上げる必要がどこにある?……凡そシェーンゴルトが書いた筋書きだろうが、お前の名もある以上、答えられるのだろうな」
「…………」
唇を噛みしめた。公爵が全て用意するというので、書類に目を通すことはしていなかった。
「して、クラスネとの婚約にあたって、シェーンゴルトについて調べたのか?随分と信頼が厚いようだが?」
「……調査の必要性は感じません。クラスネは正直者だし、公爵も良い助言を与えてくれています」
父上は隠すそぶりもなく落胆の色を見せた。
「それでよく縁を結ぼうとしたものだ。……一度婚約を解消したお前が、次の婚約も破棄するようなことは出来ぬぞ。廃嫡するしかあるまいな」
「そのようなことになるはずがありません」
父上は卓上ベルを鳴らした。隣の部屋に控えていた宰相が一礼して入ってきた。
「フライハイトの学院卒業をもって王太子とすることとなっていたが、それは一旦白紙に戻す。第二王子が学院を卒業するまでの8年でどちらが王位に相応しいかを見極めることとする。それまでの間に朕が倒れることがあれば、王弟であるブルーダーに任せることとし、王太子の任命についても一任することとする」
「父上、何故ですか⁉」
「時が来れば自ずと意味が分かろう。————宰相よ、書類を作成せよ」
「……私の気持ちは変わりありません。クラスネと共に国を良きように治めたいと思います」
「………そのようになれば良いな」
婚約解消の制約書と王太子任命に関する書類にサインを書いて、父上の執務室を後にした。後ろを歩くナーエからは何も問いかけられることは無かった。
◇ ◇ ◇
あっという間に時が流れたような気がする。メイドたちに準備を手伝ってもらいながら気づかれない様にそっと溜息をついた。今日は例の王室舞踏会の日だ。デピュタントを迎える私は黒髪をハーフアップにまとめ、白のドレスに身を包む。白とはいっても婚礼衣装のような派手なものではなく、飾り気のないシンプルな形のものだ。そしてオペラグローブを付ければ準備万端である。
「お嬢様、本当にお綺麗ですわ」
「艶やかな黒髪がドレスに映えますわ」
「殿方の視線を釘付けにするに違いありませんわ」
メイドたちが口々に褒めたたえてくれるが、今一つ乗り気にはなれない。控えめに微笑んで礼を伝えると、専属のメイドを残して退がっていった。
メイドを伴ってホールに向かう。本来であれば、婚約者であったフライハイト殿下にエスコートをして頂くことになっていたのだが、このようなことになったためにエスコートはお父様になった。お母様がこっそり教えて下さったのだが、お父様はいつになく浮かれていたそうだ。
ゆっくりと階段を降りていると既に階下で待っておられたお父様と目が合った。
「ヴィー、まだ子供だと思っていたが、立派なレディだと気付かされたよ。とても綺麗だ」
優雅にカーテシーをして応える。そして、馬車に乗って宮殿へと向かった。
舞踏会の会場は静かな熱気に包まれていた。ウェイターからシャンパンの入ったグラスを受け取り、舞踏会が始まるまでお父様と待機する。お父様は知り合いらしき男性の挨拶を受けたり、言葉を交わしたりしている。私を紹介されれば、カーテシーをして挨拶をするが、それ以外は口を開くこともなく側に控えていた。
暫くお父様達のお話に耳を傾けていると、舞踏会の開幕が告げられた。お父様に連れられて、陛下への挨拶の列に並ぶ。成人の挨拶をして、一言祝福の言葉を頂くだけなので、すぐに終わった。
顔見知りの令嬢もいないため、変わらずお父様の側に付いていたのだが、侍従が何事かをお父様に耳打ちして、お父様が会場を離れることになってしまった。いよいよ所在が無くなってしまった私はそっと壁際の方に下がり、ひっそりとシャンパンを飲むことにした。
「あら、何だか暗いと思ったら、烏がいるじゃないの」
嫌だわとクスクス笑いながら、一人の令嬢が近づいてきた。艶やかな金髪に勝気そうな碧色の瞳だった。デピュタントではないらしく、シャンパンゴールドのドレスを身に纏っていた。知り合いではないが、思い当たる節はあったため、カーテシーをして挨拶をする。
「お初にお目にかかります。ヴィオルカ・フォン・ファイルヒェンと申します。シェーンゴルト公爵令嬢クラスネ様とお見受けいたします。この度はフライハイト殿下とのご婚約おめでとうございます」
一息に定例文を述べて見せると、面白くなさそうに鼻を鳴らされた。
「フライハイト様から聞いていたけど、本当に辛気臭いわね。そのみっともない黒髪は宮殿にふさわしくありませんわよ?それに婚約を取り消されたばかりだというのによく顔を出せたものですこと。その度胸は認めて差し上げますわ」
そう言ってクラスネ様は高笑いをした。フライハイト殿下に選ばれたのだという優越感が溢れている。
「この黒髪は母方の祖母から受け継いだものですわ。隣国の民の色ではありますが、私はとても気に入っていますのよ」
微笑みながら反論すると、クラスネ様の顔に嘲りの表情が浮かんだ。
「まあ、可愛そうに。知らなかったのね。貴女の元婚約者であるフライハイト殿下は、蛮族の色を持つ貴女と婚約していることをとても嘆いていらしたのよ?偶に会ってみても黙ってお茶を飲むだけ。家が持つ茶器の技術を鼻にかけている嫌味な令嬢ですって」
かつて戦争が絶えなかった隣国を蛮族と誹っていたことは知っている。しかし、今は仮にも和平を結んだ友好国という立場なのだ。そして、その皇子を留学という形で招いているにも関わらず、まだその蔑称を使う者がいることに、目の前が真っ暗になった。
顔を真っ青にしてガタガタと震えている私を見て満足したのか、クラスネ様はニィと口角を吊り上げた。
「貴女がいるはずだった場所に、今から私が立つの。そこで指を銜えて見ているが良いわ」
それだけを言い残して、クラスネ様は背を向けて去っていった。デピュタント達の列はいつの間にかはけていた。ということは、これからクラスネ様が讃美歌を歌い、ダンスへと続いていくのだろう。
私は空になったグラスをウェイターに預け、ふらつく足取りで会場を離れた。
◇ ◇ ◇
外の空気が吸いたいと扉の所に控えていた衛兵に伝えると、会場のすぐ近くにある薔薇園を勧められた。礼を伝えていそいそと歩を進める。
「まあ……」
様々な品種が揃えられ、色とりどりの花を咲かせていた。月明りに照らされた薔薇たちは、言葉にならない程幻想的で美しかった。
今頃会場では、クラスネ様が第一王子の婚約者となったことが発表されているだろう。拍手でもって歓迎された後、多くの観衆に見守られながら讃美歌を歌い上げるのだ。
もう演奏は始まっただろうか。耳を澄ませても、ピアノの音は聞こえてこない。ここならば控えめに歌えば邪魔にならないだろうか。今日のために練習していたのだ。少しぐらい披露させて欲しい。
~♪ ~♪ ~♪
ゆったりとしたメロディーを思い浮かべながら、豊穣をもたらして下さる女神様を讃える詩を歌う。誰も聞いていないと思えば、音程を外さないか等とヒヤヒヤすることもなく、純粋に歌うことを楽しめる。
歌い終わると、拍手の音が聞こえた。ホールの喝采がここまで届いたのではなく、私のすぐ近くで。
「そこにいるのは花の精?それとも月の女神だろうか」
「お久しぶりでございますね。リティッシュ殿下。拙い歌を聞かれて恥ずかしい限りですわ」
目隠しとなっている植え込みの陰から現れた人物——隣国の第五皇子を見て、私は微笑みを浮かべてカーテシーをした。
「君にそのように呼ばれると何だかむず痒いな……。昔のようにリッツと呼んではくれないのだろうか?」
「あの頃はまだ礼儀もマナーも不完全な子供でしたので、とんだ無作法を致しました。大人になったのですもの、殿下を愛称で呼ぶことなどできませんわ」
リティッシュ殿下は有無を言わせぬような笑みを浮かべた。
「リッツ」
「リティッシュ様。これ以上はお許しくださいませ」
溜息を吐く私とは対照的に、リティッシュさまは満足そうだ。そろそろダンスが始まるだろうに、このような所で油を売っていて大丈夫なのだろうか。
「ところで、何故こちらにいらっしゃるのです?リティッシュ様とのダンスを楽しみにしているご令嬢も多いと思いますよ?」
「ヴィー……ヴィオルカが外に行くのが見えたから後を追っただけだよ。君とゆっくり話がしたかったからね」
リティッシュ様は笑顔を消して、表情を引き締めた。記憶の中では、快活な笑みを浮かべていた男の子が騎士然とした立派な男性になったのだと自覚して、不覚にもドキッとしてしまった。
「でも、このような人目のない場所で婚約者ではない男女が共にいる所を見られれば、リティッシュ様に良からぬ評判が付いてしまいますわ」
「では、こうしようか」
リティッシュ様は膝を付いて、隠し持っていたらしい小ぶりなブーケを差し出してきた。
「私は約束を守るよ。結婚してほしい————黒色のすみれの花の精よ」
「覚えていてくださったのですか……」
ブーケになっていたのは、黒いすみれの花だった。それをみた瞬間に幼き日の記憶が奔流のように溢れ出してくる。
『おい、チビ助。こんな所でうずくまって、何やってるんだ?』
『私はチビ助じゃない。ヴィオルカって名前があるの!』
『はいはい。ヴィオルカ。一人でうずくまってどうしたんだ?漏らしたのか』
『本当に、しつれいな人!私はそんな子供じゃないわ!……帽子が飛んでいっちゃったの……』
『帽子?今日は曇ってんだから、そんなもん要らないだろ?』
『違うの……。髪を隠すの』
『はあ?なんでそんなことするんだよ』
『黒い髪は町の人が嫌いなの。大切な人を奪う”ばんぞく”の色だと言われたこともあるわ。後は、悪魔の使いだとかね。だから、隠さないといけないの』
『そっかあ……。そう言われると流石に傷つくなあ』
『私はね、この色嫌じゃないよ?おばあ様と同じ色だもの。おばあ様はお会いする前にお空へかえっちゃったけど、お母様がおばあ様は立派な淑女だったって言うから、おばあ様に恥じないような素敵なレディになるのよ』
『……へえ。黒すみれのお姫様のことか……』
『黒いすみれ?すみれは濃い青色だわ。黒いすみれなんて見た事ないもの』
『なら、俺が作ってやるよ!』
『お花って作れるの?』
『俺様に出来ないことは無い!俺は黒いすみれを作って、ヴィオルカって名前を付けてやるよ。だから、お前は髪の毛を隠すな!命令だ!』
今思えば、滅茶苦茶なことを言われたものだと思う。
あれは私がフライハイト殿下と婚約を結ぶ前、領内の焼き物の工場の視察に隣国の使者が訪れたことがあった。それに、父である皇帝の意向で付いてきたのがやんちゃ坊主だったリティッシュ様だった。
戦争で傷ついた人の心は中々癒えるものではない。慈善活動や視察で街に降りた際、我が国では珍しい黒髪を見て顔を顰め、コソコソ何事かを囁き合う大人たちは多かった。いくら国王陛下や領主が友好だ和平だと言っても、民達の心までは変えられない。ならばと、私は自衛と領民達の心を傷付けないために黒髪を隠して過ごすことにした。
そんな時に無理矢理約束を取り付けられ、当初は恨めしく思う気持ちはあったものの、領主の娘としてできる限りで領民達との交流を重ね、隣国ではポピュラーなカラフルなデザインを茶器に取り入れることで、隣国の全てが悪ではないと領民達の意識を変えていくために努力した。
リティッシュ様と月に一回ほど交わされる手紙も励みになった。隣国でのおばあ様の愛称をもじったもので呼ばれることは恥ずかしかったけれど。
「本当に、出来るとは思っていませんでしたわ」
「様々な品種を交配させた結果だ。特にこだわったところは花弁の中心部にかけての紫色のグラデーションだな。……今はよく見えないが。まあ、新しい花を作るとは言えなかったから、最初に手をつけたのは小麦の品種改良だったが……」
ロマンチックにプロポーズをしてくださったのに、開発の苦労話を聞くことになってしまった。ファイルヒェン家も茶器の新作の開発に力を入れているので、このような専門的な話を聞くのは楽しいのだけれど。
「……やはり国益が絡むと議会の承認が得られやすく、予算も潤沢に与えられたがな。あの時は、国に帰ってから植物学者になると言ったら、父も兄たちも驚いていたな。私は騎士になると言って、勉強もそれほど好きではなかったし。それで、勉強に励む代わりに君との婚約を望んだのだが、先を越されてしまってね」
どこで情報が漏れたのだか……と苦笑いするリティッシュ様の言葉に、私は驚きを隠すことができなかった。
「まあ、そうでしたの?全く知りませんでしたわ」
「皇帝と辺境伯との間で話を進めて、根回しをしていた所だったからね。でも、諦められなかったから、少しでも学院で共に過ごしたくて留学させてもらったんだ。……結果的に上手く事が進んだから誤差の範囲内さ」
最後に呟かれた言葉を私聞き逃しはしませんよ?
「まさか、リティッシュ様は何か良からぬことをしたのではないですよね?」
「ん?私はただ王妃への夢を捨てきれないご令嬢にアドバイスをして、王子様に魅力的なご令嬢がいることを伝えただけだよ」
クラスネ様はリティッシュ様に唆されてフライハイト殿下とお近付きになったというわけか。皆、掌の上で踊らされていた道化だったと?
「私の案内役は同じ王族のフライハイト王子だったから、色々と手間が省けて良かったよ。そういうわけで、君のデビュタント前に動きがありそうだというのも事前に知っていた。私はファイルヒェン辺境伯とも連絡を取り合っていてね。もしも婚約が解消されたら、求婚して我が国に連れて帰ることは了承を得ているよ。社交シーズン明けには学院に入学することになっているけれど、このままだと通いづらいでしょ?学校は我が国にもあるし、入学手続きはもう済んでいるよ。君が来てくれるのなら、私も一緒に帰国する。君さえ手に入れられればこの国に用はないしね」
「随分と手際が良いように思うのですが」
感心を通り越してむしろ呆れてしまう。完全に外堀を埋められているではないか。
「私はずっとヴィーを愛していたよ。君を悲しませたりしない。私は植物学者として、色々国を飛び回ることになるけど、付いてきてくれると嬉しいな。——共に幸せになろう」
「私もリティッシュ様をお慕いしておりますわ」
差し出された手をそっと握り返す。リティッシュ様は私の手の甲にキスを落とすと、すっと立ち上がった。
「さて、歪な形にはなってしまったけれど、今日は君のデビュタントをお祝いする日だ。——ヴィオルカ嬢、貴女のファーストダンスの相手を務める権利を私にくださいませんか?」
「喜んで」
月明りを浴び、薔薇の花に見守られながら、ウィンナーワルツを踊る。軽やかな足取りで、手を組んでくるくると回りながら、大きな円を描くようにステップを踏む。華やかな舞台や楽団の演奏はないし、芝に足をとられそうにもなるけれど、愛しい人とのダンスがこんなにも心が弾むものなのだと知ることができた。
何周したかは分からないけれど、足を止めた時には軽く息が上がっていた。気分が高揚しているからか、疲れは感じなかった。
そのままリティッシュ様にエスコートをされ、なかば夢心地のまま館へ戻った。本当に夢だったのでは?と感じることもあったのだけれど、メイドによって活けられた黒いすみれの花が夢ではないことを教えてくれた。
二週間後、両親と館の使用人たちに見送られ、ひっそりと隣国に向けて旅立った。
◇ ◇ ◇
ヴィオルカ・フォン・ファイルヒェン辺境伯令嬢が人知れず出立をした頃、王宮にリティッシュ第五皇子が急遽帰国する旨が通達された。火急の知らせがあったためとのことだが、多くは語られることは無かった。そして、無事二人が隣国に入国した頃、ファイルヒェン辺境伯から、娘の婚約宣誓書が届いた。すでに教会にも提出されているものであり、政治的な介入によって覆せるものではなかった。また、それと時を同じくしてシェーンゴルト公爵家の不正の証拠が匿名でもたらされ、第一王子、第二王子近辺の動きが慌ただしくなったそうだが、あずかり知るところではない。
黒色すみれさんの「永久に麗しく、すみれの花よ」という曲をモチーフに書かせて頂きました。
ヴィオルカの歩む道は茨の道になるでしょうが、強く生きてくれることでしょう。
連載化する予定はありません。