ロボットから見る景色には
北にある、とある町の古ぼけた電気屋。ここが僕の家だった。木がたくさんあるだけで、特に何も無い所だけど、目の前には、いつもの白猫。その横の電柱には、朝から入れ違いにカラスが止まっている。僕の大好きな風景だ。ずっとここにいたいと思っていたし、此処こそが僕の生きる場所だった。
「ねえ、君、お名前は?」
ある夏の暑い日のことだった。ピンク色をひらひらさせたスカートに、垂れたうさぎの耳みたいな髪の毛。話しかけてきたのは、そんな女の子だった。
「僕は、ロボットだよ。」
そう言うと、女の子は不機嫌そうに口を膨らませた。
「ちがうよ、お名前だよ。ゆりは、ゆりちゃんとか、ゆーとか呼ばれるけど、ちゃんとゆりかって名前があるよ。」
そんなことを言われても、生まれたときから「ロボット」が僕の名前だった。電気屋の主人も、近所の野良猫も、よく来る悪ガキ坊主も僕のことはそう呼ぶ。
「ごめん、分からないよ。」
ゆりかと名乗った女の子はまた、むうっと口を膨らませたかと思ったら、良いことを思いついたかのように目をキラキラさせた。
「じゃあ、ゆりが名前をつけてあげる。」
顎に手を当てて、こてんと曲げた首で考えているところは、なんというか、とても可愛らしかった。スズメみたいだ、と少し思った。
「うん、決めた。君は今から、ユウトね!」
女の子はにっこりと笑って、手を差し出している。一体、何のつもりだろうか。
「え、もしかして、あくしゅ知らないの?ほら、こうやって、手を出して…」
女の子は無理矢理僕の右手を掴むと、自分の右手に握らせた。そして、ぶんぶんと振る。
「これが、あくしゅだよ。これからどうぞよろしくねって意味。よろしくね、ユウトくん」
またにっこりと笑った女の子は、今度は僕の両手を握りながら、そう言った。
「君は」
「ゆりかだよ。ゆりって呼んで」
「ゆり…ちゃんは、なんでここに来たの?」
僕がそう聞くと、「なんででしょう」と悪巧みするような楽しそうな笑顔を見せた。
今日は、秋色に染まった1日だった。夏からは一転して、木々も風も模様替えをし終えたのだろう。
「ユウトくん!」
向こうにある電柱の側から聞こえる、楽しそうな声。最近は、毎日聞く声。
「今日はね、学校でどんぐり拾ってきたんだよ」
小さな左手にはたった1粒、小さなどんぐりが乗せられていた。
「これ、ユウトくんにあげる」
どんぐりを掴み、僕に向かって突き出してきた。
「いいよ、ゆりちゃんが持ってなよ」
僕が受け取るのを拒むと、ゆりちゃんは少し乱暴に僕の手にどんぐりを押し付けた。
「ゆりはね、持っていてもしょうがないの」
ゆりちゃんは俯きながらそう言った。しょうがない、とはどういう事なのだろうか。
「ゆりは、ユウトくんに持っていてほしいかな」
無理矢理どんぐりを持たされた僕の右手を、まるでお願いごとでもするかのように、両手でそっと包み込んだ。
「あのね、お名前にはちゃんと意味があるんだよ。ゆりかのゆにもね、人ともう1人の人とか、顔と心ぞうっていう意味があるんだよ。表情が豊かっていう意味もあるんだって」
ゆりちゃんは、長いまつ毛を伏せながらそう言った。
今日は、1日中雨が降っていた。僕は電気屋の主人に、ずっと家の中にいるよう指示されていたし、今日はずっと家の中でコンコンとなる雨を聴いていた。それはそれで、楽しいのだけど。そういえば、こんな雨の日でも、ゆりちゃんは来るのだろうか。そんなことを考えていたら、
「ユウトくん!」
窓の向こうから、突然大きな声がした。ゆりちゃんだ。僕は急いで、窓から顔を出した。
「あ、いた!」
ゆりちゃんは、ピンク色のクラゲみたいな傘をゆらゆらと揺らして、こちらを見上げていた。
「そんなところにずっといたら、風邪を引いちゃうよ。中に入っておいでよ」
僕がそう言うと、
「ううん、今日はちょっとだけお話しに来ただけなの」
と、さっきよりは落ち着いた声で返ってきた。
「話ってなに?」
僕が身を乗り出して、その話とやらを聞こうとすると、
「今日は、雨だね!!」
と、元気に返ってきた。うん、まあ、今日は雨だ。
「それで、話って」
「雨は、好き?」
そんなことは考えたこともなかった。雨というのは、雲が連れてくる、1種の持ち物のようなもので、そこに自分の感情を持とうとは思わなかったからだ。
「ごめん、考えたことがないよ」
僕は、正直に言った。ここで、適当に、好きやら嫌いやら言ったところで、理由など思い浮かばなかったからだ。
「だいじょーぶだよ!好きかきらいかなんて、どっちでもいいよ。ユウトくんの答えが聞きたい」
どっちでもいい…のか。そうは言っても一応考えてみる。雨は好きか、嫌いか。…ずっと家にいる時、屋根をコンコンと鳴らす音は好きだ。でも、外にいる時、上から覆いかぶさるように、どんどん僕の頭に落ちてくるのは嫌いだ。僕の好きな風景が、一瞬にして何者かに支配されてしまった気がするから。
「…ごめん、やっぱり分からないよ」
僕がそう言うと、
「うん!わかった!」
と、ゆりちゃんは口を大きく開けて、笑顔で言った。
ゆりちゃんが、僕の家に来るようになって、1ヶ月と2週間くらい。だんだん、日が短くなっていくのが分かる。僕にとって、ゆりちゃんが来ることだけが毎日のイベントだった。いつも、この場所でゆりちゃんが来るのを待っている。でも今日は違う。今日は、ゆりちゃんにプレゼントがあるんだ。家の裏で見つけた、綺麗なサネカズラの実。これをゆりちゃんにあげたい。どんぐりのお礼には、程遠いだろうが。
「ユウトくん!」
きた。右手に握ったサネカズラの実を、もう1度強く握った。
「ゆりちゃ」
「ユウトくん!今日はね、プレゼントがあるの」
話を遮られてしまった。しかも、プレゼントがあるという。ゆりちゃんはポケットに手を突っ込んでから、はいっ、と左手を突き出した。乗せられた左手を見てぎょっとする。
「これはね、サネカズラの実だよ」
まさか、同じものをプレゼントしようとしていたなんて。こんなことを知ったら、ゆりちゃんも驚くかなと思ったら、僕は、少し可笑しくなってしまった。
「うん、知ってる。僕もね、今日はプレゼントがあるんだ」
ぎゅっと握っていた右手を開き、ゆりちゃんの手に乗せた。
「サネカズラの実だよ」
右手に乗せられたものを見て、目を丸くしている。驚いてるかな…その後、笑ってくれるかな…そう思っていたのに、
「あり、がとう」
僕が次に見た表情は、泣き顔だった。僕の方が驚いてしまって、おろおろする。
「だいじょうぶ、うれしくて泣いてるんだよ」
少し寒そうに赤く染まった頬に沿う涙は、重力に従って、真っ直ぐ落ちた。雨だ…そう思った。そうか、分かった。
「僕、雨が好きだ。ゆりちゃんを笑顔にしてくれる雨なら、いっぱい降ってほしいって思うよ」
僕がそう言うと、少し目を丸くした後に、
「うん、ありがとう」
と笑顔で言った。
次の日、この前の雨が嘘かのように、空は青々と輝いて、サンサンとした太陽まで身につけていた。今日もきっとゆりちゃんが来る。電気屋の主人は最近毎日ここにいる僕を不思議そうに見ているけど、そんなのは関係ない。僕はゆりちゃんに会いたいんだ。
だけど、ゆりちゃんは来なかった。次の日も、その次の日も来なかった。どうしたんだろう、何かあったのだろうか。心配にはなったけど、僕には何もすることができない。だって、僕はただの…
「おい、ロボット、これ運べよ」
電気屋の主人の声がする。そうだ、そうだった。これが当たり前だった。いつから、ゆりちゃんがいた毎日を当たり前だと思っていたのだろうか。いつから僕は「僕」だと思わなくなったのだろうか。僕にとっての当たり前を、取り違えていた。
ゆりちゃんが来なくなって、1週間が経った。きっと今日も来ない。でも、僕はこの場所にいないなんてことは出来なかった。ずっとここで、ゆりちゃんを待っていたかった。すると、少し向こうにある電柱の側から何やら足音が聞こえた。ゆりちゃんだ、そう思ったけど、来たのは若い女の人だった。その人は、僕の目の前で止まり、僕をじっと見つめている。どうしたんだろう。
「ユウトくん…ですか?」
聞き慣れた名前にはっとする。でも、その名前は、ゆりちゃんしか知らないはずだ。
「そう、ですけど…」
僕がそう言うと、女の人はホッとした顔をした。そして、大きめの茶封筒を僕に差し出してきた。
「これ、ゆりがあなたにって。中身は見ていません。あなたに渡してほしいって言われてるの」
恐る恐る、その茶封筒を受け取った。よく見ると、ピンク色のハートのシールが貼ってあった。それを見て、ゆりちゃんだ、と確信した。
「あなたは誰なんですか?」
封筒を両手で抱きしめながら聞いた。すると、
「私は、優梨花の母です。毎日ここに来ていたんでしょう。お世話になってしまって、ごめんなさいね」
と、少し申し訳なさそうに口元に手を当てながら、そう答えた。
「いえ…あの、ゆりちゃんは、どこに…?」
僕がそう聞くと、ゆりちゃんの母だという人は俯いた。
「優梨花は、先日亡くなったんです。」
なくなった…亡くなった…?まるで心と体が切り離されてしまったかのように、僕はその言葉の意味を理解できなかった。
「あの、どういう意味ですか?」
心底不思議そうに聞く僕を、ゆりちゃんの母は今にも泣きそうな顔で見た。
「あの子は病気で…もう治ることはないと医者から言われてたんですけど、少しでも生きてほしくてこんな田舎に越してきたんです。安静にしてほしかったのに、毎日毎日病院を抜け出して、ここに来て…それで、毎日、あなたに会いに来ていたんですね」
嘘だ。ゆりちゃんは、学校帰りにいつも寄っていると言っていたじゃないか。それに、いつも笑顔で、病気なんて、そんな雰囲気はなかったのに。
なんで…僕は、気づかなかったんだ。
「ごめんなさい、僕…」
すると、ゆりちゃんの母は首を横に振った。
「ううん、違うの。謝ってほしいんじゃなくて、お礼を言いに来たんです。あの子、あなたに会ってから毎日楽しそうだったの。本当に、ありがとう」
ゆりちゃんの母は泣いていた。ゆりちゃんにそっくりな笑顔で。でも、あのときとは違う。違う雨だ。雨は、好きなはずだった。確かに、好きだと思った。だけど、その雨は切な色で、僕はどうしても好きだと思えなかった。どうしよう、ゆりちゃんに嘘をついてしまったようだ。
「ごめんなさい、泣いてしまって。じゃあ、それ、ゆっくり読んであげてくださいね」
ゆりちゃんの母は僕にお辞儀をすると、電柱以外何も無い道を真っ直ぐ歩いていった。
「おいロボット、今のは誰だ?」
電気屋の主人が声を上げている。
「ゆりちゃんのお母さんだそうです」
主人は、ゆりちゃんすらよく分からなかったようで、まあいいや、と口にくわえていたタバコを床に押し付けた。
「で、なんの話だったんだ?」
「ここに毎日来ていたゆりちゃんという子が、先日亡くなったそうで…」
ふうん、とまるで関心の無さそうに鼻で返事をした。
「お前が毎日外に出てたのは、そのゆりちゃんに会うためだったんか。」
僕は、静かにこくっとうなづいた。
「でも、ゆりちゃんもかわいそうだな、お前みたいな奴と最期の思い出作りか。死んだって、なんの感情もねぇロボットなんだから、悲しんでなんかくんねぇのにな」
主人は、2本目のタバコを口にくわえながら、そう言った。主人の言ったことは正しいんだと思う。現に、ゆりちゃんが亡くなったと聞かされたって涙なんか出てくるわけない。それどころか、表情すら作り出せない。こんなんじゃ、とても言い返せない。
「部屋に戻りますね」
僕はそう言って、自分の部屋に入っていった。もちろん、茶封筒を見るためだ。ゆりちゃんは、何を見せてくれるんだろう。かわいいピンク色のシールを丁寧に剥がし、中を覗いた。するとそこには、1枚の白い紙が入っていた。それをゆっくりと引き出すと、子供らしい字でこう書かれていた。
「優人くん、ゆりの心ぞうになってくれて、ありがとう。」
最初、意味が分からなかった。僕の名前に漢字があったのかと、そこに驚きもした。だけど、その意味が分かったとき、僕は見た。僕から出る、大量の雨を。そうか、そうだった。僕は、ロボットなんかじゃない。
僕は、たぶん、ゆりちゃんが生まれるちょっと前に生まれた。ごく普通のお母さんから、ちゃんと人間として。だけど、生まれた瞬間、僕は医者からも看護師からも、そして家族にさえも、気味悪がられた。僕は、まるで、静止画でも撮られたかのように、全く動かなかったんだ。普通の赤ちゃんのように泣くこともない。ただ目を開けて、たまに瞑って、ただ肺と心臓だけを動かしていた。時が経ち、僕は急に座れるようになっていた。ただ1点を見つめて、ぼーっとしているだけの僕を皆はいつしか「ロボット」と呼ぶようになった。お母さんにも、お父さんにも、近所のおばさんにも、そう呼ばれた。やがて思った。「僕はロボットだったのだ」と。お母さんは、保育園にも小学校にも、僕を通わせなかった。当たり前だ。僕はロボットなんだから。そして、僕は出会った。とある町の電気屋に。そこには、僕と同じようにまるで静止画のようなものたちがたくさんあった。僕と同じ、感情のないものたち。感情のないものたちは、僕を「ロボット」なんて呼ばなかった。だから、ずっと会話をしていた。声には出していなかったけど、人間なんかより、ずっと話しやすかった。
僕は、家族にお別れを言った。電気屋で住み込みで働くことを決めたからだ。電気屋の主人は、口は悪かったけど、作るご飯は美味しくて、「お前、ロボットなのに味は分かってんじゃねぇか」って笑ってた。
もしかしたら、最初から、僕は人間に生まれてくるべきじゃなかったのかもしれない。本当のロボットに生まれてこれたなら、どんなに楽だっただろう。だけど、僕は人間だ。そうだ、人間なんだ。ちゃんと、好きなものもあるし、嫌いなものもある。会いたいと思う気持ちもあるし、消えてしまいたいときもある。
気づいたら、僕は声を上げて泣いていた。電気屋の主人は、大きな音を立てて、勢いよく部屋に入ってきた。
「お、おい、お前…」
話しかけられたことにも気づかなかったけど、僕の周りでおろおろしている電気屋の主人が、焦っているような、でも少し嬉しそうな顔をしていたのはしっかり見えた。
すっかり泣き止んだ後、僕はゆりちゃんの手紙にこう返事を書いた。
「どんぐりは、まだ持っているよ。サネカズラの実も、ちゃんと右手に握っておくから」
あれから10年、電気屋の主人は亡くなって、僕は、家族の元へ戻っていた。僕には全くもって似合わない名前も一緒に。相変わらず表情は変わらないけれど、愛想笑いくらいはできるようになった。そして、今日、10年ぶりにあの電気屋へ行ってみた。そこにはもう、僕の心を惹いたものたちはなくなっていたけれど、10年前と変わらない電柱と、そのそばにいる白い子猫が、黙ってカラスを見つめていた。
人間とロボットの違いは
「感情があるか、ないか」だと思います。
だからもし、人間から「感情」を抜き取ってしまったら、それは「人間」ではなくて「ロボット」だと思うんです。