百合
鳥の鳴き声を「Peace」と聞き取ることは、日本人の僕には無論できない。
するとどうか、他人の言葉というのもまた、正確に伝わることはない。
人には自身の属する文脈というものがあり、故郷を同じくする者同士は、それが僅かに似通っているというだけの話。
典型と類似。
僕らの交流は、こうしていつも崩壊の危機に接している。
いや、崩壊が常態となって、その常態もまた崩壊して、最早あべこべだ。
人と人との交流とは、常に誤解の可能性を孕みながら、不可能という光に照らされ続ける一条の影だ。
僕らはそれを綱渡りしている。
僕には、姫花が人の死に拘る意味が分からない。
それと同じように、彼女もまた、僕の行動の指針や理念は理解できないだろう。
それを語り合おうとすれば、僕らには知性があって、相互に理解することは可能だ。
だが、理解するということは、同時に相手を投げ捨てることでもある。
僕らはこの不可能に目を瞑ってようやく、生きることができる。
相手のことを理解するのは自分であって、相手本人ではない。
すると、これは相手をダシにした、自己完結する交流でしかなくなる。
自分が納得するために。
咀嚼して知るために。
これらは全て、原理的に修復不可能な誤解を生じる。
人が芸術を求めるのは、おそらくそのためだ。
人が直観的に感情を伝える手段は、芸術しかない。
言葉は不可能による影絵だ。
誤解を前提とした道具だ。
ならば、そうではない道具を僕らは用いるしかない。
だが、現代において芸術は軽視されている。
それだけではない。
人と人を結びつける紐帯というものが、近頃は弱まりつつある。
個々人は根無し草のように、各々孤独に、洞窟の中で日々を暮らしている。
――だからだ。
あの《大災害》が起こった時、僕は不謹慎にも心が沸き立つのを感じた。
非常時では、解けかけたその紐帯が強く結び直される。
僕はあのとき悟ったのだ。
人は寂しさを紛らわすために、不幸を買い求める生き物なのだと。
戦争なんてものはその最たるものだ。
人々は戦争を欲している。
争いは人を高揚させ、安易な存在意義と信念とを与え、何もかもが共同体に帰属する。
忘我と、充足。
不連続な存在からの、脱却。
僕も、姫花も、きっとそういう物を求めているという点では同類であった。
だからこそ、彼女といることは苦ではない。
そんな益体もないことを考えながら、潺潺と流れる川に足先を浸して、僕は感傷的に夜空を見上げる。
水音が思考に熱くなる頭を冷やして、心を落ち着かせる。
梢が空に浸潤し、隙間に見える天蓋は青銅の風合い。
結局は、いくら頭の中で言葉を弄したところで意味はない。
こうして素直な心で自然を愛でる方が、いくらも有意義であった。
「……僕はやっぱり、子供なのだろうか。」
心に刻まれた言葉を、そのまま誰かに届けたい。
口に出る言葉では駄目だ。
思考を介さない、心に銘記された固有の言葉。
それをそのまま、伝えたい。
痛々しい願望だということは知悉している。
きっと大人になれば、こういったことには少しも懊悩せずに、生きる振りをすることが出来るようになる。
でも、今はどうしても駄目なのだ。
それに僕には時間がない。
川の水面は、月明かりを弾く。
あたかも魚の鱗のように、あちこちで銀色に照り輝く。
「ねえ、そろそろ体が冷えてしまうよ。」
僕は岸から声を掛ける。
川の中央、峨々(がが)として屹立する岩の天辺に人影がある。
僕は彼女を「百合」と呼んでいるが、その本名は知らない。
いつもこうして、夜更けの渓声に紛れて姿を現す。
僕の声が聞こえたのか、その白髪の少女は川に飛び込み、そのままこちらに泳いでくる。
彼女が立っていた岩のところだけ水深が深く、すぐに浅瀬となって、彼女は重たい衣服を引きずって僕の傍に来る。
「ほら、バスタオルと、着替え。」
僕は準備していた物を手渡す。
肩甲骨を覆うほどに延びた髪が、滴を垂らして頬やら首筋に張り付いている。
おそらく小学生ぐらいの年齢。
だが、彼女が果たして人間なのかどうか、僕には未だ確信が持てない。
あまりにも端正な顔立ちと、なかんづく、その赤い瞳と白髪は明らかに日本人のそれではない。どころか、異国の人間でもないだろう。
僕は彼女を幽霊か、それとも自分が見ている幻覚だと思っている。
「今日はまた、飛び込みでもしていたの?」
僕の問いに、ユリは答えない。
ただ黙して髪を拭いている。
僕が彼女を幽霊だと推測しているのは、その恰好も助けてのことである。
和服、それもおそらく上等な生地で仕立てられている。
無地で青いそれは、浅葱色というのか、藍色というのか、ともかく微妙の趣を帯びていた。
「ほら、そうして無造作に拭いたらだめだよ、こう丁寧に……。」
僕は髪をタオルで挟んで水気を取る。
その間もユリは嫌がらず、ただされるがまま、そこに立ったままだ。
彼女が着替える時、一応、僕は背を向ける。
衣擦れの音に、僕も誘われないではないが、相手は年少だ。
情欲とは無縁の、言うなれば美的好奇心の為であった。
ユリと自然の佳景は、慄然とするほど調和している。
髪も瞳も、人工的なものではない。
むしろ僕のような黒髪の方が非自然的に思えて来る。
ユリは黒を基調としたワンピースに身を包んで、比較的大きく安定した石の上に腰を下ろした。
服は香澄さんの娘、更衣ちゃんの物で、サイズも申し分なかった。
僕もまた、手近の石を見繕って座る。
ユリの横顔を斜め後ろから見ながら、僕は独り言ちるように話しかけた。
「……今日はさ、また姫花さんが来たんだ。結局、夕方まで寝て、そのまま帰ったよ。」
「……彼女は、きっと将来、何かを成すような気がするんだ。それが良い事かどうかは、残念ながら責任もてないけれど。」
ユリは体育座りをしたまま、振り撒かずに対岸の絶壁と木々を見やっている。
そうして座っていると尚のこと小さい。
小学五年生となった更衣ちゃんよりも小柄だ。
だが、その峻厳として一言も発さない顔つきは、僕よりも大人びている。
彼女は時より、警戒しているのか、ふと僕の方を振り向いては、すぐに視線を逸らす。
とても冷ややかで、にも関わらず、どこか僕のことを慮る色がちらつく眼差し。
睨みつけるようでありながら、その分、泣きそうな顔。
「ねえ、ユリ。川に溺れて死ぬのは……苦しいかな?」
「……。」
「きっと僕はさ、こうして病気じゃなくても、きっとすぐに死んでしまっていると思うんだ。僕は……欠陥品だ。」
「……。」
「考えなくても良いことを考えて、考えるほど、弱虫になって、人が怖いんだ。」
「……。」
「いつも思うんだ。多くの人が死ぬようなことが起こって、みんなが、誰か他の人の悪口や、差別や、お金、そういったことを全て放り投げて、ただ自分の命を守るために協力しあうような、そういう事態を、僕は求めてしょうがないんだ。最低だ……最低の、逃避を、僕は希求しているんだ……。」
「……。」
「ねえ、ユリ。僕は、生まれたときに、誰かに言ってもらいたかった。誰かを助けることはいつでも正しくて、誰かを殺すことはいつでも悪なんだと……。人に優しくすることは正しくて、人を排斥するのは悪なんだと。すべて、法律のように、絶対の基準に当てはめて、何もかもを判断したい。何も、何も、考えたく……ないんだ……。」
僕は全てを吐露した。
ユリは言葉を知らないのか、ただ話せないのか、僕には判然しない。
だから、つい言ってしまった。
僕の醜い心の在り様を。
僕も姫花と一緒だ。
誰かが、大勢が、死ぬことを望んでいる。
どうしようもない、この生きているという浮遊感から逃れたい。
地に足をつけたい。
ユリはまさしく、行く雲、流れる水のごとく、僕の告白にも飄逸として表情を変えない。
僕はいざり寄るようにして、彼女の隣に座る。
「……これもまた酷い言いようだけど、僕は君が、僕の妄想だと良いと思っているだ。こんなに綺麗で、超然としたものを生み出すことが出来る、つまりそれは、まだ僕の心が死んでいないということなんだ……。」
僕はユリの手を取る。
その手は雪が積もったような白さと冷たさ。
僕は咄嗟に触れてはいけないと思った。
溶かされてしまう、そう錯覚した訳だが、僕は手を離さなかった。
僕の熱で彼女が消えてしまうなら、それほどの幸福はない。
ユリは僕の顔を無表情で見つめている。
葉擦れの音が僕らの間に流れて、僕は今一度強く、彼女の手を握った。