禁色
『諦念は人を殺すぞ、健彦。』
露草の花の色。
青の繻子織を月夜に翻して、白髪の少女は僕に告げる。
その手には大振りの山百合が手折られており、薫香でも匂うようにして、その容の良い鼻を花弁に寄せている。
サナトリウムと化して久しい、腐朽した家屋の広い庭。
周囲に隣家はなく、蝉の声が波のように耳に寄せては引く、夏の別荘地。
雑草と野花の鬱蒼とした海原に、夜気を纏った少女が、独り薫風を身で切って立っている。
薄氷のような、儚い存在の香気。
彼女こそが、あたかも一輪の百合のようにして――。
『そなたが蓋然によって死ぬのなら、その蓋然によって生かされても構わない。そうだろう、健彦?』
赤い瞳。
風を表す青い羽織物と、その内に隠された白皙の肢体。
暗幕のように影となった木立の梢。
穢れを雪ぐ月光の明かり。
妙なる雅楽の音のように、少女の声は僕の心を浮世から掬いとる。
『《調べの意志》を奉じる……。そなたは安んじて、その座した彼岸から物見していてくれていい。』
少女の口の端は流れた涙に濡れて、涙は檻となり、月の光をそこに囲って煌いた。
縷々(るる)と列なる、身を知る雨。
情感の籠った、声にならぬ涕涙が、柔らかな頬を撫でてては地の葉を静かに揺らす。
『願わくば、もう一度だけ、そなたと星辰を眺めつつ、夜を明かしたかった……。』
少女はおもむろに百合の花を口に食む。
染み一つない白髪は、途端に銀糸となって辺りの草木に異彩を放ち、その幼さ残る小さな体は、濃い緑の蔓に幾重にも巻かれ締め付けられた。
鮮血が皮膚に滲み、露草色の繻子織も徐徐に色を移ろわす。
噛み殺した絶叫。
苦悶に見開かれた赤銅の瞳。
呻いて歪む唇。
己の膂力に震える四肢。
生温い風に、掠れた彼女の声が、肉感を伴って僕の所まで届く。
それは声であって、言葉。
あたかも中空に彫り出された文字のように、僕の心を直に打つ。
『……さようなら、健彦。愛している。』
百合の妖精となった彼女は、そうして僕の眼前から姿を消した。
その鱗粉すら、後に残してくれぬままに……。