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白龍学園  作者: 竜牙堂
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第六章 水影 氷魔の提案

 本日の天気は明朗なり。しこうして我が心は晴れやかなり。

 僕はこの上なく上機嫌である。その原因は待ちに待った黒神先輩からのメールを受け取ったからだ。

 文面には

 『今日の放課後、部室にくるように』

 とだけ書かれてあった。

 しかし、僕には数々の試練をクリアしたご褒美として、龍神家主催の隅田川花火大会の特別招待券を受け取れるのだ。苦労をした甲斐があった。

 僕は即効で我が学舎である白龍学園高等部まで自転車で突っ走った。夏休み中の登校は死ぬほどだるいけど、こんなときは軽く感じる不思議!

「失礼します!」

 僕は部室の前まで来ると、軽快に部室の扉を開けた。そこには瀬莉奈先輩ともう一人親しげに話す男子生徒がいた。その男子生徒は瀬莉奈先輩の目の前にいて、軽い談笑をしているようだった。背が高く派手な印象を与える人だ。

「おっハロハロー」

 こちらに気付いた瀬莉奈先輩は、僕に対して手を振る。僕は笑顔を浮かべて手を振り返した。しかし一緒にいる男子生徒から何故か目線を外せない。

 彼の体が大きく感じる! 一体、誰なんだ!?

 男子生徒がゆっくりと僕に目線を向ける。その瞬間、肌が粟立ち、何か攻撃を受けた感覚があり、僕は無意識に構えを取った。嫌な汗が背中に湧いた。

 この感覚……新手のスタンド使い!? しかし一体、何だ? 攻撃を受けたと感じたけど、どこにも痛みはない。

「君がイチか? 俺の名前は水影氷魔。現・武侠倶楽部の部長だ。よろしくな」

「はははい、ぼ、僕は戸田市一と言います。よっよよろしくお願いします」

 僕の声と体は未知の恐怖で震えている。水影先輩はゴッドハンドなの? 僕は誰かに捧げられたの?

 しかし水影先輩はそんな僕をにこやかで人懐っこい笑顔で見ている。

 向こうは随分と余裕あるが、僕と言えばまだ顔は強ばり体は無意識に震えている。それはまだ油断できない、と感覚が訴えているようだった。

「ふーん、良い勘してるじゃねぇか。お前本当に一週間、栄二から武術を習っただけか? 初見で俺の《気当て》に反応できるなんて、なかなか見所あるじゃねぇか」

 水影先輩が楽しそうに、にやりと笑う。僕はまだ動けずに呆然としていた。

 歴代の武侠倶楽部部長の中でも“最凶”の呼び名が高いと更科先輩が言っていた。あの水影先輩……。

 目の前にいる水影先輩から感じる威圧感は、実際の身長よりも大きな感じを受ける。実際の身長も僕が見上げるほどなので、高いと思う。そして、それ以上に、容姿が美しすぎた。そこには退廃的な美しか感じられなかった。まるで紅莉栖先輩の執事であるベリアルさんと同質な美に近い。

「氷魔先輩が定刻通りに来るなんて、珍しいですね」

 背後から黒神先輩の声がした。落ち着いてはいるが呆れている口調だ。

「おー、真琴。お前は相変わらず嫌みな口振りだな。俺は待ち合わせ通りに来るのである界隈では有名なんだぜ。定刻通りにただいま到着! ってな?」

「それは女性限定で、でしょう?」

 水影先輩は平然と悪びれずにおどけて言った。

 それを聞いた黒神先輩は前よりさらに呆れつつ、溜息を吐いた。そんな黒神先輩を見て、水影先輩は愉快そうに笑い飛ばす。

 水影先輩はひとしきり笑うと、僕に向き直り、紙を一枚手渡した。

 僕は手元の紙を見た。その紙には正式な入部を認める旨が書いてあった。

「あれ? これは?」

 僕の視線は水影先輩と紙の間を行ったり来たりした。僕はてっきり特別招待券が貰えるものと思い込んでいたので、その反動で大きく落胆の色を隠せなかった。

「入部おめでとう!」

 水影先輩は空気を読まずに拍手してご満悦だ。見れば黒神先輩と瀬莉奈先輩も、わー、とかおーと言いながら拍手している。

「は、はあ、どうもありがとうございます」

「お! 何だ? あまり嬉しそうじゃないな」

「あ、いや、その、元々試練を受けたのも、全てクリアした特典に龍神涼子先輩と会えるように協力してもらうためですから」

 水影先輩は、顎に人差し指と親指を当てた。何かを思い出そうとしている風だった。

「あれ? その話は初耳だけど」

 水影先輩は可愛く小首を傾げる。しかしその発言は僕の心と脳に直撃しリフレインした。

「はぁ……。氷魔先輩。この間、言ったでしょう」

 さすがの黒神先輩もあきれ顔である。瀬莉奈先輩も両手を肩まで上げて頭を振って呆れている。

 嘘……だろ……。

 僕は膝から崩れ落ちた。この崩れ方をした者は、もう立てないと思われる崩れ方だった。

「待て待て。思い出した!」

 水影先輩は自分の鞄をごそごそと漁っている。その間、「あれれー? おかしいぞー?」と頭脳は大人、体は子供の名探偵の真似をしながら必死に探している。

「あははは。ごめん。家に忘れちったかも。許して」

 水影先輩は、てへぺろ☆と軽い謝罪をかましてくれた。

 黒神先輩は片手で顔を覆い、天を仰いだ。瀬莉奈先輩は苦笑いをかみ殺している。

 僕は悲しいやら悔しいやらで思わず部室を飛び出そうと駆けだした。黒神先輩が呼び止めたみたいだが、そんなことはもうどうでも良かった。

 だが部室の扉は堅く閉ざされており、僕の逃亡を妨げていた。

 ちょ、おい待てよ。いつの間に鍵かけたの?

「まあ、待てよ」

 いつの間に側にいる水影先輩に僕はびくっとした。

「イッツショータイム!」

 軽く微笑みながら、水影先輩は僕の胸ポケットに指を突っ込んだ。僕は一瞬のことに、呆気に取られ、あまりにも滑らかで無駄のない動きなので、見とれていた。

「ジャジャーン! これなあんだ?」

 水影先輩の指に挟まれているのは長方形の紙である。

 まさか……!?

 僕は眼を凝らしてその紙を見た。

「え! これは!?」

 僕は驚愕に心が打ち震えた。そこには『納涼 隅田川花火大会』と書かれてある。

「見た通りだよ。このチケットは龍神家の主催でやる。まさしく文字通りのプラチナペーパーだ。このチケットを巡って死者も出るという」

 水影先輩は最後の方をおどけた調子で言うと、驚きすぎて声も出せない僕を尻目に台詞を継いだ。

「まあ、これも一種のサプライズ、ということで……。気に入ってもらえたかな?」

 水影先輩はウィンクして、チケットを手渡すために僕の前に差し出した。その無邪気な笑顔を見て少し照れてしまった。

「はい。あ、ありがとうございます……」

 僕はチケットを受け取ると丁重に財布の中へ仕舞った。

 これで安心だ。後はスリの銀次に気を付けるだけだ。

「さてとそろそろ行くとしますか」

 水影先輩は独り言のように呟く。

「行くって? どこへ?」

 僕は唐突に振って湧いた先輩の言葉に当惑した。

「お前の歓迎会だよ。まだやってなかったからな。それ行くぞ!」

「ちょ、ちょっと待って下さい! う、うわわわわああ?」

 僕は先輩に手を引かれて階段を飛ぶように駆け下りた。いや体感的には文字通り飛んだような気がした。

 一階まで無事に降りると、僕は大きく一息ついた。怪我をしなかったのが奇跡的だと思われた。

 正直死ぬかと思った……。もう僕ジェットコースターはこわないで……。

 その後、僕と水影先輩は高等部の敷地を通り抜けるのに、三十分弱かかることになる。何故なら水影先輩が女性に声をかけられること十数回あったからだ。この人、女に人気ありすぎだろ……。

 僕達はようやく正門の前に着いた。

 やたらエンカウント確率が高いロールプレイングゲームをしてるみたいだった。どこまで顔が広いんだろう。呆れを通り越して感心すら湧いてくる。

 僕は水影先輩をしげしげと見る。すると、それに気付いたかのように目と目が合う。僕は思わず目を逸らし、誤魔化すように言葉を投げた。

「随分と顔が広いんですね」

「まあな。大学部から幼等部まで、知り合いは多いぜ」

 先輩は得意気に微笑んだ。この人の場合は、純粋な不純物の塊みたいなもんだから、一回りして純粋なんだろうか……。

「なあ、イチちゃん。恋に成功する秘訣を教えてやろうか?」

 僕は水影先輩の唐突な問いに真意が測れず、沈黙した。僕の行為を首肯と受け取った先輩は続ける。

「簡単なことだ。それは誠実と賢明さの二つだ」

「二つだけ……? 部長、質問良いですか?」

「うむ、許可する」

「誠実さとはどういう意味ですか?

「どんな相手だろうが、どんな事情があろうが、どんなに厄介なことになろうと、約束は絶対に守ることだ」

「じゃあ、賢明さとは何ですか?」

「どんな約束でも平気で破ることだ」

 僕は目をぱちくりさせた。

「それは矛盾してませんか?」

 先輩は僕の言葉を聞くと大きな声で腹を抱えて笑いだした。下校中の生徒がその声に反応してこちらを見ながら、通り過ぎていく。さすがに注目を浴びたので僕は少し恥ずかしくて、縮こまる。

 先輩、さすがに笑いすぎでは……。まさか、ツボに入ったのか?

「矛盾してる、か。ま、お前も色々と経験すれば解るよ」

 水影先輩は大いに笑い泣きしたので、目にうっすらと残る涙を人差し指で軽く拭っていた。さの後、笑うのを止めると僕をゆっくりと見た。そして、意味ありげな表情をする。

「さ、早く行くぞ! 真琴たちが待ってる」

 水影先輩は大仰にゆっくりと歩き出した。


 水影先輩は「方丈」の前で足を止めた。ここは前に一回来たことがあった。瀬莉奈先輩との待ち合わせ、いや訂正しよう……。呼び出し先に使われた場所だ。

 先輩は大儀そうにゆっくりとドアを押した。ドアは軽快な音を立てながら開いた。それと同時にお客様が来た! という合図のベルもカランカランと鳴る。

「いらっしゃいませ!」

 店に入ると同時に元気で明るい言葉が迎えてくれた。同時に店にいる店員の視線がこちらに向いた。

 近場にいる制服を着た女の子が明るい笑顔で、てとてととこちらに寄ってきた。

「水影様でございますね! こちらでございます」

「お! 常美(つねみ)ちゃん、今日も笑顔が可愛いね」

「やだ、氷魔さんったら。いつもお世辞が上手いんだからー」

 常美と呼ばれた少女は見れば僕の妹とそう歳も変わらないようだ。当然年齢からしてアルバイトだろう。

 笑顔が良く似合う可愛らしい少女だ。その少女は円形の金属トレイを片手に持ち、僕達を奥の部屋へと案内してくれるらしい。

 僕は常美ちゃんのすぐ後ろを追尾弾のように追いかける。その後ろには水影先輩がついてきてるはずだ。

 後ろで軽快だが鈍い金属音が響いた。僕と常美ちゃんはほぼ同時に音のした原因を確認するために振り返った。

「いてててて!」

 振り向くと水影先輩が頭を抑えて蹲っている。そしてその後ろに常美ちゃんと同じ金属トレイを持っている制服を着た女性が立っていた。

 黒い髪をポニーテールにしており、それが良く似合う可愛い娘である。僕は突然の出来事にぎょっとして立ち尽くした。

「こらっ! 氷魔! 人の妹を軽々しく毒牙にかけようとして……。恥を知れ! 女の敵!」

陰穂(かげほ)さん、人聞きが悪い……。それは誤解だよ!」

「誤解も猪八戒もあるか! 今日という今日はその腐った根性を叩いて伸ばして、まっとうにしてやる! 覚悟しろよ!」

 陰穂と呼ばれた少女は物凄い剣幕で水影先輩を睨み付けている。まさに鬼神もこれを避ける気迫を感じ取れた。これにはさすがの水影先輩もたじたじになっている。

 僕は止めようかと思ったが、声をかける隙が全く見当ず、どうしようかと判断に迷っていると、僕の肩を後方から叩かれた。僕は確認するために首だけで後ろを振り向く。

 そこには眼鏡をかけた青年が微笑んでいる。クールな外見だが、優しそうな印象を与える青年だ。

「いらっしゃいませ。私はここのマスターをしている朱沼雀(あけぬますずめ)と申す者です。以後、よろしくお願いします」

「こ、こちらこそ、あ、僕は戸田市一と言います。よろしくお願いします」

 いきなりの丁重な挨拶に面食らったが慌てて挨拶を返す。

 しかしこの状況で良く冷静に挨拶ができるな……。

 朱沼さんはちらっと目線だけで水影先輩たちを見ると困ったように笑い、常美ちゃんに冷静に指示を出した。

「まあ、ここは私に任せて奥の部屋へ行って下さい。常美さん、ここは良いですから、お客様をご案内して下さい」

「はい! 承知しました!」

 朱沼さんは余裕の笑みを浮かべるとゆっくり先輩たちに近づいた。指示を受けた常美ちゃんは、元気よく返事をすると、僕の袖を引っ張る。

「さ、こちらです。お兄さん」

「だ、大丈夫なんですか?」

「お姉ちゃんと氷魔さんは相性が恐ろしく悪いんです。それにマスターに任せておけば大丈夫ですよ。日常茶飯事ですから」

 常美ちゃんは可愛らしい笑顔を僕に向け愉快そうに笑った。

「姉妹かぁ。そう言えば特に目元とか良く似てるね」

「ありがとうございます。良く言われるんですよ」

 僕たちは談笑しながら、奥の部屋を目指した。

「どうぞ、こちらになります」

「案内ありがとうございました」

「いえいえー、ゆっくりと楽しんでいって下さいね」

 軽く手を振って常美ちゃんは戦場という名のフロアに戻っていった。

 僕はドアノブを軽く捻り、ドアを開けた。部屋には黒神先輩を始め、神島先輩、更科先輩、瀬莉奈先輩、紅莉栖先輩が揃っている。彼等はそれぞれ丸テーブルの前に座っている。

 僕が部屋の中に入ると、みな雑談を止めて僕を見る。

「遅くなりまして、どうもすいません」

 僕は軽く謝罪をした。

「結構、時間がかかったな。ところで、氷魔さんはどうした? まさか、また陰穂さんに引っ掛かっているん?」

 更科先輩は水影先輩の姿を目だけで探した。僕は何故解ったのか吃驚した。

「ご明察です」

「まあ、陰穂さんは極度の潔癖症だからなぁ。特に女性に対してだらしない男は親の仇くらいに思ってる節があるからな」

 黒神先輩は立ち上がると、目線を伏せてため息をついた。

「あの人の遅刻癖は先刻承知していたことです。主賓もきましたし、早速、始めますか」

 黒神先輩がそう言うと先輩たちは各々のグラスにソフトドリンクを注いだ。僕たちは飲み物が入っているグラスを取ると元気良く乾杯した。

 しばらく歓談しているとドアの開く音がした。見ると水影先輩が沈痛な面持ちで入ってきた。

「うー、酷い目にあった」

「氷魔先輩。もう始まってますよ」

 黒神先輩が声をかけた。

「何だ、もう始まってんのか? 乾杯の音頭は部長であるこの俺がやる予定だったのになぁ」

 水影先輩はもの凄く残念そうにぼやいた。

 神島先輩が、ウーロン茶の入っているグラスを、素早く水影先輩に差し出した。水影先輩はそれを受け取った。

「さあ、もう一度乾杯しにゃおそう!」

 神島先輩はみなを見回すと明るい口調で提案した。

「さあ、部長、どうぞ!」

「さすがに陽子ちゃんは気が利くねぇ」

 水影先輩は極上の微笑みで返すと、気を取り直した。

 そして、グラスを突き出す。僕たちもそれに倣う。

「戸田の活躍を期待し、そして、我ら武侠倶楽部の発展と栄光を祈り、乾杯!」

 水影先輩は真面目な面持ちで乾杯をする。僕たちも唱和した。

 タイミングを見計らったように美味しそうな料理が続々と運ばれてきた。僕は手始めに鶏の唐揚げを一つ摘んだ。口に運び味を確かめるように租借する。うん、これは美味い。丁度良く揚げた衣がサクサクと良い歯応え。

「栄二! そう言えばお前、野菜は食べられるようになったのか?」

 水影先輩は更科先輩に向けて意地悪そうな笑みを浮かべた。更科先輩は水影先輩から目を逸らすと、慌てて答えた。

「た、食べられますよ、ハハハ……」

 更科先輩の口から乾いた笑いが漏れる。

「んー? じゃあ、皿の上に乗ってるのは、何だ? 肉ばかりじゃねぇか。野菜も食わないと、俺のように大きくなれませんよー?」

 水影先輩はからかうような口調で煽った。

 実際、水影先輩は背が高い。見た感じ百八十センチ前後はあるかも知れない。そして、更科先輩は紅莉栖先輩より背が低い。

「や、野菜は青臭いから嫌いなんですよ! それにあのトマトのにゅるっとした感触は、想像しただけでも鳥肌が立つ。ぶっちゃけ野菜なぞ食わなくても生きていけますよ!」

 更科先輩は逆ギレ気味になった。渋面を作っての力説だ。

 それに余程トマトが嫌いなのか、確かに更科先輩の腕には鳥肌が立っているのが解る。

 しかし、水影先輩は間違っている! とあえて言いたい。更科先輩はそのままで良いんです。いやそのままが良いんです。可愛いは正義!

「そういう氷魔部長は、どうなんですか?」

 黒神先輩は取り皿を置きながら淡々とした口調で尋ねた。その黒い瞳から妖しい輝きが放たれて闇色に見える。何という黒さ。

「どうって? 一体、何のことだよ?」

「いえ、風から聞いた話では、グリーンピースが苦手だという……」

「……っ! 馬鹿言え! それはもう克服したぜ! ここにグリーンピースがないのが残念だなー」

 一瞬、言葉を詰まらせたが、何とか取り繕ったみたいだ。水影先輩はドヤ顔を崩さず黒神先輩を見やった。

 そんなやりとりの一部始終を見ていた瀬莉奈先輩は、首を傾げながら水影先輩に問いただす。

「あれ? グリーンピース食えるようになったんだ? 昨日はチャーハンだったけどまたグリーンピースを残したぁって、竜崎(りゆうざき)チーフが、がぁーって噴火してたけど?」

 瀬莉奈先輩は、竜崎チーフとやらの真似をした。目を三角にしているが、似ているのかいないのか良く解らん。

「たった今、食えるようになったんだよ」

「ふーん。じゃあ、明日はグリーンピースの炊き込みご飯でも平気だよねぇ? 竜崎チーフにメールしとこ♪」

 瀬莉奈先輩は、悪い顔をするとスマホを早撃ちガンマンよりも早くポケットから取り出した。そして、これまた恐ろしい速さでメールを打ちだす。恐らく竜崎チーフという人にメールするつもりだろう。その表情は心底楽しそうだ。

 水影先輩の顔に余裕が無くなっている。顔面蒼白だ。肌が色白ゆえに死人のような顔色になっている。

「ま、待て! 瀬莉奈! いや、瀬莉奈様! 俺が悪かった。頼むから勘弁してくれ!」

 水影先輩は今にも土下座しそうな勢いで懇願する。瀬莉奈先輩は、スマホの画面から指を離した。

「氷魔部長にそこまで言われたらー、私としてもー、メール送信を止めてあげてもー、良いんだけどー。どうしよっかなー?」

 うわっ、すげーうざい……。水影先輩の表情も恐らくはこう語っていた《この女、マジうぜぇ》と。

 瀬莉奈先輩はオレンジジュースを一口含んだ。あからさまに水影先輩に対して、賄賂を要求している。

「わ、解った……。半月分の昼飯を奢る! これ以上はびた一文負けられん!」

「本当は一ヶ月分の昼飯で、手を打ちたかったんだけどー、仕方ないなぁ。あんたの金欠病は私も知ってるし」

 瀬莉奈先輩は、無邪気な笑顔を見せた。この笑顔をした人間は怖い。

 その言葉を聞いた水影先輩の表情が明るくなる。僕は直感した。この笑顔は罠だ。

「その半月分の奢りは、デザート付きでよろしくねー」

「ぐぬぬ」

 水影先輩の口から悔しさが漏れる。口は災いの元だなと僕は自戒した。

 そして、瀬莉奈先輩だけは《敵に回さないようにしよう》と固く誓ったのは言うまでもない。


 宴もたけなわになった頃、紅莉栖先輩が近寄ってきた。手には謎の液体が入ったグラスを持っている。

「イチくん。少し元気になったようね。良かったわ」

「あの時はご迷惑をかけました」

 僕はあの時のことを思い出す。紅莉栖先輩は、相変わらず平坦な話し方で話すが、僕はなんとなくではあるが、少しは感情が解るようになってきた。

「貴方は忘れたかも知れないけど私は片時も貴方のことを忘れたことはなかった……」

「紅莉栖先輩……?」

 紅莉栖先輩はぼそぼそと小さい声で呟く。僕は紅莉栖先輩をそっと見る。紅莉栖先輩は遠くを見るように視線を少し上に向けている。

 僕は照れ臭いので、話題を変えることにした。

「紅莉栖先輩。その手に持っている飲み物は何ですか?」

 僕は紅莉栖先輩の持っているグラスを指差した。

「これ? これは“エリクサー”と言うのよ。飲めば不老不死待ったなし。どう? 飲んでみたい?」

 先輩は真面目な表情で真剣に言った。僕は謎の液体と紅莉栖先輩の顔を交互に見た。紅莉栖先輩は、ゆっくりとグラスを差し出す。嘘……だよな……? しかしあの紅莉栖先輩なら……。

 僕は意を決してグラスを受け取った。まずは鼻を近づけて匂いを嗅いでみた。

 異臭はないな。少し甘い香りはするが……。

 僕は紅莉栖先輩の視線を感じた。その後、少しグラスを傾けて、味を試してみた。

 何だ、この味? やたらと甘いぞ! それに何だか色々と混ざってるけど?

 僕は微妙な表情で紅莉栖先輩を見た。紅莉栖先輩はじっと見詰めている。表情は真剣そのものだ。

 ええい! ままよ! 僕は一気にグラスの中身をあおった。僕は中身を飲み干して紅莉栖先輩を見る。すると含み笑いを抑えている紅莉栖先輩の姿が目に入った。瞬間、僕は騙されたことを悟った。

「先輩……。騙しましたね。これはジュースを混ぜた物でしょう?」

「ふふ、大正解。ご明察。しかし、こんなに容易く騙されるとは……。それでは女の巧妙な嘘も見抜けないわよ」

「もう酷い冗談です」

 僕は口を尖らせて空いたグラスをテーブルに置いた。

「うふふ、ごめんなさい」

 紅莉栖先輩は妖艶な笑みを浮かべながら僕から離れると神島先輩たちのところに向かった。

 今度は水影先輩が僕に近寄ってくる。

「イチちゃん。盛り上がってたみたいだね」

「あ、はい」

「そう言えば、イチちゃんとセリカって小さい頃からの知り合いなんだって?」

 水影先輩が、持っていたウーロン茶を一口含む。

「僕も最近知りました。実は隣に住んでいたお姉ちゃんでした。まあ、僕が幼等部に入るか入らないかの記憶で、しかも断片的なものなんで、未だはっきりとは思い出せないんですけどね」

 僕は鼻の頭を掻くと、困惑した笑いを浮かべた。

「セリカの試練では、あいつの家に一泊したんだろ? その時何かあったか? 俺にだけ教えてみそ」

 水影先輩はゲスい顔で興味津に聞いてきた。僕はあの夜のことを思い浮かべ、青くなった。その後、最後のキスの場面が脳裏に浮かび、今度は顔が熱くなるのを感じた。

「どうした? 青くなったり赤くなったり忙しいやつだな。お前は信号機か」

 水影先輩は僕の顔色を見ながらそう悪態を吐いた。正直に言って、からかわれても面倒臭いので、僕は笑って誤魔化した。

「ま、色々と経験して人は成長するってもんだ。良し! では、俺からの最後の課題を与えよう」

「最後の課題、ですか?」

「そうだ。今度の花火大会で涼子さんに告白しろ」

 水影先輩は僕の耳に口を近づけると囁いた。僕は思わず飲んでいたジュースを全て吹き出してしまった。やべえ……、今、探偵物語の松田優作ばりに吹いた。

「うわっ! 汚ねぇなぁ。陽子ちゃん、悪いがそこのタオルを取ってくれ……」

「アイアイサー!」

 神島先輩が神妙な顔つきで妙な敬礼をして、素早くタオルを取ってきた。そして、僕に手渡した。僕は手短に礼を言って濡れたところを軽く拭いた。

「なーに、吹き出してんだよ。俺は何も変なことは言ってないぞ」

 水影先輩は口を尖らせて、文句を言った。

「い、いや、ですけど、お互いまだ何も知らないんですよ? それなのにこ、告白だなんて……」

 僕は急な提案に焦り、しどろもどろになった。

「なあに、上手くいけば、オーケー貰えるかも知れんのぜ? 男は度胸、駄目元でやってみるもんだ」

 全く目茶苦茶な理屈だ。勝ち目があるかどうかで言えば、勝ち目などあろうはずもない。六面ダイスを三つ振って六ゾロ以外は全て失敗というゲームに挑むようなものだ。いつから僕の人生は賭博黙示録になったんだ?

 だが、水影先輩の言う通り確かにこのまま何も行動しなければ、ずっと関係は変わらないだろう。先輩の言う通り、これは千載一遇のチャンスとも言えた。しかし、まだ迷いがあった僕は、決断を渋ることしかできなかった。駄目だ、考えがまとまらん……。

「イチちゃん。あまり深く考えるなよ。もしかしたら、これが告白する最後のチャンスかも知れないんだぜ? そしたらお前は後悔するだろう。あの時の俺みたいに……」

 急に水影先輩が遠い目をした。そして、僕を見て優しく微笑む。僕は水影先輩の最後の言葉の意味を解しかね、ボケッと水影先輩を見つめた。

「別に心に迷いがあったって良いじゃねぇか。誰もがみな、決心をして付き合ってる訳じゃねぇんだぜ。それに俺たちもなるべく全力でバックアップするからよ」

 僕の考えを打ち消すように水影先輩は言葉を継ぐ。

「……しばらく考えさせて下さい」

「おう! 存分に考えろや! これもまた青春だ」

 水影先輩は軽快に笑い、僕の背中を軽く叩いた。その後、午後七時に歓迎会は解散となった。


 隅田川花火大会当日。

 僕たち、お馴染みの武侠倶楽部メンバーは、駅前に集まるという予定になっていた。どこぞの恋愛ゲームのように現地集合現地解散でも構わなかったのだが、どうせなら一緒に行った方が良かろうということになった。それで誰もが知っている駅前に集合とあいなった訳だ。

 服装に関しては、水影先輩の話だと、別にドレスコードは存在しないということなので、僕は普段通りの軽装である。

 日が落ちかけているとはいえ、外はまだ充分に暑い。部屋のエアコンが恋しい。駅の時計を見て現時刻を確認すれば午後五時半前。どうやら僕が一番乗りしたようだ。甘寧一番乗りだ!

 もうそろそろ、みな集まり始める頃だろう。

 僕は手持ち無沙汰になってきたので、持ってきた扇子をパタパタさせて涼を取った。

「おーい! イチ君! 早いねー!」

「よー、イチ。お前が一番か?」

 神島先輩と更科先輩が一緒にやって来た。この二人は家が隣同士なのだから、一緒に来たのだろう。二人仲良く並んで歩き、こちらに近づいてくる。

 神島先輩は僕に向かって嬉しそうな笑顔を振りまき、大きく手を振る。僕も先輩たちに向かって軽く微笑みながら手を振り返した。

 神島先輩は浴衣姿に巾着、という花火大会に相応しい典型的な姿をしていた。隣を歩く更科先輩も男物の浴衣を着ている。

 距離が数メートルというところで神島先輩は、早足でこちらに寄ってくる。下駄の音が乾いたコンクリートの上で、心地良く踊る。

「えへへー、どう? 似合うでしょ?」

 神島先輩は浴衣を見せびらかすように僕の前を飛び跳ねた。

 浴衣はトリコロールカラーならぬ三毛猫カラー――白、黒、茶の三色――を基調としていた。それが何とも神島先輩と良く似合い、可愛さをさらに引き立てていた。

「その浴衣、良く似合ってますよ!」

「馬子にも衣装……、もとい、猫にも衣装って奴だよ」

 更科先輩は意地の悪い憎まれ口を叩きながら、数歩遅れてやってくる。その言葉を聞いて、神島先輩はぷうっと頬を膨らませ、後ろを振り向き、更科先輩を睨んだ。しかし、相変わらず迫力は皆無だ。

「何だ、お前は軽装なのか?」

 更科先輩は、そんな神島先輩を華麗にスルーする。そして、僕を見ると少し意外そうな顔をした。

 いや、更科先輩の方こそ解っていない! 何で女物の浴衣じゃないんだ! 先輩は自分の価値がまるで解ってない! 解ってない!

 更科先輩の浴衣を見て、僕は心の中で遺憾の意を表明した。

「その浴衣、格好良いですね」

 僕は感情の籠もらない口調で誉めた。(棒)というやつだ。

「そ、そうか。ありがとよ」

 更科先輩は僕の真意に気付かず、顔をほんのり赤らめて礼を口にした。

 ぐわぁぁぁぁ! その恥じらいの表情! 危険が危ない! SOS、SOS、ゴッドマーン! その表情はマジで道を踏み外しそうになるからからから!

 僕は余りの破壊力に、我知らず心の中で身もだえた。

「随分と賑やかね」

 涼やかな声が急に後方から飛び込んできた。僕は後ろを振り向いた。視線の先には、紅莉栖先輩が艶やかな黒いドレスを身に纏って、僕の視界に入り込んだ。

「わー、凄く綺麗!」

「陽子さんも凄く可愛いわ」

 神島先輩はまるで飼い猫が飼い主にじゃれつくように紅莉栖先輩に抱きついた。そんな神島先輩を紅莉栖先輩は優しく包み込むと、ゆっくり丁寧に頭を撫でた。

「そのドレス、先輩に良くお似合いですよ。センス良いですね」

 僕は素直な気持ちを吐露した。

「そ、そんなことないわ。このドレスもベリアルが勧めてくれたのを着てきただけだから」

 紅莉栖先輩は、僕から目を逸らしながら、たどたどしく言った。その途端、みるみる顔が燃えるように上気していく。元々、色が白いので、その様が凄く解りやすい。

 しかし、そのドレス胸元が少し僕のような健康な男子には眼福、眼福……、ではなくて! 目の毒ではないでしょうか? いやしかしここはベリアルさん、グッジョブ!

 僕は見えない功労者に向かって心の中で親指を立てた。

「ははは、セリカちゃん。顔が真っ赤になってるー」

 神島先輩は、紅莉栖先輩にまだ抱きつきながら、打算のない笑顔で見上げて指摘する。

「ちょ、ちょっと、陽子さん! からかわないで下さい」

 紅莉栖先輩は、少し怒ったようにたしなめると、神島先輩を抱き上げた猫を地上へ降ろすように丁寧に降ろす。降下作戦は成功のようだ。僕はそれを見て、微笑ましい気分になる。

「去年は浴衣だったけど、今年はドレスなんだな」

 更科先輩は真面目な口調で紅莉栖先輩に話しかけた。紅莉栖先輩は更科先輩に視線を向けた。

「さっきも言ったけど、余り深い意味はないわよ」

 紅莉栖先輩は好ましい雰囲気で返した。

 そんな雰囲気を破るように突然、車のクラクションが大きく二回鳴った。見ると黒塗りの高級車が歩道の側まで寄っていた。

 そして、サングラスをかけた背の高い男がドアから出てくる。黒いスーツを着た男は、こちらを見て少し口元を歪める。そして、このままでは直撃ルートを取るだろうことは疑いようもない。僕は思わず警戒心を強くした。ジャパニーズマフィアかな?

 その男は僕たちの近くまで来るとサングラスを外して、素顔を見せた。

 そこには見たことのある顔があった。誰あろう水影先輩である。

「これから龍神邸まで、車で移動するぞ!」

 先輩は力強く言い切ると得意気に微笑んだ。


 私は落ち行く太陽をぼんやりと眺めていた。

 太陽は昼ほどの威光を放ってはいなかったが、まだ眩しかった。もう少しすれば、完全に闇が世界を支配するだろう。私は昼より夜が好きだ。それは比較的と言う意味で、別に昼を嫌っている訳ではない。

 中庭には忙しく立ち働く使用人たちの姿が見える。今日は花火大会なので、その準備で朝からこんな感じである。

 後、三十分もすれば、色々な人たちが来るだろう。人が嫌いな訳ではないが、人混みは苦手だ。私は重い気分を払拭するように軽く溜息をついた。

 やはり私はお人形を演じる他はないのかしら?

 私は時々考える。周囲に合わせて生きることは、果たして私の幸福につながるのだろうか? と。

 そして、流されて生きることは楽ではあるけれど、自分の意志を持たぬ人形に過ぎないのではないだろうか?

 私は自分の半身の生き様を羨ましく思う。けれど今はあの子の分まで演じることに努めないと。

 唐突にスマホの着信音が部屋に鳴り響く。私は慌ててスマホを捜す。どこに置いたものか、全く見当たらない。

「また無意識に物を置いて」

 私は苛ついたように独りごちた。焦って探しても見つからないのは、経験上、知っているので落ち着いて耳を澄ます。すると恐らく巾着の中で鳴っているだろうことが解った。内心焦りながらもスマホのディスプレイを確認する。

 氷魔君だわ。彼はいつも突然電話をくれる。しかし、それは批難の意味ではない。彼の電話はいつも私には予測不能で楽しい。

 私は慎重に電話へ出た。

『もしもし、俺です、俺、俺!』

 勢いのある声が聞こえた。

「氷魔君?」

『ははは、何だ、ばれてたか』

 氷魔君は子供のように無邪気に笑う。私もつい笑いが零れる。

「だって、スマホのディスプレイに名前が出てるわよ」

『あ……。ですよねー。まあ、そんなことより、後、十分ほどでそちらに着きますよ。貴女を守る騎士のサービスはいかがですか?』

「ふふっ、いつからそんな押し売りを始めるようになったの?」

 私は氷魔君の提案を、愉快そうに笑った。そして、ベッドに腰を降ろした。

『うわっ、押し売りとは酷い言い方っすね』

「うふふ、ごめんなさい。でも、せっかくだから、そのサービスを受けようかしら?」

『よっしゃ! 涼子さんなら、そう言うと思ってました!』

「全く調子が良いんだから」

『あっ、もう着くみたいですから、これで切りますね。では、後ほど』

「うん、それじゃ」

 氷魔君は慌ただしく電話を切った。彼の電話は一事が万事こんな調子だ。まるで台風か暴風だ。

 外を見ると、ちょうど黒神家の車が敷地内に入ってくるところだった。

 私は氷魔君たちを出迎えるために急いで一階に降りた。


 遠目でも大きく立派なお屋敷だと思っていたが、実際に間近で見るとやはりそれ以上に大きく感じる。

 僕は緊張していた。この間の歓迎会での水影先輩の提案もその一因を成していた。相手が僕ではがっかりしてしまうのではないか、と思うと少し気がひけた。

 水影先輩はそんな僕の心を知ってか知らずかブザーを躊躇いなく押した。

 一瞬後に、大きな扉が開いた。そこから出てきた人は、僕にとって忘れることのできない女神がそこにいた。

「ちわー。お待たせしました。ナイト・デリバリーの水影でーす!」

 水影先輩は慇懃に、深々と頭を下げた。

「お待ちしてましたわ」

 龍神先輩はそんな水影先輩を見て楽しげに微笑んだ。綺麗な笑い方をする。その後、僕たちは水影先輩の後に続いて、玄関に入った。

「今日はどのような趣向なのかしら?」

 龍神先輩は水影先輩に問い質した。水影先輩は僕を側に引き寄せる。

「今日はこいつが涼子さんの騎士になります。まあ、言わば新人の騎士見習いですが、なかなか良い筋をしてる奴です。もっとも頼りになるかは保証しませんが……」

 水影先輩は僕を真面目な表情で推薦した。相変わらず巫山戯ているのか真面目なのか声の調子からは推測不能である。

「氷魔君の推薦なら、間違いなさそうですね。あ、でも一通りの挨拶が終わってからで宜しいですか?」

 龍神先輩は一瞬考えるような仕草をすると、

「二階のバルコニーで落ち合いましょう。すいません。こう見えても何かと忙しい身ですから……」

 龍神先輩の提案に依存がある訳ではない。

 しかし、龍神先輩には見ず知らずの馬の骨を紹介された不安はないのだろうか?

 まあ、裏を返せばそれほど水影先輩への信頼は厚いのだろう。だが、僕の予想に反して龍神先輩の反応は上々のように見える。これには僕も内心驚いた。水影先輩はその答えに満足そうな表情で頷く。

「じゃ、後はよろしくな、イチちゃん。お姫様の護衛をちゃんとするんだぞ」

 水影先輩は、意味ありげに僕へ念を押すように言うと微笑んだ。僕は喜び半分、不安半分な心持ちになる。本当に僕だけで大丈夫かな?

 僕の心配と不安をよそに僕たちは大広間に向かった。


 無事に主催者の挨拶が終わる。僕は待たせてはいけないと思い、急いで約束の場所へと向かう。

 僕がバルコニーに着くと遅れること数分で龍神先輩が姿を現した。しかし、まぁ、予想していたことだが、ほぼ初対面の男女の逢い引きである。

 何か気まずいな……。

 僕と龍神先輩の空間は、人が三人入れるくらい、空いている。それは互いの心理的な距離を表しているみたいに思えた。

 何か話そうと試みたが、なかなかこの場に相応しい洒落た話題が出てこない。

 水影先輩みたいに軽い調子で会話ができたら……! 僕はそう願わずにはいられなかった。

 しかし、この場は無い物ねだりをしても仕方ない。僕はどう足掻いても水影先輩や黒神先輩のようにはなれない。

 だから、僕は自分らしく振る舞おうと、腹を決めた。

「あの、龍神先輩!」

「は、はい!」

 急に声をかけられて、龍神先輩は飛び跳ねそうな勢いで驚いたみたいだった。

「す、すいません。急に声をかけたりして」

「こ、こちらこそ、申し訳ありません」

 二人ともまた妙な間で黙ってしまった。沈黙が支配する空間は、なかなかの強敵らしく打ち破ることが困難と思われた。

「あ、そう言えば、まだ僕の名前を言ってませんでしたね」

 僕は緊張しながらもゆっくりと龍神先輩に話しかけた。うむ、出だしは上々だ。

「僕の名前は、戸田市一と言いまひゅ」

 僕は緊張しすぎたのか、最後を盛大に噛んでしまった。まともに自己紹介もできない自分に、情けないやら恥ずかしいやらで、穴があったら入りたい気分だ。辞世の句を残して腹を切りたいレベル。

 そんな僕を見て、先輩は声を出して笑った。抱腹絶倒とは今の先輩のことを言うのだろう。

「申し訳ありません。はしたない真似をお見せしまして……」

 やんごとなきお姫様の笑いのツボは、正直、庶民の僕には解らん。だけど、少し緊張感が和らいだのは確かだ。結果、オーライだな。

「ここで貴重な時間を消費するのは、勿体ないですわ。行きましょうか、騎士(ナイト)様」

 先輩は僕を見てあどけなく天使のように笑った。その微笑みはチャームの魔法が込められているのかと思うほど、僕を虜にした。

 僕は胸が高鳴るのを感じた。だが、これが憧れの気持ちからなのか、それとも恋心からきているのかは、未だに判別できなかった。

「早くこないと置いていきますよ?」

「あ、ちょっと待って下さい!」

 護衛の騎士がお姫様より遅れるとは、様にならないし聞いたこともない。僕は早足で先輩の隣に並ぶ。

「これからどちらへ向かうんですか?」

 先輩は可愛い腕時計で時間を確認すると、

「花火大会はもう開始していますが、私、良い穴場を知っています。ここからすぐのところにありますので、付いてきて下さい」

 先輩は自信満々に言った。

 途中にあった階段で三階まで登る。階段を登り切ると左右に伸びた廊下を右に折れる。長い廊下をしばらく進むと突き当たりに部屋があった。部屋に入ると、先輩は手慣れた様子で屋根裏部屋に至る階段を降ろした。

「ここはもしかして……屋根裏部屋ですか?」

「はい。ここは昔、妹と共有の、秘密の隠れ場所でした。両親に叱られると、いつもここに籠もったものです」

 先輩は懐かしさのあまりか、表情が柔和になる。そして、慣れた足つきで軽快に階段を登っていく。僕も先輩の後に続いて階段を登る。

 僕の想像に反して、床には塵一つ落ちていなかった。事実上、ここが龍神邸の最上階だろう。登りきった先に広い部屋が視界に広がる。

「これは凄い!」

 僕は思わず感嘆の声を上げた。先輩はそれを聞いて得意満面になった。

「どうですか? ここは昔、荷物置き場として使われてたみたいなんです。でも、私達が見つけた時には、もう古い段ボールが数個あるだけでした」

「うわぁ、これは本当に穴場ですね!」

 僕は少し興奮した。先輩もそんな僕を見て、満足げな表情を浮かべる。僕は一番大きい窓に近づく。

「あっ、もう始まってますね。ここからだと良く見えるんですね」

 僕は「へぇ」とか「ほぅ」とか、窓から花火を見ながら感嘆の声を発した。

 それは大きく夜空を彩る大輪の花。そして、一瞬にして散る儚い花でもあった。しかし、一瞬で散華しても、それに反して僕らの心には思い出として永遠に残るものでもあった。

「花火はいつ見ても綺麗ね」

 先輩はもっと良く見ようと、窓越しの花火を見ながら、横にスライドする。だが、そのすぐ横には僕がおり、先輩の蒙古覇極道を完全に、しかも虚を突かれた形で喰らってしまった。

 しかし、僕を仕留めるには、技の威力が致命的に足りない。僕は多少、ぐらついただけで、踏み止まった。

 この時、作用反作用の法則が発動した。先輩は逆に短い悲鳴とともに倒れかける。

 ハッと気づいた僕は、反射的に思わず先輩の腕を取り、少し強く引っ張る。だが、想像より先輩の体重は軽かったようで、僕の胸中に飛び込ませてしまった。

「……」

 僕と龍神先輩は三点リーダにも似た沈黙を保った。不動金縛りの術にでもかけられたかの如く、僕たちは身動きしなかった。先輩の呼吸と心臓の鼓動、僕の呼吸と心臓の鼓動が重なり合い、もうどちらのものとも判別できなかった。

「も、申し訳ありません。私が不注意なばかりに……」

「こちらこそ、申し訳ない」

 僕達の声は上擦っていた。

 何か良い匂いがする。これは石けんの香りだろうか? それとも香水?

 僕は先輩から発している匂いを、もう少し嗅いでいたい欲求に駆られた。僕の中に眠っていた欲望が鎌首をもたげ始めた。

 もっとこうしていたい。離したくない。欲望とは現金なものである。現在が良ければ後のことなど考えない。

 欲望と理性は《両雄並び立たず》の関係にある。今の僕の心は、欲望が理性の残党狩りを始めていた。世紀末的に言えばヒャッハー! と叫びながら、片手でバイクを操り、もう片手でボーガンを打つ。そんな具合である。

「龍神先輩」

 僕は何故か自らの落ち着いた声音に驚いた。

 名前を呼ばれた先輩は、僕と見つめ合う。先輩の顔は真っ赤になっていたが、目を逸らすことはなかった。夜空にはまだ美しい花が咲き誇っては、散っている。

「おーい! 涼子さーん、イチちゃーん!」

 水影先輩の大きな声が聞こえた。僕の理性が欲望を逆転敗北させた。龍神先輩も急いで僕から離れる。

 理性が世紀末救世主的な何かを雇ったらしい。

 階段を登る足音が聞こえる。

「お! いたいた。こんな薄暗いところで何してるんですかねぇ」

 水影先輩は僕達を交互に見て、嫌らしい笑みを浮かべた。

「別に、ここで、花火を見ていただけですよ。水影先輩こそ一人で何しに来たんですか?」

「おっと、忘れるところだった」

 「ほいよ」っと、僕は大きなビニール袋を数袋渡された。意外に重たいな。何が入ってるんだ?

 僕は中身を確認した。豪華な木製の弁当箱と大きな魔法瓶が入っていた。

「これ、ひょっとして差し入れですか?」

「ひょっとしなくてもそうだよ。腹が減ってると思ったもんでな。わざわざメイドさんに頼んで、作ってもらったんだぜ?」

「そ、そうだったんですか。ありがとうございます」

「なに、良いってことよ! 可愛い後輩のためを思えばこそだ」

 龍神先輩は、まだ余韻が抜けていないのか僕たちを見ずに花火をずっと見ていた。

 水影先輩はなにか感づいたのか、含み笑いをすると急に声のトーンを落として僕に囁く。

「あれ? 俺、もしかして邪魔しちゃった?」

「そ、そそそそんなことありませんでしたよ?」

 僕は心の動揺を隠せずに答えた。

「真琴たちを待たせてるから、おりゃもう行くぜ。上手くやれよ」

 水影先輩は後ろ向きで手を振った。僕は水影先輩が完全に姿が見えなくなるまで見送った。

「龍神先輩! 水影先輩が差し入れを持ってきてくれましたよ。一緒に食べませんか?」

 僕はまだ呆然と花火を見ている龍神先輩に向かって優しく声をかけた。先輩はゆっくりと振り向くと弁当の側に腰をおろした。まだ僕たちの間には照れ臭さが残っていた。

 僕は無言でおにぎりを口に頬張った。

「これは美味しい! 久しぶりにこんな美味いおにぎりを食べた気がする」

 素材の旨味をフル活用した美味さだ。僕は夢中で食べた。思っていた以上に腹が減っていたようだ。

 余り良く噛まずに飲み込んだせいで、僕は喉を詰まらせる。

 僕は焦り、飲み物が欲しいサインを身体全体で送った。先輩はそんな僕を見て、吃驚したようだった。そして、飲み物を急いで手渡してくれた。僕は大慌てで飲んだ。

「ふぃーっ。死ぬかと思った」

 僕はまるでスパロボに出てくる柿崎のような台詞を吐きながら、目を白黒させた。先輩は心配で堪らない目つきで僕を見た。

「なんとか人心地付きました。ありがとうございます」

「そんな一辺に口に頬張りますと、お体に良くありませんよ」

 龍神先輩は優しい口調で、子供を諭すように口調で言った。

 僕はばつが悪そうな顔をすると、話題を変えることにした。

「そういえば先輩は双子と聞きましたが、妹さんはどんな方なんですか?」

「妹の名前は翔子(しようこ)と言います。今は夏休みを利用して、婚約者と一緒に中国へ旅行中なんですよ」

「へえ。僕にも姉と妹がいます。この間、調理実習があったんですよ。で、そのクッキーを作って食わされましたけど、全く食えた代物じゃなかったですね」

 僕はその時のことを思い出して引き攣ったように苦笑した。

「もしよろしければ、妹さんを大学部の料理研究会にお邪魔するよう仰って下さい。会員の方たちは、とても気さくな人達ばかりですので心配はいりませんわ」

「それはとてもありがたい申し出です。早速、伺わせます。妹の腕前も上がれば、僕も安心できますから。胃腸薬で僕の小遣いが無くなることも無いわけです」

 僕は冗談とも本気ともつかない表情で言った。それを聞いた先輩は楽しそうに笑った。

 花火が乱発する音が鳴り響く。もう最後が近いのだ。春の桜のように、爛漫と咲き乱れて散っていく花火は、夏の夜の桜と呼べるかも知れない。

「もう終わりが近いみたいですね」

 僕は窓に近づいて、最後の花火を見ることにした。先輩も横に並び、散りゆく最後の花火を見届けている。

 最後の花火が打ち終わると、僕は背伸びをした。

「さて、花火も終わったことですし、今日はもう帰りますね」

「あっ……」

 先輩は僕になにか言いかけた。そして、目を伏せて沈黙してしまった。

 僕は屋根裏部屋から出るために、窓から離れようとした。が、僕はなにか違和感を覚えた。服をどこかに引っかけた感じがしたからだ。

 何だ? 一体、何に引っかかって?

 僕はゆっくりとその原因を探るように振り返る。そして、原因を発見した。僕の視線の先には、僕の服をしっかりと離さない龍神先輩の手があったからだ。

「ど、どうしたんです?」

「あの、もしまだお時間があるようでしたら、もう少しお話しませんか? 私、少し貴方に興味を覚えてしまったみたいです……」

 龍神先輩の顔が恥ずかしさの余り耳まで紅潮していた。僕は銅像のように固まった。確かにまだ時間はある。と、いうか夏休み中と考えれば時間は腐るほどある。しかし、水影先輩たちのことも気にかかる。

「僕はまだ良いですけど……、先輩の門限は平気ですか?」

 龍神先輩は一瞬、目をきょとんとさせた。そして、次の瞬間には苦笑していた。

「あれ? 僕、何かおかしいこと……はっ!」

 言いかけて僕は気付いた。先輩は微笑みを絶やさずに言った。

「門限って、ここは私の家ですよ?」

 僕は身の内が熱くなるのを感じていた。やべえ、恥ずかしい。死にたい……。

「では、もう少しお話をしましょう。ここでは味気ありませんから、別のお部屋へ移動するとしましょう」

 龍神先輩は嬉しさと楽しさを、全身で表すように鼻歌を歌っている。そして、飛ぶように階段を降りた。僕もそれに従った。

 花火大会は終わりを告げたが、夜はまだ終わりそうになかった。


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