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白龍学園  作者: 竜牙堂
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第五章 黒神真琴の事情

 全校生徒の気持ちが浮き足立つ季節がやってくる。

 もういくつ寝ると夏休み。そんな替え歌が流行りだす頃、時を同じくして組織の奴らも、全校生徒の大半を震え上がらせるバッドイベントを用意していた。

 そのイベントの名は《中間試験》。白龍学園高等部では、七月上旬くらいに行われる学力テストだ。


「おーい、イチ! どうだったー、テストの結果?」

 やはり他人の結果が気になるのか、待ち受けたように佐々木が近寄ってくる。この手のイベントは今後の人間関係にある程度、心理的な格付けを決定してしまう恐れがある。

 某寺院に金を払って、祈り念じても、運次第で追試からの留年のコンボが待っている可能性もある。さすがにこの時期ではまだ挽回の余地はあるが……。

「何とか赤点は免れたよ。うーん、まあ、高校生活最初の試験だし、こんな物じゃないかな?」

「だよなー。俺なんて赤点ギリギリだったぜ」

「それ一種の才能だよな。お前中等部の時からじゃないか?」

 佐々木は僕の言葉を聞くと急に真剣な面持ちで考え込む仕草をする。

「いきなりどうした?」

「いや、俺も常々考えていたんだよ。これはひょっとしたら、能力じゃないだろうか! その名も【ギリギリ赤点を免れる能力(レツド・ゾーン)】!」

「ははは、何だよ、その能力。結構、しょぼいな」

「相変わらず、ひでぇな。おめぇはー。おっと! いけね、これから別口で買い物に行く約束があったんだ! お前も来るか?」

「いや、遠慮しとく」

「そうか。じゃあ、お互い悔いのない夏休みを送ろうぜ!」

 佐々木は親指を立てて、階段へと消えた。

 相変わらず慌ただしい奴だ。僕は笑いながら手を振り、佐々木の後ろ姿を見送った。

 さて明日から三日間試験休みになる。その予定はまだ決まっていない。

 さて、これからどうしようか? あ、そう言えば今日は実話怪談の発売日じゃないか? 帰りに本屋へ寄っていこう。

 僕は下駄箱で靴を履き替えた。

 校舎から正門に行く途中、そこへ不意に見慣れた女生徒が二人、目に入った。

 あれは……?

 神島先輩と更科先輩である。更科先輩は男の娘だからまた女の子と錯覚しちゃったぜ☆♪

 先輩たちは僕に気が付かない。本来なら気付いてもおかしくないはずだが、二人ともこちらではないところに意識を集中しているのか全然気付いていない。

 一体、二人してどこへ行くのか? 少し興味を覚えた僕は、尾行することにした。本はいつでも買えるが、この突発的なイベントは今しかない。

 僕は一定の距離を置いて先輩たちを尾行する。先輩たちは一向に気が付いた気配がない。しばらく後をつけると、先輩たちは人気のない場所で立ち止まった。曲がり角の向こうをこっそりと覗いている。

 ん? 二人とも何を覗いてるんだ? 何か見えるのかな?

 僕は好奇心に駆られて、先輩たちの背後に近寄った。

「先輩たち、何覗いてるんですか?」

「うわー!」

「おおう!」

 まさかこんなに吃驚するとは思わなかった……。逆にこちらも一緒に吃驚したよ。

「しー!」

 先輩たちは僕に向かって同時に一生懸命な表情で「黙ってろ!」という身体言語を使った。僕は自然と小声になった。

「一体、何が見えるんですか?」

「馬鹿! 気付かれるからあまり顔をだすなよ!」

 更科先輩は小声だが、語気強く注意した。僕は気になって先輩たちと同じ方向を覗いた。そこには黒神先輩がいた。そして、その前には見知らぬ女生徒が手紙を渡しているのが見えた。

「黒神先輩って、やっぱりモテるんですね」

「まあな。でも、真琴の浮いた話なんか聞いたことないけどなぁ。陽子は聞いたことあるか?」

「ううーん、私もまこっちゃんの浮いた話や浮かされた話、うにゃされた話にゃんか聞いたことにゃいよー」

 神島先輩は、凄く真剣な口調で言った。

 いや、さすがに浮かされた話はないでしょ……。

 僕は神島先輩の言葉を聞いて心の中で苦笑した。

 黒神先輩は手紙を受け取ると、制服の胸辺りにある内ポケットへとしまう。女生徒は顔を赤らめて、こちらへ走ってくる。

 僕たちは気付かれるかと思ったが無用の心配だった。女生徒はこちらに気づくことなく、真っ直ぐ走り去っていった。

 僕たちはほっと安堵して、顔を見合わせた。

「黒神先輩、あの手紙どうする気でしょう?」

「さあなぁ、読まずに捨ててしまう可能性もあるな」

 更科先輩は悪い顔でさらりと酷いことを言った。

「他にどんにゃ可能性があるのー?」

 神島先輩は目を輝かせて聞いた。それを受けて更科先輩はさらに意地悪い表情になる。

「手紙を読まずに破り捨てる!」

「うわー! それは酷いよ。ラブレターがヤブレターににゃっちゃったよー!」

 先輩たちは本人がいないことを良いことに言いたい放題だ。しかも、他人事だと思って悪ノリが激しい。

「ん? 何です、あなたたちは。こんなところで何してるです?」

 急に僕たちの背後から氷のように冷静な声をかけられた。

「うわあああっ!」

 更科先輩は、完全に虚を突かれたみたいに絶叫した。さすがの武術の達人もこれには吃驚したらしい。

 その声の主は確かめるまでもなく黒神先輩だ。まあ、あれだけ騒げばいかに鈍感な人間でも気付くだろう。

「まこっちゃん、まこっちゃん! さっきの手紙どうするの?」

 神島先輩は臆せず、直球勝負に出た。しかし、僕にはわかる。多分、神島先輩は何も考えていない。

 ただ感覚のままに生きている神島先輩だからこそできる直球勝負であろう。

 僕と更科先輩はおとなしく、事の成り行きを見守ることにした。

「何で陽子が手紙のことを知ってるんですか?」

 黒神先輩の眼差しが、疑いの色に染まっていくのが手に取るようにわかった。そして、全てを察したような諦めの表情になる。

「あ、さてはあなたたち、覗いてましたね。はぁ、全く呆れ果てました」

 黒神先輩は僕たちの行動を軽く非難した。だが、語気からはそんなに怒ってはいないことが感じられた。

「この手紙を渡してくれた人には……、後で改めて返事をしますよ。返事の内容は丁重にお断りますけど」

「えー! 勿体ないよ」

 黒神先輩の答えは、神島先輩を納得させることができなかったみたいだ。維新の嵐みたいにどうやらスペースボタンの連打が足りなかったようだ。

「今は恋だの愛だのに構っている暇はないんですよ」

 黒神先輩はふと寂しげな瞳で何かを思い出しているのか、遠くを見ながら言った。

「俺はこれから用事がありますから、これで失礼します」

 黒神先輩は微笑を浮かべて立ち去ろうとしたが、何かを思い出したように立ち止まる。そして、僕に向かってゆっくりと近寄ってきた。

「言い忘れるところでした。イチ」

「何ですか?」

「明日は何か用事はありますか?」

「いえ、ありません」

「なるほど。では、明日は俺に付き合ってください」

「はあ、別に構いませんが……」

「それは良かったです。では明日メールを送りますので……」

 黒神先輩は満足そうに頷くと、今度こそ後ろを振り向かないで行ってしまった。

 僕は不安と期待が入り混じり複雑な気分になる。もしかすると、試練のことだろうか?

「一体、何だろうな?」

「さあ……?」

 僕が不安そうな表情を浮かべていたのか、更科先輩たちは笑顔で励ましてくれた。僕はそれにお礼の言葉を返した。

今から黒神先輩の用事を考えても仕方ない。例えどんな用事だろうと自分なりにやるだけだ。


 その翌日。

 部屋で冷房をつけて、怪談本を読んでいると、メールが飛んできた。

 僕は不意打ちに驚くと片手でメールの送り主を確認する。

 しかし怖い話を読んでいるときの着信ほど嫌なものはないなぁ。集中して読めないじゃないか。あ、黒神先輩からだ。

 メールの内容は実に単純だった。

『試験休み中、すいません。今から部室に来てくれると助かります。以上』

 間違えることなく呼び出しのメールである。

 昨日の今日なので思い当たることがある僕は急いで支度をする。そして高等部の校舎へ向けて自転車を急がせた。

 外は完全な炎天下で、校舎に着いた時は汗塗れになっていた。途中で土砂降りの雨が降ったのかと思われても仕方ないレベルでワイシャツが濡れている。

 地球よ、僕に最後の力を!

 僕は残っている力を振り絞ると、部室の前までよたよたと辿り着いた。

 やっと着いた! 長い道のりだった。

「失礼します!」

 僕は扉をゆっくりと開けた。そこには黒神先輩が涼しい部屋で書類に目を配っていた。何かの仕事をしていたらしい。それと同時に黒神先輩の目線がこちらを向いた。

「お、早かったですね。お疲れ様です」

 黒神先輩は優しい微笑で迎えてくれた。僕は小さく会釈をすると涼しい部屋の中へ滑り込んだ。外は暑いのです……。

 黒神先輩は書類をまとめると、椅子から静かに立ち上がる。そして僕の側まで近づくと足を止めてこう言った。

「貴方を呼び出したのは他でもありません。これから俺と一緒に生徒会室へ行って貰います」

 僕は黒神先輩の言葉の意味を解しかねて彫像のように動けないでいた。黒神先輩は意味ありげに微笑んでいる。それが少し恐ろしかった。

「せ、先輩。一体、何をやらかしたんです?」

「ああ、俺は何も……。詳しい話は生徒会室へ行く道すがら話してあげますよ。さ、行きましょう」

 僕は半信半疑であったが、黒神先輩に言葉と視線で促されたので、しぶしぶ横に並び部室を出た。

 あばよ! 我が愛しき涼しい部室よ!

 僕は心の中で別れの言葉を数分もいない部室に投げた。部室を出た瞬間、廊下は容赦無く蒸し暑さのラッシュで僕たちに襲いかかる。

 どうやらメンテナンス日とかで廊下は空調が効いていないらしい。しかし、黒神先輩はその中でも平然と顔色を変えていない。

 このくそ暑いのに良く大丈夫ですね……。僕はもう溶けます……。

「……黒神先輩。こんなくそ蒸し暑い中を良く大丈夫ですね……」

「なに、こんな物は気の持ちようで何とかなるものですよ」

 嘘だ! お前は一体、何を言っているんだ……。こんなの気の持ちようで何とかなったら、熱中症で死ぬ人は出ないよ……。

「生徒会室に呼び出された理由は貴方の顔合わせをしたいと生徒会長に言われたからですよ。そこでこれから生徒会室に向かうのです。別に悪い事をしたから呼び出される訳ではありませんよ」

 穏やかな口調であったが少し緊張を帯びている。やはり黒神先輩も生徒会長と会うのは緊張するのかな?

 僕はそんなことを考えると少し黒神先輩に対して親近感を覚えた。

「もうそろそろ生徒会室ですね……。話をしながらだと早く感じるものです」

 黒神先輩は軽く扉を二度ノックする。

「あ、来たわね。入って良いわよ」

 軽快で明るい口調が返ってくる。

「失礼します……」

 黒神先輩はからりと扉を丁寧に開けた。生徒会室から流れてくる涼しい風を満身に受けると僕は極楽に着いたのだと勘違いしそうになった。

「おー、若人たちよ、遠路はるばるご苦労様」

 どこか楽しそうな、それでいて良く通る声の持ち主は生徒会長の椅子に座り、穏やかな笑顔をこちらに向けていた。

「ご無沙汰してます、氷室生徒会長」

 黒神先輩はゆっくりと頭を下げた。僕も慌ててそれに倣い頭を下げた。

「二人とも頭を上げてくれ。私は堅苦しいのは苦手でね」

 氷室生徒会長は僕たちを見て困ったように苦笑する。僕は正面にいる氷室生徒会長を見る。入学式で挨拶をしたのは知っているが、それは遠目でありこんな近距離で目撃するのは生まれて初めてである。

 その容姿はと言えば整いまるで日本人形のように可愛い。長く艶やかな黒髪は恐らく腰の辺りまで伸びているであろう。肌の色は透き通るように白く、まるで白磁を思わせる。僕は何となく龍神先輩に少し雰囲気が似ていると感じた。

「今日は暑かったろう。お茶請けとお茶を用意してあるので遠慮無くやってくれ」

 氷室生徒会長は椅子から立ち上がると、右の壁際に置いてあるタンスに近づき、がらりと開ける。

 その中から湯飲みとお茶請けを三つ取り出した。

 ここでは僕が立場的に一番弱い。ならばここは僕が率先して手伝うのが良いだろう。

「あ、生徒会長。僕も手伝います!」

「いや、それには及ばない。今回は我々の用事で無理して来て貰っているのだ。しかし君の気持ちには素直に礼を述べておくよ。ありがとう。戸田市一君」

 氷室生徒会長は屈託の無い笑顔で礼を言った。聞く者の心を安らげる優しい口調である。

 ちょ、その笑顔は不意打ち過ぎ……。僕は少し照れて思わず目を逸らした。

 ちょっと待てよ、何で生徒会長が僕の名前を知ってるんだ?

「……って、ど、どうして、生徒会長が僕の名前を!?」

 僕はふと思った疑問を口に出していた。

「ふふふ、君だけではない。私は高等部の生徒なら顔と名前が一致する程度に記憶しているよ。それは私を選び信頼してくれた人たちへの最低限の礼儀というものだと思ってるから」

 氷室生徒会長はさも当然という風にさらりと言ってのけた。

 おいおい……。ここの生徒の総数はどのくらいいると思ってんだ……。それを全員? 冗談だろ……?

 僕は思わぬ言葉に愕然とした。氷室生徒会長は、そう言いながらも、お茶の用意をしている手を休めない。だが、僕との会話も決しておろそかにしてはいない。

「さあ、用意できたぞ。戸田君。お手数だがこれを君たちのテーブルまで運んでくれないか」

 氷室生徒会長は二人分のお茶とお茶請けが載っているお盆を指し示した。僕はそれを持って黒神先輩にお茶とお茶請けを持っていった。黒神先輩はもう座っている。僕は黒神先輩の前にお茶とお茶請けを置く。黒神先輩は短く僕に礼を言った。僕は黒神先輩の横に並ぶように座った。

 あれ、そう言えば……。氷室生徒会長は三つ湯飲みとお茶請けを用意していたな。てっきり自分の分だと思っていたが、会長の分は机の上に置いてある。一体、誰のなんだ?

「まあ、残り一人はいずれ来るだろう。それまで、お茶でも飲みながら待つか」

 氷室生徒会長は穏やかな口調で言った。

 やはりもう一人来るんだ……。一体、誰なんだろう?

 僕がそんなことを考えていると、生徒会室の扉が勢い良くがらがらがらっと開け放たれた。

「遅れてすまん! もう始まってるか?」

 大きな声で慌ただしく、謝りながら入ってきたのは女生徒だった。僕達の注目を集めた人物は大柄な女の子だ。その日焼けで浅黒い肌は氷室生徒会長と対をなすような感じの活発な印象を与えていた。

 僕がほへーと呆気に取られて見ていると、女生徒はずかずかと黒神先輩と僕のちょうど真ん中に大股で歩み寄ると足を止めた。

「クロ! 久しぶりだなー」

 親しみのこもった口調と底抜けな笑顔で黒神先輩を見ている。

 やけに親しそうだが知り合いかな?

「ほむらも相変わらず元気そうですね」

 黒神先輩は少し微笑む。

「氷室ちゃんもお元気ー? それと……?」

 女生徒は氷室生徒会長にも挨拶をし、そこで僕の方を見て首を傾げた。

焔神(ほむらかみ)さん。彼が先程話した戸田市一君ですよ」

 氷室生徒会長から簡単な紹介が入る。焔神先輩はぽんと大きな胸の脹らみの前で手を打ち合わせる。

「あー! 覚えてる覚えてる」

 とニコッと笑い無邪気に答える。

 いや、絶対に忘れてましたよね……。

 ショートカットが良く似合う綺麗であるが、どこか愛嬌のある顔。その笑顔を見れば大抵のことは許されてしまう。僕は焔神先輩を眺めながらそんなことを考えていた。

「俺は焔神鈴葉(すずは)。今は風紀委員長をしてる。改めてよろしく戸田君」

 焔神先輩は短く挨拶した。

「こちらこそよろしくお願いします。焔神先輩。ってあれ? もしかして……」

 ほむら……、風紀委員長……、鬼……、うっ、頭が……。

 僕は何か良くないことを思い出そうとしていたのか頭に鈍痛が走る。僕はちらりと焔神先輩を盗み見る。そこには得意気な顔。

「お察しの通り『鬼ほむら』とは私のことだ!」

 焔神先輩は豪快に笑った。そこは威張るとこなのか……? 僕は力なく笑う。

『鬼ほむら』とは鬼の風紀委員長焔神の略である。武勇伝にはこと欠かず、不良系一般生徒は名前を聞いただけで、腹痛になり三日間寝込むほどだ。

 しかし風紀委員仲間や他の善良な一般生徒、教師の間では絶大な信頼と人気を誇る。

『鬼ほむら』の名前を書いたお札を教室の扉に貼るだけで不良が寄りつかなくなるという都市伝説すらある。

 焔神先輩は僕たちの向かい側の席に着くと、お茶を美味そうに飲んだ。

 僕たちはお茶請けとお茶を突きながら、しばし談笑にふけった。和やかなムードで冗談を言い合ったり、近況を報告したり。いつしか僕は緊張が薄れていた。

 このお茶請けのクッキーは、氷室生徒会長の手作りである。口の中にいれると抵抗なく生地が溶ける。甘さも控え目であるが抜群に美味い。

 お茶は紅茶であり、桃の紅茶である。飲むときに白桃の良い香りが漂い、鼻腔をくすぐる。涼しいところで飲む熱い紅茶は、格別な贅沢である。と、僕は幸福感を満喫していた。

 突然、電話の呼び出し音が生徒会室の幸福な空気を切り裂いた。一体、誰のかしらん? と見回していると、焔神先輩が慌てて胸ポケットからスマホを取り出す。

「悪い。少し席を外す」

 焔神先輩はすまなさそうに謝ると、生徒会室の外へ颯爽と出て行く。

「何の電話か知りませんが大変そうですね」

 僕は焔神先輩が出て行った後の扉を横目で見やる。

「……ほむらさんはお仕事熱心ですから」

 氷室生徒会長は温かな笑顔で言った。黒神先輩は沈黙を保っている。その表情からは心情を推し量ることは出来なかった。

 ものの数分で、生徒会室の扉がまたも勢いよく開かれた。話が終わったのか、そこに立っていたのは焔神先輩である。しかし先程の表情とは打って変わっている。

 どんな些細な悪も見逃すまいというように目付きが鋭く変わっている。

「クロ。悪いが仕事を手伝ってくれると有り難い。会長。中断するようで悪い。すぐに終わると思うがその後に続きをしたいと思うが……」

 焔神先輩は矢継ぎ早に言うと、黒神先輩と氷室生徒会長を交互に見る。氷室生徒会長は静かに首肯する。

「……ほむら。風紀委員内で何か有ったのですか?」

 黒神先輩は少しも慌てずに質問を投げた。

「まあな。遅刻の常習犯を更正させようと思ったんだが、こいつがどうも難物でな。そこでクロの威名を借りたいと、ま、そういう訳だ」

「なるほど、良く解りました。では直ちに行くとしましょうか」

 黒神先輩が返答すると席から立ち上がる。この流れは一緒に行かないとまずいかなと考え、僕も席から立ち上がりかけた。

「イチ。貴方も来る気ですか? ありがたいですが……、すぐに済むと思いますから、ここで氷室さんと話をしていて下さい。それに女性を一人にして放っておくのは、紳士としては失格ですよ」

 黒神先輩は僕に向かって微笑みながら諭した。

 僕はそう言われると返す言葉もなく椅子に腰を降ろした。まぁ、腰を降ろした理由の半分はこの糞暑い中を出て行くのはどうだろうかと考え直したからでもある。

 黒神先輩たちは、生徒会室から連れだって出て行った。後には僕と氷室生徒会長が残された。何というか気まずい。さて、生徒会長相手に何を話せば良いのやら……。

「お茶のお代わりは如何かしら?」

 氷室生徒会長は唐突に落ち着いた声で聞く。いきなり声をかけられたので少し吃驚したが、すぐに「お願いします」と返事をした。

 氷室生徒会長は紅茶用のポットを持ってお茶のお代わりを注いでくれた。紅茶の良い香りがふわりと鼻腔を満たす。

「黒神くんも色々と大変よね。今日の戸田くんを連れてくるのだって、本来は部長である氷魔くんの役目なのよ」

 氷室生徒会長は軽く口を尖らせて批難すると、紅茶を啜る。

「はぁ、そうなんですか」

「そうよ。それを今日は外せない用事があるからと言って代理を頼んだみたい。また女の子の尻を追いかけてるに決まってるわ。黒神くんの苦労が目に浮かぶわ」

 氷室生徒会長は、呆れ果てるといった態度で言い終わると微苦笑を浮かべた。

 水影先輩の派手な噂は、いやでも耳に入ってくる。まだ会ったことはないが、僕の中ではだいぶ、ちゃらそうなイメージで固まってきている。

 その後、氷室生徒会長は他愛のない世間話を適切なタイミングで振ってくれた。しばし世間話に興じていると、からりと軽快に扉が開いた。

 見れば黒神先輩たちがもう戻って来たみたいだ。

「あら、お帰りなさい。早かったわね」

 氷室先輩が笑顔で迎える。焔神先輩は対抗するように笑顔で「ただいまー」と手を振っている。

「いやー、聞いてくれよ。特別補習室に行こうと歩いてたんだが、また風紀委員の仲間から連絡があってな。今度は何があった? と聞いたら遅刻常習犯の奴が『じょ、冗談じぇねえ! 鬼ほむらだけでも震えが止まらねえのに、あの黒神も一緒とか……。最凶タッグを前にして無理ゲーもいいところだ! 是非、今後一切遅刻をしませんと是非、誓約書に書かさせて頂きます!』と言って、誓約書に急いで書き殴るようにサインし、脱兎の如く逃げるように出て行ったらしい。クロの悪名もここに極まれり!」

 焔神先輩はからからと楽しそうに笑い声を上げた。しかし、黒神先輩は楽しさなど微塵も感じさせない仏頂フェイスを作り、さっさと席に座った。

 本人たちが姿を見せるまでもなく常習犯を反省させてしまうとは恐るべし。

 この後、僕達は日が落ちるまで会合を続けた。


 翌日。

 まだ試験休みである。僕は貴重な休みを満喫するために溜まっている怪談を読むことにした。快適に過ごすには下準備を万全にしなくてはならない。

 僕は冷蔵庫に立ち寄り、何か飲み物がないか物色する。驚くほどない。どうなってるの? 作り置きの麦茶すらないとは……。

 肩を落としながら近くのコンビニに買い出しに行くことに腹を決めた。こんな暑いときに出かけざるをえないとは、よくよく僕は運のない男よのー。

 熱中症対策に帽子をかぶり、裸足のまま黒のサンダルをはいて外に出る。外に出てまず天のご機嫌伺いをする。ふむ、泣きそうだな……。ま、そんなに時間はかからんし、傘を持っていく必要もあるまい。

 コンビニまでは歩いて約十分の場所にある。いつもは自転車で行くのだが、今日は歩きたい気分なので歩くことに決めた。しいて言えば運動不足解消も視野に入れている。

 てくてくと順調に歩き、コンビニで買い物を済ますと帰路に着く。

 湿気と熱気の二大共演が鬱陶しいので、思考を停止させて歩いていると、背後から声をかけられた。

 誰だろうと振り向けば奴がいた、もとい焔神先輩がいた。しかも良い遊び相手が見つかったというような活き活きとした表情をしている。

「こんにちは、焔神先輩。こんなところで何してるんです?」

 僕は警戒心を働かせて慎重に聞いた。

「散歩していたらちょうど君が前方で歩いていたんでな。俺も暇だったし、暇同士一緒に話しでもどうよ? と思ってね」

 こんな暑い日に散歩とか……。もしやこの人はドMなのか? そんな失礼な考察をしていると、返事も聞かずにさっさと歩き出す。

 こうなっては、もはや丁重に断れそうにない雰囲気かつ、拒否権はなさそうな気配。僕は鼻の頭をかいた。はぁ、仕方ない諦めよう。

「あそこの公園で話しましょう」

 僕は焔神先輩の横に並びながら、近くの公園を指で示した。


 途中で自販機に寄り道し、適当にペットボトルを購入して公園に入る。

 僕と焔神先輩は横並びにベンチへと腰掛けた。

 今日は曇りなので日差しはあまり気にならない。その代わり妙に蒸し暑い。僕がどんな話をしようかと考えていると、先輩から切り出してくれた。

「クロから聞いたんだけど、お前試練を受けてるんだって?」

「あ、はい。そうです」

「ああ、そうか。そう言えばお前は龍神先輩のこと好きなんだっけか?」

 僕は唐突な質問に思わず飲んでいたコーラを吹き出しそうになる。

「い、いいいいいや好きというか憧れの人というか! い、一体何を言うんですか!」

 僕は思わずベンチから立ち上がる。顔からは火が吹き出るんじゃないかというくらい恥ずかしさでいっぱいだ。しかし何の前振りもなく切り込んでくるな、この人。

 焔神先輩は口元を抑えて笑いを殺しているが殺し切れていない。笑いすぎじゃないですかね……。どうせ龍神先輩と僕では月とスッポンですよ……、不釣り合いですよー。僕は少しふて腐れたようにベンチに座る。

「悪い悪い。しかしあんな解りやすい反応が返ってくるとは思わなかったぞ。許せ許せ。それに恋愛は恥ずべきことじゃないぞ。俺はむしろ推奨派だ」

 意外な言葉に僕はしばし目を瞬かせる。てっきり不純異性交遊死すべし! 慈悲はない! という思考の人かと思っていた。

 焔神先輩は真面目な面持ちである。だがここで許しては僕が廃る。人類は巨乳、ではなく巨人に対して反撃の狼煙を上げる! どうでも良い述懐で悪いが、紅莉栖先輩と違った巨乳だよなぁ。揉んだら張りがありそうな……。はっ、いかんいかん! またもや欲望に支配されるところだった。

「……それって風紀委員長としては問題発言では?」

「まあ、今日は非番だし」

 焔神先輩はへへっと得意気に笑う。その無邪気な笑顔を見て僕は一瞬言葉に詰まる。

 僕はふと胸によぎった疑問を聞いてみることにした。

「……黒神先輩と焔神先輩は結構親しげに見えますが、付き合いは古いんですか?」

「ああ、俺達は幼馴染みだからな」

 焔神先輩は何の照れも迷いもなくさらりと言ってのける。幼馴染みか。それでお互い愛称で呼び合ってたのか。

「と、言ってもあいつは留学してたから、いつまで遊んでたっけか。えーと小等部を卒業してからすぐにドイツだかイギリスに留学したんだよね。昔のあいつは物静かだが表情豊かで色々な話を知っていた。昔から口は達者だったから口喧嘩では勝てなかった。あ、だけど腕っ節は俺の圧勝だったぞ」

 焔神先輩は話していて当時を思い出したのか、懐かしむというより嬉しそうな表情を見せた。

 へー、それにしても黒神先輩が表情が豊か、か……。今しか知らない僕には想像がつかないや。確かに笑いはするけど、愛想笑いが多いような気がするなぁ。

 でも最後の言葉は女の子が胸張って自慢するところじゃないですよね……。女子力だだ下がりですよ……。

「それに凄く優しくてな。俺が小等部のときに悪戯してクロの家の壺を割った時も俺をかばってくれてな。あのときは凄く嬉しかったなぁ」

 何というかもう目が今を見ていない。これは話が長くなる予感。もうそろそろ週刊誌ばりの強引な打ち切りで話題転換しなくては……。止めないと恐らく一時間以上話続けるまである。惚気話かな? 惚気話だよね……。惚気話に決定!

「なるほど。黒神先輩の良い点は充分理解できました。焔神先輩はもしかしたら黒神先輩のことが好きなんですか?」

「ば、馬鹿! な、何を言っている!?」

 焔神先輩は顔を真っ赤にして大慌てでベンチから飛び退いた。手をオーバーアクション気味で大きな胸の前で振っている。この反応、やはりビンゴだったか……。あの話振りと真剣な眼差しはまるで恋する少女の典型だからだ。(僕調べ)

 何か凄い勢いで言い訳をし始めたぞ。やばい、少し可愛いかも……。

「……でも俺じゃ駄目なんだよ……。あいつは、クロは、もう……」

 焔神先輩は急に哀しい表情と寂しげな瞳をする。まるで捨てられた小動物のような瞳だ。

 僕はその急激な変化に戸惑い、焔神先輩の心情を推し量ることはできなかった。

 だけど一つ察することができた。それは焔神先輩の心は泣いているようなそんな気がした。同時に、天はその心を察するように泣き始めた。

 焔神先輩はどこか遠い目をすると哀しそうに微笑む。

「あいつは留学前と後じゃまるで別人になって帰ってきた。表情も乏しくなり、外にもあまり出なくなった。俺が気になって原因を問い質しても『お前には関係ない』の一点張りでとりつく島もない。俺にだけは話してくれるものと思っていたから、当時は凄いショックを受けたよ」

 焔神先輩は苦しそうな思い詰めた表情をした。今の空と同じように泣き出しそうな顔だ。

「それで……それで先輩は諦めてしまうんですか? 昔は好きだったのに想いが届かないからと言って……!」

「俺だって諦めたくない! 諦めたくなんてなかったさ……。だけどもうあいつには好きな人がいたんだ。留学する前に告白しておけば良かった。そんなことも思った。だけどもう後の祭りだ」

 感情が昂ぶった焔神先輩の頬には涙の後が見える。それは降り出した雨の跡だろうか。しかし今の僕にはそんなことどうでも良かった。

「俺はもう諦めてしまったけど、お前は龍神先輩のこと諦めんなよ。今動かないときっと後悔する。こんな想いをする人は俺以外には味わって欲しくない……」

 焔神先輩は泣き出した空を仰ぐ。

「さて雨も降りだしてきたし、もうそろそろ帰るか。最後の最後で変な話をして悪かったな……」

 焔神先輩は無理矢理明るい声で謝り笑顔を作った。見ていて痛々しい。

「……いえ、ありがとうございます。そして先輩の気持ちも知らずに失礼な口を利いてすいませんでした」

 僕は少し視線を逸らしながら謝罪をした。果たして、これ以上僕に何が言えただろうか? 慰めも励ましも言葉にしたところで空虚に響き、きっと心に届かない。彼なら、黒神先輩ならこの事態を上手く収拾できただろうか? 神ならぬ人の身である僕には解る訳もない。

 僕は焔神先輩の走って去ってゆく後ろ姿をただ見送ることしかできなかった。

 だんだんと強くなる雨足に僕は為す術なく打ちのめされるだけだった。それは天が僕に焔神先輩の心を傷つけた罰のように容赦無く降り注いだ。


 降り出した雨から逃げるように僕は家路へ急ぐ。その間も焔神先輩のあの哀しそうな表情が頭の中でちらつく。あの時本当に何か言わなくて正解だったのだろうか? そんな疑問が胸の奥でまだ絶えずぐるぐる回り僕を責める。

 僕は頭を大きく振り、その未練を断ち切ろうとする。そこで気付いた。ここはどこだ?

 やけに家までの距離が遠く感じると思ったら、考え事をしているうちにどうやら家を通り過ぎてしまったらしい。一体何をやってるんだ、僕は……。

 自己嫌悪に陥りながら、現状の把握に努める。もう体は雨で濡れ鼠になっている。

「あらイチくんじゃない。一体、どうしたの。こんなところで?」

 落ち着いた声が僕の耳を掠める。僕は声のした方へ顔を向ける。

 大きく黒い傘を差した紅莉栖先輩が心配そうな表情で立っていた。

「紅莉栖先輩……? 珍しいところで会いますね。こんな雨の中散歩ですか?」

 僕はなるべく心配をかけまいとして無理矢理明るい声を出す。しかしそれはさっきの焔神先輩と同じ行為だ。

「珍しいところって……。ここは私の家の真裏よ。知らなかったの? それに貴方に傘も差さずに散歩する趣味があるとは思えないわ。少し家に寄って行きなさい」

「あ、別にこれくらい平気ですよ」

「そんな顔をした人が平気な訳ないでしょう! 良いから家に寄って行きなさい」

 紅莉栖先輩は有無を言わさぬ語調と怖い顔をして僕の言い訳をストップさせた。僕は目を逸らして「すいません」と言い、紅莉栖先輩に従った。


 紅莉栖先輩の家に上がった早々シャワーを浴びさせてもらった。そして、僕の服が乾くまで紅莉栖先輩のお父さんの服を貸してもらった。ベリアルさんにも熱い紅茶を淹れてもらったので今はそれを飲んでいる。

 一口飲んで美味しい紅茶だと解る。この間、生徒会室で飲んだ紅茶も美味しかったが、これは恐らく紅莉栖先輩のオリジナル・ハーブ・ティーだろう。飲むと心が落ち着いてくる。

 しばらく紅莉栖先輩の部屋で待っていると部屋のドアが開く音がして紅莉栖先輩が入ってきた。

 さっきは焔神先輩の件で頭がいっぱいだったからつい付いてきてしまったが、この前の件もあり、紅莉栖先輩の顔を見るのは正直照れるというか気まずい。

「落ち着いたかしら」

 紅莉栖先輩は僕の顔色を窺うように聞いてくる。

「あ、はいありがとうございます」

 僕はなるべく紅莉栖先輩の顔を見ないように視線をティーカップにロックオンする。

 これなら不自然ではあるまい。われながら完璧な作戦だ。

「一体、何があったの……。もし差し支えなかったら教えてくれない? 力になれるとは限らないけど話せば心の重荷も軽くなるかも知れないわ」

 紅莉栖先輩は僕を真っ直ぐ見て、真面目な顔で問い質した。

 僕は紅莉栖先輩の言葉にももっともだと考え、さっきの出来事をぽつりぽつりと話した。紅莉栖先輩は目を閉じて黙って聞いてくれている。

 もしかして寝ているんじゃないかと疑問に思ったが、それでも今は良かった。

 僕は話し終えるとハーブ・ティーを一口飲んだ。もう冷めかけていたが喉に心地良い。

「……話は良く解ったわ。まぁ、別に貴方が悪い訳じゃない。それに例え貴方の不用意な言葉で彼女を傷つけたとしても気に病むことはないと思う」

 紅莉栖先輩は考えるような仕草で話す。言葉を慎重に選んで話してくれている印象を持った。

「それに黒神君の留学後の話は聞いたことがある。それに豹変した理由も私は知ってる」

 僕は鳩が豆鉄砲を喰らったように目をぱちくりさせた。先輩はそんな僕を意に介せずさらに台詞を継ぐ。

「……彼の豹変の原因。それは死んでしまったある少女の亡霊を今も引き摺っているからよ」

 それは死んでしまったある少女に黒神先輩は取り憑かれているという意味だろうか? 僕は言葉の意図が読めずに考える。

「私と彼は去年一緒のクラスだったのよ。黒神君と会話している最中、何がきっかけだったのかは今は思い出せないけど、そこでドイツのことが話題になったの。彼はドイツに留学していたというし。私は母方の実家がドイツにあり東西ドイツ統一後は毎年のように家族旅行に行ってたから……。なので話が盛り上がったのを覚えている」

 そこで先輩はハーブ・ティーを一口飲んだ。僕は固唾を飲んで話の続きを見守った。

「ある時、ドイツのある町を流行病が襲った。これは質の悪い流行風邪で体力のある大人なら薬を飲んで安静にしていれば一週間で治るものだったんだけど。小さい子供や体力のない老人は最悪死に至った。当時、現地の新聞は『ペストの再来か!?』と大きな見出しで騒いでいたわ」

 僕は急な話題転換に首を傾げた。

 しかしこれは遠回しに黒神先輩の大事な人がその時、流行病にかかって死んだと言っているのと同然だった。

 僕は特定の人が死んだとき、豹変するほど好きな人がいるだろうか? それは家族だろうか、まだ見ぬ恋人だろうか、それとも友人、仲間……。そんな経験のない僕には想像がつかない。

「イチくん。今生きている私達にとって重要なことは一所懸命生き抜くことだと思うわ。死んだ人をいくら想ってもそれは死んだ人が望むことじゃない。特に好きな人ならなおさら。命日にその人を偲ぶ程度でちょうど良いと私は思う」

 そう言った先輩の表情は少し優しい。

「先輩は……、そのような、そのようなと言っても黒神先輩のようなという意味ですが……。……経験はありますか?」

 僕は恐る恐る質問する。先輩は少し逡巡したような表情をし、僕から視線を外す。

「……私の好きな人はまだ生きているもの……」

 先輩の顔はほんのり朱を差したように赤くなった。僕は自己解決しつつある疑問に完全決着をつけるため、ある問いを投げてみる決心をした。

「……先日、妹に昔の写真を見せられたんです。そこには僕を中心に少女が三人写っていました。内二人は僕の姉と妹。もう一人は金髪の美少女でした。不思議なことに僕はその少女のことはまるで覚えていません。でもその少女の面影はどことなく先輩に似ているんです。もしかして先輩は昔僕の家の隣に住んでいたことがありませんか?」

「そうね。結論から言えばその質問の答えは『はい』よ。ここに引っ越す前は確かに貴方の家の隣に住んでいたわ。でもおかしいわね」

 そこで思案顔で言葉を切る。その状態で待つこと十数秒。先輩は何かを思い出したかのような表情になる。

「……ああ、それは恐らく私の母が、貴方に起きたある事故の記憶を消去するために【レーテーの秘術】を貴方に使ったの。結果は貴方が良く知る通り……。効いた、というより効き過ぎたみたいね。まさか私達家族に関する記憶も消去されていたなんて……。謝って許されるものではないけど母に代わり謝罪するわ」

 先輩は深々と頭を下げる。僕は予想外の展開に目を丸くする。しかし先輩の母親もわざとやった訳ではあるまい。それに長々と頭を下げさせて置くのも尻の据わりが悪い。

「い、いえ頭を上げて下さい。紅莉栖先輩。僕はこうして五体満足でピンピンしてますし。先輩とこうしてまた会えた訳ですし。まだ記憶は当時のことを朧気にしか思い出せませんが、僕は気にしてませんよ」

 僕は慌てて先輩の側に近づき、抱え起こす。先輩は瞳を潤ませ、僕を見詰める。

 僕はその禁じ手級の表情を見ると、顔から獄炎乱舞でも出るんじゃないかと思うほど真っ赤になったのを感じる。これ後で五官王に罰せられないですよね……。

 それほど反則クラスの表情で見詰められたのだ。ヘルメットがあっても即死レベル。いや、それじゃ駄目じゃん!

 様々な思考がぐるぐると脳内をかき回す。

「……貴方は本当に優しい。でも今は龍神先輩に心を寄せている。もし龍神先輩が駄目になったときは……その時は……」

 僕は吸血鬼に魅入られた獲物の如く動けない。この心の奥深くに秘められた衝動は一体何なんだ?

 僕と先輩の唇があと少しで重なり合おうとしていた。僕の脳内派閥は龍神先輩派と紅莉栖先輩派が緊急会議を開き、紅莉栖先輩派に押し切られると思った刹那、

「お嬢様」

 聞き慣れることのないおぞましい声がドアのノック音と一緒になって僕達の抑止力となった。僕と先輩は一瞬驚くとすぐさまお互いの体をアクシズが地球から離れていくレベルで離した。サイコフレームの共振とは恐ろしいものだな……。

 先輩はドアを開けると部屋を出て行く。そして執事と軽く会話をかわす。

「イチくん。もう服が乾いたみたい。ベリアルが持ってきてくれたわ。私は部屋の外にいるから着替えなさい」

 僕はドア向こうの執事にお礼の言葉をかけると服を受け取り、急いで着替えた。

 着替え終わると先輩に声をかける。先輩はとてとてと部屋に入ってきた。

「服も乾いたことだし、ここに長くいても迷惑になるでしょうから、そろそろお(いとま)します」

 僕はなるべく自分の内心を悟られないように切り出した。

「ええ、また機会があれば、いつでも遊びに来てくれると嬉しいわ」

 先輩はまたいつもの無表情さに戻ると答えた。

 外に出ると雨はいつのまにか小雨に変わっていた。


 試験休みの三連休はあっという間に終わった。

 毎回思うのだが、連休というものは始まる前は長いと思うのだが、終わると短かったな、と感じる事が多い。

 試験休みの後は一学期の終業式、それに待ちに待った夏休み。試験休みは色々考えることが多く、ある意味充実していたと言えないこともない。

 さぁ、気持ちを切り替えよう! 今日が終われば夏期長期休暇こと夏休みが始まる。成績表の結果も、まあ、悪くない。

 さて友人たちも待っているし帰ろうか、と席を立つと同時に携帯がぶるぶると震える。

 こんなタイミングに一体、誰よ? と見れば黒神先輩からのメール着信。何の用かと見れば、部室に来て欲しいという呼び出しのメールだ。

 ここは行った方が良いだろう。断ったら印象も悪い。それに夏休み中はほぼ毎回同じメンツで遊ぶんだろうし、今日のところは黒神先輩優先だな。

 僕は野暮用ができたと言って待っていてくれた友人たちに謝った。少し邪推されたが、何とか説得した。

 僕は部室に着くと扉をからりと開けた。

 そこには黒神先輩が冷房を効かせた部屋で書類に目を通していた。この間とまったく一緒すぎて、軽くデジャヴに襲われた。黒神先輩は僕の存在に気が付くと書類から目を離す。

「良く来てくれましたね。忙しいところをすいません」

 先輩は微笑を絶やさず僕を迎えてくれた。この間の焔神先輩や紅莉栖先輩との一件があったので、先輩の微笑を少し物哀しいものに感じてしまう。

「あ、いえ後は家に帰って飯食うくらいですから」

「それを聞いて安心しました。今日貴方を呼んだのは他でもありません。龍神涼子先輩に関しての試練の結果についてです」

 先輩は厳かに言い放つ。心なしか目が真剣だ。僕はそれを受けて少し緊張する。いささか空気が重く感じる。先輩はゆっくりと言葉を継いでいく。

「結論を言いますと及第点。合格です。ネタをバラしますと、俺は言わば審判役。イチの試練に対する取組姿勢や性格、気質などを分析して総合的な判断をくだす役割でした」

 僕は安堵したのか思わず頬が緩む。思わず小躍りしそうになる。

「ありがとうございます!」

「これからが大変ですが、イチなら乗り越えられると思っています。イチの努力に対するささやかな報酬を用意しています。後日、武侠倶楽部部長である水影氷魔先輩から龍神邸で開催される隅田川花火大会の特別招待券が進呈されます」

 聞いたことがある! この特別招待券は一部の親しい人じゃないと貰えないと噂される伝説にして幻のスーパーレアな一品だ。

「も、もしかしてそこに龍神涼子さんも……!?」

「勿論です」

 先輩はにこやかなまま手短に、僕の質問に答えてくれた。僕の喜びはそれを聞くと最高潮に達する。思わず心の中でガッツポーズをした。

 まだ龍神先輩のことが本当に好きがどうかは決着ついていないが、それを除いてもこのイベントは本当に嬉しいサプライズだ。

 先輩はまだ浮かれている僕を見て言った。

「さて、俺の用事はこれで終わりました」

 僕は一瞬、焔神先輩との関係を聞いてみたくなったが止めた。何故ならばそれは本人たちの問題であり僕が立ち入って良いものではなさそうだからだ。

「近日中に呼び出すかも知れません。その時にまた会いましょう」

 先輩はにこりと微笑んだ。それは今まで見た中で最高の微笑だと思った。僕は再度お礼を言うと部室を後にした。


 俺は彼がいなくなった武侠倶楽部の部室でまた書類に目を通す。

 この調子でいけば昼までには家に帰れるだろう。俺は残り少くなった書類を見るとそう目算した。

 目を閉じて先程の彼との会話を反芻する。彼、戸田市一は言わば『白紙』であると言える。この白紙は程度の差こそあれどんな人間でも持っているものだ。だが彼の白紙は常人とは違いどんな色にも染まりきれる。これはある意味危うい。

 俺たち武侠倶楽部は彼を善き道に進ませたいと考えている。いや、これはある種傲慢な考え方だ。俺たちは所詮、彼の手伝いしかできない。彼の善き道は彼自身が決めて進んでいくものだと俺は思う。

 俺たちは彼が悩み迷ったときにその道を指し示す道標であればそれで良い。必要以上の彼への介入は許されるべきではない。

 それには善き道標になれるように俺たちも頑張らなくてはな……。

 俺は氷魔先輩に連絡するべくスマホを手に取る。そのときふと待ち受けにしている金髪の可愛い少女と目が合う。その横には小さな俺が幸せそうに笑っている。

 ……未練だな。俺は自嘲気味に口角を上げて笑う。

 俺は断ち切れぬ未練を断つように氷魔先輩に電話をかける。呼び出し音が数回なっただけで電話に出てくれた。周囲には人がいるのか騒がしい。

「もしもし、氷魔先輩ですか?」

『おう! 真琴か? 何か久しぶりな気がするな。一体、どうした?』

「はい、戸田市一が全ての試練をクリアしました」

『へえ、お前等の試練をクリアするなんて、なかなか活きの良いみたいだな?』

「将来、有望な新人ですよ」

『お前がそこまで言うなんて、期待できるんだな?』

「その点はご心配ありませんよ」

『会うのが楽しみになってきたな』

「それで例の件ですが……」

『ああ、解ってる。その点は任せておけ!』

「よろしくお願いします。それでは失礼します」

『ああ、またな!』

 俺は電話を切ると残った書類に目を通す作業に取りかかった。


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