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白龍学園  作者: 竜牙堂
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第四章 紅莉栖(くりす)セリカの秘密

「セリカ様、朝でございます」

 黒い服を着た執事風のイケメンが、時計を両手に捧げ持っている。その声は地獄の底から響くような感じがした。精神の弱い者が聞いたら、たちどころに魂を持って行かれてしまうだろう。

「おはよう、ベリアル。いつも悪いわね」

「はっ、勿体なきお言葉」

 ベリアルと呼ばれた男は、瞬時に跡形も無く部屋から去った。ドラゴンボールの孫悟空も会得している瞬間移動である。

 セリカは、大きなあくびをした。魔術の研究が予想以上に進展したのでついつい夜更かししてしまったわ。

 部屋の広さはだいたい八畳間ある。壁一面に並んだ本棚は魔導書の原書がずらりと並んでいた。床はフローリングだが、様々な魔術道具が散乱している。

 今日は不吉な日ね。こういう日は心が躍るわ。

 セリカは黒で統一されたパジャマの一式を脱ぐと、ベッドの上に無造作に放り投げた。それから気怠そうに、ブレザーに着替えた。

 また大きくなったかしら?

 自分の胸を触りながらしばし考える。テーブルの上に置いた縁なしの眼鏡をかけると、無作為に置かれた学生鞄を持った。

「セリカ様、行ってらっしゃいませ」

「うん、行ってきます」

 セリカは靴を履くと、学園に登校した。


「ちょっと、お兄ちゃん」

「ん? どうした、知美。お前も学園に行く時間だろ? 早くしないと……」

 僕は妹に呼び止められて、足を止めた。

 妹は白い手で僕を招く。どうやら部屋に入ってこいということらしい。強引な性質の妹である。断っても無駄だろう。僕はため息を吐いて妹の部屋に入ることにした。

 相変わらず部屋の内装が女の子女の子していて、居心地が悪い。またぬいぐるみが増えたか……。僕は部屋を見回すのを止めて、妹を見る。手になにか持っている。おそらくこれを見ろということだろう。僕は持っている写真を見ることにした。

 見覚えのない写真だ。四人の子供が映っている。真ん中にいるのが僕で、右隣は妹。そして、背後に姉だ。さすがに自分と身内の幼い頃の姿は解る。しかし、左の少女は……誰だ?

 綺麗な金色の髪と紺碧の瞳。内気そうな少女は、恥ずかしそうな表情で僕を見つめている。

「これがどうしたんだ? もしかして心霊写真か?」

「お兄ちゃん、馬鹿なの? この人覚えてない? 十年前に引っ越した隣のお姉ちゃんよ。今日、起きたらこの写真が何故か落ちてたのよ」

 妹は呆れた表情でさらりと兄を尊敬する言葉を言った。しかし、そう言われてもなぁ。全く思い出せん。

「悪いが思い出せん。十年前? それにこんな綺麗な子なら覚えてるはずだが……」

「もう! お兄ちゃんってば、そんな事だから女の子にもてないんだよ!」

 裁判長! 妹は全く関係の無い事実を述べています。それに僕はもてないのではなく、彼女を作らないだけです! 本当だよ?

 僕は理不尽極まりない妹の罵声をあえて胸に刻んだ。

「……で、その写真」

「ちょっと、一体、何を騒いでるの! もう出ないと遅刻するわよ!」

 母親が一階から、大声で最終通告を告げる。

「あ、やべ! あとでゆっくり聞いてやる。さ、もう行くぞ」

 妹は膨れっ面のまま部屋をあとにする。僕もため息をつくとあとに続いた。


 夏が送りこんだ刺客・梅雨は六月下旬の今も我が物顔で居座っている。

 衣替えで夏服とはいえ、蒸し暑く感じる日が続く。メリットと言えば女子の薄着くらいか。「はー、早く梅雨が明けないかな。雨は憂鬱になるよ」

 僕は黒い傘を差しながら、天を恨むように呟いた。

 この時期はあまり良い思い出がない。

 詳しい例えで言えば、トラックが水溜まりを跳ねる。すると何の恨みがあるのか、必ずと言っていいほど僕に襲いかかってくる。偶然だと思いたい。だが、気分が乗らない時はこんな小さな不幸でも気にしてしまう。これが人間の心理というものかも知れない。

 周囲は通学途中の生徒で一杯である。まだ校門という名の地獄門が閉まる時間ではないので、のんびりと歩いている生徒は多い。

 今朝は余計なことに時間をかけたが、まだ充分に間に合いそうだ。

「よお! 何を朝から全身でしけたオーラ発してんだよ!」

 後ろから聞き慣れた元気な声がする。振り向くと青い傘を差した更科先輩とその隣には赤い傘を差した神島先輩がいた。二人ともこの陰気な雨とは、対照的に陽気な笑顔だった。

「やっほー、イチ君。おはよう!」

「おはようございます。二人とも雨だと言うのに元気ですね」

 僕は大きく溜息を、肺から絞り出すように吐いた。先輩達はそんな僕を見て、互いに顔を見合わせ苦笑した。

「まあ、大体この時期に、憂鬱になる奴はたくさんいるぜ」

「僕は梅雨が大嫌いなんですよ。早く梅雨が明けない事には、憂鬱を通り越して鬱病になりそうですよ」

 僕は多少、大袈裟にうなだれて見せた。

「もー、少しは元気出しなよ! これでも梅雨には良い所もあるんだよ」

「はあ……、では伺いますが、一体どんな所が良い所なんですか?」

「えーと、えーと」

 神島先輩は一生懸命考えている。その考えている仕草もなんだか可愛い。しばらくして、急に閃いたと言わんばかりに顔を輝かせた。

「家でごろごろしても怒られない!」

 得意満面になって、言い放った。実に神島先輩らしい答えに僕は思わず吹き出した。

 更科先輩は逆に呆れた表情になった。

「あー、もう一生懸命考えたのにー、イチくんの意地悪!」

「いや、だって答えが神島先輩らしいっていうか」

 神島先輩は口を尖らせて見せるが、全然怖くない。

「いや、陽子は良く考えたよ。えらいえらい」

 更科先輩は神島先輩の頭をよしよしと撫でた。

「もう! 栄二くんまで馬鹿にしてぇー。もう知らにゃい!」

 神島先輩はぷんすかと怒って見せるが、やはり迫力がない。僕と更科先輩は顔を見合わせて苦笑した。

 確かに神島先輩の言う通り梅雨にも良い所はあるのかも知れない。そう思うと少しは心が軽くなった。

「あ、やべ! もうこんな時間だ!」

 更科先輩は携帯の時計を見た。

「イチ! また後でな!」

 先輩たちは走って校門へ向かった。僕も二人の後を追いかけるように校門へ向かった。


 その日の昼休み。

 僕は友人たち数人と一緒に購買へ向かった。

 この学園では、昼休みが始まったら、購買を利用する生徒は全力でダッシュする定めがある。そうしないと、人気の高いパンが売り切れるという悲劇を招く。そこには諦めたら終わりという残酷なルールが支配していた。

 僕たちもそのルールに従い、購買までダッシュしようとした。しかし、背後から急に自分の名前を呼ばれたので立ち止まる。決して大きくはない声だったが、無視できない魔力を秘めていた。

 僕は声のした方に振り向いた。そこには、金髪を腰まで伸ばした美少女が立っていた。紅莉栖先輩である。

 僕は見たことのある美少女が、違った雰囲気を纏っているのに違和感を覚えた。しかし、その違和感の正体が一体なんなのか僕は気付けなかった。

 紅莉栖先輩は、僕のことをじっと見つめている。僕は声をかけてくれたのは先輩の方なので、少し待ってみた。キックオフばりに見つめ合うこと数分。友人たちも妙な間に吞まれているのか沈黙を保っている。その雰囲気に耐えられなくなった僕は愛想笑いをしながら先輩に話しかけた。声をかけたということは、何か僕に用事があるのかも知れない。

「あ、あのー、僕に何か用ですか?」

「次の土曜と日曜は空いてる?」

 間髪入れずに透明な声色が返ってきた。

 土日? 何もなかったような……。うん、友人や家族の用事もないし、平気だな。

 紅莉栖先輩は、深い海の底を思わせる瞳で僕の目を見ている。そして次の瞬間には、目を閉じて柔らかな表情になる。

「どうやら空いているみたいね」

 何これ? 読心術? まさか幕末の某人斬りみたいに僕の思考を読んだのか?

 僕が馬鹿な考えを巡らせている間に紅莉栖先輩は、その場から立ち去るようにくるりと後ろを振り向いた。

 その勢いで綺麗な金髪が、まるで意志を持っているかのように、華麗に舞い上がる。

 僕はその光景を彫像のように見惚れていた。それはこの世の物とは思えず夢の中の出来事かと思われた。

「おいおい、イチ! あの人って二年の紅莉栖セリカ先輩だろ? 超有名人じゃん! 土日って聞こえたけど、デートの約束か? うらやまけしからん!」

 中学時代の友人である佐々木が興奮したように一気に捲し立てた。そして僕の襟首をつかんで、前後に激しく揺すった。

 おい、馬鹿、やめろ。やめろ……。

「た、多分、部活の用事だと思うよ」

「部活ー? つうかお前部活なんかやってたっけ?」

 佐々木は少し考えるように首を傾げた。

 あ……、別に話しても良いけど説明が面倒臭そうだ。ここは誤魔化そう。

「ちょ、ちょっとね。助っ人に呼ばれてて……」

 僕は笑いながら、答えを濁した。ふう、何とかなったかな?

「うーん、俺はちょっと苦手かな、あの先輩。美人なのは認めるけど、何か変な感じがするんだよな。謎が多いっていうか」

 もう一人の友人である楠木が訝しい表情をした。

 確かに言いたいことは解る。謎が多いというよりかは、結構毛だらけ、先輩謎だらけなのだ。我ながら古いネタを使ってしまった。

「あ! いけねぇ、もうこんな時間だ!」

 足利はスマホを取り出して時間を確認すると、この世の終わりみたいな大声をあげた。

 昼休みをゆうに一五分は経過している。経験からいって完全に購買はアウトだろう。

 僕たちは祈るような気持ちで購買に向けて駈けだした。やはり予想を裏切らず、間に合う訳がなかった。本日の負け組確定である。


 その日の夜。

 さっそく紅莉栖先輩から携帯電話にメールの着信があった。

 つうか、なんで僕の電話番号とメールが平然と知られてるの……? 何それ怖い……。

 メールには土日に関する詳細な内容が書かれていた。

「何々、土曜日の午後六時にこの場所へ来るように、か」

 僕はその場所の住所を見た瞬間、驚きで思わずベッドから転げ落ちそうになった。

「確かここって……」

 僕はベッドから跳ね起きると、急いで机にあるノートパソコンの電源ボタンを押した。軽快な音楽が鳴りながら、業界シェアトップを誇る企業のロゴマークが現れる。

 何かの間違いでありますように……!

 僕は祈るような気持ちで、インターネットにつないだ。

「やっぱり、住所はここで間違ってないよなぁ」

 困惑の気持ちで呟き、映し出された画面を見ながら頭を抱えた。

 その画面に映し出された大きな洋館は、妖気を漂わせながら不気味に建っていた。

 その洋館は都内でも有名な怪奇スポットとして紹介されていた。

 怖い話が好きな僕も、もちろん知っている有名なスポットだ。

 もしかして、紅莉栖先輩の試練は肝試し? なのかなぁ。ううん、よく解らない。明日、学園で黒神先輩にでも聞いてみようかな?

 僕は風呂に入ると、眠くなったのでそのまま寝てしまった。


 翌日の放課後。

 今日も相変わらず雨は降っていた。

 僕は黒神先輩と差し向かいで相談していた。迷惑かと思ったが、タイミング良く、教室から出てきた黒神先輩と鉢合わせた。上級生を直接呼び出すのは何だか気が退けるから、結果オーライだ。

「すいません。いきなりで……」

「いや、別に構いませんよ。丁度図書館に行こうと思っていた所ですから。で、何がありました?」

 黒神先輩は単刀直入に聞いてきた。勝手なイメージだが、こういう相談事には慣れてそうだ。頼りがいがある。

 僕は手短にこれまでの経緯を話した。黒神先輩は黙って聞いている。

「へえ、なかなか面白そうじゃないですか」

 黒神先輩は満面に笑みを湛えてのたまった。

 前言撤回。単に面白がっているだけかも……。

「他人事だと思ってませんか?」

 僕は不満を顕わにするように口を尖らせる。

「あなたには気の毒だと思いますが、これもセリカの試練何でしょう?」

 黒神先輩は爽やかな微笑で僕を見た。僕はその言葉と完璧すぎる笑顔に反論を忘れる。

 うーん、その笑顔は反則だよ……。汚い、さすが黒神先輩、汚い。

 それに今更ここまで来て試練を投げ出す訳にも行かないだろう。

「まあ、セリカも悪いようにはしないでしょう。諦めるんですね」

「僕、生きて帰れますかね?」

「ははは、あなたも大袈裟ですね」

「んー、男二人で一体何の話?」

 背後から急に声をかけられて、僕は一瞬心臓が口から迸るかと思った。

 この声は、まさか!

 急いで後ろを振り向くと、瀬莉奈先輩が、興味津々といった感じで耳をそばだてている。

「瀬莉奈先輩、お疲れ様です。さあ、俺はこれから図書館に用事がありますから……」

 黒神先輩は不自然な挙動で立ち去ろうとする。

「え! ちょま、まだ聞きたいことが……」

 黒神先輩は不自然な愛想笑いでそそくさと去っていく。まるで肉食獣から逃げる草食獣に似ていた。

 ああ……、慌てて行ってしまった。まだ聞きたいことがあったのになぁ。残念……。

「なんだ、真琴のやつ、付き合い悪いな」

 瀬莉奈先輩は、黒神先輩の後ろ姿を不審な目で見送った。

「で、で! 一体何の話してたんだよ。教えろよー」

 瀬莉奈先輩は、子供のような眼差しで僕を見る。

 その純真な眼差しは精神に響くのでどうか止めて頂きたい。

 僕は瀬莉奈先輩の目線を外すと、どう切り抜けたら良いのか思案に暮れた。

 そうだ! 僕も黒神先輩と同じ手を使おう。ひょっとしたらいけるかも! 私に良い考えがある。コンボイ指令もそう言ってくれる。

 自然にだぞ、あくまで自然に。落ち着け、僕なら出来る!

「あ、そう言えば妹から用事を頼まれてたんだ! じゃ、そういう訳で……」

 良し! 完璧だ! これなら孔明も欺ける。

 僕は瀬莉奈先輩に背を向けて、足早に立ち去ろうとした。

「逃がすか!」

 が、駄目! その瞬間、瀬莉奈先輩の手が無慈悲にも制服の後襟を捉えた。そして、そのまま力任せに人気の無い場所へと引き摺られていく。

「ふふふ、私から逃げられると思ったか! 真琴は逃がしたが、お前はそうはいかん。お前にも教えてやる、私の恐ろしさをな! 歩いて帰れると思うなよ?」

 なら、僕はなにで帰るんですか? それにゲッターロボみたいなこと言わないで下さい。その笑顔、怖いです! あ、ちょっと、待って! 僕にも言い分が。話せば解ります。話せば……。ぎゃー!

 この日は僕が新しいトラウマを植え付けられた記念日になった。


 紅莉栖先輩と約束した土曜日。

 昼過ぎから降り出した鬱陶しい雨は、まだ今も降り続いている。

 僕は出掛ける準備をすると、黒い傘を差して家を出た。家族には部活の集まりで泊まりになると言っておいたので問題はなかろう。

 例の《入らずの洋館》は、僕の家から徒歩で十五分ほど行った寂しい場所に建っている。 《入らずの洋館》の由来は、何故か中に入ることができないというものだ。

 鍵らしき物は掛かっているのだが、それに対してハンマーやノコギリを持ち出して、壊そうとした不届き者もいたらしい。が、全然歯が立たなかったという。それどころか返って大怪我をしたという逸話も事欠かない。

 そんなこんなで着いてしまった。

 表札の無い門。ここだ。ここは心霊スポットでも、世間一般で言う不良たちの巣窟にならない希有なスポットだと、聞いた覚えがある。

 実際、心霊スポットには、二種類の怖さがある。それは死んだ人間の怖さと生きている人間の怖さだ。

 前者の怖さは自分ではどうしようもないモノへの未知の怖さであり、後者の怖さは暴走族や近所の不良に目を付けられないかという怖さだ。いや、どっちも怖いけどね……。

 しかし、この《入らずの洋館》は、その後者の怖さの原因が近寄り難くなると言われている不思議な場所なのだ。

 僕は携帯電話をズボンのポケットから取り出すと、時間を確認する。

 まだ六時までには間があるな。もう少し待つか。まあ、女性をこんな雨の中、待たせるのも気が退けるし。

「お待たせしたかしら?」

 紅莉栖先輩の綺麗で透明な声がした。

 雨音に負けないハッキリと通る声だ。

 ん? 一体、どこにいるんだ? 声はすれども姿は見えず。はっ、まさかこれは幽霊が紅莉栖先輩の声音を使って、僕を誑かそうとしているのではあるまいか……? お、落ち着け、こここれは孔明の罠だ。

 僕はそう考えると背筋が寒くなり、蒸し暑いというのに急にゾッとした。

 そしてどこから声がしたのか、確かめるように左と右を見る。

 しかし、その行為は徒労に終わった。

「ここにいるわ」

 また声が聞こえた。

 まただ。今度は後ろから聞こえた。しかし、後ろは洋館の敷地内だぞ。もうその中にいるというのか? はたまた本当に幽霊?

 僕は念のために恐る恐る振り向く。そこには赤錆だらけの大きな鉄の門があり、行く手を遮っている。

 やっぱり誰もいないよな……? あれ、なんだ、あそこ。あそこだけ闇が濃く見えるぞ。気のせいかな……?

 僕は良く目を凝らして見てみた。

 そこには黒い傘を差して優雅に佇ずむ女性がいた。その姿は幽玄の極みにあり、幽霊かと思わせる雰囲気。僕は背筋から冷たい汗が流れるのを感じた。

 だが、落ち着けと、逃げたくなる自分に言い聞かせ、更に良く目をこらして見た。

 そこには縁なしの眼鏡を付け、黒い上下のパジャマを着た紅莉栖先輩がこちらを見つめていた。

 な、なんだ、紅莉栖先輩か。待てよ。良く見ると随分とラフなかっこうをしているな……。

「今、開けるわね」

 じめじめ感に負けない涼やかな声で心地良い。紅莉栖先輩は、門の取っ手に手をかけると、ゆっくり開けた。門は不気味な音を立てて重々しく開いた。その音からは門が見た目以上に相当錆びていることが解る。

「入って」

 先輩は僕を門の内側に招き入れると、門を開けた速度と同じようにゆっくり門を閉めた。

 あれ? 少し寒くなったような……。

 僕は不思議な感覚に首を傾げた。

 先輩は、そんな僕を置いてゆっくりと前を歩いて行く。

 あ、こんな所に置いていかれたらまずいな……。ここは付いていくしかないか。

 僕は少し諦めの体で先輩の後姿を見失わないように、少し距離を空けて付いていく。灯りは一切なく、いつ石に「足下がお留守ですよ」と攻撃を喰らうか気が気でない。

 それにしても薄暗いなここは。しかし何で先輩は足下を見ずに平気で歩けるんだ? 僕なんか常に足下を気にして歩いているというのに……。

 結構、広い庭だな。それに大きな洋館だ。見れば見るほどホラーやオカルト系の作品に出てもおかしくない、そんな洋館だ。

 僕がそんな感想を抱いているうちに洋館の前へ着いた。

 先輩は《入らずの洋館》の大きな玄関の前で傘をたたんだ。僕もそれに倣い傘をたたんだ。

 足下を気にしていたのと夜の闇で気付かなかったが、先輩の頭には魔女がかぶっていそうなあの例の黒い帽子が乗っかっている。

 あの帽子可愛いデザインだな。それに先輩に凄い似合っててイイネ!

「……何かおかしいところがあるかしら?」

 僕の目線に気付いた先輩は、少し気恥ずかしそうに俯いた。

「い、いえ、凄い可愛い帽子だなぁ、って思っただけです。それに」

「それに?」

「先輩に良く似合ってますね」

「そ、そう、子供っぽいと笑われるかと思ってたわ。ありがとう」

 最後の言葉は尻すぼみになり、まったく耳に入らなかった。先輩は、はにかむと僕から目を背けた。

 うわぁ、反則級に可愛いな、ほんと……。はっ、いかんいかん! 今の僕には龍神先輩という心の女神が……。僕は浮気な心を叱咤するように首を大きく振った。

 しかし、僕は先輩の顔を直視することはできなかった。

 なんだ、この展開は……。これがラブコメの波動というやつか……。

 僕はこの波動を打破するために別の話題に変えることにした。

「そ、そう言えば! 良くこの《入らずの洋館》のこと知ってましたね。ここ結構、有名な心霊スポットなんですよ!」

 先輩は、僕の説明を聞くと、目を不思議そうにぱちくりさせた。

 バッドコミュニケーション! しまった。これは適当な話題ではなかったか?

「それは知っていて当たり前だわ」

「そうですよね。当たり前ですよね」

「だって、ここは私の家だもの」

「そうそう、ここは紅莉栖先輩のい、えええええー?」

 僕が放った驚愕の叫びは、流星のように夜を切り裂いた。事も無げに爆弾発言をした先輩を呆然と見詰める。

 『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という有名なことわざがある。まさにこの言葉はそれに相当した。この場合は『洋館の正体見たり先輩の家』であったわけだ。

 なるほど、道理で先輩が洋館の門の内側にいたわけだ。納得。

 先輩の家が《入らずの洋館》であるならば、歩き慣れた道なら例え暗くても不安はないだろう。

「さあ、入って」

「お邪魔します」

 僕は先輩の後に続いて洋館の中に入った。お客さんが多いときでも安心な特大サイズだ。

 玄関先に置いてある靴は、一つもない……。もしかして誰もいないのか? ひょっとして一人暮らしかな? だとしたら二人っきり……?

 僕は想像すると何だか緊張してきた。

 そして、胸の鼓動が周囲に聞こえるのではないかと焦った。

 くっ! 静まれっ! 僕の鼓動よ! し、紳士的に振る舞わなくては……! 決して変態という名の紳士ではないぞ。

 僕は妄想を振り払うように、胸を押さえながら頭を振った。そして、先輩を盗み見た。相変わらずマイペースを崩さず、学園にいる時とまったく同じ平常運行だ。

 落ち着け、意識しすぎだろ。それに変に意識しすぎて、先輩に勘づかれても気まずい。ここは僕も平常心だ。

「お帰りなさいませ、セリカ様。おや、お客様ですか?」

 急に地の底から響き渡る声が轟いた。

 変な声だな。この声を聞いていると不吉な感じがしてならない……。本当に人が出せる声なのか? まるで絶対零度の凍気を直接心臓に吹きかけられた感じだ。心臓が止まるかと思ったよ……。いや、一瞬止まったかも……。

「ええ、後輩の戸田市一君。紹介するは、彼はベリアル。ええと、執事と言った方が解りやすいのかしら?」

 紅莉栖先輩は、首を傾げながら目線を宙に向けて疑問符混じりの声で紹介した。

 何故、疑問符? 誤魔化している感じはなくもないが……。ここは気にしないようにしておこう。

「セリカお嬢様がいつもお世話になっております。執事のベリアルと申します。以降宜しくお願い致します。至らぬ所がありました場合は、なんなりとお申し付け下さいませ」

 ベリアルさんの瞳は血のように紅く、まるで宝石のような美しさだった。しかし、特筆すべきはその宝石よりも美しい容姿である。僕はその妖しい魔力にしばし見惚れた。だが、その瞳の宝石が妖しく鈍い光を放ったように感じたので僕は正気を取り戻した。

 今、一瞬目が光ったような……? いやいや、勘違いだ。灯りが反射しただけだろう。気にするな。

「ベリアル。戸田くんを食堂へ案内してあげて。私は後で向かうから」

「はい、(かしこ)まりました」

 執事はそう言い、先輩に対して一礼した。その後、僕に向き直る。

 この人の動き、まるで無駄がない。それに衣擦れの音すらしなかったような……。

「どうぞ、こちらでございます。戸田様」

 彼は愛想良く笑った。僕もそれに対して愛想笑いを返した。

 何て綺麗な人なんだろうか。だけど、どこか変だ。確かに綺麗な顔だ。だが、あまりにも整い過ぎている。まるで創造の産物みたいで、どこか違う。人間が持つ美貌ではない。朧気(おぼろげ)ながら、少し顔を知っているような気もするんだよね。

 頭の中に(もや)と霧と(かすみ)が同居している気分だ。すっきりしない。

 しかし、それにしても妙だ。この家には他の人間が住んでいる気配がまるでない。

「あの、ベリアルさん、質問良いですか?」

「はい、何でしょうか」

「立ち入ったことを聞くようで何ですが、紅莉栖先輩のご両親は現在、在宅してるんですか?」

「ああ、奥様の生地(せいち)であるドイツへ里帰りしてるんですよ。ご主人様と一緒に……。セリカ様から聞いていませんでしたか?」

 執事はこちらを見ずに僕の質問に答える。

 へー、じゃあ先輩はドイツと日本のハーフということか。しかし可愛い娘を一人残して心配じゃないのかな?

 そんなことを考えていると執事は急に立ち止まりこちらに振り向く。

「こちらでお待ち下さいませ」

 どうやら着いたみたいだ。僕が通された部屋は、大きな食堂だった。

 部屋の中には大きな四角いテーブルがある。そのテーブルの上には、僕が生まれる前からそこにあったように品の良い燭台が鎮座していた。

 僕は執事に促されて木製の椅子に座る。座った後でも上京したての田舎者みたいに部屋を眺め回す。

 僕の家の食卓よりゆうに二倍は広いぞ。それに掃除が行き届いている。テーブルや床の上に、ちりやほこりが一つも落ちていない。恐らく先ほどの執事の人の掃除が行き届いているからと見た。

 しばらく待つと、良い匂いと一緒に先輩がやってきた。

 その姿は黒いパジャマの上にピンクのエプロンというとても似合う出で立ちであった。

 ピンクのエプロンは、シンプルな中に機能美が混じる。絵柄は可愛らしい猫の刺繍が胸元を飾っていた。しかし、豊満な二つの球体のせいで立体映像に見えていた。

 何か一部分が飛び出して見える! まったくどんな仕掛けがあるのやら。私、気になります!

 先輩は、そんな僕の気持ちも知らずに、前の椅子に腰かけた。

「紅莉栖先輩。一体、どこに行ってたんですか?」

「ちょっと、夕飯を作りに厨房へ行ってたのよ。お腹が空いただろうと思って」

「夕飯ですか?」

「あら、お腹空いてなかった?」

「いえ、そんなことはありませんが……」

「それなら良かった。あ、良いタイミングで来たわね。私の自信作なんだけど、感想を聞かせて欲しいの」

「喜んで、頂きます!」

 先輩の手料理! クラスの友人に聞かせたら、嫉妬で殺されるであろう。僕はどんな料理が出てくるのか正直、心が躍った。これも役得というやつか。

 先輩のことだ、洋風かな? それとも、和風か? いやいや、意外と中華かも知れない。早く食べたいもんだ。

 希望、それは後ろ姿の美女に恋い焦がれるのと似ていた。顔を見た瞬間、予想通りの美女なのか、はたまた、予想に反した醜女なのか。

「お待たせしました。《七つ葉のクローバーのサラダ》です」

 七つ葉? 四つ葉のクローバーは聞いたことあるが、七つ葉なんて聞いたことないぞ。

 運ばれてきた前菜を見ると、色とりどりの野菜が皿に盛ってある。その上に七つ葉のクローバーが一つ乗っている。

 ああ、これは普通のクローバーに手を加えたんだな。凝った演出をする。

 僕は加工の跡を見破ろうとクローバーを手に取って調べた。手品の名人は、見ている観客にネタを悟られないように手品を行う。

 ……これはおかしい。どう見ても加工の跡がない。少し強く引っ張っても葉っぱが取れん。どうなってるんだ?

 僕はどう調べてもそこに加工の跡を見いだせず、先輩の手際の良さを認めざるを得なかった。

「その《七つ葉のクローバー》を食べると幸福感で満たされるのよ」

 先輩は幸福そうな顔でもっともらしい説明を付けた。

 僕は半信半疑だったが、物は試しということで食べてみた。

 むお! 口からしゃっきりぽんと広がるこの幸福感は一体? しかしこのサラダなかなかいけるね!

「お待たせしました。次は《ディアブロ風スープ》になります」

 前菜を食べ終わったタイミングで、ベリアルさんは次の料理を運んできた。僕はスープを見た瞬間、驚愕のため、体と心が固まった。

「遠慮しないで食べなさい」

 僕はスープと先輩の顔を交互に見た。先輩は相変わらず、無上の笑顔を崩さない。

 一体、何がスープに起きているんです?

 目の前に運ばれてきたスープは、《名状しがたいスープのようなもの》と言えた。色がチアノーゼ状態の唇よりも青紫色である。

「く、紅莉栖先輩。このスープは酸素不足か何かですか?」

「?」

 僕は首を傾げて質問をした。先輩もそれを見て鏡合わせのように首を傾げる。その仕草は可愛い。だが、このスープはまったく可愛くない。

 これ口の中に入れても大丈夫かなぁ? い、いや、だ、大丈夫だ! 思い出せ! あの《血の妹手料理事件》を! あの惨劇を乗り越えた僕じゃないか! あのときはトイレと部屋の往復記録をギネスに申請しようかと思ったよ……。

 昔の惨劇が克明に脳裏へ描かれる。トラウマが首をもたげて僕の精神を(さいな)む。一瞬、吐き気と目眩がした。僕は頭を軽く振り、脳内を占拠したトラウマを追い払う。しかし、これ以上の迷いは先輩を傷つけるだけだろう。

 もう後がないと知った僕は不退転の覚悟を強くしてスープ用のスプーンで少しすくってみる。男の子って大変……。

 目を閉じて恐る恐る口に含む。味は複雑怪奇と言えたが、食べられない訳ではない。どうしたらこんな味が出せるのか、そこが不思議である。これは是非、海原先生にもご賞味して頂きたい。

「これ、結構美味しいですよ。どこの料理何ですか?」

「……魔界」

 先輩は心なしか少し嬉しそうだ。誉められて嬉しいのかも知れない。それにしてもマカイってどこにある国なの? もしかしてマカオと聞き間違えた?

 それ以上は身に危険を覚えたので質問を打ち切る。

 僕はスープをなんとか飲み終えた。フルコースなら、いよいよ次がメインディッシュだ。

 一体、何が出てくるのか? ベリアルさんは今度もまた良いタイミングで運んできた。

「《九尾の狐肉の甘露煮込み》です」

 微妙に聞いたことのある食材だ。今度こそ食べても平気なのか? 那須の殺生石みたいに害があるのではないのか? 

 しかし、冷静に考えて見れば、九尾の狐という言葉は何かに見立てている可能性が高い。先輩の創作料理なら、先輩の独断でどんな名前を付けようとも勝手な訳だ。

 妙なる匂いが漂い、鼻腔をくすぐる。嗅いでるだけで食欲がいや増していくのが解る。

「えーと、これは?」

「これは魔力を回復するのに必要な栄養素が、たっぷり含まれているのよ」

 先輩はナイフとフォークを綺麗に使い、美味しそうに食べている。

 先輩の言葉には聞き慣れない単語が混じっていたが、まぁ、無視しよう……。

 見た感じは美味しそうな肉料理にしか見えない。切り分けて食べてみれば上品な味である。ほぼイキかける美味さだ。

 これは肉本来の味を、上にかかっているソースが十二分に引き出している。

「これは美味い、美味いですなぁ!」

 僕は思わず某新聞社の副部長みたいな声を上げた。それほど素晴らしい味なのだ。何だか気力と体力が回復した気がする。まぁ、プラシーボだと思うが……。

「あ、貴方に誉めてもらえて凄く嬉しいわ。この食材はなかなか出回らないのよ。今日は運が良かったわ」

 先輩は耳まで真っ赤にしていたが、宝くじで高額を当てた人のような表情で、嬉しがっている。

 いよいよ最後の締めは、デザート。今まで出てきた内容から見ても、締めの料理も先輩のオリジナルだろう。

「最後に《リトルスイートハウス》と《ベラドンナジュース》です」

 なるほど、この《リトルスイートハウス》は、文字通り精巧にできたお菓子の家である。主な成分はクッキーとチョコでできているのは一目で解った。

 家の中には砂糖でできた魔女の婆さんの人形があり、【ヘンゼルとグレーテル】の一幕を模していた。なかなか凝った演出である。甘党の人なら是非お勧めできる一品。つーか、もうこれは芸術品として認めてもいいレベルに達しているまである。

 食べるのが実にもったいない。が、食べなければ始まらない。僕はナイフとフォークを器用に使い、家を切り崩した。

 こいつは……絶品だ! このしつこくない甘さはヤバイ。

 次の《ベラドンナジュース》は、暗緑色の液体が不気味な飲料である。一見、青汁風で体に良さそうな感じだ。

 僕は今まで食べた料理は見た目が変でも、何だかんだ言って美味しかったので、今回も同じだろうと高をくくっていた。

 僕は一気に《ベラドンナジュース》を飲み干した。

「ふー! 何だか今まで飲んだことのない味でしたが……」

 摩訶不思議な味だ。今まで味わったことがない……。妙な舌触りだが、青汁を思わせる飲み心地だ。

 飲み干して一息ついた僕の視界は急激に暗転した。

 まさか、先輩が……? 残念! 僕の冒険はここで終わってしまうのか!

 薄れゆく意識の中で見たものは、静かに立ち上がる先輩の姿だった。


 意識が戻ってきた僕は、ゆっくりと目を開けた。視界がまだぼやけている。手の指を動かそうと手指に意識を強める。すると予想に反して手の指はおろか、足も動く。こいつ、動くぞ!

 体中に痛みも感じないし、気分も悪くない。

 何だ、僕は生きてるのか?

 数分すると、視界が徐々にはっきりとしだした。薄暗いが、見慣れた天井ではない。そうだ。僕は紅莉栖先輩の家に……。

 あのジュースを飲んで意識を失っていたのか……。僕は原因を探るように思い返した。それにどうやらベッドで寝ているらしい。

 僕は警戒するように視線だけで周囲を見回す。薄暗くて見えにくいが、どうやら僕以外に人はいないらしい。

 その時、急にドアが開き、部屋の明かりが点いた。僕は寝ているままで、そちらに視線を向けた。どうやら入ってきたのは紅莉栖先輩らしい。

「あら、もう意識が回復したようね。どう、気分はまだ悪い?」

 先輩は心配そうな口調で問いかけた。

「ここはどこですか?」

「私の部屋よ」

 先輩は僕の受け答えがしっかりしているのを聞いて安心したのか、いつもの口調に戻る。

 僕は先輩が心配しないように少しだけ上半身を起こした。そして視線だけで周囲を見回した。

 まず目に飛び込んできたのは床に散乱した無数のオカルトグッズ。壁一面の本棚には書籍が満員電車のように収まっている。乗車率は百二十パーセントといった所か。その本棚の上には何か怪しげな箱が置いてあるのが視界に入る。

 あの箱何か気になるな。大きな地震が起きたら落ちるんじゃないか?

 僕はふとそんなことを思った。

「何か気になる物でもあった?」

「あの箱」

 僕は本棚の上に置いてある箱を視線だけで示した。僕が示した方向に先輩は視線を向ける。

「あれがどうかしたの?」

「地震が来たら、危ないですよ」

「この間の地震でも落ちなかったから大丈夫よ。そんなことより……」

 先輩は僕の近くに腰を降ろす。良い匂いが僕の嗅覚を刺激する。僕の雄の部分も刺激しかねない危険な匂いだ。そして、真剣な表情で僕を見つめてくる。

「え、え、な、何ですか?」

 見詰められて僕は情けないことに声が上擦った。反射的に身体は緊張で強ばる。視線は挙動不審者のようにあっちこっちに飛ぶ。この際、ほのぼのハーモニーをみなで奏でたい。

「顔が赤い以外は平常みたいね。うーん、あのジュースを一般人に飲ませるには、もう少し改善が必要みたいね」

 先輩は真剣な表情で考え込み、独り言のように呟く。時折、聞き慣れない名詞が耳に飛び込むが、意味はよく解らない。もし、意味が解っても怖いだけだと思うので、意味が解らない幸運を神に感謝した。

 あのジュースって、やっぱ曰く付きなんだろうなぁ。僕は心の中で力なく笑った。

「まだ無理をしては駄目よ。身体に残らなくても精神には残っているかも知れないから」

 先輩も悪気はないのだ、多分……。僕は自分の身に起きた不運を心の中で嘆いた。声の調子は平坦ではあるが、どこか心配しているような気配が見える。これ以上、心配をかける訳にはいかない。

「だ、大丈夫ですって! こんなに元気になりました。それにいつまでも寝ている訳にはいきませんし」

 もう平気なことをアピールするために、僕はベッドの上に跳ねるように立ち上がった。ベッドは余りにも柔らかく弾力があったのは最大の誤算だった。僕はバランスを少し崩す。

「おおお、とっとっと」

 先輩は思わず僕の身体を支えようとして立ち上がり腕を伸ばす。しかし、僕は何とか体勢を立て直すと、照れたように笑う。先輩はまだ心配そうな表情を崩さない。

「ね、大丈夫でしょ?」

 僕はベッドから飛び降りた。しかし、着地した所がまずかった。僕の足の裏は何か固く丸い物を踏んだ感触を強く感じた。

 僕は着地した場所を確認しなかった自分を恨んだ。後悔という言葉の意味を今ほど強く思い知ったことはなかった。

「どわぁぁぁぁ!」

 今度は完全にバランスを失い、本棚へまともに背中から激突した。バランスを失っていたので、ブレーキが効かない。

「いってー」

 予期しない痛みに思わず顔をしかめて声を漏らす。僕は先輩を心配させまいと痛みを堪えながら苦笑する。しかし、先輩はしきりに僕の上を気にしているようだ。

 何だ? 僕の上に何が……。まさか!

 僕は思わず大きな本棚の上を見る。その後一瞬見えた光景は、分厚い本の雪崩が容赦無く降ってくるところだった。計ったな! シャア!

 思わぬ本の豪雨に、声にならない悲鳴を上げる。顔を中心に肩や足にも容赦なく降りそそぐ。まるで某格闘ゲームの乱舞技をくらっている感じだ。

 やれやれだ。本の恨みを受けるいわれはないが……。まったくついてない。今日は厄日か。

 僕は一際大きく息を吐くと、先輩を再度見た。

「すいません、先輩。本棚は後で片付けておきます」

 しかしまだ終わりじゃないぞ! と某野菜の星の王子様の攻撃ばりに上から箱が落ちてきた。その箱が僕の頭に当たると、箱の蓋が開き、中から可愛らしい小瓶が転がり出てくる。

「戸田君! その小瓶の気体を吸ってはいけない!」

 先輩は驚いたように叫ぶ。僕は転がっている小瓶を見た。落ちた拍子で蓋が空いたのだろう。

 小瓶の色は薄茶なので中身は見えにくかったが、先輩の指摘通り、液体ではないらしい。見ても床に濡れた箇所はない。

 しかし、次の瞬間、僕の周囲に甘い匂いが立ちこめる。

 ん? 甘い……匂い……?

「それを吸っては駄目!」

 先輩は必死の形相で警告を発した。僕はその声の剣幕に、一瞬遅れたが慌てて口と鼻を押さえた。

 先輩の警告じみた言葉を聞いて一瞬、有害なガスかと思い、何か身体に変調が現れるのかと不安を拭い去れなかった。

 しかし、いつまで経っても効果は現れない。さすがにもう大丈夫だろうと思い、身体はまだ痛むが、僕はゆっくりと立ち上がる。

「あの小瓶の中身は一体、何ですか? 甘い匂いがしたと思ったんですが、何ともありませんし……」

「本当に何ともないの?」

 先輩は心配そうな声音で聞いてくる。

「ええ、この通りです。さっきも聞きましたけど、あれは一体何ですか?」

「え、ああ、あれは一種の惚れ薬なのだけど、貴方を見る限り失敗したようね。また一からやり直しだわ」

 先輩は残念そうなそぶりを見せる。

「ええっ! あの中に入っていたのは惚れ薬だったんですか! 先輩のあの剣幕から察して、僕はてっきり人体に有害な気体かと思いましたよ」

「そんな非魔術的な物は作らないわ」

 そう言い放った先輩の表情は読めない。だが、憮然とした口ぶりなのは解った。

 非魔術的ってそんな言葉あったかな? 日本語はムズカシイネ!

 僕は心に浮かんだ疑問を押し殺した。それにしても惚れ薬なんて中世の魔女でもあるまいに……。そんな便利な物があるなら、僕も欲しい……。はっ、いかんいかん。危うく煩悩に支配されるところだった。

 先輩はそんな僕を無視して、本棚へ本を戻し始めている。しまった。僕も手伝わないと。

「あ、先輩! 僕も片付けます」

「あらそう。何だか悪いわね」

「いえ、元はと言えば、僕が調子に乗ってベッドから飛び降りたのが原因ですから」

「じゃあ、一緒にやりましょう。一人より早く片付くわ」

 僕は先輩の言うことももっともだと思い、その提案を受け入れた。先輩と僕は肩を並べて床に散乱した本を片付け始めた。

 うえー、これを元通りにするのは相当骨が折れそうだ……。

 足下に雑然と散らばった無数の本を見て、心が折れそうになる。

「完全に元通りに並べなくても良いわ。適当で良いわよ。適当で」

 先輩はこちらを見ずにそう言いながらマイペースで片付けている。

 じゃあ、ご本人がそう言うならさっさと適当に片付けましょうか。

 ん? これは何の本だろう。僕はやたらと分厚い外国の書籍を手に取る。ずしりと手に重い感覚が伝わる。文庫サイズしか読んだことのない僕にはこの感覚は新鮮に感じた。

 先輩には悪いと思いながら、本を軽くめくった。片付け中に本を読み出すのは、人の性というものだ。それに先輩が何の本を読んでいるのか興味もあった。

 駄目だ、全然読めない。これ何語だよ!

 僕は数ページ見ただけで諦めた。

 多分、原書というやつだろう。ヨーロッパの言葉ということは横文字なので何となく解る。しかし、意味が解らない。

 僕はこれ以上のサボりを断念した。さて真面目に片付けよう。僕は床にまだ散乱している本を抱え、棚に戻そうとする。

 あれ? こんなところに写真が落ちてるぞ。僕がぶつかった時に落ちたのかな……?

 本棚に本を戻した後、先輩に気付かれずに落ちている写真を拾う。僕は写真を見た瞬間、証拠を見つけて、誰かに知らせようとした瞬間、犯人に頭を殴られるが如き、衝撃を受けた。

 そこには前に妹の部屋で見せられた写真とまったく同じ写真。

 え? 何で……? それにこの写真の女の子。まさかとは思うが……。

 僕は片付けをしている先輩の顔と写真の中にいる幼い女の子の顔を見比べた。

 まぁ、胸は成長しすぎていて似てはいない。だが、それ以外のところ、例えば目の輪郭や口元はそっくりである。

 呆然とした僕は心臓の鼓動が一際高く鳴ったような気がした。そして妙な違和感の後、思わず胸を押さえてうずくまる。その拍子に持っていた写真を落とした。嫌な汗が体中から吹き出し流れる。

「どうしたの? 大丈夫?」

 僕の急変に先輩が気づき、心配そうな表情でこちらを見ている。

「だ、大丈夫」

 ですよ―― と心配させまいとして笑顔を作りたかったが無理だった。

 天才に秘孔を突かれたように、このまま心臓が破裂するのではないかとさえ思った。それほど鼓動が早鐘のように鳴り響き、加速していく。僕はこの突然の痛みに歯を食い縛って耐える。こうしなければ、耐えきれずに、情けない悲鳴を上げていたことは間違いない。

 僕は勢い良く片膝をついた。

 何だこれ、急に!? ま、まさか、あの薬の効果が今頃になって!

 この尋常じゃない事態と痛みは僕の思考を徐々にだが確実に奪っていく。こうかはばつぐんだ!

 未来永劫続くかと思われた責め苦も、過ぎてゆく時の中で収まりの兆しを見せ始めた。

 しかし、僕の意識は未だ靄が晴れない。

 痛みは大分退いてきたので、僕はゆっくりと顔を上げる。

「本当に大丈夫? 気分が悪ければ休んでいても良いのよ?」

 先輩は心配そうな顔つきで僕に近づいてくる。僕は心配させまいとして、急に立ち上がる。

「た、多分、平気だと思います。少し疲れたのかも知れません……」

「そう? なら、良いけど……。じゃあ、無理しないで休んでなさい」

「はい、お言葉に甘えて、そうさせてもらいます。ご心配おかけしてすいません」

 僕は立ち上がり、先輩を見詰めた。

 その瞬間、先輩の左腕をつかみ、自分の胸の中へ軽く引き寄せていた。とっさのことで呆気にとられたのか、先輩の抵抗は無に等しかった。

 僕は自分の心とは裏腹な行動に呆然とする。

「セリカ先輩。僕の心はどうなってしまったんでしょう。何故か無性にこうしていたい」

「それは貴方が嗅いだあの惚れ薬のせいで、一時的に精神が錯乱しているだけ。大丈夫よ、あの薬の効果時間は長くても一時間に満たないはずだわ」

 先輩の声は冷静だが体は少し震えているのを感じる。

 これは本当に僕の意志ではないのだろうか? 本当は僕の無意識の顕れではないのか? だとしたら……。

「すいません。それに何故かこうしていると安心するんです……」

「そう……。貴方は甘えん坊なのね。なら落ち着くまでこうしているといいわ」

 先輩は僕を優しく抱きしめる。僕の背中をまるで小さな子供を落ち着かせるように優しく一定のリズムで叩き始めた。先輩の体の震えはいつのまにか止まっていた。

 僕はその行為に何故か懐かしさを覚えた。

「先輩の髪の毛、間近で見ると凄く綺麗ですね。月光を受けてキラキラとしてる。でも何故かどこかで知っているような気がするんです」

「……そう」

 そう言った先輩の声には寂しさと憂いを含んでいるように感じた。僕は断片的にうっすらと甦る記憶にもどかしさを覚えた。

 やはりあの写真の少女と先輩は同一人物なのか? 聞きたいけど、もし違っていたら気まずいな……。何か決定的な確証があると良いんだけど……。

 僕は昔の思い出を思い出そうとするが、全然思い出せない。僕の心が何者かによって、強制的に封印をされているみたいだ。封印に近づくに連れて頭に鈍い痛みが走る。

 僕は苦痛に思わず表情を歪める。目を閉じて大きく深呼吸をする。

 僕は思い切って先輩に写真のことを聞こうとしたが止めた。聞いてどうすると言うのか?

 先輩が名乗らない以上、あまり知られたくないという推理も成り立つはずだ。

 それに今は龍神先輩のことが最優先事項のはずだ。これを外しては一体、何のために試験を乗り越えてきたのか、解らなくなる。

 僕はそう決意を改めた。気が緩んだのか僕の意識は混濁を極め、闇に飲み込まれた。


 僕は過去を思い出していた。いや、あるいは、夢を見ていたのかも知れない。

 夢の中の僕は誰かを追いかけている。果たして誰を何のために追いかけているのか、それは解らなかった。

 僕はいくら手を伸ばしても届かない存在に、ある種の苛立ちと焦りを感じていた。

 でも、その《追いかける》という行為自体を、楽しんでいる自分をも感じていた。

『待てー、待ってー!』

 僕は手を伸ばした。そして、やっと捕まえた。あれ、おかしいな。やけに柔らかい……。それは弾力があり、暖かい。そしてどこか懐かしい感触がした。

 あれ? 何か夢にしてはやたらリアルな感触……。

 僕の意識は疑問から覚醒へと向かう。目をゆっくりと、だが確実に開く。

 そこには、元気に紅莉栖先輩の豊満な胸を縦横無尽に揉みしだく僕の手が!

「うあっちゃらっぽー!」

 僕は意味の解らない叫び声を上げた。驚きと驚愕と驚天動地がスクラムを組んだような感情の迸りだった。

「いててて」

 僕は頭に鈍痛が残っているのを確認した。ごっすんごっすんごすんくぎー。

 そうか、あの後意識を失ったのか。しかし、何で先輩が横で寝てるんだ? これは僕の七不思議に認定されてもおかしくないレベル。そんな七不思議あったら、毎晩でも起きてくれないかなぁ……。

 数分すると、先輩が大きな欠伸をして、起き出した。

 つーか、あんなに胸を揉んでも起きなかったのだろうか?

「あら、イチくん。おはよう。もっと揉んでいても良かったのに……」

 先輩は妖艶な顔つきで意味深に笑った。

「え、えーと、あのー、そのー」

 僕は目を逸らしながら、馬鹿に見えるくらい言葉が出てこなかった。

「あら、今更照れなくても良いじゃない。夕べはあんなに激しく私を求めてくれたのに……。ふふ、なかなか良かったわよ」

 先輩は上目遣いで僕を熱っぽく見る。僕は石のように固まった。ギリシャ神話のメドゥーサの瞳の魔力にも匹敵する石化具合。

 全く覚えてねー。全て覚えてねー。

「ふふふ、冗談よ。衣服に乱れはないでしょ?」

 僕は慌てて衣服を確認した。先輩の言った通り、衣服に乱れはなかった。先輩は悪戯っぽく笑い、身を起こした。先輩のパジャマにも乱れはなく、それを確認してホッとする。

 カーテン越しから陽光が差している。外は久しぶりの晴れらしい。

 僕は先輩の勧めもあり、朝御飯を食べてから家に帰ることにした。僕は少し逡巡したが、断る理由もあまり浮かばなかったので食べていくことに決めた。

 朝御飯のメニューは、パンとコーヒーだった。僕はまともな朝御飯なのに少し面食らった。昨日の夕飯を見る限りそんなまともな朝食を想像するには無理があるというものだ。

 そんな僕を見て先輩は、不思議な表情を向け、首を傾げた。

 僕は昨日までの先輩と雰囲気が違うのを感じた。それは春の日差しみたいな柔らかさを感じさせる雰囲気だった。


 朝御飯を食べ終わると先輩は、僕を玄関先まで送ってくれた。

「昨日は悪かったわね。ゆっくりできなかったでしょう?」

「いえ、結構楽しかったですよ。先輩は?」

「え?」

「先輩は楽しくありませんでしたか?」

「あんな目にあったのに楽しかったの? ふふふ、イチくんは本当に面白い人ね。私ももちろん楽しかったわ。それに貴方と一緒に食事をするのは昔からの約束だったもの」

 最後の部分は少し聞こえなかったが、先輩は満足そうな表情をした。

「じゃあ、僕はこの辺で! ご馳走様でした、そしてお邪魔しました」

 僕は先輩に背中を向けて玄関のノブに手をかける。

「あ! 待って! 忘れ物よ」

 僕はゆっくりと振り返る。不意に先輩の唇が僕の頬に重なる。呆気に取られた僕は、マネキンのように固まった。

「これが忘れ物よ。私の家で起きた出来事は、イチくんと私、二人だけの秘密にしましょう。約束よ」

 先輩は僕の側をゆっくり離れた。

「さようなら。また、学園でね」

 まだマネキンのように固まっている僕を尻目に先輩は奥へと消えていく。その後ろ姿を僕はただ見送ることしかできなかった。


 僕は傘を片手に家への帰り道を歩いていた。町の喧噪は相変わらず騒がしい。

 僕はキスされたところを触れた。まだ先輩の唇の感触があるみたいに温かく感じた。

 僕は気付いてしまった。いや、気付かされてしまった。僕は果たして龍神先輩のことが……。僕は僕自身に気づかせまいと激しく頭を振った。僕は……卑怯者だ……。

 恐らく初恋の人であろう少女との邂逅は初めてのキスで幕を降ろした。

 僕は空を見上げた。太陽はまだ一番高い場所に到達していない。梅雨は明けたのかも知れないが、僕の心はまだ梅雨のように嫌な天気のままだった。


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