第三章 杉(すぎ)本(もと)瀬(せ)莉(り)奈(な)の遊戯
僕は誰だろうと思い辺りを見回す。知っている声ではない。初めて聞く声だ。
とても勝ち気で元気が良く、そして凛と通る声だ。
しかし、声の主を捜して気付いた事がある。周りの先輩達の反応がいやに薄いということだ。黒神先輩はもう頭を抱えていなかったが、なかば諦めた表情をしている。
「この私を差し置いて、こんな面白い事やってるなんて……」
言いながら、道場の入り口が凄い勢いで開け放たれた。
そして、そのまま黒神先輩の前まで大股で一気に移動する人影が一つ。
少女……? しかもアイドル顔負けの美少女が突然現れたので、僕は吃驚して呆気に取られてしまった。
その少女は黒神先輩の顔をそのまま見上げると、右手の人差し指を何の躊躇いも無く、突きつけた。
「何で、私を、誘ってくれないのよー!」
美少女は大きな声で怒気を顕わに黒神先輩を非難した。黒神先輩は一瞬嫌そうな顔つきをして眉を曇らせる。
「ま、まあまあ、落ち着いてください。杉本先輩……」
黒神先輩は宥めるのに必死だ。表情にいつもの余裕はなかった。
あんな黒神先輩の表情は初めて見る。
僕はいつの間にか周囲にいる、というか避難してきた先輩達に質問した。
「誰なんです、あの人?」
「ああ、そうか。お前が知らないのも無理はねえな。あの人は武侠倶楽部の先輩で、水影氷魔部長の幼馴染み、“わがまま千段”、じゃなく“喧嘩千段”杉本瀬莉奈先輩だ……。お前も気を付けろよ」
近くにいた更科先輩が小声で教えてくれた。僕はこの助言を有効に活用したことはなかった。今回も同様の結果に終わりそうな予感。
僕は黒神先輩と対峙している杉本先輩を改めてじっと見た。
平均的な女子高生より背は高く、染めているのか茶色の髪は短くしているがよく似合う。目鼻立ちは整っており、まるで人形のようだ。
テレビで見たアイドルとも容姿において遜色無し。細身ではあるが、出るところは出ており、プロポーションも抜群である。
ふと杉本先輩と視線が合った。僕は慌てて目線を外す。
ほんの一瞬間、面白い玩具を見つけた無邪気な子供のように、こっちに向かってくる気配を感じた。
「あ、ちょ、ちょっと待って下さい」
黒神先輩は制止しようとしたが、無駄であった。杉本先輩は僕の目の前にくると、
「へー、君が戸田君か」
と、人を値踏みするかのように僕の身体全体をじろじろ見る。
そして、「面白い!」と華やかな笑顔を見せた。
怖いよ、この人……。早く逃げたい、この場から逃げないと大変なことになる!
僕のセンサーが危機を知らせた。
僕はどんな無理難題が飢えた狼のように襲いかかってくるかと想像し、魂の底から身震いした。
「えーと、もう疲れましたし、僕はこの辺で帰りたいと思います」
こういう時は『三十六計逃げるに如かず』だ。某少年誌の有名な主人公も使用した有名な計略だ。逃げるんだよ、スモーキー!
「お、おう。そうだな。気を付けて帰れよ。何せ近頃は物騒だからな」
「はい、今日はありがとうございました! それでは、また!」
僕はそのまま回れ右した。そして、可能な限り全速力で道場から走り出ようとする。
「ちょっと待ちなさい」
背後から低く威圧するような声が耳に勝手に入る。それを聞くと動けなくなった。綺麗な声であるが幾分ドスの効いた声なので、僕はビクッと身体が跳ねた。なまじ声が綺麗なだけにヤバイ。
はわわ、怖いよぉ……。
僕は振り返る勇気と覚悟が出なかった。
「まあまあ、杉本先輩。彼も今日は何か用事があるみたいですから」
黒神先輩が宥める感じで説得している。声の調子が若干、困惑気味に聞こえる。
「むむむ。まぁ、しょうがないわねー」
僕はホッと胸を撫で下ろした。
「……今は見逃すけど後で覚えておきなさいよ!」
「はは、ありがとうございます」
僕は失礼かと思ったが、後ろを見ずに力なく笑いながら答えた。
あ、しまった。まだ着替えてないや……。多少、恥ずかしいが家まで我慢しよう。
僕はシャワーを浴び終わると部屋に戻った。そして、ベッドに身を任せるように倒れると、仰向けになる。
杉本先輩か……。嫌な予感がバリサンだ。あの感じじゃあ、平穏無事では済まないんだろうなぁ。明日から憂鬱だぁ。一難去ってまた一難だぁ。
僕は猫のように口を大きく開けて大きなあくびをした。それから、ベッドに潜り込むと、泥のように眠った。
週末の放課後。
僕は何とか杉本先輩に見つからず学園生活を送ることができた。もしかしたら、僕のことなど忘れているかも知れないと楽観的に考えた。
そうだ! そうに違いない! そうに決まった!
僕はそう思い込むとルンルン気分で帰宅した。部屋に戻ると、録り溜めていたアニメを見る。
ふぁぁ、やべ眠いな……。多少早いが寝るとするか。早寝早起きは三文の得と言うからな。お休みなさい。
夜は優しく、そして静かに僕を安眠に導いてくれた。
澄んだ陽光が僕の顔に優しくかかると同時に、携帯の呼び出し音が鳴った。
何という先制攻撃だ!
僕は心の中で悪態を付いた。そして、誰からかかってきたのか確認した。
携帯電話のモニターに写し出された名前は『神島先輩』の文字。
「なん……だと……!」
いつもはメールでのやりとりに終始している神島先輩が直接電話……?? 急用かな?
僕は逡巡したが出ないのも失礼なので携帯に出た。
「も「あ、戸田君?」」
もしもしと言えなかったのは人生始まって以来の出来事だ。
「私、杉本だけど。今暇よね。これから遊びに行きましょう! と言うことで『方丈』という喫茶店にいるから一人で来てよね。じゃ、約束したわよ!」
杉本と名乗る女の子は怒濤の勢いで捲し立てた。そして、僕の返事を聴かずに電話を切ってしまった。まるで大型台風と大型竜巻、それに盆と正月が同時にきたような慌ただしさだ。
僕は諦めたように大きく溜息をついた。多分、杉本というのはあの時の先輩だろう。
ここで行かなかったら怖い目に遭わされそうだ。そして遅れたら何をされるか解らないので、着替えるとすぐに家を出た。
確か『方丈』という喫茶店は商店街の中にある。ここからだと自転車で、十分弱くらいだろう。
今はすでに六月の上旬。僕はもう梅雨に入ってもおかしくない天気を見て、再度ため息をついた。
商店街までは自転車で十分弱。結構、最速ラップを叩きだしたはずだ。自己ベストを更新したかも知れない。
僕は喫茶店の前に自転車を止めると、扉をゆっくり開けた。カランカランと小気味よく来店を告げるベルが鳴る。
「いらっしゃいませ! お一人様ですか?」
「いや、杉本という女の子と待ち合わせているのですが……」
「あ、戸田様でいらっしゃいますね。杉本様がお待ちになっています。案内しますので着いてきて下さい」
なにあの杉本先輩って有名人? 今、杉本先輩の名前を出した瞬間、委細承知って顔したよ、このウェイトレス。
僕は前を歩くウェイトレスに従う形で後ろに続いた。裁判に向かう犯罪者ってこんな心境なのかな……。
歩きながら中を見渡す。相変わらず人が多い。土曜日の昼間ということもあり、客層は見た感じ学生っぽいのが大半だ。そんな中にちらほらサボリーマンの姿が見える。この『方丈』は昼間は喫茶店だが、夜間帯はバーに変わる。一風変わったお店だ。
『方丈』の奥まで案内されると、ウェイトレスは不意に黒い扉の前で立ち止まる。
「中にお入りになってください。後で注文を伺いに参ります」
ウェイトレスは軽くお辞儀をする。そのとき生じた心地よい香水の匂いが辺りの空気を柔らかい雰囲気に変えた。
僕も思わず首だけでお辞儀を返した。ウェイトレスは目だけで微笑むと、足早に立ち去った。
しかし、僕は立ち去る訳にはいかない。なにせこの後に控えている大ボスとの決戦を思うと、胃が痛くなる。
軽く扉を叩き、重い心持ちで扉を開けた。
「遅い!」
叱責の言葉が空気と僕の心を切り裂いた。うう、やっぱ怖いよこの人。
良く見れば先輩の目の前には半分入ったアイスティーと、おそらくケーキが乗っていたと推測されるからの皿がある。
僕はすぐ詫びを言うと、先輩の前の席を陣取った。
「貴方、涼子さんの事をもっと色々知りたいと思わない?」
先輩は含み笑いをしながら、僕の目を見た。
その後でアイスティーをストローで啜った。
さっきの電話もそうだったけど、いきなりだなこの人……。
僕は意外な言葉にわが耳を疑った。何か不安に煽られる言葉だ。
思案に明け暮れる僕を無視して先輩は話を続ける。
「今日一日、私に付き合ってくれたら、色々と教えてあげても構わないわよ。まあ、もっとも貴方は断らないと思うけど……?」
「確かに悪くない話ですけど……。一体、何が目的ですか?」
「目的? 人聞きが悪いわね。私は貴方に協力しようって言ってるのよ。これでも後輩思いなのよ」
先輩は僕から目線を外さず微笑む。まあ、他意はなさそうだ。信用できるかは疑問だが……。
先輩は大黒様みたいにニコニコ笑っている。しかし、この笑顔は裏がありそうで怖い。
表情を見る限り、嘘は言っていない気もする。かと言って、鵜呑みには絶対に出来ない。美味い話には裏がある。無料より高いものは無し。これがいつの世でも変わらぬ真理だと思う。
確かに僕には龍神先輩に関する知識は残念ながらあまり持ち合わせがない。皆無に近い。
これでは例え、龍神先輩に会えても何を話して良いか解らずに終わるだろう。そうなったら、今までの苦労も水の泡になる。これはどうしても避けたい。
『孫子』も情報戦の重要性を説いている事だ。僕はその誘いに乗っかる事にした。
「今日一日付き合えば、本当に龍神先輩の事を教えてくれるんですね?」
「ええ、私に二言はないわよ。それでは決まりね!」
先輩は勢い良く立ち上がると、残っていたコップの中身を素早く飲み干した。
「ほら、戸田! ボケッとしない。そうと決まれば善は急げだ!」
先輩は僕の手をつかむと、扉を力強く開けた。開けた扉の向こうにはウェイトレスが立っている。きっと注文を取りに来たのだろう。
先輩は急ブレーキをかけた。その女性は無表情だが端正な顔立ち、白い雪の様な肌。世界一の彫刻家でもこれ以上のモノは造り出せないだろうと思われた。杉本先輩と違うベクトルの美少女である。
「あ、瀬莉奈。連れの注文を取りに来たんだけど?」
「おっす! 空さん。悪いけど、今からデートなんだ。またいつものやつで、ね!」
「ん、解った。お代は氷魔から取り立てておく」
「ありがとう! さすがに話が解るぅ! じゃ、またね!」
先輩は軽くウィンクをウェイトレスに投げた。ウェイトレスは慣れたもので、僕達の横を通り過ぎる。後片付けでもするのだろう。
これ以上、振り回されてもかなわないので、慌てて先輩に話しかけた。
「ちょ、ちょっと待って! 先輩。もっとゆっくり行きましょうよ! まだ昼前なんですから、そんなに急がなくても……」
先輩は僕の方をゆっくり振り向く。なにか嫌な予感がするのう。
「ふむ、それもそうだな。まだ日も高い事だし、ゆっくり行こうか」
僕はほっと胸を撫で下ろした。助かったと思いたい。
ふと後ろを見ると、先程のウェイトレスが軽く僕に向かって手を振っている。それは行ってらっしゃいの意味なのか、それとも、逝ってらっしゃいの意味なのか。それを見た僕は乾いた笑顔を浮かべる。
そのどちらの意味でも、結果は地獄が待っているとしか思えなかった。それを察すると、僕は特大級の溜息をついた。
僕たちは『方丈』から出ると、商店街を通り抜けた。一体、どこへ向かうのか。それすらも予想出来ない。
しかし、道行く人のほとんどがこっちを見ていく。
正確には僕、ではなく、杉本先輩に目線を向けているのがわかる。黙っていれば可愛い系というやつだろう。俗に言う残念系美少女。羨望、嫉妬、憎悪、その他様々な負の感情が渦巻き、新たな悪魔を召喚しかねん空気をかもしだしている。あ、この感情は僕に対してね。見ればわかっちゃうんだね。
僕に目線を向ける人は、どんな奴がこんな可愛い子と付き合っているんだ? という興味半分嫉妬半分がおもな成分だろう。みなさん、バファリンを見倣って優しさも含めてください。
目線が突き刺さり過ぎて痛い。これはもう完全に障害事件になるレベル。針の筵とはこんな時に当てはまる言葉だと初めて実感した。
「あー、杉本先輩。一つ聴きたいんですが、これからどこへ遊びに行くんですか?」
先輩はふと立ち止まると、考え込んだ。その後、こちらを見ながら
「おー、そう言えば考えてない。そこに気付くとはやはり天才か……」
と恐ろしく神妙な顔つきで言った。
あ、考えてないんだ……。遊びに行こうと言ったのはあなたですよね……?
僕は少し軽い疲労感を覚えた。駄目だ、この先輩早く何とかしないと……。
しかし、ここは男である僕がリードしなくてはならないのかと考える。ふむ、そんなことはあるまい。僕は悪くない。無理矢理拉致されたのだ。
だが、そんな正論を考えてもこの場から解放される訳でもない。
僕は心の中でため息をついた。
年頃の少女とデートしたことがない僕は圧倒的にデートスポットの脳内データが足りない。情けない事に無難なデートスポットがぱっと思いつかない。
相手の好みに合わせた選択肢が浮かばないのだ。
ここから近くに良い場所はないか? 映画館はどうだろう。嫌、駄目だ。今は面白いのがやってない。それに先輩の性格を考えるに、寝る可能性が高い。ならば……。
僕は一番古典的なデートスポットを提案する事に決めた。
その名は『遊園地』。古来よりあの場所で、様々なカップルの悲喜劇が行われているパワースポットである。訪れるカップルによって、陰と陽の顔を見せる恐るべき魔空空間! それこそが『遊園地』の実態である。素人にはお勧めできない。
「では遊園地にでも行きませんか? 天気も良いですから」
「お! それだ!」
杉本先輩は破顔一笑同意してくれた。
行く場所は遊園地と決まった。
近場で遊べる遊園地となると『ドラゴンランド』しかない。
ドラゴンランドとは龍神財閥が主催する総合アミューズメントパークで、『白龍学園生割引』なる特典もある。お小遣いも残り少ないので、この特典は正直貧乏学生には有り難い。
電車に乗って行けばドラゴンランドはそう遠い距離ではない。
最寄り駅から数えて五つの駅を越えて行けば到着する。ドラゴンランドの従業員の教育も行き届いており、都内でも有数の優良スポットだ。
僕たちは最寄り駅に向かうと切符を買って電車に乗った。
ドラゴンランドに到着した僕たちはもうお昼近いことに気がついた。僕も小腹というより中腹が減っているレベル。
「もうこんな時間なんですね。混まない内にお昼にしますか?」
僕は時間を確認して、先輩の方を振り向きながら尋ねた。腹が減っては戦はできぬと言うからな。
しかし、先輩はどこか一点を見つめたまま、固まっていた。
「先輩? 杉本先輩! どうしたんですか?」
僕は少し大きめの声で誰何した。
先輩は小さくビクッと身を震わせた。それから全てをリセットしたかのようなな、明らかに不自然な愛想笑いを浮かべた。
僕が訝しい表情をしていたのを感じとったのか、明るい声を出す。
「な、なに? あ、ああ、そうお昼よね! じゃあ、さっさと食べに行きましょう! それから遊び倒しましょう! 私、もうお腹ぺこぺこなのよ」
「はあ……。じゃあレストラン街に行きましょうか。あそこなら和洋中何でも揃ってるみたいですから」
僕は先輩の言動に多少の違和感を感じながらも、ドラゴンランドの全体地図を見ながら言った。
先輩は一回大きく大袈裟に頷いた。僕たちは肩を並べながら急いで歩いた。全体の地図を見て何度も思うが相変わらず広すぎる。
なんとかレストラン街につくと、同じことを考える人が多いのか結構混んでいた。
だが、早めに決断したのが良かったのか、イタリアンレストランにちょうど二人分の席が空いていた。ご都合主義的展開だが待たされるよりかは幾分マシだ。
どうも向かい合わせの席しか空いてなかったみたいだ。ふと後ろを見ると長蛇の列ができている。ラッキー。今日は運が良いかも知れない。
「先輩。何食べるか決まりました? もうそろそろ店員呼びますけど」
メニュー表から目線を外して、僕は先輩に目を移した。
「私はこのボロネーゼのサラダセットにする」
「解りました。すいませーん、注文良いですか?」
僕はちょうどタイミング良く隣を通り過ぎようとしていたウェイターを捕まえた。
ウェイターにボロネーゼのサラダセットとナポリタンを頼んだ。ウェイターは注文を復唱すると、その場を離れた。
しかし、こう向かい合わせに座っているとなんか緊張するな。僕は自分の緊張を解すように先輩に話し掛けた。
「飯を食べ終えたら、まずはどこに行きますか?」
「そうねぇ、まずは定番の絶叫系かしらねー」
絶叫系! 僕はその言葉だけは聞きたくなかった。それを聞くだけで叫び出したくなる。まさに絶叫系!
「い、いや、まだ慌てるような時間じゃないです」
「ん? 慌ててるのは戸田くんじゃない? あ、解った! んふふ~。さては絶叫系が苦手なのね。それは是非とも乗りたくなった」
先輩は某世紀末漫画に出てくる悪党みたいな笑みを浮かべる。僕はこの世で一番不幸な人間になった感覚に陥った。
「ほ、ほら、昼飯を食べた後で絶叫系に乗るのは体に良くないって、昼の雑学番組でもやってましてですね」
「お前はなにを言っているんだ」
先輩は半分呆れた顔をして笑った。
しばらくすると、頼んだ注文の品が運ばれてきた。ボロネーゼとは、日本名でミートソースの事である。なら、ミートソースと書けば良いのに、といつも思うのは僕だけだろうか。
僕たちは腹が減っていたせいもあって、素早く平らげた。空腹は最高の調味料である。と誰が言ったのかは知らないが、その意味を改めて実感した。
食べたあと、会計を済ませて店を出た。天空に輝く太陽がやけに眩しく、そして暑く感じた。絶好の行楽日和だ。
「腹もふくれた事だし、遊ぶぞー!」
先輩は元気いっぱいに伸びをして、駈けだした。
入園した時は何だか変だったけど……。うん。杞憂だったな。
あの事は僕の考えすぎだと思うことにし、忘れることにした。今の先輩を見ていると、それが正解の様な気がした。
「おーい、戸田! 早く来ないと置いていくぞー! 絶叫系で僕と握手!」
「あ、待って下さいよ! それにここは後楽園遊園地じゃないですよ」
先輩は太陽に負けないくらい明るい笑みではしゃいでいる。僕は駆け足で先輩に追いついた。
「戸田、始めはこれに乗ろう!」
先輩が立ち止まり、目線でこれに乗るぞと促した。僕はおそるおそる目線を上げた。
そこには《絶叫度悪夢級の面白さ!》と書かれた立て看板が目に止まった。それを見た僕は動きが止まった。心臓も止まったかと思う程だ。
先輩はこの上がない、と言うほどの笑顔で僕を見ている。
「ゲェー! これはこ、こここここ孔明の罠だ! まままま、待て! おおおおお落ち着け!」
「お前が落ち着け」
「先輩! これは何かの冗談ですよね? 人が悪いなー、ははははは」
「冗談? 私は冗談とナメクジは死ぬほど大嫌いなんだ。ほら、お前も男なら覚悟を決めろ!」
「嫌だ! こんなの乗ったら確実に死ぬ! 魂が口から出る!」
「全く大袈裟な奴だな」
先輩は大きなため息をついた。僕は蛇に睨まれた蛙の如く、金縛りにあったように動けなかった。
突如、先輩が何か考えついたのか意地の悪い表情になった。
「良いのかな? そんなこと言って」
「?」
「涼子先輩のこと、教えるという約束は無かったことになるよー」
「!」
「ほらほらどうする、どうする?」
先輩は楽しげに節を付けて歌うように言った。
僕はメリットとデメリットを考えた。熟考の末悪魔に魂を売った。人間の意志って意外と脆い。
「うう、乗ります」
「んんー? 聞こえんなー? そんな小さな声で私の心を動かせると思ったのか?」
「乗ります! どこへでもついて行きます!」
「良い返事だ。私は聞き分けの良い後輩を持って嬉しいよ」
先輩は本当に楽しそうだ。
お前の血は何色だァ!
僕はそう叫び出したいのを我慢した。
強制的に戦争へ連れて行かれる兵士の気持ちが少し解った気がした。
「あれから三時間後、僕たちは随分と遠い町へ来たやうな気がします。晴れ渡る空、爽やかな風、広大な海辺、助けて下さい。もう限界です、幻海和尚です……」
「おーい、戸田! 私が悪かったからもういい加減帰ってこーい!」
何か懐かしい声が聞こえる。あっちに行けば楽になれるのかな? 僕は歩き出そうとしたところを急に引き戻された感じがした。
「はッ! あ、センパイ、ズイブントヒサシブリデスネ」
「魂半分戻ってきたな! ならば! この杉本流喧嘩殺法が究極超奥義で残りの半分を奪い、もとい、戻ってこさせよう!」
先輩は数回深呼吸をする。その後、先輩の目がカッと見開いた。それと同時に無数のビンタが僕の頬を急襲する。速すぎて手の動きが残像をつくった。まるでマシンガンの様なビンタだ。
「あ、先輩。僕は一体……?」
「戻って来たか。少しはしゃぎすぎたな。向こうに日陰になっているベンチがある。あそこで休憩を取ろう」
「はい、ありがとうございます」
僕は礼を言って立ち上がった。
いててて、何だ? 何故か頬が痛い。知らないうちに壁にでもぶつかったのだろうか……。
僕は先輩に寄り添われて日陰にあるベンチへ腰掛けた。端から見ると絶好のシチュエーションなんだろうがそんなことはどうでもいいんだ。重要なことじゃない。
悪夢級と地獄級のジェットコースターに乗ったのはかろうじて覚えている。記憶が恐怖で焼き付いている。
しかし、次に乗ったジェットコースターがどんな恐怖を僕の精神に植え付けたのか、完全に記憶から抹消されている。
どんなに思い出そうとしても無理な事が解ったので、その内僕は考えるのを止めた。
僕がベンチで座って一息ついていると、不意に後ろからの不意打ちに驚いた。急に冷たい感触が左右の頬に感じたからだ。
慌てて振り向くと、缶ジュースを両手に持った先輩がにこやかな笑みで立っていた。
「ほれ、ジュース。どんな種類が良いか解らなかったから、適当に買ってきてやった」
先輩は僕の頬に押し当てた缶を目の前に差し出した。僕はお礼を言ってそれを受け取った。
先輩はまるで羽が生えたかの様に、ベンチを軽々と跳び越えた。それからゆっくりと僕の隣に座った。
「いただきます」
僕はプルタブを軽快に開けて飲んだ。冷たさが喉に心地良い。
だが、そのとき運悪くジュースにダイレクトアタックをかまされた。気管にジュースが入ったのである。僕は思いっきりむせた。泣きっ面に蜂とはこのことだ。
「おいおい、平気か? そんなに勢い良く飲むからだ」
先輩は笑いながら僕の背中を摩った。しばらくして僕はようやく落ち着きを取り戻すことができた。
「落ち着いたか?」
急に先輩は屈託の無い笑顔で僕の顔を覗き込んだ。
こういう不意打ちは止めて欲しいものだ。僕は心臓の鼓動が激しく脈動するのを感じた。恐らく顔も真っ赤になっているだろう。
先輩としても悪意はないのだ。ただ僕の事が心配で顔色を見るために覗き込んだだけだ。
顔が近い近い。
僕は落ち着くために少し先輩と距離を取った。そして、気持ちを落ち着けるために一回深呼吸した。
「も、もう平気ですよ! それにすいません。せっかく遊びに来てるのに、無意味に時間を使わせてしまいまして……」
「いや、良いんだ。短時間でジェットコースター三連続はさすがに私もやりすぎた。それに独りで遊んでもつまらないからな」
先輩はそう言いながら、目線を落とす。僕はその瞳と口調に、一抹の寂しさを感じた。
一瞬の間を置いて、先輩はバネが跳ねる様に立ち上がる。そして、全身で僕の方へ振り向いた。
「それじゃ、最後にあれ乗って帰ろうか」
先輩は無邪気な子供の様な笑顔で指差した。僕は恐る恐る指差した方向を見た。そこには巨大な観覧車がゆっくりと回っている光景が目に飛び込んできた。
僕と先輩は超弩級観覧車に乗った。
最上段から地上までの落差は二百メートルはあるという。最上段の眺めは格別で某大佐の気分が味わえるという噂だ。それに加えて町を一望出来るので、恋人達の最後の締めにも良く利用される人気のアトラクションだそうだ。リア充爆発しろ!
僕たちが来た時はタイミングが良く長蛇の列が出来る前であった。その証拠に後ろにはすでに列ができはじめている。
しかし、全然並ばなかったわけではない。大体十五分くらいは並んだ。観覧車のゴンドラが来ると、係員の人がゴンドラの扉を開けた。先輩は待ちきれないと言わんばかりに、急ぎ足で中へ乗り込んだ。
観覧車は大体三十分かけて一周する。もし、最上段で止まったらと僕は乗るといつも考えてしまう。しかし、今まで止まったことはないので、今回もやはり杞憂に終わるだろう。
ゴンドラは僕たちを乗せて、順調に、そしてゆっくりと上がっていく。あと十分もすれば地上とは完全な別世界へと案内してくれるだろう。このゴンドラの中も言わば密室という別世界であり、乗っている人は外の世界とは完全に切り離されるのだ。
僕はまだ少し疲れていたので沈黙を守っていた。先輩もそんな僕を気遣っているのか黙っている。
僕は唐突に去年の元カノとの最後のデートのことを思い出した。そう言えばあのときも観覧車に乗ったっけ? 僕は横目で景色を見ながら、無意識に寂しく微笑んでいた。
「どうした? ははぁ。その顔はずばり元カノのことを考えてるな」
先輩は真剣な顔つきで指摘した。僕は心中を言い当てられて心底驚いた。
「な、なんで、わかったんですか!?」
「女の勘よ、勘。ふうん、それにしても戸田くんて、バツイチなんだ。で、別れた理由はなになに?」
先輩は嫌な笑顔を見せて食いついてくる。おお、目が輝いてる。それにしてもバツイチって言わないで下さい。バツイチって……。
「いや、それに関してはノーコメントで……」
僕は少し先輩から目線を外した。別に元カノとは喧嘩別れをしたと言うわけではない。が、笑い飛ばすほどにはまだ吹っ切れてもいない。
「まぁ、その件についてはおいおい聞くとして……。今日はありがとう。付き合ってくれて」
急に先輩が意外な言葉を口にする。僕は外していた目線を先輩に戻した。
先輩の優しげな微笑と落ち行く太陽の日差しが丁度良いタイミングで重なる。僕は何か崇高な芸術品でも見ているのかと錯覚した。
あえてこの芸術品に題名を付けるとしたら《天使の微笑》だろう。
「い、いえ」
僕は言語機能障害でも起こしたかと思うほど、間抜けな返事をしてしまった。
しかし、先輩は僕の間抜けな返答を気にすることはなかった。
再び訪れる沈黙。二人の間を支配する高密度な空気。
「そう言えば先輩のご両親は何をしてるんですか?」
「え?」
先輩の表情が突然曇る。まるで積乱雲の如き曇り方である。
しまった! 話題を間違えたか。
言葉というものは放たれたが最後、相手によっては取り消しができない。銃から放たれた弾丸の様なものだ。
「えーと、すいません! 余計な事を聞いてしまったみたいですね。忘れて下さい!」
僕は怒られる前に平謝りに謝った。何気ない一言で相手を怒らせてしまう時もある。僕は不注意な自分を呪った。
「あ、ううん、気にしないで良いよ。今は天涯孤独の身の上なんだけどね」
先輩は僕から目線をそっと外した。そしてどこか懐かしむように外の風景を眺める。
「それは……」
一体、どういう事ですか? と聞けなかった。
そして、僕には聞ける資格というものも持ち合わせていなかった。
先輩は相変わらず微笑を保っている。だが、心なしか受ける印象が違っていた。どこか痛々しい。
先輩は意を決した様に目を閉じるとゆっくりと口を開いた。
「……私ね、元々ここの町に住んでたんだけど。両親の都合で五歳の時に、静岡の方へ引っ越したの。氷魔たちとはここでの幼馴染みだった。あの時は本当に楽しかった。ずっとこんな時間が続くんだと思ってた。でも、あの頃の記憶はもう今ではおぼろ気にしか思い出せない」
先輩は言葉を続けようとしたが言葉が出てこないのだろうか。多分、ここから先は辛い記憶へとつながっているのだろう。
僕はここで話を止める事も出来た。しかし、何故か不思議と口を差し挟む事が出来なかった。
先輩の目には今にも決壊しそうな程、涙が溜っている。だが、奇跡的にそれは零れることはなかった。
先輩は何とか喉から口へと迸るように言葉を絞り出した。
「……五年前の春、ちょうどゴールデンウィーク中でね。私は中一になったばかりだった。両親と家族旅行をすることになっていたの。それは行き道での出来事だった。お父さんが運転する車に暴走した車が突っ込んできてね。あっという間だった。避ける事も出来なかった。相手の車とお父さんの車は両方とも大破。警察の人は相手の居眠り運転だろうって言ってた。両親は即死、相手の運転手も即死だったそうよ。私だけ……」
涙を堰き止めていた堤防はついに決壊した。残りの話は聞かなくても解る。先輩がここにいる以上、そういう事なのだ。
僕は黙ってポケットからハンカチを取り出す。少し離れているので立ち上がり、ハンカチを差し出した。
「先輩、これ使ってください」
先輩は黙って、受け取ると涙を拭いた。
「……ありがとう。それから叔母夫婦に引き取られて、三年前に白龍学園高等部の編入試験を受けて合格したの。バイトしながら通おうとも考えたんだけど、氷魔たちに偶然出会い、住み込みで働きながら通ってるの」
最後は落ち着きを取り戻したのか、先輩の表情には少し明るさが戻ってきていた。
「でも、駄目ね。もうとっくに両親の死を克服出来たと思ってたのに。これに関しては泣かないって決めてたのに……」
先輩の頬に流れる幾筋の涙。それは陽光を受けて反射している。先輩は短く嗚咽を漏らした。
ああ、そうなのだ。先輩はただ寂しいだけなのだ。孤独感を味わっていたのだ。だから、あのとき仲間はずれにされたと感じ、怒っていたのかも知れない。
僕は不謹慎にも、その涙を見て美しいと感じてしまった。ずっともっと見ていたいなと思った。
先輩はひとしきり涙を流すと、心が軽くなったのかいつもの笑顔になった。涙が辛さや悲しさといった負の感情まで押し流してしまったと信じたい。
「悪い。ハンカチは洗って返す」
先輩は申し訳なさそうな顔で言った。僕は「気にしないでください」と慌てて手を振る。
観覧車はそろそろ頂点まで達するところだ。残り半周で無事に地上へと着くだろう。
しかし、僕の予想も虚しく敗れ去ることになった。なんと強い突風が急に吹きつけて、観覧車のゴンドラ部分を揺らした。
比較的安全だと思われていたアトラクションが、一瞬で危険なアトラクションに早変わりした。
「うおっと!」
僕は思わずたたらを踏んだ。しかし、人間の力など自然の前では無力であることを知らされる。何故なら、僕はたたらを踏んだ反動で大きく前方に向かい倒れ込んでしまった。
やばい! このままではどこかにぶつかる! 僕は次にくる衝撃を予想して体を強ばらせた。
僕はとっさに目を強く瞑った。だが、固い物にぶつかる衝撃はこなかった。それよりかなにか柔らかい物に唇が当たっている。手の感触はおそらくゴンドラの窓だろう。僕はおそるおそる目を開けた。
目の前には先輩の二つの目がこれ以上は開かないだろうと思われるほど、大きく見開かれていた。僕と先輩は今の状況を把握するまで金縛りにあったように動けなかった。手の物は窓に、唇の物は唇に。なんだっけ、この言葉……。ああ、キリストの言葉だっけ……?
「いや、あのその、これは事故です。アクシデント! 不可抗力です。でも、すいませんでしたァー!」
僕の脳はまだ混乱していたが、怒濤の勢いで言い訳なのか謝っているのかわからない謝罪を本能的にしていた。そして、素早く先輩から離れた。文字通り飛ぶように。先輩から離れると、そっと表情を窺う。
先輩は顔を真っ赤にしてまだ硬直している。僕はというと、秘孔をつかれたように心臓がばくばくいっているのを感じていた。
「お客様には大変ご迷惑をおかけしております。さきほど強風が吹いたため、安全確認をしておりましたが、ただいま安全を確認できましたので再運転を開始いたします」
アナウンスの声がゴンドラ内に響いた。先輩はその声に正気を取り戻したのか、唇を指先で触ると、こちらをきっと睨み、目を逸らし外を見た。顔はまだトマトのように真っ赤だ。
怒っているのかどうか横顔では判断できない。
「あ、あの……、先輩?」
僕はいかなる非難を浴びる覚悟をすると、先輩に話し掛けた。
「ま、まあ……。さっきのは確かにお前の言う通り事故だ。お前のせいじゃない。だから怒ってはいない……。が」
先輩は僕に答えるというより、自分に言い聞かせるように複雑な表情で呟いた。
僕は少し胸を撫で下ろした。良かった……。最悪、この場からボディスラムで地面まで落とされるかと思ったよ。
はあ、たすかっ……、え?! 僕が気づいたときは先輩の鉄拳が深々と腹に突き刺さっていた。
「……一発、殴らせろや……」
ラキスケからの鉄拳制裁。教科書通りのお約束である。僕はその場にくずおれた。
このあと、観覧車はそ知らぬ顔で、僕たちを地面まで送り届けてくれた。
観覧車から降りた僕たちは出口に向かって歩く。先輩は僕の少し先を歩いている。
「あ……」
先輩の小さな声が聞こえた。僕は先輩の方を見ると小さな塊がぶつかる瞬間だった。その反動で思わず小さな塊がよろけて尻餅をついた。見れば小さな女の子だ。
尻餅をついたと同時に手に持っていたピンク色の風船が小さな錠から解放された喜びと共に、天空高く舞い上がっていく。
僕は呆気に取られて反応が一瞬遅れたが、思わず駆けだしていた。助走をつけて、ジャンプし、風船に付いている紐をつかもうと跳んだ。
届け!
僕の祈りも虚しく風船の紐に触っただけである。風船は僕を嘲るように天高く昇っていく。
くそっ! 駄目か!
下の方からハッと小さな気合いが聞こえた瞬間、風船の紐は白い手に捕縛されていた。
え? まさか、誰だ?
僕は白い手の持ち主を目だけで確認した。そこには美しき白い翼を背中から生やした先輩の姿があった。
白い……つば……さ?
先輩は悪戯っ子がするようにお茶目な笑顔を見せた。その一瞬あとで無事に着地をすると、僕は先輩の背中をまじまじと見つめた。先程まで見た物の存在を確認したかったからだ。
しかし、僕の予想に反して、そこには白い翼などなかった。果たして、僕の見間違いだったのだろうか?
そこにあるのは先輩の華奢な背中だけだ。先輩は女の子に風船を手渡した。女の子は呆然とした表情で固まっていた。超人的な跳躍を間近で見たのだ。無理もない。ようやく女の子が声を絞り出して礼を言った。
「お、お姉ちゃん、ありがとう!」
「もう離すんじゃないよ」
先輩は天使の様に優しい笑顔を見せて、ウィンクした。女の子の両親も先輩に向かってお礼を何度も言っていた。
先輩は頬を掻きながら、照れ笑いを浮かべ、大袈裟に手を胸の前で振っている。
「さあ、行こうぜ」
先輩は僕を見ると明るい声で促した。先輩と僕は集まってきた野次馬から逃げるようにその場を後にした。
僕たちは一息つくために売店でソフトクリームを購入した。
「お前、意外と優しいんだな」
「なんか体が勝手に反応したといいますか……」
ソフトクリームを片手に先輩が僕に向き直る。
僕はあのとき見た白い翼に関して聞こうと思ったが、僕の見間違いである可能性もあったので止めた。
僕は何気なく目線を上げて、空を見た。
不意に後ろから声がかかる。僕は何気無く振り返ると三人の少女がこちらに手を振っている。
はて? 誰だ? と僕が首を傾げていると三人の少女がこちらへ向かってくる。
「よお! お前達もここへ来てたのか?」
その声には聞き覚えがあった。いや、声だけではない。見知った顔が揃っている。
「あ、更科先輩たちじゃないですか。どうしてここに?」
「いや、俺たちも暇だったんでな。ここへ遊びに来たら偶然お前たちを見かけてな」
更科先輩は破顔した。更科先輩の左右には神島先輩と更科さんがいる。これでは両手に花状態を通り越して、お花畑だ。
女性陣はすでに世間話を始めている。
「実を言うとな」
更科先輩は僕の側まで来ると、僕に聞こえるくらいの声で話し掛けてきた。
「陽子が血相を変えて飛び込んできてな。どれくらいの勢いかというと、時代劇で殺人が起きた時に“てーへんだ、親分!”と駆け込んでくるみたいにな」
更科先輩は思い出したのか苦笑した。僕もその場面を想像して苦笑する。
「後はお前達を捜してたんだ。ドラゴンランドに行くのは大体予想は出来たんだがこの人混みだろ? おまけに携帯電話に連絡しても全く出やがらないし」
それを聞いて僕は慌てて携帯電話を確認した。
しまった! マナーモードにしてたので気付かなかった……。マナーモードにすると、僕はたまに気づかないときがある。友達にも注意されることもしばしばだ。おそらく杉本先輩と一緒にいたので変に緊張してたのも原因の一つだろう。
僕は更科先輩に謝った。更科先輩は軽く手を振って「気にすんな」と言った。
「ま、見た感じ困ってる風には見えなかったんでセーフだな」
更科先輩は心底ホッとした顔つきで言った。
たしかに杉本先輩はアンチェインな人だけど、僕にはそんなに危ない人には感じられなかった。
「いえ、多少強引でしたが結構面白かったですよ。それに意外な一面が見れましたし」
僕の言葉が予想外だったのか、更科先輩は少し呆然としている。そして突然笑い出した。
「そうかそうか。いや、それなら良いんだ」
更科先輩はひとしきり笑うと
「ま、これからは俺たちも一緒に回るからよろしくな」
と同行を申し出た。僕たちはこれから帰るところだったが観覧車で休憩できたので、体力と精神力も回復していた。それに大勢で遊ぶのも面白いだろうと思い、申し出を受けることにした。
「おーい、次はどこ行く?」
更科先輩は女性陣に向き直ると、軽く問いかけた。
「あー、久しぶりに遊んだなー」
「それはあれだけ暴れればストレス解消になるでしょうよ」
「杉本先輩は毎日暴れてるでしょうに」
「あー? 栄二、何か言ったか?」
杉本先輩は軽く言葉だけで脅した。顔は笑っているが、声は笑っていない。更科先輩は乾いた笑いで逃げた。
あれからビデオの早送りみたいに、僕たちはハイペースでアトラクションを回った。
はー、正直、疲れたけど、楽しかったな。
気付けばもう夜の帳が降りている時刻だ。
更科先輩の提案でこれから食事にでも行こうという流れになっている。
僕は杉本先輩がいつの間に横に並んで、僕の顔をじっと覗いているのに気付いた。吃驚した僕は、思わず後ずさった。
「私はお前が気に入ったよ。そう言えばお前は友達から何と呼ばれているんだ?」
「え? ああ、愛称の事ですか? それなら《イチ》と呼ばれてますけど」
「《イチ》か。じゃあ、これから私もお前の事をそう呼ばせてもらうよ。文句はないよね。あのとき、私の初めてのキスを奪ったんだから」
僕はその言葉に驚き、静かに微笑む先輩を見た。これは承知せざるを得まい。
「あ、そ、それと私のことは《瀬莉奈》と呼びなさい。特別に許してあげる」
杉本先輩は相変わらず脳天気に言ったが、その顔は照れ臭いのか少し赤らんでいた。
月は雲間に隠れて、杉本先輩の愛らしい表情を覗き見るのを止めた。
こうして我が儘で自己中心的な愛すべき先輩と僕のデートは終わった。
僕は家に帰った時に家族へのささやかな感謝の気持ちとして、お土産を買った。
これはやはり瀬莉奈先輩の話を聞いた影響だろう。
そのあと、瀬莉奈先輩から涼子先輩の話を聞き忘れたことに気づいたのは、ベッドに入って数分後のことであった。




