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白龍学園  作者: 竜牙堂
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第二章 更(さら)科(しな)栄(えい)二(じ)の挑戦

 神島先輩のお題をクリアしてから十日ほど経った五月下旬のこと。

 僕は休憩時間中に廊下でばったり会った更科先輩に呼び出されていた。

 と言っても神島先輩と何かあって呼び出された訳ではない。いや、ほんとだよ? あれ以来、ときどき神島先輩とはメールでやりとりをするくらいで、良き先輩後輩の間柄を保っている。

 神島先輩のお題をクリアしたので、次は更科先輩の難問という訳である。

 更科先輩の背は神島先輩より少し高い程度。筋肉質で大柄でもない。いや、容姿的には美少女が男装している様に見える。言わば男装の麗人でも通じるレベル。むしろ男の娘まである。

 だが、何故か彼からは大きな威圧感を受ける。

「明日から俺の家の道場で更科流古武術の稽古をしてもらう。これが俺からの試練だ。期限は一週間。別に来なくても良いが、その時は失格だぜ」

「あ、それは別に構いませんが、更科先輩の家はどこにあるんですか?」

「あれ? 知らなかったっけ? 陽子の家の隣だよ」

 更科先輩は首を少し傾げながら答えた。陽子というのは神島先輩の事だ。神島先輩の家には伺ったことはないが、一回教えてもらった覚えがあった。

「あ、神島先輩の家なら一回教えてもらいました。でも、行った事ないですよ」

「まあ、大丈夫だよ」

 そう言って更科先輩はスマホの番号とメールアドレスを教えてくれた。

 もし、迷ったら連絡しろということだろう。僕は教えられた番号とメアドをガラケーに打ち込む。僕のガラケーを見ても驚かないとは更科先輩って良い人かも。

 僕と更科先輩は次の授業があるのでお互いのクラスに戻った。


 その翌日。

 授業がはけてから、直接更科先輩の家に向かう。

 中等部の時に授業で使うからと買わされた柔道着もあらかじめ持ってきた。少し荷物が増えたが家に取りに帰るのも面倒だったので都合が良い。家を出る時、妹の知美が「お兄ちゃん、柔道部だった?」と小首を傾げたが問題はない。

 学園から歩いて十数分の所に更科家はあった。一軒家の二階建てである。

 見た感じ古風な趣さえ感じられた造りだ。神島先輩に聞いた話では元々京都に住んでいたのだが四年前にここ東京へ引っ越してきたらしい。

 そして白龍学園中等部へ転入、今に至ると言うわけだ。若干端折ったが、大筋はだいたい合ってるはずだ。あの神島先輩から聞いた話をさらに省略したのだ。間違っていても僕の責任じゃない。

 結構な大きさの木の門である。その両脇に木の柱があり、向かって右側の柱の中程にドアチャイムがついていた。

 僕がドアチャイムを押すと軽快なブザー音が鳴った。数秒程待つと門が開いて、更科先輩が顔を出した。そして、僕の顔を見るなり、

「おお、よく来たな! 入れ」

 と勢いよく僕の右腕をつかんで中に引っぱり込んだ。凄い力で一気に引っ張られたので、前につんのめりそうになった。

「ちょ! 先輩。待って」

 僕は慌てて多少、不格好ではあるが体勢を整えた。後ろを見ると、一体いつ閉めたのか、門は堅く閉ざされていた。不思議と閉まった音は聞こえなかった。

 玄関がある方に向き直ると、先輩が僕の前に立ってすでに歩き出している。

 僕は吃驚した。驚きの速さだ。残像だとか超スピードとかそんなチャチなもんじゃねぇ。目に映らない速さ。まさしく武術の達人を感じさせる動きだ。

「道場へ案内するぜ」

 先輩はこちらに振り向きもせずそう言うと、玄関に向かって歩いていく。僕は置いていかれないように先輩の後に続く。

 数歩進むと左手に脇道がある。先輩はその脇道に迷いなく入っていく。

 どうやら目的地は玄関からいくのではないらしい。脇道から中庭を通り、離れの屋敷に向かうのだろう。離れとは言っても、そんなに遠い訳ではない。そこに道場があるようだ。

 道場はそこそこ大きく見える。

 僕は先輩の後に従い、道場の手前まで来る。道場の入口は開いていたので中は遠くからでも丸見えだった。道場の中を見ると畳が八畳敷いてあった。

「へぇー結構、広いんですね」

「そうか? まあ弟子は取ってないからこれ位で丁度良いんだよ」

 先輩は僕の言葉に反応して説明した。

 何となく中等部の時にやった柔道の授業を思い出した。当たり前であるが、規模は学園の武道場の方が大きい。しかし、これが普通なのか、それとも狭いのか、他の道場を知らない僕には比較出来なかった。

 先輩は道場に入る前に、奥にある神棚に向かって一礼してから入った。僕もそれを真似て一礼してから道場に入る。

 その後は着替えタイムだ。ふと見るとはなしに見ると先輩も着替えを始めている。

 僕はその姿に妙な背徳感を覚えた。

 いけない。いけない。僕はノーマルなんだ。先輩は男、先輩は男……。僕は暗示をかけるように呟いた。これ以上はいけない!

 僕はたどたどしい手付きで柔道着に着替える。柔道着なんて中等部の体育の授業でしか着ることがなかったので、正直、帯の結び方はうろ覚えだ。多分、これで合ってるはず……。

 着替え終わったので先輩を見るとすでに道場の壁を背に正座をしている。僕はそそくさと先輩の前に行き正座をする。

「お願いします」

 とどちらともなく一礼する。向かい合っての一礼だ。この辺は柔道の授業で習ったのでまだ覚えている。

「まず覚えておいて欲しいのは、更科流古武術は一子相伝であるということ。本来なら他人に教えることはない。このことは親父に許可を貰っているので安心してくれ」

 一子相伝……漫画やゲームなどで良く聞く単語だ。家伝の武芸というものだろう。なんかこう響きが格好良いな。

 だがしかしだ。それよりもなによりも最後に言われた安心してくれの方が不安を煽る。一体、何に対しての安心してくれなのだろう。先輩に聞くのも怖いので聞くのを止めた。

「最初にこの技をやってもらおう」

 先輩がゆっくりと立ち上がる。先輩に促されて僕も立ち上がった。

「この技はわが流儀では、初歩の初歩。手ほどき用の技になる」

 先輩と僕は道場の真ん中で互いに一礼する。先輩は左手をおもむろに出した。

「俺の左手を思いっきり握れ」

 僕は先輩の言う通り出されている手首をがっちりとつかんだ。

「手首をつかまれる場面で役立つ技だ。勿論、自衛の手段にもなる。遠慮せずに思いっきり握れ」

 僕は力を込めて先輩の手首を握った。先輩顔を見ると苦痛の表情一つ浮かべずに涼しい顔をしている。いや、余裕の笑みさえ浮かべていた。

 強く握っているのに、力が逃がされている? 握りきれない、いやむしろ握らされている不思議な感覚。

「どうした、それが精一杯の力なのか? 本当に強く握ってるのか?」

 更科先輩は挑発するように言う。

 僕は短気な性質ではないがさすがに少し腹が立つ。

 そこでさらに力を加えようと全身全霊の力を手に込めた。

 次の瞬間、先輩は僕の手に触れたかと思うと、蜘蛛の糸に絡まった蝶が、華麗に脱出するように簡単に抜けてしまった。

 僕は唖然とした表情のまま立ち尽くした。一切、力を抜いていない。その証拠に、そこには先輩の手首がないのに、そこに手首があるかのように拳を握りこんでいた。

 あれ、おかしいな? 一瞬、何をされたのか解らず脳内は疑問符だらけになる。

 刹那の間、僕の身体は浮遊感を味わっていた。そのあと間も置かず畳へと衝突する。全てが数秒間の出来事。気付いたら柔道の横受身を無意識に取っていた。

 いてて、芸は身を助けるとは本当だな。どうやって投げられたのか、思い返しても解らない。

「さすがに手加減したから受身は取りやすかっただろ? さっきのが真剣勝負なら受け身を取らせない投げ方をするけどな」

 先輩は僕に向かって軽く説明しながら微笑む。僕は笑顔を返せるほど頭の整理が追いついていない。

 これで手加減……? 一体いつ投げられたのか解らなかったのに……。いや投げる前兆すら気づかなかった。僕は本気で投げられた場面を想像する。背筋に寒いものが走った。

 先輩はまだ倒れている僕の手を握り引っ張り起こしてくれた。その行為に対し僕は礼を言った。

「さっきの技は《初伝の一 籠手取り》と言うんだ。合気道でいうところの《小手返し》とほとんど同じ技だ」

「はあ」

 合気道の技名も名前だけしか知らないので、僕は生返事しか返せなかった。

「最終的にはこの技を俺にかけてもらう。どんな形であれ、投げることが出来れば合格と認める!」

 先輩は声高らかに宣言する。それを聞いた僕はまた暗雲に包まれた気持ちになる。どうやら今回も簡単にはいかせてもらえないらしい。

 僕は神様に嫌われてるんじゃないだろうか?

「今回は最終的にこんな技をやるよ。と言うだけだ。教えてすぐ出来たら天才だよ」

 先輩は軽快に笑った。

「今日は初日だし、最低でも受身を覚えてくれ。受身は自分の被害を最小限にするための技術だ。手を抜くなよ。まず受身には大まかに分けて《前受身》《後受身》《横受身》《回転受身》の四種類ある」

 先輩はそれぞれ実践しながら丁寧に教えてくれた。僕も見よう見真似でやってみた。

 これは思っていた以上に難しいぞ。特に回転受身は先輩のように綺麗に出来ない。斜めに進んでしまう。

「回転受身は柔らかく、例えるならボールが平らな地面に転がるようなイメージだ。受身で最も重要なのは自分が怪我をしないようにすることだ。最低でもこちらの被害を最小限に止めれば良い」

 僕は回転受身を根気良く何回も続けた。道場の端を何周も回った。いつもより多く回っています。目もいつもより多く回っています……。

「今日はここまでにしよう」

 先輩は僕に向けてタオルを放って寄越した。

「あ、ありがとうございます」

「最初にしてはなかなか筋が良いな」

「そうですか?」

「おう、明日もまた頑張ろう」

 先輩は満面の笑みだったが、僕は逆に暗澹たる思いだった。

 あんな技をしかも短期間で果たして出来るのか……?

 僕は帰り道をすごすごと歩いた。


 稽古二日目。

「まずは昨日やった受身の稽古のおさらいだ。昨日も言ったように受身というのは怪我をしないための技術だ。これに熟達するとほぼ全ての投げの威力を殺ぐ事が出来ると言っても過言ではない重要な技術だ」

 今日も受身の稽古だ。昨日よりかは少しマシになってると思うのだが、まだまだぎこちなく感じる。先輩の動きを見ると音をさせずに綺麗に回る。一方、僕はというと音がして綺麗に回れない。一体、どこが違うのやらさっぱりだ。

 その後、先輩からコツを教わる。ほんの少しはマシになった気がする。

 しかし、そのほんの少しマシな受身ですら連続で上手くいかない。柔らかい受身をしなければならないのだがどうしても堅い受身になってしまう。柔道の授業で習う受身は堅い受身らしいので、その癖が抜けるまでしばらくは時間がかかるという話だ。

 受身をすること約三十分、結構疲れた。だが、何故か嫌な感じの疲れではない。逆に充実した疲れだ。

 先輩が頃合いを見計らい休憩の合図をする。僕はその場に正座をして休む。普段、正座なんてしないからどうも慣れない。

「どうだ、ただ転がっているだけなのになかなか疲れるだろう? この受身技は準備体操みたいなもんだからな。慣れれば一分間に百回は出来るようになる。あ、足は崩して良いぞ」

 僕は返事をする代わりに力ない笑いでそれに答えた。そして、先輩が言った通り足を崩してあぐらをかいた。

 今は疲れでまともに口もきけない。いかに自分が運動不足なのか痛感した。

「この話は今の伝承者、俺の親父から聞いた話なんだが」

 と、前置きして先輩は唐突に話し始めた。

「親父の親父、つまり俺の祖父に当たる人だな。その祖父が、ある正月の時に親父に面白い話をしたそうだ。祖父が東京へ旅行したときのことだ」

 東京へ旅行か……、そういえば先輩は京都から東京に引っ越してきたんだっけ? 訛りが少ないのでつい忘れそうになる。

「あれは大正末の頃だったか。祖父が東京の町をぶらぶらと散歩していると練武の気配がしたんだそうだ。好奇心に駆られた祖父がひょいと気配のした方を見ると道場がある。その中で袴姿の青年が一人で稽古をしている。気付かれないようにすぐに道場を離れようとしたのだがその青年に呼び止められてしまった」

 その青年には京都訛りがあったらしい。それで親近感を覚えた先輩の祖父は、

『ここは何を教えている道場ですか?』

 と聞いた。

『[合気の道]を教えています』

 と返ってきた。

 先輩の祖父は興味を引かれるものがあったのだろう。

『[合気の道]とは何ですか?』

 と質問した。

『口での説明は難しいので、時間があればどうですか?』

 との返答。まだ二十代後半だった先輩の祖父は京都へ帰った時の土産話にちょうど良いと思い、その青年の提案に乗ることにした。

 先輩の祖父は道場へ一礼してから上がる。青年から道着を貸してもらうと手早く着替えた。一部始終を見ている油断のならない感覚がしたそうだ。互いに一礼してから対峙する。

『あなたは受身は出来ますか?』

『柔道をやっていたので少々は……』

『そうですか……。では、私の手首を取って下さい』

 先輩の祖父は警戒しながら手首を取るとその瞬間に天と地が入れ替わった。地面がなくなったと思った瞬間、仰向けに寝転がされていたそうだ。触られた感触がなかったそうで、鳩が豆鉄砲を食らうとは今の自分のような表情の事をいうのだろうと思ったそうだ。

『これが合気の道ですよ』

 青年はニコッと笑うとそう言った。先輩の祖父は素早く正座をすると深々と頭を下げた。

 先輩の祖父は素性を明かし、その青年の名を問うた。青年は植芝盛平と名乗った。先輩の祖父はその場で弟子入りを志願し、入門を許された。

 一ヶ月という短い期間であったが[合気の道]を習い、京都に帰ってからも折に触れ、植芝盛平の元へ通ったという。

「祖父が語った話はここで終わりだそうだ。少し長く話しすぎたか。これからお前の課題である技を教える」

「あれ? でも昨日は籠手取りと言ったはずでは?」

「あの技でも良いんだが……、良く考えたらあれは技の中では難しい方なんだよ。お前のレベルに合ってない。実際、あの技が完全に出来るようになったら二段か三段レベルの実力があると思って良いぜ」

 そんな難易度の高い技なんだ、あれ……。先輩、これからは良く考えて発言してください……。

「お前への課題は呼吸投げにするよ。呼吸投げというのはタイミングで投げる技のことだ。戸田、ちょっと来てくれ」

 僕は立ち上がると先輩に近づいた。先輩は手をすっと左手を差し出す。

「戸田、昨日のように俺の手首をつかめ」

 僕は手首の辺りを握る。先輩は説明しながらゆっくりと技をかける。

 次は僕の番である。先輩が教えてくれた手順を、思い出しながらゆっくりと技をかける。途中まで上手く行くのだが、途中からは何故か止まってしまう。その度に先輩から助言される。それに従って技をかける。そして、どうにかこうにか最後まで投げる事が出来た。

「最初はそんなもんだな。俺も最初はなかなか出来なかった」

 先輩は当時を思い出したのか、懐かしそうに笑った。

 そのあと、僕は何回かアドバイスを受けながら投げ技の稽古をした。

 お、今のは流れを切らずに出来た気がするぞ。

「ま、流れはこんなもんだ。難しいとは思うが焦る必要はない。まだ土日含む五日間残ってる」

 先輩は快活に笑う。先輩の笑顔を見ると何か危険な隠しルートが発生してしまう危険が危ない。僕はなにを言っているんだ。駄目だ、軽く混乱してる……。

 そんな僕の思いとは裏腹に先輩の目は真剣になっていた。真剣に燃えている。漫画なら瞳の中に焔が描かれるまである。先輩、僕は武術素人ですよ。もしもーし、聴いてますかー?

 今度は僕の頭の中が真っ白になる。やるしかないとはいえ、また無理難題を出された気がする。前から気付いていたけど、僕って神様に嫌われてるんだな……、ははは……。

 もう虚しい笑いしか出てこない。

 正直、自信はまったくないが技の稽古を続けて少しでも成功率を高めるしかない。それが今の僕にできる唯一の方法だ。

 僕たちはこのあと何回か技の稽古に励んだ。

「やはりイチは筋が良いな。手順の飲み込みが早い」

「ありがとうございます。そうですか? でも、なんとなくですけどね」

「なんとなくでも解ればいずれ出来るさ」

「そんなものですか?」

「そんなもんだ」

 先輩は屈託なく微笑んだ。


「良し、休憩しようか」

 先輩に言われて時計を見る。時計の針があれから三十分過ぎている事を告げていた。技を夢中で稽古していたせいか、時計の針の進み具合を早く感じていた。

 僕は先輩に礼をすると道場の端に座った。先輩は僕の側に座った。

「まあ、今日で二日目だしな。時間はたっぷりある。本当なら基礎稽古を三年やってから、座り稽古、立ち稽古に移るんだ。お前は一週間で一つの技を覚えなくてはならないから特別だ」

「でも、それで技がものになるんですか?」

「ものになるかどうかはお前の努力次第だ。俺はその手伝いをするだけだぜ。なに、心配するなよ。これでも比較的難易度の低い技を教えてるんだ。一週間もあれば十分だ」

 先輩は僕を見て不敵な笑みを浮かべた。その笑顔は可愛くもあり、不気味でもあった。

 お願いですからその笑顔はやめて……。ほんとに怖いから、色々な意味で……。

 それから夕飯までみっちり稽古をした。

「夕飯も一緒に食っていけ」

 先輩はそう言って引きとめたがそこまでお世話になるのは悪いのでやんわりと断った。

 僕は帰る途中で、稽古の復習を頭の中でする。これは家に帰ってからも復習しなければ間に合わないな。

 今日も疲れたがなんだかんだ言っても結構楽しく感じ始めている。まぐれでも技が上手くできれば嬉しく思うし。

 それに最近、運動不足だから丁度良かった。体を動かしていれば嫌なことも思い出さずに済む。

 僕はそんな事を考えながら、家路に着いた。


 平日の稽古は先輩の道場で稽古三昧を繰り返す日々だった。土曜日は泊まり込みで稽古をする予定になっている。

 これは回避不可だろうなぁ。稽古の進捗もまあまあ。可もなく不可も無くというレベルらしい。家でも稽古の真似事をしていた成果もあるかも。

 この五日間の稽古で一つの技を集中的に身につけるのはなかなか難しいものだ。

 しかし、まだすんなり出来ないけれど感覚はつかめてきた。『継続は力なり』という言葉の意味を肌で感じる。

 そしてこの土日の集中稽古を乗り越えればいける気がしてきた。しかし失敗すれば全てが終わる。良し! 頑張るぞ!

 僕は自分に気合いを入れる。

 もう先輩の家には目を瞑っても辿り着ける。ここ五日間連続で通っているため、道は完全に覚えた。

 道場に入ると神棚に一礼する。気が付かなかったがどうやらすでに道着に着替えた先輩がいるようだ。

 だがわずかな違和感を感じた僕は目を凝らして良く見てみた。

 あれ? 先輩かな? でも、おかしいぞ。僕の知ってる先輩と違う……。

 先輩は黒のショートヘアだ。だけど目に見える人物は同じ黒髪だが肩まである。それに身体のサイズが一回り大きい。

 僕が怪訝な表情をして道場の入口で立っていると、先輩に似た人が道場の奥から近寄ってくる。正体も判然としないので先輩(仮)としておこう。某クソゲーと一緒だがここは勘弁してもらおう。

「こんにちは」

 綺麗な声だ。いつもの聞き慣れた先輩の声ではない。まさか、裏声か! ははあん、さては僕をからかっているのか?

 僕は疑問もそこそこに挨拶を返す。

 しかし良く考えたら今更、僕をペテンにかけるメリットが思いつかない。先輩はもしかしたらアレだ! 女装趣味があるのかも知れない。いやいやいや、道着を着ているだけであれは女装じゃないだろ! と、心の中で自分にツッコミを入れた。

「どうしたの? 道場に入らないの?」

 先輩(仮)は、訝しげに笑いながら尋ねてくる。先輩(仮)の意図が読めない。

「あの先輩ですよね?」

 何とも変な、そして奇妙な質問をしてしまった。しかし、疑問は本人に聞けば単純に氷解するかも知れない。

「ええ、そうよ」

 先輩(仮)は心なしかニヤリと笑ったように感じた。この違和感何だか怪しいな。

 道場に入ろうとした時だった。

「イチ。邪魔だからこんな所に突っ立ってないで早く中へ入れ」

 後ろを振り向くと先輩がもう一人いる。僕はすかさず後ろを振り返った。こちらにも先輩がいる。まさか、生き霊か、はたまた分身の術か。

 僕の脳髄は混乱から発狂へシフトチェンジしそうだった。

「何だ、蘭。もう来てたのか」

 蘭……? 更科先輩の名前は栄二だ。ということは先輩ではないのか。

「ん? どうした、イチ。ははあ、蘭。お前また俺の名前を語って人を誑かしたな」

「誑かすって……。お兄ちゃん、人聞きの悪い事言わないでよ!」

 先輩は先輩(仮)の非難を意に介さず大きな溜息をついた。先輩(仮)は、その言葉に深く傷付いたと言わんばかりに頬を膨らました。

「ああ、イチ。悪いな、こいつは妹の蘭だ。こいつは俺と顔が似てんのを良いことに、小さい頃から、俺の名前を使っては俺に迷惑をかけてるんだよ……。困った妹だ。そう言えばお前達、同じ高等部の一年だよな? 蘭、お前一年何組だっけ?」

「さすがに妹のクラスくらい覚えててよ。私たち同じクラスよ。最も戸田君はその調子じゃあ覚えてなさそうだけど……。だから少し意地悪をしたの」

 そう言って先輩の妹は意地悪く微笑み、舌を出した。いやほんと面目ない。

 僕は何で初めて先輩の上の名前を聞いた時に思い出せなかったのだろう。この灰色の脳細胞め! 改めてクラスメイトの顔と先輩の顔を見比べた。

 なるほど、先輩より先輩の妹の方が少し大きい。さぞかし、幼い頃は姉妹と間違われたに違いない。

「それでは改めて……今日はよろしくね、戸田君」

 先輩の妹……ここでは更科先輩と区別して更科さんと呼ぶことにしよう。これでやっと先輩(仮)から更科さんにクラスチェンジした訳だ。

 更科さんが笑顔で僕に握手を求めてきた。僕は「こちらこそ」とぎこちなく握手を返す。

「おい、蘭。お前がここにいるとイチが道着に着替えられないだろうが。気を利かせてしばらく出てろよ」

「はーい、解ったわよ、お兄ちゃん。それじゃ、戸田君また後でね」

 更科さんは不満げに返事をした。そして、素早く道場の出入口に向かう。先輩が言った通り、確かに女性、しかも同年代の女子がいると着替えにくい。

 しかし、何故彼女が道着姿でいたんだろう?

 僕は更科さんが道場から出るのを見届けてから、素早く着替える。もう今日で六日目なので速く着替える事が出来た。

「もう着替え終わったから入ってきて良いぞ」

 僕が着替え終わると、先輩は扉越しで待っている更科さんに大きな声で呼びかけた。程なくして更科さんが道場に入ってきた。

 僕と更科さんは先輩に対峙するように並んで立つ。そして、先輩と一礼した。

「これから土日を使った集中稽古をする。これで今までの総仕上げをするので気を抜かないように。それと今日と明日は蘭を相手に稽古をしてもらう。女らしさは微塵も感じられないと思うが女だと思って手加減するなよ」

 先輩は含みのある顔になった。僕はどういうリアクションをとっていいか解らなかったので苦笑いするしかなかった。

「ちょっとお兄ちゃん。それ、どういう意味よ!」

 それを聞いた更科さんはすかさず先輩に対して食ってかかる。だが、先輩には動じる様子はなかった。

 僕には姉と妹がいる。が、最近は先輩たちのようなやりとりをした覚えがない。

 まあ、顔を合わせての挨拶程度ならするが……。さっきの先輩たちのように軽い会話のキャッチボールがない。羨ましいなぁ。

 僕と更科さんは道場の端で体を一通りほぐした。それが終わると受身をする。

 受身の稽古を一通り終える。初日は息が上がっていたが慣れたのか不思議と息があまり上がらなくなっていた。

 その後はようやく技の稽古に入る。今日は先輩ではなく、更科さんが相手だ。僕と更科さんは道場の真ん中まで来ると互いに「お願いします」と一礼した。

「じゃあ、稽古を始めよう」

 僕は左手を取らせるように手をすっと出す。更科さんは出された左手に対ししっかりと左手でつかむ。

 僕は今まで教わった手順を踏みながら技をかけていく。何回か失敗しながらも最後まで技をかける事が出来た。上手く技がかからない時は先輩がフォローしてくれたので概ね上手くいくことができた。

 互いに左右で技をかけあう事、約二十分。蒸し暑さもあり、結構汗だくになる。

 更科さんを見ると、汗はかいているようだが息一つ乱れている様子はない。おまけに涼しい表情をしている。

「ここらへんで休憩するか」

 先輩の声を合図に、僕と更科さんは一定の間合いをとると互いに「ありがとうございました」と一礼する。その後、道場の端に腰を下ろすと、深呼吸をして呼吸を整える。

「どうだった、イチ。蘭と稽古してみた感想は?」

 先輩は僕の近くまで来ると質問してくる。

「うーん、そうですねぇ」

 僕は少し考えた。一体、どう答えるべきだろうか。

「じゃあ、俺と比べるとどうだ?」

 先輩は答えあぐねている僕を見ると、助け船を出してくれた。この質問なら答えやすい。

「先輩と比べるとですか……? そうですね。更科さんの方が若干ですが投げにくいです……。あ、別に先輩が投げやすいとかそういう意味ではないですよ」

 自信はなかったが思った事を口にした。先輩は我が意を得たりという風に頷いた。

「今、お前が言った通り、女、子供はふにゃふにゃしていて投げにくいんだ。だから、土日は蘭を稽古相手に呼んだのさ。蘭をしっかりと投げる事が出来れば明日は俺相手でも上手く投げる事が出来るかも、な」

 先輩は明るい声で笑った。

「あ、やってる、やってる。こんにちはー。差し入れ持ってきたよー」

 聞き覚えのある暢気(のんき)な声が道場の入り口辺りから聞こえてきた。

 こんな声の調子を出せる少女は僕の知る限り一人しかいない。

 声のした方を見てみると、果たせるかな、やはり神島先輩である。満面の笑みを浮かべながら、道場にあがろうとしている。

 しかし、今気付いたような素振りで、

「おっとっと、道場に入る前はまず一礼だっけ?」

 と言いながら、深々とお辞儀をして入ってきた。

 神島先輩のあとに従うように貫禄のある猫が道場にあがろうとする。神島先輩はその猫の頭を素早く抑えるとお辞儀の真似事をさせた。猫は嫌がる素振りを見せず黙って素直に従った。

 その猫はと良く見れば〈最長老〉である。〈最長老〉は僕を見ると挨拶のつもりであろうか、近くに来て一声鳴いた。僕も挨拶を返す様に座ったまま軽く会釈をした。

「はいは~い、差し入れですよー。甘くて美味しいお菓子だよー」

 神島先輩はどこかの売り子のような台詞を言いながら、小さな可愛い柄付きの小袋を僕に手渡した。中身はお菓子と言っていたからクッキーだろうと予測。

 僕はここで食べて良いのだろうかと逡巡していると、神島先輩は愛苦しい笑顔を向けた。

「イチ君は甘い物が苦手だったっけ?」

 神島先輩が心配そうな顔つきで、僕の顔を覗き込むようにして見た。僕は慌てて頭を振って否定する。

「そういう訳ではないんですが……。ここで食べても良いんですかね?」

 僕は更科先輩と更科さんを見た。すでに包みを開けて食べている。なるほど、答えはすでに出ているようだ。

「それでは頂きます」

 僕は遠慮なく可愛い包みを開けた。僕の予測を裏切らず、クッキーが出てきた。女の子らしく花や動物の形をした可愛らしいクッキーだ。こんがり良く焼けており、美味しそうである。

「疲れている時は甘い物が一番だよー。だから、作ってきたの」

 神島先輩はニコニコ笑いながら言った。僕は一個口に入れると味わいながら食べた。

 味は甘さが程良く、歯触り舌触りともに極上であった。今まで食べた市販のクッキーとは比較にならない美味さだった。

「うん、これは……美味しいですよ! こんなクッキー……今まで食べた事がありませんよ……。本当……天才ですよ……」

「えへへ。それは誉めすぎだよー」

 神島先輩は凄く顔を真っ赤にして照れている。やべえ、何このイベント……。神島先輩ルートにでも入ったの?

 僕は照れ臭さもあり、もぐもぐと急いで頬張った。だが、それがいけなかった。クッキーの欠片が気管に入ったらしい。僕は勢いよくむせる。

「慌てて食べるからだよー。はい、お茶」

 神島先輩は吸引力の変わらない笑顔で、すかさずお茶を出してくれた。そのお茶を受け取ると一気に喉に流し入れた。

 だが、今度も失敗した。お茶が熱かったのだ。僕は勢いよく咳き込んだ。

 何やってんだ、僕は……。これじゃまるでコントだよ。

「だ、大丈夫?」

 神島先輩は優しく背中を擦ってくれた。そしてまたもや心配そうに顔を覗き込む。なんと優しい……。天使が降臨したらしい。

 一方、更科先輩はそんな僕を見ていたのか腹を抱えて爆笑していた。なにもそんなに爆笑しなくても……。気持ちは解りますけどね。

「良いか、武術家はどんな時でも沈着冷静さを失うな。でないと、危急の時に対処出来ないぞ」

 更科先輩は笑いをかみ殺しながら言った。そして、手に持っていたクッキーを口の中に放り込んだ。そのとき、僕は奇妙なことに気づいた。

 何だ? あのクッキー、何かがおかしい……。色か、色が違うんだ! ううう…、不自然だ! 何であんなに不自然に赤いんだ?

 僕の視線に気づいたのか、更科先輩は嫌な笑いを浮かべた。そして、その赤いクッキーを僕に手渡した。

 僕は不安に駆られながら、自分のクッキーと更科先輩から手渡されたクッキーを掌に並べてみた。明らかに僕が貰ったクッキーとは一線を画している。主に色が……。恐らく味も……。

 そうだ、これはニンジンが混ざってるんだ! だから赤いんだ! 何だ、解ってしまえば簡単な推理だな。じっちゃんの名にかけなくても解る。しかし、ニンジンって赤かったっけ? 橙色だよな……。ニンジンいらないよ! こやつめ! ハハハ!

 僕の脳はすっかり現実を受け止めることができずに混乱していた。

 脳が混乱した主な原因はこのやけに肌を刺す刺激、である。何これ人間が食える物なの……。

「男なら一気に食えよ」

 更科先輩は、逡巡する僕の心を見通したかのように意地悪く挑発する。さて、どうするか……。何か食べなくてはならない空気が妙に盛り上がっている。

 神島先輩と更科さんははらはらしながら心配げに僕を見ている。この流れはまずいと思ったが、もうどうしようもない。大きな運命には逆らえない。

 僕はしばらく赤いクッキーを見詰めて食べるのを逡巡する。更科先輩を見ると、底意地の悪い表情を浮かべている。

 お父さん、お母さん、先立つ不孝をお許し下さい……。そして我が姉妹よ! さらば!

 ふと、姉妹って仕舞いにも通じるよね、とか思った。

 そして、覚悟を決めて一気に放り込んだ。

 南無三!

 スパロボでショウ・ザマが搭乗機を落とされたような台詞を心の中で叫ぶ。

 クッキーが舌に触れた瞬間、辛さを通り越した刺激の塊を感じた。言葉では形容しがたい味!

 熱!

 麻痺!

 危険!

 死!

「きゃあ! イチくん、水、水!」

 神島先輩が用意していた水を、急いで差し出す。僕はそれを奪うようにして一気に喉へ流し込んだ。

 喉から胃へ到達するまでに、刺激の塊が移動する感覚がハッキリ解った。そして、数分経った今でもその感覚が消えない。

 何つう、何という物を食わせてくれたんや。更科先輩……。

 水で消しきれない火、こんな恐ろしい物はない……。今まで食べた中でランキング上位に君臨し続けるであろう。この辛さ反則級だ!

「水を飲む速度が、赤いだけに三倍速かったな」

 更科先輩は赤いクッキーをさも美味しそうに頬張った。そして、極上の笑顔を見せた。この人の味覚はどうなってるんだ?

「この辛さの中に、微かな甘味があるのが良いんだよ」

 甘さなんてあったか? 僕はそう突っ込みたかったが余りの辛さに、最早突っ込む気力すら失せていた。

 水を飲んでもまだ舌が焼け付く。こんなのお菓子じゃない。罰ゲームだ! 僕は辛さが多少収まるまで、おとなしくする事にした。

「イチ、平気か? 平気なら稽古を続けたいが……」

「はい、少し違和感を感じますが、平気です」

「そうか、ま、無理はするなよ。じゃあ、休憩は終わりだ。稽古を再開するぞ」

 更科先輩は僕に確認すると稽古を再開した。神島先輩は〈最長老〉を膝の上に乗せて、道場の端で正座をした。どうやら見学する気らしい。

 人に見られてるとなんか緊張するなぁ……。


 午後六時頃、稽古は終了となった。夕飯を食べたら、また稽古だ。今日は一日稽古三昧。

 夕飯は更科先輩と更科さん、それに更科先輩のお母さんと神島先輩、そして僕がテーブルを囲んで一緒に食べた。結構な大所帯だ。

 更科先輩のお父さんは古本の整理が忙しいとかで今日は帰りが遅くなるという。

 ちなみに更科先輩のお父さんは近所で小さな古書店を営んでいるという話だ。

 更科先輩は小柄な割りには食欲旺盛で、大きな茶碗に最低三杯は食べるという話を更科さんが食事の前に話してくれた。冗談かと思っていたら、実際に目の前で実践してくれた。

 その身体のどこに入るの? 四次元胃袋でも持ってるの? 僕は呆れ顔で更科先輩の大食いを見届けた。

 家族で食べる食事と違って今日は新鮮な感じを味わえて楽しい一時を過ごせた。

 夕飯が終わった後の稽古は呼吸法や意識の使い方、そして今日習った技の整理だった。

 今回の稽古は実践部分ではなく、理論的な部分を教わった。全てが終わったのは午後九時を過ぎていた。昼過ぎから稽古三昧だったのでさすがに疲れ果て眠い。明日は早いのでさっとシャワーを借りて寝よう。

 僕は手早くシャワーを浴びようと教えられた場所へと向かう。

 どうやら僕で最後らしく「出るときは風呂の湯を落としてから出るように」と更科先輩からお達しがあった。

 入ってみると風呂はなかなか広い。いつもはシャワーで済ませる僕だが久しぶりにゆっくりと浸かることができた。ふう、いきかえる~♪

 僕は持ってきたパジャマに着替えると、道場への道を歩く。今日の寝床は道場で寝ることになっている。布団はもう運びこまれているらしい。更科先輩のお母さんが運んでくれたらしい。あとでお礼を言っておこう。

 そんなことを考えながら廊下を歩いていると不意に名前を呼ばれた気がして立ち止まった。

「イチ、こっちだ」

 更科先輩……? 僕は声のした方へ振り向く。そこには二階へと続く階段が見える。そこの階段から小さな人影を発見した。

 僕はよく見ようと目を瞬かせた。髪の長さ、身体の細さ、これは更科さんだ。間違いない。

「なんだ、更科さんか」

「ちぇ、今度は引っ掛からなかったかぁ。残念」

 更科さんは悪戯っぽく微笑んだ。

 しかし、こんな所で何をしてるんだろう? 僕は小首を傾げた。

「せっかくだから、戸田くんとお話しようと待ち伏せしてたのよ」

「僕と?」

「うん、私達ってクラス一緒だけど全然会話も無かったじゃない。だから、これを機に仲良くなれたらなぁ、って」

 更科さんは屈託のなくニコッと笑う。

 さて、どうするかな……。なかなか魅力的なお誘いだが、ホイホイ乗っていいものか。乗ったら乗ったで更科先輩かお父さんが出てくるオチが待ってるんじゃないかろうな……。

 僕はううん、と唸る。

「あ、そうだ。お兄ちゃんの小さい頃の写真があるんだけど。興味無い?」

 僕がもう少しで落ちると踏んだのか駄目押しにきた。うーん、実に興味がある。今もあれほど可愛いのだ。小さい頃だとミラクルスリーばりの反則級だろう。

「じゃあ、少しだけなら」

 更科さんは僕の許諾を聞いて「計画通り」と悪い顔になった。僕は悪魔と契約を結んでしまったのだろうか……。

 しかし、後悔をしても始まらない。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と昔の人も言っている。あ、あとクラスメイトとの交流は大事だから! 更科先輩の小さい頃の写真はおまけだよ!

 

 更科さんは自分の部屋の入り口に着くとゆっくりドアを開けた。

 なんか結構、ドキドキするぞ。思えば妹以外の女の子の部屋って入ったことがないな。一体、どんな閉鎖空間が待ち受けているのか。

「さ、どうぞどうぞ。遠慮しないで」

 更科さんは僕を部屋の中へと案内した。

 部屋の中は整然としていた。部屋の広さはゆうに六畳はあるだろう。動物のぬいぐるみや小物がベッドの端に並んでいる。なんだ、僕の妹の部屋とあまり大差ないな。少し違っているといったら、部屋の隅に武器類が置いてあることくらいかな。さ、些細な違いだよな……?

「じゃあ、早速お兄ちゃんの小さいときの写真でも見てみる?」

 おっと、おいでなすったね。今の僕には否と拒む理由はない。私は一向に構わんッッ!

 更科さんはアルバムを本棚から取り出して僕の前に広げた。

 これはやばい……。先輩マジ可愛い! 声かけして事案が発生するレベル。しかし、本当に更科さんに似ているな。双子の姉妹と言っても通じるぞ、これは。

 僕達はアルバムを肴に昔の話やら更科先輩の話で盛り上がった。

「そう言えばお兄ちゃんから聞いてなかったんだけど……。今回は何でお兄ちゃんに技を習ってるの? まさか、いじめにでも遭ってるとか?」

 僕の目を見ながら更科さんは真面目な顔で質問した。いじめ対策はいじめっこをぶっ殺してから考えるよ! という顔だ。あなたは何ムエタイ界の死神なの?

 更科先輩は何も言ってないみたいだ。このまま誤魔化すこともできるけど、ばれたら後が厄介だな……。ぶっ殺されかねん……。

 僕はこれまでの経緯を更科さんに話した。更科さんは黙って聞いてくれている。

「ふうん、なるほど。そう言うことね。でも、なんかいいね。そういうの。うん、私はアリだと思うな」

「アリ?」

「うん、惚れた相手に会うため、試練を潜り抜ける。格好良いと思うよ。頑張ってね、私も応援するから!」

 更科さんはやや興奮気味に言った。しかし、女の子ってこういうコイバナ好きだよね。

「うん、ありがとう。頑張るよ。あ、でも先輩を上手く投げられるか不安だな……」

「大丈夫、大丈夫! 戸田くんならできるよ」

 更科さんは僕を励ましてくれた。その悪意のない励ましを受けるとなにかできるような感じになるから不思議だ。

 僕は再度礼を言って部屋から出て行った。


 自然と目が醒めた。時計を見ればちょうど午前五時を過ぎた所である。快適な目覚めだ。寝る前は結構疲れているから、起きれるか不安だったが、問題はなかった。

 僕は起きると布団を畳んで端っこに寄せた。その後で道着に着替える。そして、昨日習った技を復習する。

「おや、朝早くから稽古とは精が出るね」

 背後から急に声をかけられた。僕は驚いて後ろを振り返る。そこには見知らぬ男性が立っていた。

 無精髭を生やし、表情は眠たそうだ。あ、もしかしたら更科先輩のお父さんだろうか?

 僕は慌てて挨拶をした。向こうも笑顔で挨拶を返してくれた。

「いや、こちらこそ稽古の邪魔をして悪かったね。申し遅れたが、僕は栄二達の父親龍臣(たつおみ)だ。よろしくな」

「こちらこそよろしくお願いします」

 龍臣さんは、笑いながら頬を掻いた。

 龍臣さんは神保町で古本屋をしているという。見た印象は知的で優しそうなおじさんだ。どう見ても古武術の達人には見えない。

「まだ栄二との試練まで間があるんだろう?」

「はい」

「では、少し話に付き合ってくれるかい? 何、そんなに時間はとらせないよ」

「はあ……」

 龍臣さんは爽やかな笑顔で同意を求めた。僕は断る言葉も意味も見つけられず気の抜けた返事をしてしまった。龍臣さんはそんな僕の反応に、気に止めた様子もなかった。

「稽古はどうだい? 順調にいってるかい」

「やはり難しいですね。見るとやるでは随分と勝手が違いますし……」

「それはそうさ」

 龍臣さんはしばらく考える仕草をしたがやがて悪戯を思いついた少年の様に目を輝かせた。

「君は栄二を投げたいんだろう?」

「はい、それが難題なんです」

「……ふむ。ではあいつの弱点を教えよう」

「え? そんな物があるんですか!」

 僕は驚いて思わず聞き返してしまった。そんな裏技があるなら、駄目元で教えてもらっても損はない。

 龍臣さんは真面目なのか、不真面目なのか、良く解らない表情を浮かべた。そして僕に秘策を授けてくれた。


 さて、午前と午後の稽古も終わり、時刻は午後四時を過ぎた。

 道場はエアコンをつけているが身体を動かしているので、快適とは言えがたい。汗が噴き出すように熱い。

「いよいよだ……。準備はいいか?」

 更科先輩は僕に向けて話し掛けてきた。

「やることはやりました。後はそれをぶつけるだけです!」

「ほう、良い顔付きになったな。お! ちょうど、観客も来たな」

 更科先輩は言いながら、入り口に視線を向けた。僕も釣られてそちらを見た。

 見届け人として今回は黒神先輩たちが一礼をしながら入ってきた。

 いよいよ試練の時がきた。黒神先輩たちも道場の端に集まり腰を降ろす。最後に更科先輩のお父さんと更科さんが道場に入ってきた。

「お、これから始まるみたいだな。私たちも見学させてもらうよ。栄二、良いよな?」

「ああ、別に構わないけど……、助言なんかは無しだからな」

「解ってる、解ってる」

 龍臣さんは明るい笑顔で返した。

 黒神先輩たちは龍臣さんたちに軽く挨拶する。龍臣さんたちも挨拶を返すと、道場の端に腰を降ろした。

「これからイチの試練を始める! 準備は良いな?」

「はい!」

「これから俺に技をかけろ。それでどんな形でも良いから、投げたら合格だ。制限時間は十分とする。真琴、よろしく頼む」

 黒神先輩は胸元からストップウォッチを取り出すと、初まりの合図とともにストップウォッチのボタンを押した。

 僕はそれを合図に更科先輩に一礼すると技をかけ始める。手順を思い出しながら丁寧にやるのだが、上手くかからない。何度か惜しい場面があったが、崩して投げる所までいかない。そして、残り時間だけが過ぎていく。

 慌てても良い結果はでないと解ってはいても、心は逸る。

 残り時間が数分程になったとき、僕は諦めた様に自分の腕を先輩の道着から放した。それを見た更科先輩は目を剥いた。

「……何のつもりだ?」

「……無理ですよ。僕なんかの技がかかる訳ないじゃないですか……。先輩は十数年武術をやってるんだ。僕が幾ら頑張った所で一週間じゃ無理ですよ! 所詮、僕には無理なんですよ……」

 僕は諦めたように俯いて、ため息をついた。

「て、めえ! 今まで努力してきたのは、何の為だよ! 龍神先輩にまた会いたくはないのか! 諦めんのかよ! お前のおもいはその程度なのかよ!」

 更科先輩が僕の肩を力強く握った感じがした。

 今だ! 今しかない! 僕はチャンスをつかむように素早く更科先輩の手首を軽く触った。そして、自分の体を開くと更科先輩の身体が少し前のめりになる。それと同時に投げを打った。

 更科先輩の表情に一瞬の驚愕が浮かぶ。その後、先輩の体は宙を舞い、そのまま畳に落ちるかに思われた。

 しかし、さすがは更科先輩だった。とっさに受身を取り、衝撃を上手く逃がしたみたいだ。「見事! 勝負あり! って所だな」

 龍臣さんが立ち上がった。僕は深々と頭を下げてお礼を言った。

「ありがとうございます! おかげで投げる事ができました」

「いやいや、私は助言をしただけだよ。投げたのは君の力だ。ありがとう」

 僕は礼を言われた意味が解らずに、ただ愛想笑いを浮かべるしかなかった。


 ふっ、やればできるじゃねぇか……。文句なく合格だ。それにしてもあのくそ親父め。イチに何か助言しやがったみたいだな。

 俺はゆっくり立ち上がるとイチに歩み寄る。そして、手を差し出すと握手を求める。

「親父が助言したのは予想外だったけど合格だよ。正直、驚いたぜ……。ここまで教科書通りに投げが決まるとはな。俺もまだまだ稽古が足りないみたいだ」

 俺は心の底から笑った。イチも笑顔で握手を受けてくれた。

 俺は親父に向き直ると、

「一体、どんな助言をしたんだよ?」

「ん?ちょっとな、お前の弱点を教えただけだよ。……最近のお前は少し弛んでたからな。今日の出来事は良い薬だよ」

 親父は俺を見て意味ありげに微笑む。

「なるほどな。通りで一子相伝の技を教えて良いか聞いた時に、呆気なく許可を出したと思ったぜ。裏でそんな意図があったのかよ」

「可愛い我が子を諭す為なら、技の一つ二つは安いもんだよ。だが、正直言って一週間でお前を投げられるとは俺も思わなかった。お前も気付いてるんだろ? 彼の素質に……。先輩なら良く導いてやるんだな」

「そんなこと親父に言われなくても解ってるよ」

 優しく爽やかな笑みを浮かべて、イチを見ている親父の隣で俺もイチを見た。

 イチの周りには陽子と蘭がいて、おめでとーとか何とか言っている。これから面白くなりそうな予感に俺は心を躍らせていた。


 未だ僕自身信じられない思いだ。あの更科先輩を投げることができたなんて!

 それと同時に試練にパスできたことの喜びも混じって跳び上がって喜びたい気分だ。誰か喜びの酒、松竹梅買ってきてー。僕は未成年だから飲めないけど。

「とんだ青春劇を見せつけてくれるわね」

 不意にどこからか不敵な女の声が道場に響きわたった。

 僕は辺りを見回した。その最中に黒神先輩が視界に入ったが、頭を抱えているのが見えた。他の先輩達も呆気にとられた表情を浮かべて、辺りを見回している。

 一体、何者なのだろうか?

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