第一章 神島陽子(かみしまようこ)の場合
初夏真っ盛りの陽気が、僕の頭と心の温暖化を進める五月中旬。
僕はあの時のような偶然の出会いに期待していた。いや、微かな希望を抱いていたと言った方がより近い。
僕が知っている彼女の個人情報は麗しい容姿だけ。これで探すのは、さすがに限界を感じる。
あるいは腕の良い探偵なら、僅かな情報から調べることも可能だろう。だが、生憎と僕は一般人で、かつ高校生である。
運と縁があれば、また偶然に会えるだろうと高をくくっていた。しかし、それは僕の勝手な思い込みでしかなかった。
今日もまた夢破れた人間のように肩を落として帰ろうと駐輪場へ赴き自転車を取りに行った。
校庭を抜けて、自転車を押して歩く。学園の敷地内では自転車に乗ることは、御法度。もし見つかれば風紀委員か先生にこってり絞られる。ジョジョに登場するタルカスに絞られるより酷い目に遭うらしい。
良い子の僕は真っ直ぐ自転車を押しながら正門へと向かう。
もう少しで正門に着くというときである。急に背後から声をかけられた。
「君は戸田市一君ですよね?」
聞き覚えのない少年の声。一体、誰だ? 早く帰って怪談を読みたいんだ。しかし無視したのが原因でもめ事になったらやだな……。仕方ない。振り向くか。僕は心の中でため息を吐いた。
「はい?」
僕は返事をしながら振り向き背後を確認した。そこには背の高い綺麗な顔立ちの少年が一人いた。しかしどことなく冷たい感じのする少年だ。
この人、見覚えがあるな。どこでだっけ? ううん、思い出せない。
何だろう、このもやもや感は……。喉まで出かかっているのに全く出てこない。魚の小骨が喉に引っかかっているように気持ち悪いな。
この学園はいわゆるマンモス学園のカテゴリーに入る。なので生徒数も半端ではない。上級生である可能性もある。ならばここで邪険に扱っても得策ではあるまい。
それに何の用件か聞かないことには先には進まない。
ズボンはベージュのブレザーか。少なくとも上着を着ていれば学年が解るのに……。
謎の少年はニコニコしている。それだけなのに不気味な感じである。
いや、待て、この雰囲気、何かまずいぞ! これが第八部まで続いている少年漫画なら、必ずや《ゴゴゴゴゴゴ》と背景が埋め尽くされているに違いない。
いやそれだけじゃない! 何で彼は声をかけた後、全く喋らないんだ? 僕の第六感が告げている! 危ない! 逃げろ!
少年の意図がまったく見抜けない。僕は逃げようとする間もなく、急に意識が途切れた。
あれ? ここはどこだ? と言うか何で体が動かないの? 金縛りかな?
意識が完全に覚醒した僕は何が起きたのか理解できず不安が募る。
しかし、不思議な事に口の自由だけは奪われていない。
「誰かー、ここから出して下さいよー」
僕は一縷の希望に賭けて助けを求める。しかし、グリプス生まれのKさんばりの口調では、何も進展はない。その証拠に周囲には何の反応もなかった。この世界の人間は僕以外屍になったのかと疑うレベルで無反応である。
いっそ叫び声をあげて助けを求めて見ようか? いや、冷静になるんだ。口が封じられていないことを考えると、その行為は無駄に終わるだろう。
周囲に人の気配がないか探る。ふむ、成功確率は五%未満といったところか。フフフ、僕をなめるなよ? スパロボでの命中率五%を中てたことのある男だぜ? 分の悪い賭けは嫌いじゃない!
人の気配はしないな。しかし、良く考えたら初めから人がいなかったら成功したかどうかも解らない。それじゃ駄目じゃん!
そもそも意識を失ってから、どのくらいの時間が経過してるんだろう。僕の腹時計に聞いても解らない。恐らくすずめに聞いても解るまい。
僕が逡巡していると突然、からりと扉を開ける音がした。
その音は僕にも聞き覚えがあった。この音の響き具合! これは教室の扉を開ける音! ならば僕は教室にいるのか。
その後立て続けに複数の足音が耳に飛び込んできた。
「まだ意識は戻らないのですか?」
「もうそろそろ戻るはずだ」
二人のやりとりが聞こえる。随分と落ち着いた声だ。しかし最初の声には聞き覚えがある
突然照明の明るさを目隠し越しに感じた。僕は目隠し越しだが反射的に目を瞑った。
「今目隠しを取ってやるからな」
僕の隣で少年の落ち着いた声がした。あれ? こっちに来る足音がまったくしなかったぞ!? 声のした位置から類推するに背が低い。まるで女の子並の背丈だ。
一気に目隠しを取られた僕は、うお! まぶしっ! と目を細める。
だが、いつまでもこうしてはいられない。まずは状況を把握するために、周囲の様子を確認しなくては。
まず目に飛び込んできたのは、教卓と黒板。左には薄汚れたアイボリーのカーテンが閉められていた。右前にはアイボリーの横扉が見える。
それは毎日のように見慣れている教室の風景。僕が椅子で縛られているので背後は見えないが、黒板。見なくても解っちゃうんだよね。僕もニュータイプに目覚めたのかにゃー。
その日常の風景に非日常の人物が数人混じっていた。
少年が二人、少女が二人だ。むう何か悪い予感がするのう。よく見ると、一人の少年には見覚えがある。
さっきの少年はともかく、後の三人は見ない顔だな……。僕の隣は背の低い少年か。
ん? 少年? 僕は疑問を持った。制服は男子用だが顔は少女そのもの。
横目で見る限り男装の麗人か、それとも今流行の男の娘というやつか。いや、もういっそ男でも良い。いや、いかん、いかん。ここは冷静になるんだ。くーるになれ!
しかし、解らないな、性別が。くそっ! もし、この体が自由ならば、ドラゴンボールの孫悟空のように股ぐらぱんぱんして確かめるものを!
何だ、あの少女は、魔女がかぶるような、大きな帽子を目深にかぶっている。
そのためか、顔の造型は解らない。だが、顔を隠して乳隠さずである。
発達した胸はあらんかぎりの自己主張をしていた。世の巨乳好きならば思わずむしゃぶりつきたくなる程だ。解りやすく言うと、エロい。
視線を動かさないと、あの巨乳が目に入って余る。いや、困る。
僕は目のやり場に困り、視線を横に逸らした。そこにはもう一人の少女がいた。
目はくりっとして丸く、猫のような印象を受ける可愛い少女だ。背丈は低かった。恐らく椅子に座っている僕の高さと同じくらいだろう。
その少女は僕と目が合うと、無邪気に「にゃははー」と軽く手を振った。僕も手を振り返したかったが、縛られていて無理だった。
僕ははたと気付いた。ここまで現状に進展はない。相手は顔まで晒しているのだ。最悪消されるまである。
この現状を打破しない限りは絶望に打ち拉がれて化け物が体内から生まれかねないレベル。魔法使いに退治されてしまうのかしら。
当然だが、四人とも顔と名前の判別は出来なかった。
見覚えのある少年が黒板の前に立った。
「戸田市一君」
うわー、何という冷たい目線だ。君は天狼拳の使い手なの? 体感温度が下がり鳥肌が立つのが解る。
待てよ。何で彼は僕の名前を知ってるんだ。まさか個人情報でも漏洩してるんだろうか。
動揺を隠せない僕を見て、少年は言葉を続ける。
「君が見たという女生徒の幽霊に、もう一度会いたいですか?」
黒い髪の少年は、腹黒い笑顔を見せた。闇と黒が合わさり最凶に見える。
なななななんで、そんな事知ってるんだ。あの時のことは伊達しか知らないはずだ。
心臓が跳ねる。腹黒少年は凄い悪そうな笑顔を見せた。それは悪の権化か、魔の化身か。
「なっ、どうしてそれを!」
驚愕の余り、目を丸くする。そして凄い勢いで立ち上がろうとしたが、次の瞬間には、縛られていたことを思い出させてくれた。
あ! しまった! 僕のマヌケ。このままでは倒れる。駄目、いけない!
僕は椅子ごと前のめりに倒れるのをただ眺めるしかなかった。目の前にどんどん床が迫る。
予想される痛みと衝撃に耐えるように、目を強く閉じる。だが、意に反して僕の身体は、墜落による不時着はしなかった。
「まあ、冷静になれよ」
背後から諭すような声がした。恐る恐る目を開けると、床まで数十㎝の所でピタリと止まっていた。
僕の調べでは能力者の多くが初回の能力発動条件に《己の危機》が発動条件になっているという。何というドM。
おおおおお! 一体、何が起きているんです? 第三次世界大戦でも始まるの?
高速巻き戻しでも見るかの如く床から遠ざかっていく。
椅子は音も無く元の位置に戻る。ああ、吃驚した。本当に一体、何が起きたんだ。思わず安堵の吐息が出る。
まさか、本当に僕に能力が……? ははっ、まさかね……。そんな漫画みたいなことあるわけがない。では他に考えられることは背後にいる守護霊様が!?
「俺は新聞を良く読みますから」
その答えを聞いて、後ろにいる男の娘はくすくすと笑った。どうやら真面目に答える気はないみたいだ。
「そこで提案です」
腹黒少年は、黒板を横切るように、ゆっくりと移動した。その顔は静かに微笑んでいる。
「ここで君に残念なお知らせをしなくてはなりません。それは君の探している少女の幽霊は龍神涼子先輩というまだ生きている少女だからです。そこで我々は君に協力をしたいと考えています」
腹黒少年は、右手の人差し指を頬の辺りに持ってきた。馬鹿な!? 僕の見ていたモノが生きている少女だったなんて。折角、初めて幽霊が見られたと思っていたのに!
僕は落胆のあまり肩を大きく落とした。
「僕に協力するということはどういうことです?」
「その前に先の無礼は謝りましょう。しかし、こうでもしませんと不審に思い、我々の話を聞いてくれない恐れがあったものですから。我々としても非常に心苦しいのです」
腹黒少年の語る言葉には、妙な説得力があった。
「ただし、こちらもただで協力する訳ではありません。我々の出す試練を乗り越えた時に、龍神涼子先輩と会えるよう尽力することを約束します。貴方一人ではこれから先、会える可能性はゼロに近いでしょう」
腹黒少年は、肩を竦めて、大袈裟に首を左右に振った。
おっとおいでなすったね。しかし僕がこれから一人で探すとしても限界がある。出会える可能性は確かにゼロに近いだろう。
「ふむう、一理ある」
腹黒少年の提案を、無上の提案だと思い始めていた。
しかし、あの少年の口ぶりから窺える自信は何だ? 彼が言う試練とやらをクリアすれば、必ず会わせるとでも言いたげだ。と言うか、そうとしか受け取れない。彼は何者なんだ?
逡巡したがこの場は何がベストの答えなのか考えがまとまらない。
腹黒少年を戸惑いの目で見た。本当にこの話に乗っても構わないのか。
「貴方達の試練をクリアすれば、本当に……?」
腹黒少年は会心の笑みで僕を見ると、満足気に頷いた。まさに計画通りといった顔だ。しかし、その顔は何故か似合う。
「話が早くて助かりますよ、戸田君。では、この紙に君の名前を書いてください」
腹黒少年は、目の前まで来ると、自分の手で縄を解いてくれた。その間、側にいた男の娘は木製の机を僕の前に配置する。その机の上に腹黒少年は小さな紙を丁重に置いた。僕は置かれた紙を目だけで見た。
《武侠倶楽部入部届》
と、その紙には黒字で印刷されていた。
武侠倶楽部と言えば、有名なクラブである。入部方法に関する噂は、枚挙に暇がないほどだ。
「えーと、これは一体?」
「ああ、安心して下さい。これは本入部ではなくて仮入部届けです。これからは俺達と、行動を共にしますから。こちらの方が何かと都合が良いのです」
腹黒少年は、淀みなく訳を話した。一体、何に安心すれば良いのか全く解らなかったが。
あらかじめ脚本があるのではないかと疑うほど、間髪入れずにぽんぽんと言葉が出てくる。
良く舌が回るとさえ感心した。二枚舌どころか三枚も四枚もあるのじゃないか。
「……三秒考えさせてください。一、二、三、入ります」
しかし、こうなったら後には退けない。迷わず目の前に置いてある紙に名前を記入した。記入し終わるのを見届けて、腹黒少年は入部届けを机からさっと取った。
「そうでしょう、そうでしょう。君ならそう答えてくれると、信じていましたよ。改めて仮入部おめでとうございます。俺の名前は黒神真琴と言います」
黒神真琴と名乗った少年を見て、僕は瞠目した。
黒神先輩と言えばかなりの有名人だ。確か僕の一個上だから、今は二年生のはずだ。
悪い噂は売るほどあるという、そんな人物だ。その中の一つが《泣く子も埋める黒神真琴》という二つ名である。実際に埋めたかどうか定かではないが、そんな雰囲気が確かに彼には存在する。
ならばその周囲にいる人達も武侠倶楽部の部員だろう。それならいずれも一筋縄ではいかない人達のはずだ。
武侠倶楽部と言うのは正式に実在するクラブではない。
その証拠に新入生のための部活動紹介でも、名前は一切出てこなかった。その実在は一般の生徒からは、事実上、疑問視されていた。言わば都市伝説の類だ。
武侠倶楽部、実在していたのか。まだ、黒神先輩の口から直接聞いた今でも、半信半疑なのは確かだ。正直な話、担がれているという可能性も捨てきれない。
しかし世の中には一般人には想像を越える部活動が存在するのは事実だ。《麻雀部》《奉仕部》《ホスト部》《殺人クラブ》……。最後のはちと違うか。
そんな数多ある想像を越える部活動の一つだとでも言えば良いのだろうか。
だけど今の僕にはそんな事はどうでも良かった。
黒神先輩の話も嘘の可能性はある。だが、同時にそれを感じさせない説得力もあった。
「この事はくれぐれも内密にお願いしますね。まあ、誰も信じてくれないと思いますが。これからここにいるメンツの自己紹介を致します。今からは仲間同士仲良くやっていきましょう」
黒神先輩が言い終わったすぐ後に元気な声が飛んできた。
「はいはーい、まずは私からね。私の名前は神島陽子。よろしくねー」
少女は楽しそうに笑いながら簡単に自己紹介した。背が低く愛嬌のある可愛い少女だ。
「んじゃ、次は俺だ。更科栄二だ。よろしくな」
側にいる男の娘が自己紹介した。女だと思ったら、何だ男か。しかし並の女より可愛いですね。僕、未知な道に突入しちゃうかも……。
あの不用意な一言がジェリドの凋落人生の第一歩だったと思うんだ。などと関係ないことを考えた。
「……私は紅莉栖セリカ。よろしく」
おっぱいの大きな少女が淡々と自己紹介をする。僕はその声に何故か聞き覚えのあるようなないような気がした。
顔を見れば思い出せそうな気がしたが紅莉栖さんの顔は相変わらず帽子が邪魔をして表情が伺えない。
僕は照れ屋なのだろうと納得した。初対面の異性が苦手な人は山ほどいる。別に無理に見る必要はないか。
「そこにいる陽子に後のことは聞いてください」
「はいはい。任されましたー」
黒神先輩に言われて指名を受けた少女は明るく返事をした。黒神先輩はそれを見ると軽く微笑み教室から出て行く。他の二人もその後に続いた。
背の低い少女と二人きり教室。普通ならばどきどきなシチュだろうが、今回はそんな気分ではない。
少女は最後に教室を出て行く人を見送ると、僕に向き直る。こんな時にでも容姿をチェックしてしまうのは、悲しき男のサガと言えよう。
大きな黒い二重瞼はまるで猫を思わせる可愛らしい少女だ。黒い髪は短く切られており、その少女に良く似合っていた。
一見すると僕の妹と同じ中学生くらいに見える容姿は、全国のロリータ・コンプレックスを持つ大きなお友達の心をくすぐり、かつ直撃するように思われた。
殺人を犯しても、無条件でかばってあげたくなる。そんな感じがする少女だ。いや、実際に殺人を犯したら、自首を勧めるけど。
その少女はセーラー服のスカートを器用に波打たせてとてとてと近寄ってきた。走り方も可愛い。
「そう言えば神島さんでしたっけ?」
「あ、もう名前覚えてくれたんだ。嬉しいにゃー」
神島さんは明るい笑顔で、楽しそうに言った。うわあ、可愛い! お持ち帰りしてぇ。つられて思わず顔が綻んだ。しかし何か発音がおかしい。でも良いか。可愛いし。可愛いは正義。
高校生には見えないが……。中学生だろうか?
僕は神島さんをまじまじと興味深げに見入った。
神島さんはそんな僕の無礼な行為を咎めずに、唐突に握手を求めてきた。呆気に取られた僕は思わず握り返してしまった。
温かく柔らかな感触が手全体に伝わる。
極上のマシュマロを握れば、こんな感触がするのだろうか。僅かな力で壊れそうな、そんな手だった。
ふられた元カノのことを唐突に思い出す。あまり思い出したくない記憶なので僕は少し憂鬱な気分になった。
「神島さんは、中等部の人?」
僕はそんな記憶を振り払うように神島さんの手を離しながら尋ねた。
「違うよー。高等部の二年だよー」
妙な間延びをして、笑顔で答える。どうやら怒ってはいないみたいだ。その証拠にいささかの怒気も含まれてない。表情も屈託がなかった。
え? ははは、まさか。ご冗談を……。
「あ、信じてにゃいにゃー」
神島さんは生徒手帳をスカートのポケットから出して見せた。その出す様はまるで切り札の印籠を出すように重厚で厳かな感じがした。因みに印籠は格さんが出すこれ豆知識な。
「ええー! 先輩!?」
まさに天地が引っ繰り返るような衝撃を受けた。そして、目線は何度も何度も神島先輩と生徒手帳を行ったり来たりした。
嘘……だろ……。余は信じぬ! 信じたくない!
神島先輩は生徒手帳を手際よく取り出した場所へしまう。
「そうだよー。先輩だよ、後輩くん」
神島先輩は誇らしく、無い胸を反らした。顔もどこかドヤ顔だ。
いや、胸については先輩の名誉のために訂正しよう。微かな胸の膨らみがセーラー服越しに解る。本当に微かであり、平皿のような微かな膨らみとでも表現した方が、読者諸兄には解りやすいだろう。
平たく言うとステータスであるかは解らないが貧乳である。
「まこっちゃんから言われてるんだ。初めてのお題は、私が出して良いんだって」
まこっちゃん……? ああ、黒神先輩の事かな? 確か下の名前は真琴だったっけか。
しかし、お題って……。大喜利じゃないんだから。
神島先輩は楽しそうにニコニコしている。
「出血大サービス! 初回だから簡単にゃお題にしておくね。私からのお題は……」
言いながら、神島先輩は急に真面目な顔になる。僕は固唾を呑んでそれを見守る。
一体、どんなお題なんだ。緊張するぜ。
ある程度の予測なら性格を掴んでいれば大体解る。しかし、今回は全くの初対面だ。予測が付きにくいのは不安を煽る。
いきなり無理難題とか来ないよな……。龍の顎の玉取って来いだったら、マジ泣ける。
神島先輩は急に右手を高々と掲げた。その勢いに思わず後ずさる。
な、何だ。吃驚した。急にどうしたんだ。
「ジャカジャン! 猫に一芸を仕込む!」
何……だと……。いきなりの無理難題! クーリングオフできないの?
それにジャカジャン! って、《何曜どうでしょう》か!? いや、好きだけどさ。いやいや、そんな事を言ってる場合じゃない!
そもそも猫は人に懐かない動物として有名だ。それに芸を仕込むとか。これ何て無理ゲー?
神島先輩は得意気な顔をして立っている。その表情から悪びれた様子は微塵も伺えない。もしかして天然系?
「ね、簡単でしょ?」
最高の笑顔で僕を見た。《ニコニコ動画》という動画サイトで見たトムだかジェリーだか、名前は忘れてしまったが、あの絵描きの外人を彷彿とさせる台詞だ。
猫に一芸を仕込む。もしかして、さっきの中等部発言が糸を引いてませんか? 考えすぎなら良いんですが……。
一気に奈落の底に落とされた揚げ句、それから隕石がピンポイントで落ちてくる。この攻撃には海王を継ぐ中国武術の達人でさえも、ひとたまりもあるまい。
無理でしょ。無茶でしょ。無謀でしょ!? 神島先輩は三無主義者ですか?
絶望に思わず両膝を地面に落とし、失望に両手を床に付けた。
「大丈夫、大丈夫。戸田後輩にゃら出来るよ」
神島先輩はそう言って慰めた。
《根拠のない慰めは脅迫に似ている》とは、一体どこで読んだ言葉だったか。
ははは、マジ悪夢だ……。何この悪夢とナイトメアのゴールデンコンビ……。南葛中出身かよ。
神様。僕は戦国のドMではありませんので、もう少し手加減してくれても罰は当たりませんよ……。いや、ほんと。
マジで世界が滅亡する五秒前のような気持ちだった。
神島先輩は右手で気落ちした僕の頭を優しく撫でた。それは凄く温かく、そして心安らぐ行為だった。
神島先輩からは日溜まりのような、何とも心地の良い匂いがした。それにしばし甘える事にしても罰は当たるまい。
顔をあげると、そこには神島先輩の慶賀に堪えない笑顔があった。この神島先輩の笑顔を見ていると、実際にお題が出来そうになるから不思議だ。もしかしたら、彼女の笑顔は不幸の特効薬なのかも知れない。
「ありがとうございます」
不意に子供の時に母親に頭を撫でられたことを思い出した。あの時もほっとしたことを覚えている。
「じゃあ、二週間以内でお願いねー」
神島先輩は邪気のない笑顔で僕に追い打ちをかけた。
ぐはっ! もう少し至福の一時を僕に!
だけど、千載一遇の好機に賭けるしかないのもまた事実。僕は決意を固めるとゆっくりと立ち上がる。
よし、覚悟を決めたら、後はそれに向かいがむしゃらに突き進んで行くだけだ。
あれ? 神島先輩はどこ行った? いくら背が低いからとはいえ、視界から消える事など……。東なんとかさんみたいにステルス機能でも付いてるの?
果たして天に隠れたか、それとも地に潜ったか。
「戸田後輩、帰るよー」
神島先輩の陽気な声が横から聞こえた。いつの間に移動したんだ。足音が聞こえなかったぞ。見れば僕に向かって手招きをしている。一つ一つの動作に愛嬌がありまるで猫みたいな人だ。
「あ、待って下さい」
慌てて鞄を持ち、教室から廊下に出た。
廊下から外を見ると、すでに世界は夜に支配されつつあった。空に雲は一つもないが、月は煌々とし、僕達を見下ろしていた。中等部の時、学校で習った事がある。あれは下弦の月で、この約一週間後は新月になる。
携帯電話を取り出して時間を確認した。携帯電話のディスプレイは、無情にも午後七時を告げていた。
「うわっ、もうこんな時間か」
携帯電話を見ながら、愕然として呟いた。下校時刻はとっくに過ぎている。こんな所を先生に見つかったら、大目玉を食らうだけでは済まない。
「うわあ、戸田くんの携帯ってガラケーにゃんだねー。久しぶりに見たよー」
気付くと神島先輩が近くに寄ってきて、ガラケーを物珍しく見ている。
へいへい、今時の高校生でガラケーなのは、僕くらいですよ……。スマホは高いんだよ! 本が何冊買えると思っているんだ!
「そういう先輩はスマホですか?」
「うむ、よくぞ聞いてくれました!」
先輩は鞄の中をごそごそと探った。そして、某青い猫型ロボットの口まねで取り出した。
「最新型だよー、へへへ」
先輩は楽しそうに見せた。ほほう、これが最新のスマホか。画面が大きいな。しかし、そのスマホお高いんじゃないんですか?
だが僕は神島先輩に負けた訳ではない。そのスマホの性能のおかげだと言うことを忘れるな!
それにぶっちゃけ、僕は通話とメール出来れば良いんですよ。偉い人にはそれが解らんのです。
心の中で負け惜しみを呟くと、置いていかれないように先輩の横に並んだ。
先輩は背がちっちゃいな。僕の肩辺りに先輩の頭部がきている。目測で大体一五〇センチくらいかな?
僕はそんなことを考えながら足早に先輩と一緒に校舎を後にした。
一緒に帰りながら話していて幾つか解ったことがある。
先輩は仕草もそうだが猫のように表情がころころ変わる。
それと常に笑顔で話すから、相手に不快感を与えることが少ない。可愛い少女に、無邪気な笑顔を向けられて、悪い印象を持つ人は少ないはずだ。
「栄二くんにやられた場所、大丈夫?」
先輩は心配そうな顔つきで尋ねてきた。
多分、意識を失った時のことを尋ねているのだろう。
栄二くんというのは、あの背の低い男の娘のことだ。自己紹介されたのでまだ覚えている。
その少年の顔は美少女のようだったが、彼の体を取り巻いている圧迫感は、ただの男の娘ではない印象を与える。
どこにも痛みがないので今の今まで気にしていなかった。だが、言われて見ると急に気になり始める。
確認するために体のあちこちを可能な限り触った。
しかし、どこを攻撃されたのか、もう痛みがないので解らなかった。いや、意識が刈り取られた時も、目覚めた時もやはり体に痛みは無かった。
「私は乱暴にゃやり方には、反対したんだけどねー。まこっちゃん達に押し切られちゃった……。でも、暴力反対だよー」
先輩は後手に持っていた学生鞄を自分の膝の前に持ち直すと頬を膨らませた。怒った顔はあまり怖くなかった。反対に可愛いまである。
先輩は僕の目線に気付いたのか、恥ずかしそうに、へへへと照れ笑いを浮かべた。
静まれ! 僕の邪気よ!
何この可愛い生き物。この世の生き物なの? 可愛すぎて思わず抱きしめるでしょ。危うくお巡りさん、こいつですと通報されるところだった。
その時突風が吹いた。初夏とはいえ、夜は肌寒い。
その風は先輩のスカートと軽やかにダンスを踊ると消えた。
先輩は、小さな悲鳴をあげると、顔を真っ赤にして、スカートをとっさに押さえる。風さん、仕事しすぎぃ。これ以上は過労死するで……。
辺りはもうすでに夜の支配を告げていた。春という季節は夏のように昼が残業することは少ない。世界の理はまだ季節に優しかった。できれば僕にも優しくして下さい。
「神島先輩。質問良いですか?」
「ん? にゃにかね?」
「答えにくかったら、別に答えなくてもいいんですが……。神島先輩の言葉遣い、独特ですよね。《な》を《にゃ》と言い換えるのは、癖ですか?」
僕はこのタイミングなら聞けるかと思い最前からの疑問を口にした。
「ああ、これ? あはは、小さにゃ時からの癖みたいにゃんだ。にゃおそうと思っても、にゃかにゃかにゃおらないから、もう諦めてるんだー。やっぱり変かにゃ?」
先輩は力なく笑った。そして目線と肩を落とすと、すごすごと歩く。小さい身体がさらに小さく見えた。
馬鹿馬鹿馬鹿、僕の馬鹿。何という無神経なんだ。気にしてない訳ないじゃないか!
折角、仲良くなりかけてたのに……。ここで別れたら後味が悪すぎる。それにこの半端ない罪悪感……。
僕は意を決すると、先輩の前に回り込んだ。
「神島先輩! それは変じゃありませんよ。それは個性です! 萌えです! 最高です!」
僕は先輩を妙な熱弁で励ました。我ながら最後の言葉はどうかと思うぞ。
先輩は目をぱちくりとさせると、しばし僕を見つめて動かない。しまった、外したか。
「えへへ、ありがとー! そんな事言われたの初めてだよ。嬉しいにゃ。君は優しいね」
先輩は喜びの笑顔になり頬を朱に染めた。やはり先輩には笑顔が良く似合う。くそう! 可愛いなぁ、もう! 早く喜びの酒松竹梅買ってきてー。飲めないけど。
先輩が出したお題は、二週間以内の期限付きだ。この限られた期間で、どこまで出来るか解らないが、出来る限り頑張ろう。
早くも一週間経ったある日。実際、キンクリ喰らったんじゃないかと思う程、アッという間だった。
ふふふ、僕の特技は底力レベルが七もあるのだよ。スーパー系はここからが本番よ。ま、まだ慌てるような時間じゃない。
こんな感じでいつも以上に己を鼓舞した。だってこうでもしないと心が折れそう……。
今日は雲一つない快晴。だが僕の心は曇り空。
猫に一芸を仕込む……、この神島先輩が出したお題は一朝一夕では出来そうにない。
というか、一生かかっても出来るかどうか怪しいレベル。焦らないようにしてきたが時間的な制限があるとそうもいかない。心の余裕は自然と奪われて行く一方だ。
冷静になれ、市一……。
僕は焦る自分に言い聞かせた。
ここで諦めたら、一歩も前には進めない。今ではジェリドの心境が良く解る。
本音は奇跡待ちである。だが、その奇跡は何もしなければ起きない。
《奇跡は起きます! 起こして見せます!》は、前に見たロボットアニメの主人公の台詞だったな。あのアニメは熱かったな。
努力を尽くして奇跡が起きるという展開は王道展開とはいえ感動を呼び、手に汗握らされる。
前に見たアニメの台詞を胸に強く刻む。いかに絶望の状況に陥ろうとも諦めない者に勝利の女神は微笑んでくれるはず。
奇跡を起こすために行動を起こす。端から見れば馬鹿げた思考だろう。普段の僕ならそう思う。
「さて、今日も猫の捜索に頑張るかな……」
飼い猫や人に慣れすぎた野良は人に慣れているかも知れない。だが、やはり猫の基本的な性格は気紛れなものだ。
その気紛れな猫に一芸を仕込むのは至難だ。RPGで言えばレベル一の主人公がいきなりラスボスとの強制戦闘になる。それは至難を通り越してもう災難だ。最早クソゲーと言い切っても許される。
しかし諦めたらそこで試合終了。何とか突破口を見つけないと。
「まずは手頃な猫を探さないとな。猫やーい、出てきておくれー」
必死の捜索にも関わらず文字通り猫の子一匹出てこない。猫がいそうな場所を探して歩き回る事三十分。RPGでももう少し敵と遭遇するだろ……。
何故だ、何故いない! まさかハーメルンの笛吹き男に連れて行かれたのか?
近場の公園や広場を見て回ったが全然いない。必要ない時にはいる癖に、必要な時にいない。
僕は疲れたので公園のベンチで休むことに決めた。足が棒どころか丸太になる。
近くの自動販売機でドデカミンを買いベンチに腰をかけた。不思議と公園には僕以外の人間は見当たらない。
「何で誰もいないんだよ……。誰かがワンダースワンでも与えて貸し切りにしたの?」
いきなり暗礁に乗り上げた気分だ。無力感に打ちのめされそうだ。
ふぅ、いないものは仕方ない。今日はもう捜索を打ち切って明日、早く捜そう。あー、猫の手でも借りたいよ。
一息にドデカミンを胃の腑へと流し込む。
飲み終えると帰ろうとベンチを立った。ペットボトルは邪魔だからゴミ箱に捨ててから帰ろう。
ん? 何か変だな……。
猫だけじゃなくて、人までいないなんて……。よほど嫌われたな。僕は自虐の笑みを浮かべた。
これ何ていう罰ゲーム? 泣きそうだよ……。
【貸してやろうか?】
明らかに人の声ではない何かが聞こえた。上手く聞き取れないが脳で変換されて意味が解る。そんな妙な感覚だ。誰だ!? 誰が直接僕の脳内に!
周囲に人の気配はない。それに今いる場所はちょっとした広場になっており見晴らしも良い。
念の為に周囲を見回してみたが人はいなかった。
空耳か幻聴の類を聞くとは精神的に疲れているのかな? 市一、貴方疲れてるのよ……。
早く帰ろう。僕は公園から立ち去ろうと歩き出した。
【おいおい、おいらを無視しようとは感心しにゃいねぇ】
今度は気のせいではなかった。明らかに異質な音声がダイレクトに聞こえた。
だが、何度左右を見ても人っ子一人いない。
【一体、どこを見ているんだよ。おめえさんの後ろにいるぜ】
はっ! 急いで後ろを振り向いた。後ろには貫禄のある大きい古猫が一匹ベンチに寝そべっていた。その猫は一回大きなあくびをするとこちらの様子をじっと伺う様に見ていた。
まさか、あの猫が……? まさか新手のスタンド使い!
僕が確認した時猫は一匹もいなかったはず……。
僕は背筋が寒くなるのを感じた。それから疑念を振りほどくように頭を左右に大きく振った。
そんな馬鹿な事はありえない! しかし、もしこれが本当ならまるでまるで僕が良く読む怪談話じゃないか!
僕は恐れと驚きが入り混じった顔で前方のベンチに座っている猫をじっと見つめた。
【やれやれ、やっと気付いたか。最近の若い者は勘が鈍いねぇ】
古猫は大あくびをしながらも声を発した。
古猫はベンチから軽やかに飛び降りた。そして、僕の足下にゆっくりと近づきズボンの裾に頭をこすりつけた。
付いて来いと言うように僕の左手方向に歩いていく。もしかして、どこかに案内する気だろうか。
僕は一瞬、付いて行って良いのか逡巡した。案内する動物の怪は良い方向に転ぶ時と悪い結果をうむ場合に別れる。
古猫は立ち止まり首だけ振り向いて僕を見ている。【早く来いよ】と言われているみたいだ。僕は迷いを振り払い古猫の後を付いていく決心をした。
古猫は僕を待ってくれているのか、時々立ち止まっては振り返る。
しばらくついていくと公園を抜けて広い空き地に導かれた。何か異様な雰囲気を僕はこの広場に感じた。
町内は大体知っているつもりだったがこんな広場があるなんてと僕は驚愕した。
【ここにゃら大丈夫だにゃ】
古猫は空き地の中央にある古ぼけた土管の一番上まで登ると座り込んだ。
【ここはおいら達の集会場所に良く使う空き地だ。人間達は滅多に入り込んでこねぇ。安心しろよ】
安心しろ、と言われても無理な話である。人智を超えた古猫と何の特殊能力もない無害な少年。そして、誰もいない空き地。これで安心できる方がどうかしている。
【だから安心しろって、おめーさんに危害を加えたりしねぇよ。おめーさん、戸田市一って言うんだろ】
再度言われても全く安心出来ない。だが、ここで足掻いても事態は好転しないのは解りきっていた。僕は怖さを抑え付け勇気を出した。
「な、何故、僕の名前を知っているのですか?」
【まぁ、にゃ染みの人間に頼まれてにゃ。もし、おめーさんが力を貸して欲しいって言ったら、力に、にゃってやってくれ、ってにゃ】
古猫は鼻を湿らすために自分の舌で一度舐めた。
古猫が言う馴染みの人間とは一体、誰のことだろう?
僕は少し気になった。
【まぁ、おいらの依頼人が誰だろうと今のおめーさんには関係にゃいだろ?】
古猫は僕の心を読んだみたいに言った。その言葉で僕の先程まで気になっていたことは脳内から排除された。
古猫の言う通りだ。今の僕の状況は文字通り猫の手も借りたいくらいなのだから。それに今、都合の良い事にこの古猫は人の言葉を理解する。
常識に囚われてはこの絶好のチャンスを逃がすだけだ。
僕は古猫に一部始終を打ち明けた。古猫は途中で大欠伸をしただけで後は黙って聞いてくれた。
【零時に、またここの空き地にきにゃ】
僕の話を聞き終えると古猫は抑揚のない声で言った。そして、大きく伸びを一回する。
古猫は身体に似合わない俊敏な動きで空き地から姿を消した。後に取り残されたのは僕一人。
あれ? ここって一体、どこ? どうしたら僕はお家に帰れるんでしょう?
何とか無事に帰る事が出来た僕は古猫に言われた通り指定された時間に例の空き地へ着くようにした。
今は午後十一時前である。
家を出る時は家族を起こさないように細心の注意を払った。外は少し肌寒い。
あの空き地から家まで帰って解ったことがある。それは歩いて十分もしない距離にあるという事実。言わば町の死角だ。
と言ってもそれが解ったのは家に帰り着いてからだったけど。
遅刻を嫌う僕は待ち合わせには十分前行動を心がけている。
公園に着くと古猫に案内された道を思い出しながら空き地への道をたどった。道中迷う心配はあったがどうにか例の空き地見つけることができた。
携帯電話を見ると指定された時刻の三十分前に着けた。案の定まだ誰も来ていない。
僕は遅刻せずに済んだので少し安心した。この手の約束は守るのが成功の秘訣だ。
夜風に生温かいモノを感じて僕は少し身震いした。
ふと何かの気配を感じて後ろを振り向くと昼間に出会った古猫が土管の上に陣取っていた。そして退屈そうに大欠伸をした。それから後ろ足で自分の首を掻いた。
【やけに早いじゃねぇか。感心だにゃ】
「はい、迷わずに着けました」
【そりゃそうだ。おめーさんが、迷わにゃいように、結界を張ってにゃいからにゃ】
そう言うと古猫は目を細めて夜空を見上げた。僕もつられて夜空を見上げた。今夜は新月だ。僕の目に星は映るが月は映らない。
【今宵は良い月じゃねぇか。にゃあ、そう思うだろ】
古猫は空を見上げたまま楽しげに言った。
「はぁ」
と僕は曖昧に相づちを打った。
正直、月は見えないので曖昧に答えを返すしかなかった。
【ははは、ま、人間の眼にゃ、あの月の良さは解らねぇか。定期集会の時間には、まだ間がある。おめーさんはそこの土管の影にでも隠れて見てにゃ。おいらが合図するまでは決して出てくるにゃよ。良いにゃ】
僕は真剣な表情で頷いた。
こういう約束をさせられるのは怪談ではお約束だ。約束を破った者は相応の罰則が与えられる。それが相場だ。大抵の罰則は悲惨な末路を辿ることが多い。
僕は言われた通り、土管の影に隠れた。その時不意に小さい頃読んだ童話の内容を思い出した。
その話は人食い巨人の家に隠れた主人公が巨人の母に匿われる。そして最後は巨人の財宝を手に入れる話だったように思う。
僕も隠れているのがばれたらやはり猫達に食い殺されるのだろうか? その場面を想像して思わず身震いする。
僕は古猫の先程言った言葉を不意に思い出した。
僕達人間には視えないモノも猫達いや動物達には視えているのだろうか?
僕には星すら微かにしか見えない。ここ東京ではもう星すら自由に見せてもらえない。人間は自由を求めて不自由さを手に入れたのかも知れない。
ふとそんな事を思い再度月のない夜空を見直すと不思議な感覚に襲われた。
そう言えば神島先輩の《な》を《にゃ》と言い換える癖はあの古猫と同じだよな。何か関係があるのか?
僕は奇妙な共通項に気付く。冷静になればすぐに気付けたはずだ。今まで非日常を味わったせいか僕の感覚は麻痺しているようだ。
【おい! もう出て来て良いぜ】
突然、古猫からお呼びがかかった。僕は不意打ちに心臓が止まるくらい吃驚した。驚いてばかりはいられない。覚悟を決めると積まれた土管の裏から猫達の前に出て行った。
猫達はあの古猫を中心に綺麗な円形を組んでいた。その円周に十匹の猫がいた。さしずめ円卓の騎士ならぬ円卓の猫か。
何の会議をしていたのか皆目検討がつかない。
僕の姿を見ても猫達は驚かないところを見るとあの古猫が上手く事情を説明してくれたのだろう。
【ここに集まった猫達はここいら辺の顔役だ。いつも新月の日に集会を開いてるのさ】
古猫は簡単に事情を説明した。僕は緊張しながら軽く会釈した。
【どうしたんだい、〈最長老〉サン。十三年前のあの時も女の子の為に一肌脱いでたじゃぁにゃいか。いつからそんにゃ、人間に肩入れするようににゃったのさ】
品の良さそうな白い雌猫が発言した。何かを含むような言い方だ。
〈最長老〉とは恐らく古猫の事だろう。
【別に肩入れしている訳じゃあねぇよ。ただ助けを求める奴がいれば種族関係にゃく助けるのが道というもんだろうが】
〈最長老〉は落ち着いた口調で言い返した。
【道、ねぇ】
と白い雌猫は納得がいかないような口ぶりだ。雌猫は気怠そうにその場で軽くあくびをする。
【〈最長老〉殿からあにゃたの事情は聞きました。猫に一芸を仕込む為にこのようにゃ場所まで来たということですね。物好きですね】
右手からゆったりとした声が響いた。そちらを見るといかにも頭の良さそうな三毛猫が僕を見ている。
【こいつは寺住まいの猫でにゃ。仲間内では〈住職〉って呼んでる。俺達の中では一番頭が良く弁も立つ。一番仏に近い猫さ】
〈最長老〉は先ほど発言した猫を紹介した。一番仏に近い猫ってまさか黄金色の甲冑を着てアテナを守る闘士じゃないよな……。
確かに落ち着いた物腰は僧侶の風格を感じさせる猫である。
【にゃらば話は簡単です。われわれのにゃかから一匹選びそのお題とやらに望めば良いのです】
〈住職〉は続けて発言する。
なるほど。彼等の助力が得られればお題は朝飯前だろう。
僕は〈住職〉の発言をよく吟味した。僕の心に希望の光が差してきた。
【選ぶもにゃにもにゃいじゃあにゃいさ。〈最長老〉サン、あんたがやっておやりよ】
品の良い白い雌猫が喉を鳴らしながら、さも愉快そうに発言する。その発言は真面目というよりは、からかう風にも聞こえる。
【紹介が遅れたがこいつは女郎が飼ってる雌猫さ。おいら達はそれにちにゃんで〈女郎〉と呼んでらぁ】
女郎とは、古風な言い回しだが、風俗店に勤めている女性の事だと思う。この街には駅前に何件かそういう店があると聞いたことがある。
【おいらかい? まぁ、おめーさんにゃら、そう言うと思ってたぜ。言い出しっぺが、責任を取れってんだろ?】
【あら、良く解ってんじゃないのさ】
〈女郎〉は、さも嬉しそうに喉を鳴らす。見た感じ〈最長老〉は〈女郎〉の事が苦手みたいだ。猫の世界でも女は強し、なのだろうか? だとしたら、余り僕達の世界と男女の力関係は変わらないみたいだ。
〈最長老〉は僕の方へ向き直ると
【今、聞いた通りだ。おいらで良かったら力を貸すぜ、と言いたいところだが、もう年でにゃ。体を動かすことは好まねぇ】
僕は希望という太陽が、このままでは厚い雲に覆われて、消えてしまうのを感じた。
【にゃさけにゃいねぇ】
【うるせぇにゃぁ】
【まぁまぁ、お二人さん】
小さなキジネコが、〈最長老〉と〈女郎〉の間に割って入った。キジネコとは、体毛がキジの雌に、色や柄が似ているために名付けられた猫のことだ。
【あっしは〈軽業師〉と仲間内で呼ばれているケチにゃ猫でござんす。どうぞ、お見知りおきを】
〈軽業師〉は慇懃な挨拶をした。僕もそれにつられて丁寧に挨拶を返した。
【ここはあっしが、この御仁のために一肌も二肌も脱ぎやしょう!】
何とも妙な調子な猫である。口調は慇懃だが、その軽妙な口調からひょうきんな印象を与えている。
【まあ、こいつは癖はあるが、腕前は確かだ。適任かもにゃ】
【〈最長老〉殿の顔に泥を塗らにゃいよう、誠心誠意頑張ります!】
〈軽業師〉は〈最長老〉に向かい丁寧に頭を下げた。珍妙な言葉遣いもどこかおかしい。
【へへっ、一丁お願いします】
〈軽業師〉は僕の方を向き直ると、嬉しそうな表情になる。
「こちらこそよろしくお願いします」
僕も慌てて頭を下げる。
【人道が、あっし達、畜生道に頭を下げちゃあいけませんよ】
〈軽業師〉は喉を気持ちよさそうに鳴らした。
僕と〈軽業師〉は、早速明日からの打ち合わせに入った。
【それじゃあ、話も終わったみてぇだし、ここらで解散するとしようか】
〈最長老〉は周囲を見回した。周囲の猫たちもそれに合わせて大きく伸びをしたり、あくびをしたりと様々な反応を見せた。そのあと猫たちは振り返りもせずに、空き地から出て行った。
集会所には僕と数匹の猫だけが残っていた。僕は〈女郎〉の言った言葉「十三年前の女の子」のくだりが妙に引っ掛かる。まさか神島先輩のことでは? と気になって仕方ない。
「〈最長老〉、一つ聞いても良いですか?」
【何でぇ?】
〈最長老〉は僕の方を気怠そうに振り向くと、あくび混じりに聞いた。
「さっき十三年前の話が〈女郎〉さんから出たじゃないですか?」
僕は慎重に聞いた。
【ああ、陽子のことかい】
〈最長老〉は事も無げに答える。やはり神島先輩のことだったのか……。〈最長老〉が神島先輩に対してどんな感情を秘めているのか、その言葉だけでは読み取れなかった。
長い沈黙の後、〈最長老〉は言葉を続ける。
【……あの子が四つの時だ】
それは神島先輩が迷子になった時の話だった。その出会いは偶然だったという。
〈最長老〉が散歩していたときに、いつもあとをついてくる女の子、それが神島先輩だった。初めは相手をするのが億劫なので無視を決め込んでいだ。
【そう、あの出来事が起きるまでは】
ある夕暮れどきのこと、買い物帰りの主婦たちが目立つ時間帯だ。
〈最長老〉がいつも決めている散歩コースを歩いていたとき、また同じ背後の気配に気付いた。
〈最長老〉はいつものことで無視していたが、今回は違った。いつもならしばらく歩くと気配は消えたのだが、このときは結局空き地まで着いてきてしまった。
そうなると今度は、母親がいなくて心細くなったのか、泣き出してしまったそうだ。それでも無視をしていたのだが、いつまでも泣き止まずついに根負けをしたらしい。
神島先輩の家を幹部総出で探すことになったという。町中を駆け回り仲間の猫に話を聞くこと数時間、無事に家を見つけ出した。そしてこのときの騒ぎ以来懐かれたという。
僕は黙って聞いていた。〈最長老〉は話してる最中、昔を懐かしんでいるのか目を細めて優しい表情になった気がした。
【もう昔のはにゃしさ】
〈最長老〉はそう言うと僕から目を背けた。どうも昔話をして照れ臭いようだ。僕はそんな〈最長老〉を見ると心が温かくなるのを感じた。
〈最長老〉は、大きなあくびを一つした。
【それじゃあ、おめーさんもとっとと帰りにゃ。もう遅いからよ】
僕は時間を確認する。もう午前一時を過ぎている。やばい! これ以上遅くなると、明日の学校に響く。僕は〈最長老〉に再度、礼を言うと家まで走って帰った。
さて今日は戸田くんに出したお題の期限日。
彼はどんな解答を出してくれるのか、非常に楽しみ。
私は指定した場所に着いた。彼はもうとっくに着いており、どうやら私が一番遅く着いたらしい。足下にいる相棒のキジネコと相談に夢中で私に気づいていない。
私が側に近寄るとキジネコはいち早く私に気づき目線をこちらに向ける。キジネコの目線で気づいたように彼はこちらに目を向ける。
「あ、神島先輩! 吃驚した……。いつの間にきたんです?」
「今さっきだよー」
彼は目を白黒させて驚いている。私は軽快に手を振りながら「にゃっはろー」と挨拶した。
私は目線を彼からキジネコに移す。やはり〈軽業師〉。私は戸田くんに聞こえないように〈軽業師〉に話し掛けた。
「〈軽業師〉、調子はどう?」
【これはこれは。どうもご無沙汰しております。神島の姐御。この間の集会でこの御仁からお話を伺い、それであっしがこちらのお兄さんに力を貸すことににゃりまして……】
〈軽業師〉は相変わらず真面目な口調で珍妙にゃ話ぶりをする。
私は〈軽業師〉の言葉を聞いて、〈最長老〉が裏で助力をしてくれたのが解った。
ありがとう、〈最長老〉。私の頼みを聞いてくれたんだね。戸田くんは私と同じ猫と意思疎通できたんだ。
そしてそれは同時にこの私のお題をクリアしたことを意味する。
私は共通の仲間ができたという事実に知らず識らず微笑みが浮かぶ。
「神島先輩。お題の件ですが……?」
「私のお題は合格だよー」
「あれ? 僕はまだ何もしてませんよ?」
戸田くんは不思議そうに首を左右に傾げている。
「うん! そこにいる〈軽業師〉から聞いたもの。だから合格! おめでと!」
私は軽く微笑むと拍手する。足下で一緒に〈軽業師〉も調子を合わせて拍手をしている。彼はまだ納得していない様子だ。
私は少し逡巡したがすぐに決意を固めると彼の一瞬の隙を逃さず、さっと彼の首に飛びつく。「え!? 神島先輩……?」
「ねえ、知ってる? 猫は悪い人には寄りつきもしないのよ。私には解る。にゃにがあったか知らにゃいけど君の心は傷ついて弱く小さくにゃってる。見ていて辛くにゃるほどに……」
私は自然と目から熱い雫がこぼれ落ちるのを感じた。これは同情の涙なのか、それとも別の感情の涙なのか。今の私には判別できなかった。
呆然と立ち尽くす戸田くんをよそに私はさらにぎゅっと力を込めて抱きしめた。彼はにゃにも言わず優しく私の頭に手を置くとそっと撫でてくれた。これではどっちが慰めているのか解らない
私はそっと戸田くんからはにゃれると後ろを振り向く。目が赤いのを彼に見られるのを恥ずかしく思ったからだ。とてもじゃにゃいが今は彼の顔をまともに見られる勇気はにゃかった。
「おいで、〈軽業師〉」
照れ隠しに私が呼ぶと〈軽業師〉は走って近寄る。そして足下まで来ると甘えた感じでにゃあ、と鳴き声をあげた。
「え、えへへ、ごめんね。にゃぐさめてあげたかったのに……。私ってほんと駄目にゃ先輩ね……」
「いいえ、神島先輩。ありがとうございます。先輩の気持ちはしっかりと伝わりましたから。おかげで少し心が楽になったみたいです」
照れ笑いをする私に戸田くんは優しい声で微笑みにゃがら礼を言った。私は〈軽業師〉を抱き上げると器用に顎の下を指で優しく撫でた。〈軽業師〉は喉をごろごろと鳴らして目を糸のように細めた。
私は上手くできたか解らにゃかったが優しく微笑む。〈軽業師〉は私の腕の中で大きにゃ欠伸をした。